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盗まれた遷都詔——聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤 正木裕 『古代に真実を求めて』第十八集
盗まれた南方諸島の朝貢——聖徳太子の「隋との交流」と多利思北孤 正木裕
「壹」から始める古田史学 ・三十二
多利思北孤の時代 Ⅸ
多利思北孤の「太宰府遷都」
古田史学の会事務局長 正木裕
1、太宰府はいつ造られたか
「筑紫太宰府」は、通説では、七世紀後半から八世紀にかけて、ヤマトの天皇家が、外交や九州(西海道)の統治の為設置した「地方機関」とされ、その遺跡が、現在も福岡県太宰府市に「太宰府政庁跡(都府楼跡・約十二㌶)」として残され、周辺の観世音寺跡等を含む約一〇七㌶が史跡指定を受けています。
太宰府政庁の建物は三期にわたり整備され、通説ではその年代は、➀政庁Ⅰ期(七世紀後半〜八世紀初頭の掘立柱建物)、➁政庁Ⅱ期(八世紀初頭〜十世紀前半の礎石・瓦葺建物)、 ③政庁Ⅲ期(十世紀後半〜十二世紀前半の楼風の総柱建物)となっています。
しかし、太宰府政庁と並ぶ観世音寺の創建は、瓦の編年(老司Ⅰ式)や、『日本帝皇年代記』や『勝山記』(注1)から、白鳳十年六一〇ごろと考えられ、老司Ⅱ式の瓦を持つⅡ期の創建は、これより少し遅れる程度の時期と考えられます。そうであれば、政庁Ⅰ期は七世紀前半の創建の可能性が高くなります。
2、太宰府を取り囲む「防衛施設群」は九州王朝の王都を示す
筑紫福岡には、太宰府を囲み、大水城・小水城・大野城・基肄城・阿志岐山城・神籠石など、七世紀に造営されたと考えられる、全国に例のない一大防衛施設群があります。
これに加え、近年では前畑土塁(長さ約五〇〇m弱、下段の幅十三・五m、上段の幅八m。筑紫野市大字若江・筑紫)、「とうれぎ土塁」(長さ約三五〇m。佐賀県三養基郡基山町宮浦四八六付近)や「関屋土塁」(同、宮浦一九七付近。現在は消滅)などが確認され、太宰府を防衛する巨大な「環状土塁・太宰府羅城(想定延長約五〇㎞)」の一部と考えられています。
また、環状帯を離れた、佐賀県にも同様の「道路様版築土塁」が複数存在し、その代表が三養基郡上峰町の「堤土塁(佐賀県指定遺跡。大字堤字迎原)」で、現存規模は東西長約三百m。東側で幅が十~十五m、高さが一・五~二m。西側で幅三十四~四〇m、高さ四~五mで、行軍にも耐える「版築構造」をしています。そして、これは七世紀に造られた太宰府を起点とする、佐賀・筑後・大分等各地に延びる古代の官道の一部だとされています。(注2)
そして、天皇家の王都である奈良飛鳥には、こうした施設は存在しません。つまり太宰府は、ヤマトの天皇家の「王都以上」に重要な都と言うことになります。『旧唐書』には、倭国と日本国は別国で、倭国は金印を下賜された倭奴国を継ぐ九州の国で、東西五か月行・南北三か月行を領域とする大国、一方日本国は大和朝廷を指し、元小国で倭国を併合したと記しています(注3)。飛鳥と太宰府の防衛施設の規模の差は、太宰府が小国のヤマトの天皇家の都ではなく、大国である倭国=九州王朝の王都であることを示すものです。
3、九州年号「倭京」年間に「筑紫太宰」が存在した
これを裏付けるように、九州年号「倭京」年間に太宰府が造営されたことが『書紀』記事から分かるのです。
推古十七年(六〇九)には「筑紫太宰の奏上」が記され、筑紫に「太宰の役所=太宰府」があったことは疑えません。
◆推古十七年六〇九夏四月庚子四日に、筑紫太宰奏上して言もうさく「百済僧道欣だうこん・恵弥ゑみを首として一十人・俗(*僧侶でない俗人)七十五人、肥後国葦北津に泊れり」とまうす。是の時に、難波吉士德摩呂・船史龍を遣して、問ひて曰く、「何か来し(*どうしてきたのか)」といふ。對こたへて曰はく、「百済王、命して呉国に遣す。其の国に乱有りて入ることを得ず。・・」
この推古十七年六〇九の筑紫太宰の奏上には「呉国に乱あり」としますが、隋末唐初の中国に「呉国」が存在したのは六一九年~六二一年なので(注4)、この記事は十年~十二年程度繰り上げられており、本来は六一九年~六二一年ごろの記事だったと考えられます。そして、九州年号「倭京」は六一八年~六二二年ですから、「倭京年間に筑紫太宰とその役所が存在した」ことになるのです。
4、「多禰国までの距離」が示す「倭京は太宰府」
さらに「倭京」が太宰府を指すことが、『書紀』に記す「多禰国までの距離」から分かります。『書紀』では掖玖人(*屋久島人)が推古二十四年六一六に帰化(来朝)し、舒明元年六二九には掖玖(屋久島)への使者が派遣されています。
◆推古二十四年六一六三月に、掖玖人三口みたり、帰化まうおもぶけり。夏五月に夜勾人七口、来りけり。秋七月に、亦掖玖人二十口来けり。先後、併て三十人。皆朴井えのゐに安置はべらしむ。未だ還るに及ばずして皆死せり。
◆舒明元年六二九夏四月。辛未の朔に、田部連(名を闕く)を掖玖に遺す。
一方、多禰島人の来朝は天武六年六七七で、多禰島への使者派遣は、天武八年六七九とあり、これは屋久島人の来朝から約六〇年、使者派遣から約五〇年遅れています。
◆天武八年六七九十一月己亥二十三日に、大乙下倭馬飼部造連を大使、小乙下上寸主光父を小使とし、多禰島に遺す。仍、爵一級賜ふ。
大隅半島から種子島までは三〇㌔強、屋久島までの六〇㌔強と比べて「約半分の距離」しかないのに「五〇年~六〇年の遅れ」は不可解です。
◆天武六年六七七二月。是の月に、多禰島人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗あへたまふ。
この点、『書紀』では六〇年を「一運」とし、「同じ干支の年に繰り上げ・繰り下げる記事移動(改竄)手法」が用いられていることは、「神功皇后紀」の百済関係記事が、実年より「二運(一二〇年)繰り上げ」られていることでも知られています。天武六年六七七記事が「一運六〇年前」のものであれば、掖玖人・多禰島人はそろって六一六年・六一七年に来朝していたことになり「多禰島人の来朝が掖玖人から六〇年も遅れる」という不自然さが解消します。
そして、多禰島に遺した使人の報告では、多禰島は「京を去ること、五千余里」とされています。
◆天武十年六八一八月丙戌二十日に、多禰島に遺しし使人等、多禰国の図を貢れり。其の国、京を去ること、五千余里、筑紫の南の海中に在り。髪を切りて、草の裳もきたり。粳稲いね常に豊なり。一度殖ゑて両たび収さむ。土毛(くにつもの *特産品)は、支子くちなし、莞子いぐさ及び種々の海物等多なり。九月庚戌十四日。多禰島の人等に飛鳥寺の西の河辺に饗へたまふ。
「律令」の一里は約五三〇mで「五千余里」とは約二七〇〇㎞となり、「京」を大和飛鳥とすると、種子島までの距離約七〇〇~八〇〇㎞と全く合いません。『倭人伝』他の『三国志』に用いられた短里(約七五m)でも三八〇㎞超で、ますます一致しません。ところが、「京」を筑紫太宰府だとすれば、種子島まで有明海経由でも豊後水道経由でも約四〇〇㎞と、「短里」で一致します。
つまり、多禰島への使者が帰朝したのは六八一年の六〇年前、「九州年号『倭京』年間」の六二一年であり、当時の「京(倭京)」は多禰島から「五千余里(約四〇〇㎞)」の距離にある筑紫太宰府だったことになるのです。
また、掖玖人・多禰島人が倭京改元直前に太宰府に朝貢し、また倭京改元後に使者が派遣されるということは、「太宰府遷都と倭京改元記念式典」へ参加するためだった可能性が高くなります。さらに、九州王朝としても、隋・唐の進出に対する「防衛ライン」の構築には、掖玖国・多禰国など南西諸島の国々との密接な関係が不可欠と考え、「答礼」を兼ね両国に使者を派遣したと考えられます。そして、「倭京」が太宰府なら、多禰島の人等を招き宴席を設けた「飛鳥寺」も筑紫にあったことになるでしょう。
5、太宰府遷都の背景は隋の脅威
六世紀初頭の磐井は、『書紀』に「筑紫国造磐井火・豊、二つの国に掩おそひ拠りて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢る船を誘り致す」とあるように、九州を拠点とし、半島諸国は揃って磐井に朝貢していました。つまり磐井は倭王だったことになります。その王都は、磐井の墳墓とされる岩戸山古墳や、磐井の乱に「御井の郡での戦闘」が記されることなどから、筑後~肥後という「有明海沿岸」にあったと考えられるでしょう。
磐井没後の六世紀、九州王朝倭国は、半島の覇権をめぐって新羅との戦に明け暮れていました。そして任那滅亡に表れるように、全体として新羅の進出を許す情勢にありました。こうした半島情勢の悪化は六世紀中続いており、九州王朝倭国はその間戦乱を避け、半島から遠い筑後~肥後に王都を置いていたと考えられます。(注5)
また、『隋書』に多利思北孤の俀国は「東に高く西に下がる」とあり、隋の使節が阿蘇山の噴火や「禱祭(とうさい *祈り祀る行事)」を現認していることから、隋の使節が来朝した六〇八年当時の多利思北孤の王都も、依然として九州西岸の筑後~肥後にあったようです。
◆『隋書』(俀国伝)阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って禱祭を行う。
そうした中、隋の煬帝は大業四年六〇八に「琉球(*沖縄)」(注5)に侵攻し、宮室を焚き、男女数千人を捕虜としました。その際奪取した布甲ぬのよろいを見た俀国の使人が、「夷邪久国人の布甲だ」と述べたといい、その後、俀国との外交関係は「遂に絶つ」とあります。
◆『隋書』「琉球国伝」大業四年六〇八、帝、復た(朱)寬をして之を慰撫せしむ。琉球従はず。寬、其の布甲を取りて還る。時に俀国の使来朝し、之を見て曰はく、「此れ夷邪久国人の用る所なり」といふ。(略)宮室を焚やき、其の男女数千人を虜とし、軍実(*戦利品)に載せ還る。
◆『隋書』「俀国伝」大業三年六〇七、その王多利思北孤、使を遣して朝貢す。明年六〇八、上(帝)、文林郎裴清はいせいを遣し俀国に使せしむ。(略)是において宴享を設け以って清を遣し、復た使者を清に隨ひて来らしめ方物を貢ず。此の後、遂に絶つ。
有明海に面した筑後・肥後と琉球・沖縄とは指呼の間であり、「断交」措置は、九州王朝(倭国)の隋の侵攻への危機感の深さを示しています。
6、『聖徳太子伝暦』に記す多利思北孤の太宰府遷都
その中で、筑後~肥後王都時代を終わらせ、太宰府に遷都したのは多利思北孤でした。
多利思北孤が聖徳太子に準えられていることはこれまでも述べてきましたが、実は『聖徳太子伝暦』の推古二十五年六一七太子四十六才条に、「聖徳太子の北方遷都予言」記事があるのです(古賀達也氏による)。(注6)
◆『聖徳太子伝暦』太子四十六才。推古二十五年六一七丁丑(略)四方を遍望して曰く、此地を帝都とし気近く(*身近に親しんで)今一百余歳在る。一百年を竟え北方に京を遷し、三百年之後に在る。
推古二十五年六一七の百年前(一百余歳)は、最初の九州年号「継体」の元年五一七で、先述の筑後を王都とした磐井の時代にあたります。「建元」は中国の冊封から離れ自立したことを示すものですから、この時点で磐井は筑後を「天子の都」即ち「帝都」としたといえるでしょう。
そして、この「遷都予言」記事の翌年六一八に九州年号は改元され「倭京元年」となります。『伝暦』に「北方に京を遷し」とありますが、太宰府は「筑後・肥後の北方」にあたります。このように、『聖徳太子伝暦』も「倭京元年」に「太宰府遷都」が行われたことを示しているのです。
なお、『聖徳太子伝暦』は藤原兼輔(八七七~九三三) により延喜十七年九一七に成立しており、まさに六一七年の「三百年之後に在る」ことになるのです。
九州年号には「倭京」に先立って「定居(じょうこ 六一一~六一七)」があります。遣隋使(俀国の使人)から六〇八年の隋の琉球侵略の報告を受け、多利思北孤は速やかに王都移転を企図し、太宰府を王都と定め(天子の居を定める)、「定居」と改元し、太宰府とその防衛施設の建設を進め、倭京元年六一八に遷都したと考えられます。
隋の脅威が迫る中、九州王朝倭国は対「隋」防衛策として、太宰府を建設し、有明海沿いの筑後から宮を移転します。そして多利思北孤の後を継ぐ倭国九州王朝の天子たちは、七世紀中葉までに、唐・新羅との戦に備え、大野城や基肄城の築造、羅城の構築、神籠石や大水城の築造・強化など「狂心たぶれごころ」と言われるほどの「首都太宰府を防衛」する大土木工事を強行し、東アジアで例のないほどの規模の「城塞首都太宰府」を築き上げていくことになります。
注
(注1)『日本帝皇年代記』天智天皇庚午(六七〇 白鳳)十鎮西建立観音寺。
『日本帝皇年代記』は薩摩入来院家に伝わる古文書で、十六世紀成立。戦前にエール大学から出版され国際的に有名な資料で現在は東大史料編纂書所蔵。
『勝山記』白鳳十年六七〇鎮西観音寺造。
『勝山記』は甲斐国(山梨県)の河口湖地方を中心とした富士山北麓地域の戦国時代の年代記。
(注2)古田武彦氏は、こうした太宰府を起点とする土塁群は「軍事用の高速道路」を兼ねたものであろうとされている。古田武彦講演「壬申の乱の大道」(二〇〇〇年一月二二日 大阪市北市民教養ルームほか。)
(注3)◆『旧唐書』倭国は古の「倭奴国」なり。京師(*長安)を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中国と通ず。四面小島。五〇余国、皆付属す。王の姓は阿毎氏。一大率を置き、諸国を検察す。皆、之を畏附す。
◆日本国は、倭国の別種なり。その国、日の辺に在るが故に、日本を以って名と為す。あるいは曰く、倭国自らその名の雅びならざるをにくみ、改めて日本と為す、と。あるいは云う、日本はもと小国にして倭国の地をあわせたり、と。・・・長安三年七〇三、其の(*日本国)大臣朝臣真人(*粟田真人)来りて方物を貢ぐ。・・則天、麟德殿に宴へたまひ、司膳卿しぜんけいの官を授けて、本国に還す。
(注4)「呉」は隋の滅亡に乗じ、李子通が六一九年に皇帝を称して江都郡(揚州)で建国した国。六二一年に杜伏威に敗れ、長安に連行され呉は滅亡。その後六二二年に乱を起こし処刑された。南路の遣唐使船は揚州に入港し長安を目指したから、揚州に乱があれば入国できないことになる。
(注5)磐井没後の宣化元年五三六に「阿蘇の君」、欽明十七年五五六に「筑紫火の君(筑紫君の子、火中君の弟)」が活躍しており、九州王朝は肥後の勢力が支えていたと考えられる。
(注6)◆『隋書』(琉球国伝)「琉球国は海島の中に居す。建安郡(*郡治は福州)の東に当り、水行五日にして至る」「兵を率て義安(*現在の広東省潮州)より浮海し之を撃たしむ。高華嶼に至り、又東行二日黿鼊嶼ごうびとうに至り、又一日便ち流求に至る。」とあり、この地理に該当するのは台湾(高華嶼)ー黿鼊嶼(久米島)ー琉球(沖縄)沖縄。
なお「黿鼊」は大亀の類。久米島町の奥武島おうじまの畳石は亀甲紋状で、中国では「琉球姑米山鼊背甲之状」という。
(注6)古賀達也「『太宰府』建都年代に関する考察ー九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判」(古田史学会報六五号二〇〇四年十二月)
(編集後記)
会報一六六号をお届けします。一六三号から引用文の日付を干支のルビに、本号からは西暦表示を和暦のルビにしております。見にくいかもしれませんが本来どちらも原文にはないものです。取り敢えず正木稿からの試みです。 西村秀己
これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。
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