観世音寺・大宰府政庁 II 期の創建年代 古賀達也(会報110号)
福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について
川西市 正木 裕
福岡市西区元岡の元岡古墳群G六古墳より「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」の銘入り象嵌大刀が発見された。六世紀前後の庚寅年で一月六日が庚寅になるのは五七〇年であり、銘によれば、庚寅年の一月(寅月)の庚寅六日の寅の時に作られた刀と判断される。
ところで、朝鮮半島には「四寅剣」といい国難を救うとされる斬邪の剣がある。韓国中央日報はこう記す。
寅年になると思い出す伝統文化の遺産の中に四寅剣がある。名前が四寅剣であるのは、寅年陰暦正月(寅月)の最初の寅日の寅時に作られる剣だからだ。百獣の王であるの寅の気運が4つも重なるため陽気が極に達し、あらゆる邪悪な気運を退けると伝えられている。(韓国中央日報二〇一〇年一月三日記事)
今回元岡古墳から出土した剣の銘文は、まさに中央日報にいう「四寅剣」そのものなのだ。「四寅剣」は朝鮮王朝時代(十五?十六世紀ごろ)に盛んに製作され、韓国各地の博物館に収蔵されている。中でも国立古宮博物館の四寅剣は四寅斬邪剣として名高い。また寅年・寅月・寅日のように寅が三つ重なる時に作られた剣も三寅剣として尊重されている。
わが国では長野県佐久郡小海町の畠山家に三寅剣が伝わり、水野正好氏らにより七?八世紀頃の作と鑑定されている。剣は、刃渡り二五.四センチで「三寅剣」の銘や梵字・星辰・天部像等が金銀で象嵌されている(註1)。
今回発掘された剣の象嵌文字は現在のところ製作年月日時しか記されていないが、これが全てであったとしたら「四寅剣」として最小限の証明を象嵌したものといえよう。五七〇年という製作時点を考えれば、これが初元の形式に近いのではないかと思われる。その点は形式の整った「三寅剣」が七?八世紀に作られていることと整合するだろう。
今後韓国の「四寅剣」との比較や成分分析が進み、剣の製作場所や「四寅剣」の成立・変遷の過程がより明らかになる事を期待する。
もうひとつ大事な事は九州年号が五七〇年に金光と改元されており、この改元に「四寅剣」が関係している可能性だ。
九州年号資料の『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」という文言が記されている。十干中「庚」は陽の金にあたり、「四寅剣」の光で邪気を払う意味で「金光」という元号は誠にふさわしく、大流行する「邪悪な熱病」を退ける為にこの剣が作られ、改元されたのではないか。
また九州の棟上寅七氏によれば、福岡県嘉麻市上山田下宮の「五社稲荷」の由緒に、同社は、一九〇〇年前の金寶二年、倭建命が疫病が蔓延していて、多くの人が苦しみ死んで行く有様を見て伊勢神宮から勧請されたと書かれているという(註2)。倭建命時代に元号があるはずもなく、これが九州年号「金光二年」の誤伝とすれば『善光寺縁起』の「天下皆熱病」とも一致する。
ところで『縁起』に言う「熱病」とは何なのか。候補の第一は天然痘だ。
天然痘は六世紀前半に朝鮮半島で流行し、後半にはわが国でも猖獗を極め、『書紀』敏達十四年(五八五)三月記事には「又瘡発でて死(みまか)る者、国に充盈(み)てり。其の瘡を患む者言はく、『身、焼かれ、打たれ、摧(くだ)かれるが如し』といひて、啼泣(いさ)ちつつ死る」とあるほどだ。
当時倭国は半島に大軍を派兵しており、欽明二三年(五六二)には大伴狭手彦が兵数万を従え「唐津」から出兵し、同二六年(五六五)には高麗人が「筑紫」に投化している。彼らが天然痘を持ち込み拡大したと考えるなら五七〇年頃に大流行があって不思議はない。若し九州王朝の天子が天然痘で斃れたなら、次代の天子の即位と疫病の克服を兼ての金光改元となり、「四寅剣」の製作は即位祝賀と疫病退散の両面で深い意義を持つものとなろう。
(註1)参考文献。西山要一『東アジアの古代象嵌銘文大刀』(奈良大学文化財学報No.十七、一九九九年)
(註2)ブログ「棟上寅七の古代史本批評」二〇一一年十月十四日より引用
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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