2021年6月8日

古田史学会報

164号

1,女帝と法華経と無量寿経
 服部静尚

2,九州王朝の天子の系列2
利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ
 正木裕

3,何故「俀国」なのか
 岡下英男

4,斉明天皇と「狂心の渠」
 白石恭子

5,飛鳥から国が始まったのか
 服部静尚

 編集後記

6,「壹」から始める古田史学三十
多利思北孤の時代 Ⅶ
多利思北孤の新羅征服戦はなかった
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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『隋書』俀国伝を考える 岡下英男(会報155号)
『隋書』音楽志における倭国の表記 岡下英男 (会報158号)
「俀国=倭国」説は成立する -- 日野智貴氏に答える 岡下英男 (会報159号)
何故「俀国」なのか 岡下英男(会報164号)../kaiho164/kai16403.html

文献上の根拠なき「俀国=倭国」説 日野智貴 (会報156号)


何故「俀国」なのか

京都市 岡下英男

一、はじめに

 先に、私は、『隋書』俀国伝において、「俀国=倭国」説が成立することを示した。(注1)
 次の問題は、魏徴が、何故、帝紀では倭国と書きながら列伝では俀国と書いたのか―それも説明無しで―ということである。
 これまで、私は、多利思北孤の国書が「蛮夷の書、無礼なる者有り」と、煬帝の不興を買ったので、魏徴は、皇帝の意を汲み、列伝において、倭国を貶めようして俀の字を選んだ、と考えていた。(注2)
 この際、私は煬帝の意向を誤って理解していた。今回、先の考えを修正し、魏徴が俀国と書いた理由を考察し報告する。

 

二、煬帝は怒っていない

 『隋書』俀国伝には、多利思北孤の「日出処の天子・・・」の国書に対する煬帝の反応が次のように書かれている。
帝覧之不悦、蛮夷書有無礼者、勿復以聞。明年、上遣文林朗裴清使於倭国、・・・
 今回、常用の岩波文庫本を再読して、「蛮夷書有無礼者」の読み下し文が、解説と本文とで次のように異なっていることに気が付いた。
解説:「蛮夷の書礼なし」
本文:「蛮夷の書、無礼なる者有り」

 右の箇所は、解説では次のように読まれている。

 煬帝が「蛮夷の書礼なし」としてはなはだよろこばなかったにもかかわらず、裴世清らを答使として日本によこしたのは、どういうわけであったか・・・

 つまり、煬帝は、「無礼」と怒っているのではなく、倭国の国書に礼(教養・作法)が無いと不機嫌になったのである。

 

三、煬帝は、未熟な倭国王を教化し、向上させようとした

 倭国が礼を知らないと指摘した煬帝は、その翌年に使者を派遣し、倭国王を教化し、向上させようとしている。これは、煬帝が倭国王を怒っているのではなく、未熟であると見ていたことの表れである。
 魏徴はそのことを、「其王與淸相見大悦曰・・・」から始まる裴世清と倭国王のやり取りに示している。その箇所の現代語訳は次の如くである。(注3)

 倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。「海を渡った西方に大隋国という礼儀の整った国があると、私は聞いていた。(中略)どうか大隋国の維新の化(倭国を改新・発展させる教え)を聞かせてほしい」
 裴世清が答えて言った。「皇帝の徳の明らかなことは日月と並び、その恩沢は四海に流れ及んでいる。倭国王は隋の皇帝の徳を慕って教化に従おうとしているので、皇帝は使者(裴世清自身のこと)を遣わしてこの国に来させ、ここに宣べ諭させるのである」

 ここには、煬帝の怒りは無い。有るのは、礼を知らないが改新・発展を願っている未熟な倭国王と、そういう倭国王を教化し、向上させようとして裴世清を派遣した有徳の天子である煬帝の意向である。魏徴は、煬帝と倭国王の関係をそのように記述しているのである。

 

四、魏徴は、列伝の編纂において、俀国と表記して煬帝の意向を表した

 俀国伝は『隋書』の列伝の中にある。中国正史の基本型である『史記』においては、帝紀が皇帝の年代的な記録であり、志が社会の重要事項の記録であるのに対して、列伝の主題は、個々の人物や夷蛮の国が皇帝とどんな関わりあいを持ったかを記述することである。
 隋の歴史を編纂しようとする魏徴は、先に述べた煬帝の意向―未熟な倭国王を教化し、向上させようとする―を表現しようとして、列伝においては倭国ではなく俀国としたのだ。

 帝紀で倭国とし、列伝では俀国とした表記の不一致の理由を、例えば、利用した史料の違いに求めるのは、魏徴がそれらを評価・検討せずにそのまま転記したことになり、彼の歴史家としての編纂能力を否定することを意味するから適切でない。
 俀国は、彼が確信をもって採用した表記なのである。

 

五、列伝の俀国は帝紀の倭国のことであると、説明無しに理解された

 魏徴は、帝紀において倭国と表記されている国を、列伝では説明無しに俀国と表記した。
 その理由を次のように推測する。

㈠唐の時代、倭と俀は混用されていた。

㈡俀は、倭と混用されていたが、『史記』における用法から「未熟」の意味を持っていることが知られていた。

 彼は、『隋書』に予想される読者層が俀国の表記を見て、これは倭国のことであると理解し得ると想定したのである。
 魏徴が俀国の表記を採用した理由を右のように考えて、それぞれの項目について私の考察を述べる。

 

六、唐の時代、倭と俀は混用されていた

 このことを、直接証明する史料は無い。それは『説文解字』に妥の字が採録されていないことによる。ここでは、そのように考えるに至った状況証拠を挙げる。
 最も有力な状況証拠は、魏徴が特別の説明無しに列伝で俀国と表記したことであると考えるが、それでは循環論法的になってしまうので、別の観点から考える。

①『史記』の注釈書『史記 三家注』で、「俀」に付記された注釈に、
『集解』徐廣曰、一作倭。
『索隠』倭音人唯反、一作俀、音同。

とある。この「一作倭・・・(俀は倭に作る場合がある)」とか、「一作俀(倭は俀に作る場合がある)……」は、当時、俀と倭が通用していたことを示していると考える。

②「妥」の字は「委」と結び付けて考察されている。

 加藤常賢は、段玉裁が『説文解字』に妥の字を補ってから清の学者がその字義を考察したことを紹介されている。結論的には、「委と妥は一字(同義)」であるとされているが、引用されている考察の過程はこれらの二字の用法を重ねたもので、回りくどく感じられる。(注4)
 これに対して、中華民国の章炳麟は、「爫」を稲穂と見て、文字としては「禾」になるから、委は妥に変りやすいとされている(「爫即象禾穂、以為禾字」、禾は稲のことである)(注5)。この考えは理解しやすい。これらの字に人偏を付ければ「倭=俀」となる。
 これらの考察を読んで気が付くことは、いずれにおいても、妥と委を結び付けて云々されていることである。考察の奥に妥=委としたいとする意識が感じられる。これは、妥と委が古い時代から混用されていて、しかも、その根拠が忘れられてしまっている、それを解明したいという願望の表れのようである。まるで、日本の和歌において枕詞の意味が分からなくなっていることと同じだと感じる。

③中華書局版『隋書』の校勘紀には、「委」と「妥」は、「有時可以通用(一九七三年版)」、「二字時或通用(二〇一九年版)」とあり、いずれも、妥と委が通用する場合があったと書かれている。しかし、依拠史料は示されていない。このことも、妥と委は唐の時代よりも前から混用されており、そのいきさつは、当時、忘れられてしまっている状況を示していると考える。

 

七、俀は、倭と混用されていたが、「未熟」の意味を持っている

 正史の基本となる『史記』で俀または倭が出現するのは一か所(巻三十三魯周公)である。当時刊行されていた『史記』の刊本の中には俀と倭が微妙に使い分けられているものがあった。 
 これについて、古田武彦氏が書かれていること(注6)を私の理解で引用して述べる。
 古田氏は、『史記』の現存最古とされる刊本(宋版『史記』)の記述をもとに、概略、次のように書かれている。

㈠魯の文公が亡くなった時、文公には二人の妃がいた。正妃の哀姜は、悪と視と言う二人の子供を生んだ。第二妃は、敬羸といい、俀を生んだ。

㈡俀は、実力者、㐮仲に接近し、㐮仲は、彼を文公の後継者としようとした。

㈢㐮仲は、嫡子の悪と視を殺して、妾腹の倭を魯公に建てた。これが宣公である。

㈣哀姜は、斉に帰り、哭きつつ市を過ぎながら言った。「天の運命だ。?仲は道に反したことをなした。正妻であるわたしの嫡出子を殺し、妾腹の子を魯公に立てた」と。

㈤宣公の倭の十二年に、楚の荘王強く、鄭を圍む。・・・

 ここには、次のように、四個の俀または倭が出てくる。

俀:幼少期
倭:成人・即位後

 これらは同一人物を指しているから、俀と倭は同義であると考える。
 しかし、俀は即位前の名前であり、即位して倭になるのであるから、二つの文字を比較して、俀は未熟の意味を含んでいると考える。古田氏は、俀は「よわい」とされているが、即位前で幼少の人物の描写としては「よわい」よりも「未熟な」が適切であろう。
 つまり、「俀」は、通常、「弱い」と読まれているが、『史記』の文意・文脈から、「未熟な倭」の意味に読むのが適切であると考える。
 このことは、当時、つまり、唐の時代においては広く認識されていたのではなかろうか。

 

八、魏徴は、改新・発展しようとする倭国を、宣公倭として即位する前の未熟な状態の俀に重ね合わせた

 魏徴は、煬帝が指摘した未熟な倭国を表現するために『史記』から俀の表記を得たと考える。その可能性―俀と倭の書き分けを『史記』に学んだ―は既に古田氏が指摘されている(前掲注6)。
 魏徴は、改新・発展しようとする倭国を、『史記』に書かれている、即位して宣公倭になる前の未熟な状態の俀に重ね合わせて、列伝では俀国と書いたのである。その説明のために、彼は倭国王と裴世清のやり取りを詳述したのである。
 なお、『史記』の四か所の俀・倭の組み合わせを調べると、刊本によって、

「俀・俀・倭・倭」、
「俀・俀・俀・俀」、
「俀・俀・俀・倭」

の三通りがあったが、古田氏が書かれているように、『史記』の文脈に対しては「俀・俀・倭・倭」の組み合わせが適切であると考える。
 これに関して、野田利郎氏(会員・姫路市)は、『史記』の年表の一つに「宣公俀」とあることから「俀・俀・俀・俀」の組み合わせを採り、宣公俀が王位を不正に継承した君主であるとして、「俀国」とは「倭国」を不正に継承した国であるという考えを示されている(注7)。しかし、『隋書』俀国伝に記載されている煬帝の発言や倭国王と裴世清のやり取りは倭国が未熟な国であることを意味しており、そこには倭国が不正な国であるとするニュアンスは感じられない。ここに魏徴の認識が示されており、彼は『史記』の記述の参照において、文公の子の俀の不正ではなく、未熟さを採用して、『隋書』で俀国と表記したと考える。

九、終わりに

 煬帝は怒ってはいない。倭国王の未熟さを指摘し、未熟な倭国王を教化し、向上させようとしたのである。魏徴は、煬帝の意向を表す目的で、『史記』における用例に倣って、帝紀の「倭国」を列伝では「俀国」と表記した。彼は、「俀国」を、倭国を貶めるためではなく、倭国の未熟を表すために用いたのだ。彼が、帝紀における倭国を列伝では説明無しに俀国としたのは、当時、俀と倭が混用されていたからであると考える。

1 岡下英男「「俀国=倭国」説は成立する」(古田史学会報No.一五九)

2 岡下英男「『隋書』俀国伝を考える」(古田史学会報No.一五五)

3 藤堂明保他『倭国伝』(講談社学術文庫)、ただし、一部の文言の説明を追加した。

4 加藤常賢『漢字の起源』(角川書店)

5 章炳麟『文始』(国会図書館デジタルコレクション本)

6 古田武彦「古典研究の根本問題」『古代は沈黙せず』所収

7 野田利郎「『史記』の中の「俀」」(古田史学会報No.一五二)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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