2021年6月8日

古田史学会報

164号

1,女帝と法華経と無量寿経
 服部静尚

2,九州王朝の天子の系列2
利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ
 正木裕

3,何故「俀国」なのか
 岡下英男

4,斉明天皇と「狂心の渠」
 白石恭子

5,飛鳥から国が始まったのか
 服部静尚

 編集後記

6,「壹」から始める古田史学三十
多利思北孤の時代 Ⅶ
多利思北孤の新羅征服戦はなかった
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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 「白鳳年号」は誰の年号か -- 「古田史学」は一体何処へ行く 合田洋一 (会報140号)
『無量寺文書』における 斉明天皇「土佐ノ國朝倉」行幸 別役政光(会報166号)

狂心の渠は水城のことだった 大原重雄 (会報166号)


斉明天皇と「狂心の渠」

今治市 白石 恭子

  愛媛県今治市朝倉(旧越智郡朝倉村)には、「尼ヶ井出」という地区があります。地名の由来は、無量寺末寺である浄禄寺を西暦六六二年に開基した尼僧が、西暦六六三年に二本の水路を開いたことによります。私は、尼僧が建設したのは朝倉の中央を流れている大きな水路で、山裾を流れる頓田川から分水したのだろうと思っていました。ところが、地図で確認すると、それは人工の水路ではなく、頓田川とは源流を異にする自然の川でした。では、尼僧が開いたという水路は、一体どこにあるのでしょうか。
 私の実家の屋号は「ひるめ」と言います。古い家はそれぞれ屋号を持っていて、今でも普段の生活で使っています。何でこんな訳の分からない屋号がついたのでしょう。しかも、蛭を連想させる嫌な呼び名です。父にその由来を聞くと、何代か前の家が「ひるめ堰」の傍にあったので、そう呼ばれるようになったということでした。
 「ひるめ」を辞書で引くと、「日霊」とか「日女」という漢字が当てられていて、天照大神の美称という説明がされています。また、今治市菊間町に「比留女地蔵」という祠があり、戦国時代に黒岩城の高姫が病気治癒を願って通っていたことから、この名がつけられたそうです。「比留女」とは、高貴な女性の尊称であるという説明もされています。
 「ひるめ堰」は、前述した自然の川である高大寺川に設けられた落差一メートル余りの堰です。その堰から上流の川沿いの地区が「尼ヶ井出」です。つい先日、長く史談会の会員であった父から、「堰は、川の水を横へ流すためのものだ」と教えられました。つまり、尼僧が掘った水路は、堰を起点にして川と直角方向に掘られているということです。古い地図で確認すると、確かに「ひるめ堰」を起点に岡、山口地区に向かってまっすぐ水路が走っています。さらに、父から、「『ひるめ』というところは上流にもある」と聞きました。なるほど、上流にもう一か所同じような規模の堰があり、そこからも岡、山口地区に向かってまっすぐ水路が伸びていました。
 その尼僧とは、一体何者なのでしょうか。以下『朝倉村誌』上巻百七ページを引用します。

「人皇三十八代斉明天皇、当国の当所御下向の時(西暦六六一年)浅地に車無寺を建立し、その末寺尼坊として、朝倉下村原見の下より岡の保田の下通りの水無之所に、小千玉興の助力によって建立し、樹之本山浄禄寺といい、本尊は阿弥陀如来、後には薬師如来を生木に彫刻し、併せて本尊とする。この浄禄寺尼坊の住持が、車無寺の無量上人の弟子である輝月妙鏡律尼であった。この尼は原見の下に井出二筋を掘り、水を渡して、この水で山口村下まで、田地を開き、作物よくみのり、二筋の井手の間へ家多く立って、在家の者が栄えた。それでこの所を尼ヶ井手と言い伝えた。また浄禄寺本尊である、生木の薬師如来の仏徳によって、祭礼や祝儀の時は、前日に家具を、この本尊に頼みおくと、入用の品物を必要な数だけそろえてくださるので、附近の村人は大変ありがたく、その恩恵に浴していた。(中略)この生木の薬師如来は六八四年(天武天皇白鳳十三年)の大地震によって枯れ、白鳳十三年七月十五日をもって尼僧輝月妙鏡律尼も遷化した。」

 尼僧の墓碑は、五世紀に築造されたとされる円墳「樹之本古墳」の墳丘上にあります。後の時代に作られたと思われる墓碑には、「輝月妙鏡律尼」という戒名と没年である白鳳十三年七月十五日という文字が刻まれています。「樹之本古墳」は、樹下の押領使と言われ「鉄人退治」で知られる伊予の大領小千益躬の墓ではないかと言われています。古墳からは、獣帯画像漢式青銅鏡(直径二四センチ)一面、勾玉一個、管玉七個の他、青銅の刀身、鎗身などが出土しています。
 水路を開いた古代の天皇と言えば、すぐに「狂心の渠」と揶揄された斉明天皇を思い浮かべるのではないでしょうか。斉明天皇は六六一年七月に九州の朝倉で崩御したとされていますが、前述したように、その後と思われる事績が、ここ朝倉の無量寺が保管している「無量寺文書」(村指定古文書)に記録されています。

「…齊明帝八月廿七日行司原ニ行幸有リ九月十五日天狭貫ノ廟ヱ行幸有而應神天皇ノヲカリ号ヲ許シ玉フ是ヲ朝倉ノ宮ト言ス其翌日ハ大将軍伊豫ノ大領小千守興天皇温泉ヱ行幸ニ付供奉ス自是天皇土佐ノ国朝倉ヱ行幸ス…」
「齊明天皇ハ従是土佐ノ國朝倉ヱ行幸有終ヱタリ朝倉ニ而崩御ス其後伊与ノ国越智野間ノ鬼城ニ納ル鬼ト云者行司原之事ナリ又水ノ上ト申所ニ冠岩ト言有リ齊明帝冠ヲ埋メ其脇ニ御太刀鎧馬具等埋タル所掘?ン事ヲ思イテ放箕ノ石ヲ奇テ岩塚ト号ス亦人皇三十九代天智天皇齊明ノ御跡ヲ悉ク御尋有而無量上人御對面有ト云々…」

 斉明天皇は、白村江の戦いにおける大敗北を受け、土佐に身を隠したのではないでしょうか。その戦いに伊予からも五千人が大領越智守興に率いられて参戦していました。多くが帰らぬ人となり、責任者である斉明天皇に対する地元の風当たりも厳しいものがあったに違いありません。加えて政権を近畿の勢力に奪われる事態となり、「鬼」の立場に追いやられてしまったことが、この文書から窺えます。
 病死なのか暗殺されたのか知る由もありませんが、一体誰が還暦を過ぎた高貴な女性を亡き者に出来たりするでしょうか。私は、出家して無量上人とともに再び朝倉に戻られたのではないかと思います。そして、浄禄寺周辺の、それまで水のなかった土地に水を引き、水田を増やしていったのでしょう。父によると、このとき開拓した水田は江戸時代の終わりまで天領だったそうです。この尼僧が斉明天皇と同一人物であったかどうかを証明することはできませんが、別人だったとしても両者がある一定期間、同じ場所におられたことは確かです。お互いに身近な関係だったことは想像するに難くありません。

 最後に、江戸時代に書き写されたとされる「無量寺文書」の斉明天皇に関わる部分を資料として紹介します。

伊豫国越智郡朝倉郷朝地両足山安養院無量寺朝倉宗惣廟八幡宮別當職也朝倉惣廟者 人皇七代ノ帝孝霊天皇第三皇子彦狭嶋王命ヨリ三代嫡皇二名嶋ノ主シ小千天狭貫皇ノ御廟也  當寺遥ニ人皇三十九代帝齊明天皇勅願寺也天皇天下り玉フ御鎮座之所ヲ皇ノ原ト云フ年月立後大ノ原トモ書ケリ是皆皇原ノ畧字ナリ此所ニ齋明ト云所有リ是天皇ノ地名也天皇浅地山ヱ行幸有テ一寺ヲ造立シ玉フ寺号ヲ阿弥陀寺ト号ス年月立テ後車無寺トモ云山号ヲ両足山○○院号ヲ安養院トモ言ヘリ亦ハ天皇院トモ言ヱリ本尊ハ無量寺如来ナリ聖徳太子一刀三禮之作也但シ一刀三禮ト云事ハ佛子彫刻ノ間太子一日三千禮ヲ佛子二授ケ玉フ尊象成就之後尊象ニ向而亦三千禮ヲナシ玉フ是ヲ一刀三禮ノ作ト言フ也又此佛子太子作ラセ玉フ○数千尊象ナリシガ太子御念願成就之時佛子鳥ト愛メ天上シゲ○○乃而鳥ノ作トモ申傳ナリ時之上人者生國京都大現上人弟子無量ト云フ車無寺ヱ移ル迄ハ水之上ト云所ニ三年余リ居シ玉フ其ノ処ヲ小寺ト云フ其側○京僧ト云フモ此僧ノ名ノミヲ顕サンガ為ニ名ケタリ此時白地南越シ山ノ城ヲ朝地ヱ引取テ寺ヲ立○則寺奉行岩塚土佐守重之其次役野田右近同野々瀬右京進重治大工奉行小千今若丸是ナリ無量上人續ハ宥量上人代役僧拾五人附持小者四十余人無量上人遷化之後宥量開基之名ヲ後世ニ傳ヱンガ為ニ寺ヲ無量寺ト爾ス無量上人ハ天皇當国ヱ下向ニ付供奉ノ人ナリ依而當山元祖開發ノ人ナリ従是代々宥ノ字ト量ノ字ヲ定メ置ク事者大将軍伊豫大領河野守興下知ナリ乃而河野家運長久之祈願寺也伽藍金堂造立有シガ故○○守興公下知ニ依而風早郡難波ノ庄ヱ引取リ庄ノ薬師當山金堂ノ本尊也凡金堂ヱハ少佛ノ薬師如来ヲ作り寺号ヲ朝園寺ト号ス後長円寺トモ書ケリ大将軍守興許セラル也朝地ヲ浅地ト書ク白地ト云ハ朝地ノ別号ナリ天皇當国ヱ下向ノ事ハ河野記録ニ有當地ヱ行幸由来ハ八月十九日ニ當郡櫻井郷ノ内長坂ト言フ所ノ岡ニ付玉フ此所ヱ車ヲ納止玉フ号ケテ車塚ト言ス後長坂天皇ト崇ム長坂天皇ヲ後長澤天皇トモ亦長沢トモ書ケリ朝倉天皇ト云モ皇原ノ御跡ヲ写シ而朝倉之天皇ト号ス齊明天皇ハ八月廿日ニ行幸有故長沢天皇ハ八月十九日神楽有同月二十日ハ朝倉天皇ノ祭禮ナリ此両社ハ齊明天皇ヲ崇メ祭也後故有而牛頭天皇ト号スト云云齊明帝八月廿七日ニ行司原ヱ行幸有リ九月十五日ニ天狭貫ノ廟ヱ行幸有而應神天皇ノヲ○リ号ヲ許シ玉フ是ヲ朝倉ノ宮ト言ス其翌日ハ大将軍伊豫ノ大領小千守興天皇温泉ヱ行幸ニ付供奉ス自是天皇土佐ノ国朝倉ヱ行幸ス此時伊豫国小千郡ノ霊應神号ヲ帝免シ置レタルハ三社ナリ一社ハ皇濱小千御子一社ハ樹下大臣一社ハ朝倉天狭貫王此三社者應神号也遥に人皇五十六代清和天皇ノ御宇ニ一神ハ大濱八幡宮ト号ス一神ハ朝倉惣廟八幡大菩薩ト号ス右而社ハ小千氏大祖ナリ一社ハ樹下○王八幡ト言八月祭禮神輿者大濱次而朝倉次而朝倉次而樹下三箇所之神輿高縄ヱノ登城ト有テ与和木村重茂城迄毎年神輿出テ神楽を奉奏シ右三神守護ノ太夫小千今波離太夫信澄自是亦朝倉伏原ト申ス○有齊明帝御鎮座の側ヲ毎度行幸ノ霊地ナリ是ヨリ此所ヲ伏原ト号ス天狭貫皇后ノ宮伏原八幡ト崇ム此ノ后キ〇ヲ好ル故ニ〇八幡トモ言リ此氏ノ下ニ住民〇ヲウエル時ハタルト申スハ〇ヲ穢ス故ナリ又頭下ト云う者○ニ齊明帝御子ブント仕玉フ岩塚ガ姉夏姫守興ガ妻ト成シテ齊明ハ女帝成ルガ故ニ其姫ヲ愛シ玉ヒ此姫頭下ノ御館ニテ一子ヲ○玉フ是ヨリ此所ヲウバガ原ト言此子ハ大将軍河野守興公別腹ノ子ナリ帝ノ御子ブント而皇子号ヲ許シ直ケル御母ト此ノ皇子ト朝倉ノ宮ニ而成長百デ御名ヲ小千丸ト号ス幼時者頭下ノ館ニ座ス故ニ終ニ皇子此ノウバガ原ニ而薨ス此ノ廟ヲ〇〇而皇子大明神ト崇祭ル小千丸殿是ナリ其姫ノ霊社朝地子守大権現所ノ名モ河野ト申ス也依而天狭貫皇御廟〇伏原八幡宮〇皇子ノ社亦浅地夏姫霊社共大将軍伊与大領河野守興公ヨリ別當職兼テ相勤来ナリ惣廟八幡宮ヱ正月七日毎年弓始之日當山住僧無量上人神殿の戸開而般若ヲ奉讀誦事永代ナリ又此ノ社ニ高麗之高麗犬ト而トウビョウシト云霊宝有ハ天智天皇ノ御宇人主守興大唐越ノ国御出向有而阿坊仙人ヲ當国ヱ御誘引ナシ玉フ而佐禮山ノ二代トシ玉フ此弟子惠総惠准来而朝倉惣廟ニ献スト云々齊明天皇ハ従是土佐ノ國朝倉ヱ行幸有終ヱタリ朝倉ニ而崩御ス其後伊与ノ国越智野間ノ鬼城ニ納ル鬼ト云者行司原之事ナリ又水ノ上ト申所ニ冠岩ト言有リ齊明帝冠ヲ埋メ其脇ニ御太刀鎧馬具等埋タル所掘窬ン事ヲ思イテ放箕ノ石ヲ奇テ岩塚ト号ス亦人皇三十九代天智天皇齊明ノ御跡ヲ悉ク御尋有而無量上人御對面有ト云々其後木の丸殿トナラセ玉ヒテ後御詠歌ヲ下シ置ルト云々
     御詠ニ曰
 朝倉ヤ 木の丸殿ニ我ヲレハ 名ノリヲシツツ 行ハタガコゾ

註:〇は正確に読み取れなかった文字です。
(無量寺文書の写真資料提供 今井久氏)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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