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「壹」から始める古田史学・二十八 多利思北孤の時代Ⅴ 多元史観で見直す「捕鳥部萬討伐譚」 正木 裕 (会報162号)
「壹」から始める古田史学・三十 多利思北孤の時代ⅥI 多利思北孤の新羅征服戦はなかった 正木 裕../kaiho164/kai16406.html
「壹」から始める古田史学・三十
多利思北孤の新羅征服戦はなかった
古田史学の会事務局長 正木 裕
一、多利思北孤と「新羅征服戦」
1、多利思北孤は征服戦を行わなかったはず
前号までに、倭国(九州王朝)の天子「阿毎多利思北孤」こそ「聖徳太子」のモデルであり、また、法隆寺釈迦三尊像光背銘に記す「上宮法皇(~六二二)」であることを述べました。そして、その事績として、対外的には『隋書』に記すように「日出る処の天子」を自称し隋に使者を送り、国内では物部守屋討伐後の東方統治の推進のため十七条憲法や冠位十二階等を定めたこと、即位したと考えられる端政年間(五八九~五九三)(注1)に齎された法華経による「仏教治国策」を推進したことを述べました。
その十七条憲法の第一には「和を以て貴しとし、忤さかふること無き(*争わないこと)を宗とせよ」とありますが、あたかもこの精神を具現化したように、『隋書』には「兵有りといえども征戦無し(多利思北孤の国に武器はあっても征服戦を行わなかった)」と記しています。
2、『書紀』には多利思北孤在位中に対新羅戦が記される
ところが、『書紀』を見ると、多利思北孤(上宮法皇)の在位期間に、大規模な対新羅戦が遂行されたと記しています。
その一回目は推古八年(六〇〇)二月です。
(A)『書紀』推古八年(六〇〇)春二月に、新羅と任那と相攻む。天皇、任那を救はむと欲す。(略)
(B)是歳、境部臣に命ことおほせて大将軍とす。穂積臣を以て副将軍とす。〈並に名を闕せり。〉則ち万余の衆を将て、任那の為に新羅を撃つ。是に、直に新羅を指して、泛海ふねから往く。乃ち新羅に到りて、五つの城さしを攻めて抜く。是に、新羅の王、惶かしこみて、白旗を挙げて、将軍の麾しるしのはたの下に到りて立つ。多多羅たたら・素奈羅すなら・弗知鬼ほちくゐ・委陀わだ・南加羅ありしひのから・阿羅羅あらら、六つの城を割さきて、服したがはむはむと請もうす(略)。
新羅・任那、二つの国、使を遣して調貢みつきたてまつる。仍よりて表まうしぶみを奏りて曰さく、
「天上あめに神有まします。地つちに天皇有まします。是の二神を除おきては、何いづこにか亦また畏かしこきこと有らむや。今より以後、相攻むること有らじ。且また般柁ふなかぢを乾ほさず、歳とし毎ごとに必ず朝まうこむ」とまうす。則ち使を遣つかはして将軍を召し還す。将軍等、新羅より至る。即ち新羅、亦任那を侵す。
「六つの城を割いて、服ふ」というのですから、これは明白に「征服戦争」です。
さらに、降伏後に再び新羅が任那に侵攻したので、推古九年(六〇一)十一月には新羅攻撃が議論され、翌推古十年(六〇二)二月には久米皇子に新羅討伐を命じますが、六月に筑紫で逝去したため出撃は中止されています。
また、二回目ですが、『書紀』(「岩崎本」)の推古三十年(六二二)には、「新羅の任那侵攻」に対抗する「新羅討伐戦」が記されています。(注2)
(C)『書紀』推古三十年(六二二)〈岩波古典文学大系本では推古三十一年是歳条。ただこの場合、是歳条の後に十一月条があるのは怪しむべき。編集部注〉是歳、新羅、任那を伐つ。任那、新羅に附きぬ。是に天皇、将に新羅を討たむとす。(略)数万の衆いくさを率ゐて、以て新羅を征討うつ。
こうした記事は『隋書』の「征戦無し」とは大きく異なっていますし、聖徳太子の十七条憲法の精神「和を以て貴し」とも合いません。
しかも「征服戦」の時期も『隋書』や釈迦三尊像光背銘からみれば不自然なのです。
3、六〇〇年には多利思北孤が隋に使者を送っている
『書紀』には記されていませんが、『隋書』では六〇〇年に多利思北孤が隋の文帝に使者を送っており、対新羅戦が『書紀』どおりの年次であれば「対新羅大戦」最中に遣隋使を派遣したことになります。しかし、『隋書』に見える多利思北孤の使者の言葉や、俀(倭)国の描写には「楽の演奏や鵜飼」「棊博、握槊、樗蒲(囲碁、すごろく、サイコロ賭博)」など、極めて平和なさまが記され、新羅戦の気配など全く存在しません。政治においても、「夜に政務をおこない、昼は停める。後宮に女六七百人有り」といった、およそ戦時に相応しくない政治状況が記されています。
◆『隋書』開皇二〇年(六〇〇)俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞彌と号す。使を遣わし闕けつに詣でる。「俀王は天を以て兄とし、日を以て弟とす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺かふして坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う、我が弟に委ねん」と。妻は雞彌と号し、後宮に女六七百人有り。太子の名は利歌彌多弗利なり。
4、六二二年は多利思北孤(上宮法皇)が崩御している
また、法隆寺釈迦三尊像光背銘によれば上宮法皇と王后は六二二年二月に相次いで崩御し、翌年の六二三年には釈迦三尊像が造られます。そして、九州年号が「仁王」と改元されており、太子とされる利歌彌多弗利が即位したと考えられます。
◆『光背銘』法興元丗一年歳次辛巳(六二一)・・明年(六二二)正月廿二日上宮法皇枕病・・二月廿一日癸酉王后即世 翌日法皇登遐 癸未年(六二三)三月中如願敬造釋迦尊像并侠侍。
『倭王武の上表文』に「父兄を喪い、諒闇(注3)にあり兵甲を動かさず」とあるように、多利思北孤の崩御年の服喪期間中に大規模な征服戦を遂行するというのも不自然です。
このように『書紀』の対新羅戦記事と、『隋書』の「征戦無し」を対比し、『書紀』を真実とすれば、対新羅戦を遂行したのは『隋書』に「征戦無し」と記す、阿蘇山のある九州の多利思北孤ではなくヤマトの推古となります。また『書紀』では『光背銘』の「上宮法皇」と異なり、厩戸の逝去は六二一年二月ですから、一年以上後の六二二年是歳に征服戦を遂行しても禁忌に触れることはありません。
二、繰り下げられた任那防衛戦
1、任那は欽明二十三年(五六二)に新羅に滅ぼされている
しかし、この六〇〇年に新羅が任那と交戦し、六二二年に新羅が任那を併合したとする『書紀』の対新羅戦記事は、年代が全くおかしいのです。
『書紀』では、任那は欽明二十三年(五六二)に、既に新羅によって滅亡させられています。
(D) 『書紀』欽明二十三年(五六二)春正月に、新羅、任那の官家を打ち滅しつ。〈一本に云はく、二十一年に、任那滅ぶといふ。総すべては任那と言ひ、別わきては加羅国・安羅国・斯二岐しにき国・多羅国・卒麻そちま国・古嗟こさ国・子他した国・散半下さんはんげ国・乞飡こちさん国・稔禮にむれ国と言ふ。合せて十国なり。〉
そして、任那は五六二年以降回復されていません。六〇〇年には任那は既に滅亡しているのに、「新羅と任那と相攻む・新羅、任那を伐つ」とあるのは不可解です。
2、「一運・六〇年前」に新羅の任那攻撃が激化
ところで、「新羅と任那と相攻む」とある推古八年(六〇〇)の「一運(干支一巡)・六〇年前」の五四〇年には、新羅の任那攻撃が激しさを増していました。
宣化二年(五三七)十月には、新羅が任那を攻め、大伴連狭手彥が任那と百済を救援しています。
◆宣化二年(五三七)冬十月壬辰の朔に、天皇、新羅の任那に冦あたなふを以て、大伴金村大連に詔して、其子磐いはと狭手彦さでひこを遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加また百済を救ふ。
そして、欽明元年(五四〇)九月には、新羅討伐軍の規模・陣容が検討されています。
(E)欽明元年(五四〇)九月己卯五日に、難波祝津宮に幸す。大伴大連金村・許勢臣稲持・物部大連尾輿等従ふ。天皇、諸臣に問ひて曰はく、「幾許いくばくの軍卒いくさをもて、新羅を伐つことを得む(*新羅を討つにはどれだけの兵が必要か?)」とのたまふ。物部大連尾輿等奏して曰はく、「少許の軍卒をもては、易たやすく征つべからず。」といふ。(*小規模の派兵ではだめで大軍が必要と答える)
3、推古八年(六〇〇)記事は「一運(六〇年)」繰り下げられていた
従って、推古八年(六〇〇)二月の「新羅と任那と相攻む。天皇、任那を救はむと欲す」との記事が、「一運(六〇年)」前の欽明元年(五四〇)で、「任那滅亡前」ものであれば、
①激化する新羅と任那の紛争(新羅の侵略)に対応し、五四〇年二月に任那救援を企図(A記事。推古八年(六〇〇)二月)。
②同年九月に具体的な「軍容(陣立て)」を検討した。その結果「幾許の軍卒(少ない兵力)」では討伐は困難との結論となる(D記事。欽明元年(五四〇)九月)。
③この判断を受け、「五四〇年・是歳」に大将軍境部臣・副将軍穂積臣のもと、「万余の大軍」を以て任那の為に新羅を撃った(B記事。推古八年(六〇〇)是歳)。
ということになります。つまり、欽明元年(五四〇)二月に、新羅に侵略され窮している任那の救援を計画し、九月には新羅討伐に必要な軍容を検討したが、「幾許の軍卒」ではだめだと判断し、「万余の衆」という軍容を整え、改めて新羅を攻めた、という自然な新羅討伐戦の経過となるのです。そして、
④新羅討伐戦に一定の勝利を得た結果、停戦(新羅の任那侵略停止)と、新羅の朝貢(*歳毎に必ず朝む)が約束された。
しかし、将軍等が帰還したら再び新羅が任那に侵攻した(*将軍等、新羅より至る。即ち新羅、亦任那を侵す)(B記事。推古八年(六〇〇)是歳)。
このように推古八年記事は、「一運(六〇年)」前の欽明元年から「繰り下げ」られたものだと考えれば、任那滅亡の遥か後年に、新羅・任那が「相攻む」という矛盾は消滅するのです。
『書紀』では、前述のとおり、推古八年(六〇〇)に続き推古十年(六〇二)にも来目皇子を将軍とし新羅討伐軍が準備されますが、翌推古十一年(六〇三)来目皇子は筑紫嶋郡に駐屯する中で薨去。代って当麻皇子が播磨まで出征しますが、「妻の死去」で、これも討伐未遂に終わります。そもそも任那滅亡後の推古八年に「新羅と任那と相攻む」といった状況があるわけはなく、これを発端とした「来目皇子・当麻皇子」とされる人物の出征譚も、六〇年前の五四二年~五四三年のことと考えるべきでしょう。(注4)
4、推古三十年(六二二)記事も「一運(六〇年)」繰り下げられていた
また、『書紀岩崎本』推古三十年(六二二)是歳条(C)では、新羅が任那を併合したため、新羅討伐が議論されています。その後の経過ですが、まず新羅・任那に使者を送り、和議を勧め、新羅国王は任那を侵略せず倭国に朝貢することを約束します。しかし、その報告を待たず倭国は境部臣「雄摩侶をまろ」・中臣連国くにを大将軍に、「河辺臣」禰受ねずら多数を副将軍とした数万の衆(軍)で新羅討伐に乗り出します。将軍らは渡海し新羅に侵攻を図りますが、新羅国王はいち早く降伏し、対新羅戦は未然に終息します。
(F)①推古三十年(六二二)是歳新羅、任那を伐つ。任那、新羅に附きぬ。是に天皇、将に新羅を討たむとす。(略)吉士磐金いはかねを新羅に遣し、吉士倉下くらじを任那に遣し(注5)、任那の事を問はしむ。新羅国の主、(略)約ちぎりて曰さく、「任那は小国なれども、天皇の附庸ほどすかのくになり。何ぞ新羅輙たやすく有えむや。常の随ままに内官家うちつみやけと定め、願くは煩わずらふこと無けむ」とまうす。(略)②磐金等未だ還るに及ばずして、即年そのとしに大徳境部臣雄摩侶をまろ・小徳中臣連国を以て大将軍とし、小徳河辺臣禰受・・・小徳大宅臣軍を以て副将軍とす。数万の衆いくさを率ゐて、以て新羅を征討うつ。時に磐金等、共に津に会ひて、発船ふないくさせむとして風波を候ふ。是に、船師、海に満ちて多に至る。(略)
③将軍等、始めて任那に到りて議はかり、新羅を襲はむとす。是に、新羅国王、軍いくさ多に至ると聞きて、予め慴おじて服まつろはむと請まうす。時に将軍等共に議はかりて表ふみを上たてまつる。天皇、聴ゆるしたまふ。
実は、その六〇年前の欽明二十三年(五六二)七月に、「紀男麻呂をまろ宿禰」を大将軍とする兵が哆唎より出て、副将「河邊臣瓊缶ひへ」が居曾山こそむれを出て任那に到着し、新羅を問責し降伏させますが、副将河辺臣の暴走でかえって敗北し任那は滅亡します。(G)欽明二十三年(五六二)七月是月。大将軍紀「男麻呂」宿禰を遣し、兵を将て哆唎を出づ。副将「河辺臣」瓊缶、居曾山を出で、新羅の任那を攻る状を問はむとす。遂に任那に到る。薦集部首登弭とみこもつべのおびとを以て百済に遣して軍いくさの計たばかりを約束せしむ。(略)新羅、降帰附まうしたがはむと乞もうす。紀男麻呂宿禰、勝ち取りて師を旋し、百済に入りて営む。(略)河辺臣瓊缶、独り進みて轉いよいよ闘たたかふ。向ふ所皆抜く。新羅、更た白旗挙げて、兵つはものを投げて隆首したがふ。(略)新羅の闘将曰く、「将軍河辺臣、今降したがひなむ」といふ。乃ち、軍を進めて逆むかへ戦ふ。鋭を尽してとく攻め破りつ。(*倭国の)前鋒さきの破やぶるる所、甚だ衆おおし。倭国造手彦てひこ、自ら救ひ難きを知り、軍を棄て遁のがれ逃ぐ。(略)(*新羅の)闘将、自ら営の中に就いりて、悉ことごとくに、河辺臣瓊缶等、及び其の随へる婦を生けながら虜にす。
そして、それ以降任那は倭国の支配下に戻らなかったにもかかわらず、推古三十年(六二二)に任那が新羅に併合された記事があるのは不可解です。
そこで、六二二年記事(F)と六五二年記事(G)を比較すると、両者とも同じように「大将軍・副将軍」を派遣しての、半島における「対新羅戦」の経過を記していますが、六二二年記事(F)は、「将軍らが渡海し(*船師海に満ちて)多に任那に到り、新羅侵攻を議る『まで』」と「新羅の降伏」が書かれています。これに対し、六五二年記事(G)は「将軍らが任那に到って『後』の新羅侵攻と、新羅の降伏、河辺臣の敗北」について記しています。つまり、「対新羅戦」の経過が「任那まで」と「任那以後」に切り分けられていることになります。
しかも、六二二年の大将軍は「をまろ」(境部臣雄摩侶)、副将軍は「河辺臣」(河辺臣禰受)で、一方、六五二年の大将軍も「をまろ」(紀男麻呂)、副将軍も「河辺臣」(河辺臣瓊缶)というように、「大将軍『をまろ』・副将軍『河辺臣』」が一致しています。
5、崇峻四年(五九一)十一月記事も繰り下げられていた
さらに言えば、崇峻四年(五九一)にも「紀男麻呂宿禰」を大将軍とした対新羅戦が記されています。
(H)崇峻四年(五九一)冬十一月己卯朔壬午四日に、「紀男麻呂宿禰」・巨勢猿臣・大伴囓くび連・葛城烏奈良臣を差つかはして、大將軍とす。氏々の臣連を率て、裨將(つぎのいくさのきみ *副将)・部隊たむろのおさとして、二萬餘の軍を領て、筑紫に出居る。吉士金かねを新羅に遣し、吉士木蓮子いたびを任那に遣し、任那の事を問はしむ。
この記事は「大将軍男麻呂らが渡海する前の筑紫まで」の出来事として、「吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に派遣」したというものです。
一方、六二二年記事(F)では「雄摩侶ら大将軍」が渡海し「任那に到った際」の出来事が記され、その前に「吉士磐金が新羅に、吉士倉下が任那に派遣」されています。(注6)
6、三分割された五六一年~五六二年の倭国(九州王朝)の対新羅戦
六五二年記事(G)は「大将軍男麻呂らの任那から新羅への侵攻」が記されています。この五六二年記事(G)・五九一年記事(H)・六二二年記事(F)を、『書紀』の年次にこだわらず「新羅討伐戦の経緯」として並び替えれば、
①欽明二十三年(五六二)正月の新羅による任那侵攻と、
②それを救援する大将軍らの渡海・任那到着、
③任那発の対新羅戦と敗北という、以下に述べるような一連の対新羅戦の記事となるのです。
(1)欽明二十二年(五六一)十二月。「紀男麻呂」を大将軍とする「二萬餘」の軍が筑紫に集結。吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に派遣。(『書紀』では崇峻四年(五九一)十一月壬午四日(H))(*壬午は五六一年十一月には無く、十二月十一日壬午となる。『国史大系本』では十二月とある。)
(2)欽明二十三年(五六二)正月。新羅が任那を討伐。(『書紀』欽明二十三年(五六二)正月(E))
(3)欽明二十三年(五六二)是歳。これをうけ新羅討伐を図り(*将に新羅を討たむ)、まず磐金等を新羅・任那に使者を派遣。新羅は和睦と遣使朝貢を申し出る(『書紀』推古三十年(六二二)是歳(F)➀)。しかし、倭国は「破約」し「数万の衆」で渡海、新羅征討に乗り出す(同(F)➁)。将軍等任那に到り新羅侵攻を策し、新羅は降伏を申し出る(同(F)③)。
(4)欽明二十三年(五六二)七月。大将軍紀男麻呂等任那に到り、新羅へ侵攻し、新羅は降伏する。紀男麻呂宿禰は勝利して百済に帰還するが、その後河辺臣瓊缶が「新羅は(*約どおり)降伏(*更た白旗挙げ、兵を投げて隆首)したにもかかわらず侵攻を続け大敗する。(欽明二十三年(五六二)七月是月(G))。(注7)
ということになります。要するに欽明二十三年(五六二)に新羅は降伏し、倭国(天皇)も和睦を認めたにもかかわらず、現地の倭国軍はこれに反して無理に侵攻したため、大敗北し、この敗北により任那は回復せず滅亡したことになります。
7、「一運繰り下げ」られた倭国(九州王朝)の対新羅戦
『書紀』では神功紀が「二運・一二〇年繰り下げ」られているように、干支をもとに年次をずらす手法が用いられています。ここでも結局、欽明元年(五四〇)の任那救済記事が推古八年(六〇〇)に、欽明二十三年(五六二)の対新羅戦と敗北・任那滅亡譚(G)が、『書紀岩崎本』推古三十年(六二二)に切り分けられたことになります。
さらに、新羅討伐戦の経緯から、崇峻四年(五九一)十一月壬午四日記事(H)は、「三〇年前」の欽明二十二年(五六一)十二月十一日壬午から繰り下げられたと考えられます。これは推測ですが、任那は欽明二十三年(五六二)に滅亡しているのに、六〇年後の推古三十年(六二二)に突然任那が新羅に奪われ、その復興戦を行うのはいかにも不自然なので、その中間の三〇年後の五九一年にも任那復興を企図し新羅戦を遂行しようとしたと記したのではないでしょうか。
欽明紀において、半島の対新羅戦で活躍するのは、竹斯物部莫奇委沙奇まがわさか・筑紫国造鞍橋くらじ君・筑紫火君らほぼすべて「筑紫」の人物です。『書紀』は対新羅戦を推古時代に繰り下げこうした事実を隠し、ヤマトの天皇家の事績にしました。
また、『隋書』では、多利思北孤は推古八年(六〇〇)に隋に使者を送り、推古三十年(六二二)に登遐します。そして、翌推古三十一年(六二三)には、太子「利歌彌多弗利」が即位し九州年号が「仁王」と改元されます。
従って、これらの年の九州王朝の史書には、多利思北孤や利歌彌多弗利の即位に関する多くの記事があったはずですが、『書紀』編者は、「対新羅戦記事」を「一運繰り下げ」て挿入することで、こうした九州王朝の祭事・盛事をカットし、多利思北孤も利歌彌多弗利の存在も「隠蔽」したことになるのです。
注
(注1)『聖徳太子傳記』に「太子十八才(五八九年・九州年号「端政元年」)の御時。春正月に参内して国政を執行したまへり。」とある。また、『二中歴』「端政」年間に「唐より法華経始めて渡る」とある。
(注2)「新羅の任那侵攻」と「新羅討伐戦」は、岩波『日本書紀』が底本とする「天理本」では推古三十一年とあるが、本稿では「岩崎本」の編年により推古三十年とする。
これは明治から昭和期にかけての天文学者・暦学者小川清彦氏(一八八二~ 一九五〇)が『日本書紀の暦日について』(一九三八年頃の論文)で、『書紀』の「月朔干支の誤り」を検討し、諸本で「推古三十二・三十三年」とあるのは「岩崎本」の「推古三十一・三十二年」とあるのが正しいことを明らかにしており、従って「推古三十一年」は必然的に誤りで、「岩崎本」の「推古三十年」が正しいことになるからだ。
(*小島荘一『日本書紀の暦日―暦法に適合しないいくつかの事例について―』による)
具体的には、推古三十一年(六二三)の真の朔日干支は「岩崎本」に記すように四月は丙午、九月は甲戌、十月は癸卯だが、「天理本」ほかの諸本では推古三十二年(六二四)四月・九月・十月の朔日干支となっている。推古三十二年一月朔干支も正しくは壬申で「岩崎本」と一致するが、他の諸本では推古三十三年一月朔が壬申とあり、明白に「一年繰り下がって」いる。
(注3)諒闇りょうあんは、天皇がその父母の崩御にあたり喪に服する期間。
(注4)来目皇子・当麻皇子は渡海しなかったから朝鮮側の記録には残らず、かつ来目皇子は死に、当麻皇子の消息は不明だから、彼等なら欽明期の人物と入れ替えるか、人名を潤色しても破たんが生じない。あるいは来目皇子は筑紫で没したとあるから、彼らは欽明時代(六世紀)の倭国(九州王朝)側の実在の人物か。
(注5)欽明十五年(五五四)十二月に筑紫国造鞍橋くらじの君が、対新羅戦で活躍しており、「吉士倉下くらじ」にあたるのではないか。
(注6)使者の「吉士磐金いはかね(F)と吉士金かね(H)」、大将軍の「雄摩侶をまろ(F)と男麻呂をまろ(H)」は同名と考えられる)。
(注7)(F)③の「新羅国王・・服はむと請す」と、(G)の「新羅、降帰附はむと乞す」は同じ意味で、どちらも「任那に至」ってからの事件。つまり、同じ欽明二十三年の同じ事件を記述したもの。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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