2021年12月14日

古田史学会報

167号

1,「あま」姓の分布と論理
 宮崎県の「阿万」「阿萬」姓と
 異形前方後円墳
 古賀達也

2,九州王朝と「アマの長者」と
 現代の“阿万”氏
 日野智貴

3, 服部静尚氏の
 「倭国による初めての遣唐使」説
 への疑問
 谷本 茂

4,「壬申の大乱」に秘められた謎を解く
  -- 作業仮説
 平田文男

5,「壹」から始める古田史学 ・三十三
 多利思北孤の時代 Ⅹ
多利思北孤と九州年号と「法興」年号
古田史学の会事務局長 正木 裕

6,書評
 荊木美行
 『東アジア金石文と日本古代史』
 斜め読み
 古賀達也

7. 会誌『古代に真実を求めて』
 九州王朝説五十周年に向けた
 論議をすすめましょう。

 編集後記

 

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「壹」から始める古田史学 ・三十三 多利思北孤の時代 Ⅹ 多利思北孤と九州年号と「法興」年号 正木裕(会報167号) ../kaiho167/kai16705.html

「壹」から始める古田史学 ・三十三

多利思北孤の時代 Ⅹ

多利思北孤と九州年号と「法興」年号

古田史学の会事務局長 正木裕

1、多利思北孤は「上宮法皇」で聖徳太子のモデルだった

 『隋書』(俀国伝)では、開皇二十年(六〇〇)に「俀王」阿毎多利思孤が高祖文帝(楊堅)に使節を派遣し、大業三年(六〇七)には再び煬帝(楊広)に、「日出る処の天子」を名乗って遣使したと書かれ、通説では多利思北孤とは、「厩戸皇子」で、かつ「聖徳太子」であり、同時に法隆寺「釈迦如来像光背銘」に記す「上宮法皇」だとされています。

 しかし、これまで述べてきたように、

①厩戸皇子には「阿毎」という姓もなく、「多利思北孤」という「字」もないこと。

➁「利歌彌多弗利」という太子はおらず(*嫡子は山背大兄王)、推古から委ねられた政務を、「朝に弟に委ねる」という事績も見えないこと。

③天皇ではない厩戸が「天子」を名乗り、国書を隋の皇帝に送るなど考えられないこと。

④多利思北孤の俀国は、金印を下賜された九州の倭奴国の後継国で、阿蘇山が噴火し、気候は温暖で水多く陸少ないとあること。

 などから厩戸皇子を多利思北孤とすることはできません。また、

➀「上宮法皇」の登遐は「法興」三十二年癸未(六二二)二月二十二日で、厩戸皇子の逝去の「六二一年二月五日」(『書紀』)と矛盾すること。

➁鬼前大后・干食王后とあるが、『書紀』で厩戸皇子の母は間人皇女、皇后は菟道貝蛸皇女で名が異なること。

③「太后・王后」は天皇(天子)の母と后(正室)の意味で、皇太子の母や妻の呼称ではないこと。

④『法皇』は「仏教に帰依し僧籍に入った天子(天皇)」を意味するが、厩戸皇子が「法皇」になったことはないこと。

⑤厩戸皇子、あるいはヤマトの天皇家に「法興」という年号はないこと。

 などから、厩戸皇子を「上宮法皇」とすることもできません。

 そればかりか、
➀『聖徳太子伝記』で、太子は五八九年に十八才で国政を執行した(政治を始める)とあるが、『書紀』で厩戸皇子が太子となり「万機を委ねられ」たのは五九三年で「聖徳太子」の事績と異なること。

➁五八九年は九州年号で「政治の始め(端緒)」を意味する「端政たんじょう元年」にあたること。

③「聖徳太子」の生涯は、誕生が「金光三年(五七二)」というように「九州年号」で記されていること。

 などから、本来「聖徳太子」とされた人物も「厩戸皇子」ではなかったことになります。 そして、

①『隋書』に記す「俀国」の歴史(倭奴国の後継とされる)や、地勢・気象(*阿蘇山が噴火し、気候は温暖で水多く陸少ない)は九州の国にふさわしいこと。

➁多利思北孤の国書の「重ねて仏法を興す」を要約すれば「法興」となること。

 などから、上宮法皇も聖徳太子も本来「九州王朝の天子多利思北孤」のことだったと考えられるのです。

 

2、多利思北孤と九州年号

 聖徳太子や上宮法皇が多利思北孤であれば、誕生は「金光こんこう三年(五七二)」で、崩御は六二二年となり、九州年号は翌年の六二三年に「仁王にんおう」と改元されています。そして、九州年号は、多利思北孤の誕生から崩御までの間に、次のように改元されています。
◆金光(こんこう 五七〇~五七五)、賢称(けんしょう五七六~五八〇)、鏡當(きょうとう 五八一~五八四)、勝照(しょうしょう 五八五~五八八)、端政(たんじょう 五八九~五九三)、告貴(こくき 五九四~六〇〇)、願転(がんてん 六〇一~六〇四)、光元(こうげん 六〇五~六一〇)、定居(じょうこ 六一一~六一七)、倭京(わきょう 六一八~六二二)、仁王(にんおう 六二三~六三四)(※読みは原則呉音を用いています)
 これらの年号の意味は、まだ完全には解明されていませんが、

 まず、【金光(五七〇~五七五)】年号は、
➀『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」とあること。

➁福岡市西区元岡の元岡古墳群より、「寅年・寅月・寅日・寅刻」に造られたことを示す「大歳庚寅(*五七〇年)正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」の銘入り象嵌大刀が発見されており、これは国難を救う「四寅剣」とされること(注1)。

③福岡県嘉麻市上山田下宮の「五社稲荷」の由緒に、金寶(金光)二年に疫病が蔓延したとあること。

④「庚(かのえ 金の兄)」は陰陽五行説で「金性の陽」とされること。

 などから、九州王朝は「四寅剣」を造り「金の陽(光)」で疫病を退散させることを願って年号に採用されたと考えられるでしょう。

 次に、【賢称(五七六~五八〇)】年号ですが、
 『書紀』推古元年記事に、厩戸皇子は外典(儒教)を百済の覚哿かくか に学んだとあり、「悉ことごとくにさとる」とあるので、これは「聖徳太子の伝承」だと考えられます。そして、『聖徳太子伝記』では、その来朝が太子五歳丙申(五七六・賢称元年)であり、後に「外典の御師・五経博士」となったとあります(『伝記』では学哿博士・五徳博士となっている)。そこから、九州王朝は覚哿来朝と、「外典の知識」が齎されたことを記念して、「賢きを称たたえる」意味の「賢称」に改元したのではないでしょうか。

 また、【端政(五八九~五九三)】年号は、
①『聖徳太子伝記』に「太子十八才(五八九年で端政元年)御時。春正月参内して国政を執行したまへり」とあること。

➁前述のとおり、「端政」の『端』の意味は「ただしい・ただす・はじめ」、『政』は「ただす・まつりごと・おきて・おしへ(人の道)」などで「正しい政治の始め」となること。

 などから、「多利思北孤の即位」による改元と考えられます。

 ちなみに、『太宰管内志』によれば端政元年(五八九)に、初代の高良玉垂命(~三九〇)以来、歴代にわたり筑紫を治めてきたとされる筑後の「高良玉垂大菩薩」が逝去しています。(注2)

 そして、高良大社の縁起類では、
➀初代の高良玉垂命の事績や年紀が「二運一二〇年繰り下げた神功の事績・年紀」と整合し、神功のモデルと考えられること。(注3)
➁玉垂命の後は長男―次男と継がれ、次男の系列が筑紫を守護したとあるのは「倭の五王」の系列に当てはまること。(注4)

 などにより、高良玉垂命は九州王朝の歴代倭王の称号の可能性が高いと考えられています。そうであれば「高良玉垂大菩薩」の崩御を受けて「菩薩天子多利思北孤」が即位したことになり、多利思北孤は「菩薩」の称号を引き継いだことになります。

 さらに、【告貴(五九四~六〇〇)】年号は、
➀『聖徳太子伝記』端政元年(五八九)に太子が我が国を六十六ヶ国に分割し、告貴元年(五九四)(太子二十三歳条)に「六十六ヶ国に大伽藍を建立し国府寺と名づく」とあること。

➁『書紀』にも推古二年(五九四)の二月朔条に、「諸臣が競って寺を造った」と書かれていること。

③『二中歴』では端政年間に「唐より法華経始めて渡る」とあること。

④我が国には古代より法華経を全国六十六ヶ国に一部ずつ納経する「六十六部廻国巡礼」という業・宗教行事があったこと。

 などから、「多利思北孤が貴い法華経の教えを告げるため、全国に国府寺を建立し、法華経を広めたこと」を示すと考えられます。

 そして、【定居(六一一~六一七)、及び、倭京(六一八~六二二)】年号は、前回述べたように、

➀『聖徳太子伝暦』推古二十五年丁丑(六一七)に「遷都予言記事」があること。(注5)

➁掖玖やく人の推古二十四年(六一六)の朝貢、天武六年(六七七)の多禰たね島人の朝貢が実際は一運六〇年前の六一七年と考えられること。

③京から多禰国までの距離「五千余里」は当時のどの尺度でも飛鳥では合わず、短里の太宰府までの距離と一致すること。

 などから、「大宰府遷都による改元」だと考えられています。
 このように多利思北孤の在位期間中の九州年号は、多利思北孤の事績を何らかの形で反映していると考えられるのです。

 

3、「法興年号」と「九州年号」

 上宮法皇の「法興(五九一~六二二)」年号は、『二中歴』の九州年号端政(五八九~五九三)~倭京(六一八~六二二)と完全に重複しており、古田武彦氏はこれを「兄弟統治」の現われとされています。(注6)ただし、年号を定めるのは「天子(最高権力者)」の専権事項であり、多利思北孤は「天子」と称していますから、九州年号も多利思北孤が決めた年号であり、そのうえで、さらに「法興」を「自らの年号」として用いたことになるはずです。多利思北孤の崩御の翌年に九州年号は改元されているのですから、「弟王の年号でない」ことは確かです。
 この点、『釋日本紀』に引用の『伊予国風土記逸文』中の「伊予温湯碑」には、法興六年(五九六)に「法王大王」が伊予を訪れたとあり、これによれば多利思北孤は「法王」であり「大王」であることになります。

◆『伊予国風土記逸文』「伊予温湯碑」(『釈日本紀』巻十四)
 法興六年(五九六)十月、歳在丙辰。我法王大王、与恵忩(総)法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験。欲叙意、聊作碑文一首。(略)

 また、『隋書』に見える「菩薩天子」(*「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く」)も、「菩薩(宗教上のトップ)」であり「大王(政治上のトップ)」でもあるという意味で「法王大王」と同じです。そうであれば「法皇としての年号」が「法興」であり、「大王としての年号」が九州年号ということになるでしょう。

 ところで、仏教において受戒した者には「法号(戒名・法名)」が与えられます。「菩薩」は仏門に入り修行する者ですから、「菩薩天子」も法号を持つことになります。現に多利思北孤が「海西の菩薩天子」と呼んだ隋の煬帝も、開皇十一年(五九一)に天台宗の宗祖である智者大師智顗から菩薩戒を授かって「総持」という法号を与えられています。ちなみに、新羅でも、「法興王」(在位五一四~五四〇)は出家し法空と号し、「真興王」(在位五四〇~五七六)は法雲と号しています。

 そうであれば、多利思北孤の「法皇」としての法号が「法興」であり、法号を得てから、すなわち法皇となってからの年紀を「法興〇〇年」と記したのではないかと考えられます。『釈迦如来光背銘』には「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩」というように、「法興」に「元」を付けて「法興元」と記していますが、これは「法興を『年紀』として用いている」ことを示すものです。
 結局「法興」は「法皇」多利思北孤一人に属する「法号」を用いた仏教上の年紀で、「大王」としての年紀である九州年号とは「住み分け」されていたことになるでしょう。

(注1)「干支」の検討から「大歳庚寅正月六日庚寅日」は金光元年(五七〇年庚寅)一月(寅月)六日(庚寅)にあたる。また、「大歳」は新天子の即位年を示すため、前年の五六九年に前天子が崩御したことになるが、欽明の崩御は五七一年、敏達即位は五七二年で合わない。従って、「四寅剣」は九州王朝の天子が五七一年に崩御し、新天子が金光元年(五七〇)に即位したことを示している。なお、崩御の原因は「熱病」すなわち「天然痘」だと推測される。「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」(古田史学会報一〇七号二〇一一年十二月)

(注2)『太宰管内志』に「御船山玉垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉」とある。なお、高良玉垂命は以後存在した記録がなく、これが末代にあたると思われる。
 『吉山旧記』に、玉垂命は仁徳五五年(三六七)に三潴に来て、同五六年(三六八)に賊徒を退治。同五七年(三六九)に高村(大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、同七八年(三九〇)に没したとある。

(注3)『書紀』で神功は四十九年(二四九)に半島七国を平定し、六十九年(二六九)に崩御したとあり、一二〇年繰り下げれば前者は三六九年、後者は三八九年となる。

(注4)『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)には、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、次男の子孫が累代筑紫を守護したとある。(古賀達也「玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第四集一九九九年新泉社。)

(注5)古賀達也「聖徳太子伝中の遷都予言」(『「九州年号」の研究ー近畿天皇家以前の古代史』ミネルヴァ書房二〇一二年一月)

(注6)古田武彦『法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、一九八五年。ミネルヴァ書房より再刊)ほか。俀国の「兄弟統治」は、『隋書』俀国伝の「俀王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴くに跏趺して坐す。日出ずれば、便すなわち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」に表れている。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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