2021年 8月11日

古田史学会報

165号

1,本薬師寺は九州王朝の寺
 服部静尚

2,明帝、景初元年短里開始説の紹介
 永年の「待たれた」一冊
 『邪馬壹国の歴史学』
 古賀達也

3,九州王朝の僧伽と戒律
 日野智貴

4,「壹」から始める古田史学・三十一
多利思北孤の時代Ⅷ
「小野妹子の遣唐使」記事とは何か
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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 隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった!谷本茂(会報134号)

 『日本書紀の中の遣隋使と遣唐使 服部靜尚(会報123号)


「壹」から始める古田史学・三十一

多利思北孤の時代Ⅷ

「小野妹子の遣唐使」記事とは何か

古田史学の会事務局長 正木裕

一、『書紀』の「小野妹子の遣唐使」と『隋書』の「多利思北孤の遣隋使」

1、小野妹子の遣「唐」使

 『日本書紀』の推古十五年(六〇七)~推古十七年(六〇九)に、小野妹子の「大唐」への派遣と、「大唐の使人」裴世清はいせいせいの来朝記事があります。
 『書紀』記事では、
①推古十五年(六〇七)七月に、大禮小野臣妹子と通事をさ鞍作福利を「大唐」に派遣。
②推古十六年(六〇八)四月に、妹子は「大唐の使人」鴻臚寺こうろじの掌客しょうかく裴世清と共に帰国し、裴世清は八月に入京し、「皇帝」の国書を「倭皇」に奏上する。
③同年九月に、裴世清が帰国。小野妹子が大使として随行し、再度入唐。同時に学生・学問僧八名を唐に送る。
④推古十七年(六〇九)九月に小野妹子が帰国。

 となっています。六〇七年の中国王朝は「隋(五八一~六一八)」ですから「遣隋使」のはずですが、『書紀』は一貫して「唐・大唐」と記しています。

 

2、多利思北孤の遣隋使

 一方、『隋書』俀国伝では、七世紀の初頭に、「俀たゐ王の阿毎多利思北孤あまのたりほこ」が「隋」に、二度にわたり使節を送った(*答礼を入れると三度)と記されています。
 その記事では、
①開皇二〇年(六〇〇)(推古八年)に、阿毎多利思北孤が高祖文帝に「遣隋使」を派遣。(*この記事は『書紀』に無い)
◆開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞彌あはきみと号す。使を遣わし闕(けつ 天子の居所)に詣る・・・王の妻は雞彌きみと号す。後宮に女、六、七百人有り。太子を名づけて利歌彌多弗利りかみたふりとす。(*古田氏は、「利、歌彌多弗かみとうの利なり」と読む)

②大業三年(六〇七)(推古十五年)にも、煬帝に再度遣使し、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なしや」との国書を届け、併せて数十人の沙門も派遣する。
◆大業三年(六〇七)、その王、多利思北孤は使を遣わして朝貢す。使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す、と。故に、遣わして朝拝し、兼ねて沙門数十人、来たりて仏法を学ばしむ」と。
 その国書に曰く「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なしや、云々」と。
 帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く「蛮夷の書、無礼なる者有り。復以って聞する勿かれ」と。

③煬帝は、翌大業四年・推古十六年(六〇八)に、返使として、文林郎斐清(斐世清=唐代に成立した『隋書』では唐の太宗李世民の諱「世」を避けたと思われる)を俀国に遣す。
◆明年(六〇八)、上、文林郎裴清をして俀国に使せしむ・・・。一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る・・・また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。

④斐清は小徳阿輩臺・大礼哥多毗かたひに迎えられ、都に入り、俀王と会見する。
◆其の王、清と相見え、大いに悦んで曰く「我聞く、海西に大隋・礼儀の国有り。故に遣わして朝貢せしむ。我は夷人、海隅に僻在して、礼義を聞かず・・・」。清、答えて曰く「皇帝、徳は二儀に並び、沢は四海に流る。王、化を慕うの故を以て、行人を遣わして此れに来らしめ、宣論せしむ」と。

⑤会見後、裴清は俀国の使者と貢物を伴って帰国するが、その後隋と俀国との交流は断絶する。
◆其の後、清、人を遣わして、其の王に謂わしめて曰く「朝命既に達せり。請う、即ち塗みちを戒めよ」と。是に於て、宴享を設け、以て清を遣わし、また使者をして清に随い来りて方物を貢せしむ。この後、遂に絶つ。

 

3、『隋書』にはヤマトの王家の遣隋使も裴世清のヤマト訪問もない

 通説では、
①多利思北孤とはヤマトの厩戸皇子(聖徳太子)のことである。
②『隋書』と『書紀』は年次もあい、裴世清(裴清)の名も一致しているから、二つの史書は同じ事実、即ち隋の使人裴世清がヤマトの王家(天皇家)を訪問したことを伝えている。
③『書紀』に「唐」とあるのは、『書紀』の編纂された八世紀に、遣唐使などで「唐もろこし」と盛んに交流していたため、「唐」が中国の一般的呼び方となり、隋も唐と書いた、あるいは隋への朝貢を記すのを唐に遠慮し「唐への朝貢」と記した

などと解釈しています。つまり『書紀』は「ヤマトの王家は小野妹子らを『遣隋使』として派遣し、『隋』から裴世清がヤマトを訪れ、国交を結んだ」ことを述べているというものです。

 しかし、隋に国書を送り、裴世清が会見した俀王多利思北孤は、妻を持つ男王であり、ヤマトの推古でないことは明白です。また、厩戸にも利歌彌多弗利などという太子はいません。そもそも『隋書』には、俀国には阿蘇山があり、冬も温暖で水多く陸少ないと書かれていますから、裴世清が訪問したのはヤマトの王家ではなく九州の国であることは明らかです。
 『隋書』は六三六年成立ですから、六〇七年の多利思北孤の朝貢が「遣隋使」であることは、唐も『書紀』編者も当然知っているはず。それをわざわざ「唐」と強調するからには、そのように書きたい、あるいは書かねばならない理由があったはずです。その理由とは一体何でしょうか。

 

二、古田武彦氏による『隋書』の遣隋使と『書紀』の遣唐使

1、『失われた九州王朝』での見解

 古田武彦氏は、この「遣『隋』使か遣『唐』使か」という問題について、「失われた九州王朝」(一九七三年)では、
◆隋に国書を送った「俀国」は九州の国であり、多利思北孤は九州の天子で、裴世清がまず訪問したのは俀国だった。そして、裴世清一行は俀国への訪問をすませ、「塗(みち)を戒めよ(旅支度をせよ)」と言い、小野妹子らとともに、さらにヤマトの王家(天皇家)のもとに向かった。つまり年次は同じ六〇七年~六〇八年の出来事だが、メインの国交当事者は倭国(九州王朝)であり、ヤマトの王家は「サブ(ついでの訪問)」だった。
 とされた。また、古田氏はその根拠として、
①『隋書』では「日出る処の天子・・」の国書を送っているが、『書紀』に推古(又は厩戸)が国書を送った記事は無いこと。これは、隋との外交の当事者は多利思北孤であることを示す。
②また、『隋書』では数十人の沙門を派遣しているが、『書紀』では妹子と通事の鞍作福利の二人であること。「二人」だけでは渡航できないから、これは俀国の「遣隋使」に「同行」したことを示す。
③『隋書』では、裴世清を出迎えたのは小徳阿輩臺と幾百人、大礼可多毗と「二百余騎」だが、『書紀』では難波吉士雄成らが飾船三〇隻、額田部連比羅夫らが「飾騎七十五匹」で、『隋書』の方が位階も高く出迎えの規模も多い。

等を挙げられた(*以上は「古田旧説」)。(注1)

 

2、『法隆寺の中の九州王朝』での旧説撤回

 しかし、その後古田氏は、『書紀』が一貫して「隋を唐と書き換えている」ことを重視し、『市民の古代』第三集(一九八一年)の「遣隋使はなかった」、『法隆寺の中の九州王朝』(一九八五年)において説を改められ、
◆裴世清はヤマトへは行かなかった。『書紀』の記事の実際は「一〇年~十二年後の推古天皇の遣唐使」記事であり、「『日本書紀』における年代の錯誤(注2)」によって推古十五~十六年に記されたものだ。

 とされた。
 つまり「唐と書かれているから、ヤマトの王家による唐代の遣唐使記事が、『隋書』の年次に合わせて「繰り上げられた」という説に改められた(*以上は「古田新説」)。その主な根拠は、
①『書紀』は一貫して「唐」と書いているが、唐王朝の成立は六一八年で、六〇八年に「遣唐使・大唐の使人」はありえない。

②このころの『書紀』の中国関係記事には、十数年(十~十二年)のずれがあること。例えば、推古十七年(六〇九)に、百済の僧が「呉国に乱があって入国できなかった」と語った記事があるが、「呉国」とは李子通りしつうが江南に建国した国で、六一九年~六二一年にしか存在しない。また、舒明三年(六三一)に、「百済王、義慈が、王子豊章を入れて質とする」とあるが、義慈王即位は六四一年で、六三一年当時の百済王は武王で「十年以上のずれ」となる。

 というもの。この考えに基づく「十~十二年の『ずれ』」(実年よりの「繰り上げ」)があるなら、六〇七年の遣唐使の実年は六一九年ごろとなります。
 ただし、唐の建国直後の武徳二年(六一九)閏二月から四年(六二一)五月まで、李淵(りえん 高祖)と李世民(せいみん のちの太宗)は、晋陽に拠った劉武周りゅうぶしゅうや洛陽に拠った王世充おうせいじゅ、洺州めいしゅうに拠った竇建徳とうけんとくらと、激しく戦っており、事実上遣唐使の派遣は困難でした。従って、「十年以上のずれ」とは「十四年程度のずれ」で、李淵らが彼らを鎮圧し、支配を固めた六二一年ごろに、祝賀のため派遣したと考えるのが適切でしょう。(注3)

 

3、谷本茂氏による「繰り上げ」説の補強

 その後、この「年次の繰り上げ」という「古田新説」は、谷本茂氏による裴世清の隋代と唐代における「冠位・職階」の違いの発見で補強されています(注4)。これは、『隋書』には「文林郎」、『書紀』では「鴻臚寺の掌客」とあるところ、
①隋の高祖(文帝)のとき、鴻臚寺に典客署が置かれ、掌客十人がいた。
②開皇二年(五八二)にも「典客署掌客を正九品と為す」と掌客が存在した。
③ところが、煬帝の大業三年(六〇七)の改革で、鴻臚寺の典客署は典蕃署と改められ「掌客」は見えない。
④唐代に入り、『旧唐書』に「鴻臚寺典客署掌客十五人(正九品上)」とあるように鴻臚寺の掌客が復活する。つまり、
◆『書紀』に記す「鴻臚寺の掌客」は、「隋の煬帝時代」には無い「唐代の職名」で、その職名のある記事も「唐代の記事」となる。

 というものです。

 

4、「繰り上げ説(推古朝遣唐使説)」における疑問

 ただ、「推古の遣『唐』使」が事実なら、ヤマトの王家にとって誇るべき画期的な出来事であり、「実年」に「遣唐使を派遣した」と堂々と記せばよいはずですが、『書紀』にそのような記事はありません。
 また、多利思北孤の遣隋使をヤマトの王家の事績だとしたいなら、『隋書』にあわせ、六〇七年~六〇八年記事にも、「推古(あるいは厩戸)が遣『隋』使を派遣し、『文林郎』裴世清がヤマトに来朝した」と書けばいいはずですが、『書紀』は『隋書』とは矛盾する「唐・鴻臚寺の掌客」と書いています。
 実は『書紀』が「そう書いた理由」が「小野妹子の国書盗難事件」記事から見えてくるのです。

 

三、小野妹子の国書盗難事件が示す「失敗した」ヤマトの遣唐使

1、小野妹子の国書盗難事件とは

 『書紀』の「遣『唐』使」記事で不可解なのは「小野妹子の国書盗難事件」です。
 『書紀』では、小野妹子は裴世清とともに帰国した時に、「唐の皇帝からの国書を百済人に掠かすみ取られた」と上奏しています。これが重罪にあたることは疑えませんが、推古天皇は、裴世清に聞かれたら不良(さがなし 不穏当)という理由で、これを不問に付しています。
◆『書紀』推古十六年四月、小野臣妹子大唐より至る。(略)卽ち大唐の使人裴世淸・下客十二人、妹子臣に従ひて筑紫に至る(略)。妹子臣奏して曰く、「臣還り参る時、唐の帝、書を以て臣に授く。然るに百済国を經過る日に、百済人探りて掠かすみ取る。是を以て上ること得ず」といふ。(*群臣らは妹子を流刑にせよと言ったが、推古は)「妹子、書を失う罪有りといへども、輙たやすく罪すべからず。其の大国の客等聞かむこと、亦不良さがなし」とのたまふ。乃ち赦して坐つみしたまはず。
 百済人が隋(唐)の使節一行から国書を掠み取るなどあり得ないし、また、国書を盗まれた小野妹子が不問に付されることもあり得ないでしょう。そもそも皇帝の国書は使人の裴世清が所持し、天皇に届けるべきもので、妹子が単独で保持すべきものではありません。
 従って、「掠み取られた」というのは『書紀』の潤色で、妹子は「皇帝の国書など持っていない(国書を得られなかった)」ことを示していると考えられます。

 

2、創作・盗用された「唐の皇帝からの国書」と推古の答辞

 さらに、『書紀』では、裴世清が、掠み取られたはずの「皇帝の国書」を奏上し、阿倍臣が其の書を受けたと書かれています。
◆時に、使主おみ裴世淸、親みずから書を持ちて両度再拜をがみて、使の旨を言上して立つ。其の書に曰はく「皇帝、倭皇を問ふ。使人長吏大礼蘇因高等至りて懷おもひを具つぶさにす。(略)稍やうやくに暄あたたかなり、比このごろは常の如し。故、鴻臚寺掌客裴世淸等を遣して、稍に往く意を宣ぶ。幷せて物送ること別の如し」といふ。
 このように「失われたはずの国書」が奏上されているのは不可解です。従って、裴世清の「ヤマトの天皇への国書奏上譚」は『書紀』編者の創作で、国書の内容も、「創作あるいは盗用」された可能性が高いのです。
 さらに、推古の答辞の「東の天皇敬つつしみて西の皇帝に白す(略)尊かしこどころ、何如いかに」も、その文言の類似から、『隋書』の多利思北孤の国書に見える「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」を、ヤマト流に潤色したものと考えられます。
◆(推古の答辞)爰ここに天皇、唐帝を聘とぶらふ、其の辭ことばに曰はく「東の天皇敬つつしみて西の皇帝に曰す。使人鴻臚寺掌客裴世淸等至りて、久しき憶おもひ方みざかりに解けぬ。季秋このごろ、薄やうやくに冷すずし、尊かしこどころ何如いかに。想おもふに淸悆おだひかにか。(略)」
 つまり、裴世清が「無いはず」の国書を奏上したという話は、「俀国の多利思北孤への奏上」を潤色し、「推古への奏上」に置き換えたものということになるでしょう。

 

3、「国書盗難譚」はヤマトの王家に不都合で不必要

 ただ、盗用にせよ創作・潤色にせよ、「失われたはずの国書の奏上」という矛盾を生じさせてまで、「不都合さがないな国書盗難譚」を記す必要は全く無く、淡々と裴世清の国書奏上譚を記せば良いはずです。従って、『書紀』編者(大和朝廷)が「国書盗難譚」を記したのには、特別な理由があると考えられます。

 

四、「成功しなかった」ヤマトの天皇家による対唐独自外交

1、「合成」された『書紀』の遣「唐」使と裴世清来朝記事

 通説では「小野妹子の遣唐使派遣」と「裴世清来朝」は一連の出来事だとしますが、「古田新説(年次の繰り上げ)」では、「年次」(六〇七~六〇八年と六二一年ごろ)や、「対象・来朝先」(俀国とヤマトの王家)が違う「別々の出来事」となります。つまり、「『隋代』に裴世清は『俀国に来朝し、ヤマトには来なかった』」が、「『唐代』に妹子は『唐』に渡った」のであり、『書紀』の「遣唐使」記事は、この二つの記事、すなわち「多利思北孤の隋への遣使と裴世清の俀国来朝記事」と「ヤマトの王家の小野妹子の唐への派遣記事」を、潤色を加えて合成したものだと考えられます。
 ただし、妹子は唐の国書を得られず、「ヤマトの王家の妹子の唐派遣による独自外交」は成功しなかったことになります。『旧唐書』には「倭国(*九州王朝)は大国、日本国(*大和朝廷)はもと小国」とありますから、唐が大国を無視して小国と国交を結ぶはずはないのです。『書紀』編者は、この事実を隠すために「国書は得たが奪われた」との記事を創作し挿入したのだと考えます。

 

2、ヤマトの王家の新羅との国交開始

 それでは、妹子の遣唐使とはどのような事実だったのでしょうか。

 新羅は真平王四十三年(六二一)十月に初めて唐に遣使・朝貢し、以降毎年のように朝貢しています。そして、『書紀』推古二十九年(六二一)には、我が国への使節派遣と、「始めて新羅から国書が齎された」記事があります。ヤマトの王家ではなく、倭国(九州王朝)と新羅は、六世紀を通じて使者の往来や戦闘などが記されるように、深い関係がありました(注5)。従って「始めての国書」とは「ヤマトの王家への初めての国書」だと考えられ、これは、新羅とヤマトの王家との正式な国交が始まったことを意味します。
◆推古二十九年(六二一)是歲、新羅、奈末伊彌買なまいみばいを遣して朝貢す。仍りて書を表たてまつりて使の旨を奏す。凡そ新羅の上表すること、蓋けだし始めて此時に起るか。

 また、推古三〇年(六二二)(*岩崎本に拠る)にも新羅の使節が来朝し、仏像等を太秦寺や四天王寺に奉納しています。従って六二一年~六二二年にかけて、確実にヤマト近くに新羅の使節が来たことになるでしょう。そして、注目すべきは唐の学問僧惠齋・惠光らが帰国し、唐への交流・派遣を勧めているのです。
◆唐国に留る学者、皆学びて業を成す。喚すべし。且た其の大唐国は法式備り定れる珍たからの国なり、常に達かよふべし。

 新羅は、六二一年十月(『旧唐書』列伝・新羅)と六二三年十月(『冊府元亀』外臣部)に遣唐使を送っていますから、新羅に行くことが唐へのルートだったことになります。先に、六〇七年の遣「唐」使の実年は「十四年ずれた六二一年が適切」と述べましたが、妹子らは六二一年の新羅使節の帰国に随行して唐に渡った可能性が高いのではないでしょうか。

 

3、新羅を通じてのヤマトの王家の「対唐独自外交」

 そうであれば、俀国(九州王朝)の隋との断絶の中で、ヤマトの王家は新羅との交流が開始されたのを契機に、新羅の使節に随行し、新興の唐に小野妹子らを派遣し独自外交を試みたことになります。
 当時、唐には裴世清の帰国時に派遣された高向玄理たかむこのくろまろなどの学問僧がいました。妹子らは彼らを手掛かりに、唐との接触をはかり、独自外交を始めようとした、その際「唐で小野妹子らに対応した」のが、かつて文林郎として俀国を訪問し、唐において鴻臚寺掌客となった裴世清だったのではないでしょうか。新羅の使節に随行したのであれば、『旧唐書』に新羅の遣使記事はあっても、倭国の遣使記事が無いのも理解できます。
 『書紀』編者としては、これを「ヤマトの王家の初の対唐外交」と記したかったが、あくまで新羅使節の随行であり、唐が認めた国交でもなく、国書も得られず、事実をそのまま記載することが出来なかった。

 そこで、『書紀』編者は、
①「妹子の遣唐使」記事を「十四年繰り上げ」、『隋書』の記事が「ヤマトの王家の外交記事」のように装った。
②そのうえで、一貫して「唐」と記し、裴世清の職名を妹子と対応した唐代の「鴻臚寺掌客」と記すことにより、実際は「ヤマトの王家の対唐外交記事」だった

と解釈できる、つまり「繰り上げられた記事であることがわかる」よう工夫をこらした(腐心した)のだと考えます。

 

4、国書不交付は唐代でも我が国の代表が九州王朝であったことを示す

 『書紀』記事を素直に読めば、妹子が「唐の国書を得られなかった」ことは明白であり、また、『旧唐書』には裴世清のヤマト派遣などと言う記事は無く、さらに、倭国(九州王朝)は大国で、日本国(大和朝廷)は小国だったと書かれています。
 七〇三年の「武則天による日本国(大和朝廷)承認」以前の、唐代初期においても、我が国を代表するのは、やはり倭国(九州王朝)でした。ただ、その後、倭国(九州王朝)と、自立を志向するヤマトの王家の間には、新羅や唐を巻き込んだ倭国の主導権をめぐる「摩擦・緊張」が高まっていき、それが白村江の敗戦から、『旧唐書』に「日本はもと小国、倭国の地を併せたり」と記す、八世紀初頭の「王朝交代」へと繋がっていくことになります。

(注1)「裴世清の第一の目的は筑紫なる俀王の都であり、そこで『朝命を達した』のち、さらに東方の奥地より遣使してきた「倭国使」の本国の地に向かって守発したのである」(「失われた九州王朝」第三章高句麗王碑と倭国の展開、二つの道)

(注2)古田氏は『法隆寺の中の九州王朝』で、「『日本書紀』編者にとっては、年代のずれはその意識に無かった。だからこそ平然として、推古朝の国交対象を「唐」「大唐」と明記しえたのである」とされる。

(注3)服部靜尚「日本書紀の中の遣隋使と遣唐使」(古田史学会報一二三号。二〇一四年八月)。西村秀己氏もこの点を指摘している。

(注4)谷本茂「隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった!」(古田史学会報一三四号二〇一六年六月)

(注5)『書紀』ではヤマトの王家の事績のように記すが、六世紀に、半島で新羅と戦ったのが倭国(九州王朝)であることは、欽明十五年(五五四)百済の対高句麗戦支援のため「筑紫」から数千の兵を派遣。十七年(五五六)正月、「筑紫」の舟師、百済王子を送る。「筑紫火の君(筑紫君の子、火中君の弟)」が勇士千名を率い半島に出兵。十月高麗人を小身狭(宇佐)の屯倉の田部にす。二十三年(五六二)(*欽明十一年(五五〇)とも)大伴連狭手彥が唐津から出撃し高麗を破り宮城に侵攻。二十六年(五六五)高句麗人頭霧唎耶陛づむりやへ等が「筑紫」に帰化した等の記事からわかる。


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