「皇極」と「斉明」についての一考察 古田武彦先生を偲びつつ合田洋一(会報132号)
「古田史学」とは何か 山田春廣 (会報141号)
「白鳳年号」は誰の年号か
「古田史学」は一体何処へ行く
松山市 合田洋一
『古代に真実を求めて』第二十集「失われた倭国年号<大和朝廷以前>」所載の正木裕氏の論稿『「近江朝年号」の研究』、これを受けての古賀達也氏の論稿『九州王朝を継承した近江朝廷』を見て、私は頭が混乱して呆然としてしまった。それは、古田武彦説は“そっちのけ”“無視”していると思ったからである。
古田先生が否定している説を覆す有力な反論も無いまま“平然と”まかり通っているこの現状を見るにつけ、「古田史学」とは一体何なのか、古田先生亡き後これから先「古田史学」は一体何処へ行こうとしているのであろうか、と思わずにはいられない。私は、古田説が安易に否定されるこの重大さを悩み憂う者として、僭越ながら是非にも一筆啓上しなければと思い立った次第である。私の思い過ごしか、間違いがあるならばご指摘戴きたい。
先ず、正木説の「近江朝年号」の「中元・果安は天智・弘文の年号」とあるが、この年号の比定自体は大変面白いアイデアと考える。
但し、これがどうして九州王朝と結びつくのか解らない。また、「九州年号」としても「近畿天皇家の年号」としても遺らなかったことは、言うまでもなく『日本書紀』は天武大王のために創られたと言っても過言ではないので、天智・弘文から政権簒奪をした天武にすれば、九州王朝の「白鳳年号」と「中元・果安」がダブルの関係に有る無しに関わらず、天智・弘文の年号などは遺す訳がないと思っている。
次に、薩夜馬が唐の捕虜となってからのち、唐の高宗の「封禅の儀」に「倭国酋長」(四国<新羅・百済・耽羅・倭>の酋長の一人)として扈従し、「倭国の都督」として帰されたということは正に卓見であると思っている。
従来、太宰府市にある「都府楼跡」は何故に都督が政務する都督府の名称として遺っているのかが不明であった。一つの説として、中国の南朝から都督に任命された「倭の五王」が居たからではないのか、と。しかしながら、「倭の五王」の宮殿は、筑後の三潴・久留米付近にあったと言う説(古賀達也氏『新・古代学』第四集「九州王朝の筑後遷宮」)が出るに及んで、益々太宰府都府楼跡は不可解ということになった。また、『日本書紀』にも天智六年十一月の条に突如として「筑紫都督府」が出現する。そうなると、考古学上も文献上からも太宰府に都府楼があったことは明白であるが、その史料根拠の決定打がなかったと思っていた。ところが、この度の正木説はそれを裏付けるものではないだろうか。
古田先生も「四国の酋長」の一人として「倭国酋長は薩夜馬」(『古田武彦の古代史百問百答』一七五頁)と述べておられる。但し、古田説の薩夜馬は九州王朝の摂政で、天子は斉明としており、正木説の薩夜馬天子説とは違う。
ところで、古賀達也氏の『洛中洛外日記』第一三七五話の「七世紀後半の<都督府>」も見て、気が付いた。正木説は古賀氏が指摘しているように「評制度」の発布・施行は「何時・誰が・何処で」ということが明確ではない。つまり、薩夜馬が「都督」として帰還してからでは遅すぎるのである。あくまでも「評」は「都督」の下位称号であるからである。アイデアとしては大変素晴らしいが、これを解決しなければ論証としては成り立たない。言うまでもなく、多利思北孤から斉明までは「天子」であり「都督」ではない。もしかすると、九州王朝は「都督」称号とは関係無しに「評制度」を施行した可能性は“なきにしもあらず”ではなかったろうか。そうなると、薩夜馬帰還後の「都督」説は妥当のように思える。アイデアとして述べさせて戴く。
それはさておき、次に疑問点を述べる。
正木説の「中元」年号が示す「近江朝は九州王朝(倭国)の流れを汲む政権」とは、私の頭ではこんがらがってさっぱり解らない。それは、
近江朝が『海東諸国紀』に記すように、九州王朝(倭国)の遷都により成立した朝廷、即ち“九州王朝(倭国)の系列”であれば、九州年号(倭国年号)は新天子が即位すれば「改元」されるから「中元」年号が定められるのは当然のこととなる。(九三頁)
とあるが、前述のように古田先生は「当時の天子は斉明であり、薩夜馬は摂政としていて、また白鳳年号は斉明のものであり、白村江の戦いのため越智国明里川に遷都した」としている(『古代に真実を求めて』第十五集「九州王朝終末期の史料批判―白鳳年号をめぐって―」)
これに関しての正木説は、古田説に言及しておらず全く無視、つまり “なかった”ことにしているのである。
また、古田先生は、天智の天皇家は倭国を裏切って「白村江の戦い」に参戦しなかったと述べておられる(『備中国風土記』の邇摩郡などの論証から)。薩夜馬にとっては憎んでも余りある仇敵の天智ではなかったのか。従って「近江朝は九州王朝の系列」とは全く合点がいかない。この不参戦についての論証は何もない。そして、古田先生が否定している古賀説の『海東諸国紀』にある九州王朝の「近江遷都」(『古田武彦の古代史百問百答』二二九頁)と天智の近江朝を同じとしている。
さすれば、古賀氏の九州王朝の「近江遷都論」は、古田先生が述べておられるように“なかった”ことになるのであろうか。どうも解らない。
ここで言いたいのは、古田説を全く無視して論証を積み重ねることは納得できないと考えていることである。つまり、「古田先生はこのように述べておられるが、私はこのように考えている」という説であるならば、結果は別として、構わないのである。
古田先生の九州王朝の天子・斉明、その年号・白鳳論は一体何処へ行ったのであろうか。はたまた「古田史学」からいつのまに消えてしまったのであろうか。「古田史学」とは一体何なのか、思い悩んでしまうのである。私も、今回の「会誌」に「越智国・宇摩国に遺る<九州年号>」として小論を書いた。この地に遺存している数多の白雉(拙論はこれも斉明の年号)・白鳳年号や数ある遺跡・行宮跡、中でも「紫宸殿」地名遺跡は一体誰のものというのであろうか。天子・斉明が当地へ数度行幸し終焉の地であったればこその“証左”ではないのか。あまりにも解せないのである。
そして、正木氏は九州王朝の天子・薩夜馬と九州王朝系列の近畿天皇家の天智との「二重権力状態」としているが、ここには越智国に遷都した天子・斉明が抜けているのである。私は古田先生が論証された通り、白鳳年号時代の天子は斉明であり薩夜馬は摂政であつたとしても全く矛盾はないと考えている。それは、九州王朝は伝統的に兄弟統治の二重権力であり、従って「親子」である斉明と薩夜馬の二重権力であっても不思議ではないのである。そこで、当時の九州王朝では元首は斉明であり首相は薩夜馬と考えて見ては如何であろう。例えば、外交上の事例として、百済の王子・豊璋を帰還させる儀式を斉明が宇摩国長津宮で行ったことも頷ける(『古代に真実を求めて』第十三集所載、拙論「娜大津の長津宮考」参照)。元首は対外的な儀式には欠かせないからである。
そうなると、日本列島は「白村江の敗戦後」越智国明里川に「紫宸殿」を築いていた九州王朝正統の天子・斉明、唐から帰還した太宰府の倭国都督・薩夜馬、それに近江国大津に宮室を構えた近畿天皇家の大王・天智の「三重権力状態」になっていたのではなかろうか、と。その終焉は明確ではないが、やはり大宝元年(七〇一)頃まで続いたのではないかと思っている。
その理由の一つとして「大宝律令」に伴う伊予国司の問題がある。通説の初代伊予国司とされたのは『日本書紀』持統五年(六九一)の条に出ている「伊予国司田中朝臣法麻呂」である。しかし、詳細は省くが彼は九州王朝の官僚であり、初代の伊予国司ではない。それでは初代は誰か、『続日本紀』巻三・文武天皇の条に「大宝三年(七〇三)八月、従五位上百済王良虞を以て伊予守と為す」とあり、彼が初代の伊予国司なのである。即ち「律令」発布の大宝元年から三年後にやっと伊予国司が決まったことになる(拙書『新説伊予の古代』に詳述)。そのことから思うことは、すんなり決まらなかった要因として、伊予国内には最強の越智国があって、天子・斉明が「遷都」した国であり、九州王朝の一・二を争う支配下の国であったことから、近畿王朝への服従は相当抵抗したものと思われるからである。
そして、白鳳年号は斉明の年号ではあるが、過去には摂政で帰還後は都督であった薩夜馬の本来の立場から、彼の年号でもあると考えるとすれば、彼が没するまでの二十三年間の永きに亘り続いたのではなかろうか。
また思うに、物部氏・蘇我氏を滅ぼして近畿の覇者に成り上がった近畿天皇家の中大兄皇子(天智)が大津に宮室を構え、九州王朝の系列としてではなく近畿天皇家の王者として、太宰府の薩夜馬と明里川の斉明に対抗する立場になった。そこに、九州王朝の大皇弟と思われる大海人皇子が天智の入り婿となり(天武、幼名・真人、天子斉明の弟か、拙稿『古代に真実を求めて』第十七集所載「天武天皇の謎―斉明天皇と天武天皇は果たして親子か」で詳述)、そののち唐の後ろ盾を得て「壬申の乱」により政権を簒奪したという構図が極めて理屈に適っているのではなかろうか、と。
次に正木説を受けての古賀説であるが、古田先生は「庚午年籍」・「近江令」は近畿天皇家が成し得たものではなく九州王朝の事績である、と述べておられる(『古田武彦の古代史百問百答』二一六頁)。つまり古田説への反証もなしに、自説を述べているように思えてならない。更に言えば「前期難波宮九州王朝副都説」にしても、古田先生が“否定”していたことが、公然と「古田史学」の「定説」となってしまったような気がしてならないのである。「作業仮説」は結構であるが、それの「屋上屋」を重ねるようになっては如何なものであろう。「古田史学」の事務局長と代表という立場にある人の論稿だけに敢えて愚見を申し述べた次第である。失礼の段ご容赦賜りたい。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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