2011年12月10日

古田史学会報

107号

1、古代大阪湾の新しい地図
 難波(津)はなかった
 大下隆司

2、「大歳庚寅」
 象嵌鉄刀銘の考察
 古賀達也

3,中大兄は
 なぜ入鹿を殺したか
 斎藤里喜代

4、元岡古墳出土太刀の銘文
 正木 裕

5、磐井の冤罪 II
 正木 裕

6、朝鮮通信使饗応
『七五三図』絵巻物
 合田洋一

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前期難波宮の考古学(1)(2)(3) -- ここに九州王朝の副都ありき 古賀達也

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古代大阪湾の新しい地図

難波(津)は上町台地になかった

豊中市 大下隆司

 今まで古代大阪湾の地図として「大阪平野の発達史」一九七二年、梶山彦太郎・市原実著の地図○1が使われてきましたが、これに代わる新しい地図○2が二〇〇三年の日本第四紀学会において趙哲済、松田順一郎氏により発表されました。
 この地図はその後、大阪市文化財協会発行の『大阪遺跡』二〇〇八年出版にも掲載され、最近の古代大阪に関する講演会で多く使われています。
 従来の地図は、梶山氏が大阪市域で行われていた工事現場をくまなく訪れて、淡水に棲む貝と海水に棲む貝の化石・痕跡を詳しく観察し、そのデータを基に地質学者の市原氏と共同で作成されたものです。ただしこの地図はその後出土した遺跡が水域の中にあるなど、発掘と地図とがマッチせずに問題が起きていました。
 新しい地図の方は大阪市域を中心に二万本以上掘られたボーリングによる地質調査に基づいて作成されたもので、より一層古代の正確な大阪の地形を示していると考えられます。
 ただ、何故か大阪歴史博物館のパネルには古い地図が今も使われ、従来どおりの説明がなされています。新しい地図を使うと、従来の古代大阪の説明を大きく変えざるを得ないためと考えています。
 古代大阪湾岸の状況につき、昨年から「古田史学の会」関西例会で発表し皆さんの意見を聞いてきました。全体をまとめ報告します。

一.古地図と「難波の堀江」

 (従来の地図○1)
 弥生時代、上町台地の北に長柄砂州が続き、河内湖の水は、現在の新大阪駅の北にあった水路から大阪湾に流れていました。
 そして、古墳時代になると淀川上流から運ばれてくる土砂でこの水路が埋まり、出口を失った河内湖の水が溢れ出し洪水が多発、このために上町台地の北端、現在の大阪城の北に堀江を掘削し、溢れた水を大阪湾に流れるようにした。この堀江が後に淀川本流となり、明治の淀川改修以降、現在の大川となった、としています。
 このストーリーが『日本書紀』仁徳紀の“水害が多いので、宮の北の野を掘り、南の水を導いて西の海にいれた、これを堀江と呼ぶ(古事記では「難波の堀江」)”と合致する。まさに“考古学的事実と文献の合致”ということで仁徳紀の舞台をこの地としてきました。古代に上町台地が「難波」と呼ばれていた証拠、とされてきたものです。

○1 古代の河内湖1800-1600年前(『続大阪平野発達史』梶山・市原、1985)

○1 古代の河内湖1800-1600年前(『続大阪平野発達史』梶山・市原、1985) 古田史学会報107号

 

 (新しい地図○2)
 近年の地質調査、また古代遺跡の発掘状況から、つくられたのが地図○2です。
 弥生時代において、すでに上町台地の北端、現在の大阪城の北側には水路が通り、河内湖の水はそこから大阪湾に流れ出ています。そしてこの地図によると、河内湖から大阪湾への水路は自然に出来たもので、「堀江」を掘削したものではありません。仁徳紀にある「難波の堀江」は上町台地でなかったことになります。
 従来の「難波の堀江」解釈は、まさに「仁徳紀」の舞台を「上町台地」とするために作られた架空のストーリーだったのです。

○2 新しい地図2100年前(『大阪遺跡』大阪文化財協会、創元社2008)

○2 新しい地図2100年前(『大阪遺跡』大阪文化財協会、創元社2008)古田史学会報107号

二.難波津の場所

 (難波津=高麗橋説)
  梶山・市原氏の地図、仁徳紀「難波の堀江」記事、また地質学者としての知見などから日下雅義氏が「難波津=高麗橋周辺説」を提唱しました。「難波津」の場所については、千田稔氏の「心斎橋筋・三津寺」説など多くの説がだされましたが、すべて否定され最後に残ったのがこの「高麗橋周辺説」です。多くの考古学者の支持を得て現在では定説のように扱われています。
 地図○3が梶山・市原氏作成の河内湖の時代 I (一八〇〇?一六〇〇年前)をベースに日下氏が六・七世紀の「摂津、河内、和泉の景観」として作成したものです。
 上町台地の北から西側にかけて天満砂州が形成され、その砂州には南北の方向にラグーン(潟)があった。上町台地の北の所で、その砂州を横切り、東西の方向に「難波の堀江」が作られたため、「堀江」とラグーンが交差する所に入江が出来た。この入江は現在の高麗橋周辺にあり、ここに「難波津」と呼ばれる港が作られた。平安時代に渡辺津があったところがその場所である、との説明がなされました。

○3 六・七世紀の摂河泉(『古代景観の復元』日下雅義、中央公論 1991)

○3 六・七世紀の摂河泉(『古代景観の復元』日下雅義、中央公論 1991)古田史学会報107号

 (古墳時代末の高麗橋周辺)
 近年、大阪市文化財協会により上町台地北端・道修町?高麗橋周辺の詳しい地質調査が行なわれています。地図○3において日下雅義氏によって難波津があったとされた所です。
 地図○4が新しく発表された古墳時代末の上町台地西北部の地形図です。現在と同じようにその北側に大川があり河内湖の水が流れています。大川の南側は東にA上町台地があり、その西側にB難波砂州があります。その間に湿地帯Cトラフがありました。古墳時代末に大川の上流から運ばれた土砂により上町台地の北側にD砂州が形成され始めます。このために台地と砂州の間にあったCトラフが大川と遮断されます。出口を失ったCトラフの水はかさが増え、最後には砂州を乗り越えて再び大川と繋がるようになります。そこにはE入江が出来、そして人が住むようになり津が形成されました。このあたりが平安時代に渡辺津と呼ばれていた港があった所と考えられています。

 日下氏はこの入江が古くから形成されていたものとし、この地に難波津があったとされていましたが、最近の地質調査では七世紀にまだ入江は出来ておらず、この説は成り立たないことが判ってきました。またこの場所から奈良時代以前の遺物は出土していません。難波津=高麗橋説は完全に否定されたと考えます。
 上町台地では難波津を探して、長年にわたり大阪の考古学者による調査が行なわれてきましたが、その痕跡はまったく見つかっていません。難波津は上町台地に「なかった」と考えるべきと思います。

○4 古墳時代末の道修町周辺(『道修町文化講演会第3回』道修町資料保存会編集 2006年)

○4 古墳時代末の道修町周辺(『道修町文化講演会第3回』道修町資料保存会編集 2006年)古田史学会報107号

 

三.『書紀』の難波

 (記紀の難波地名)
  『書紀・神武即位前紀』には、神武が瀬戸内海を経過し,たどり着いた所は“今は「難波」としているが昔は「浪速国・浪花」だった”と書いてあります。『古事記』にもこの土地は「浪速(なみはや)」としています。「難波」ではありません。
 また通説では『書紀』に多く書かれている「難波」にあった宮や、多くの外交関係の記事についてその舞台を上町台地としていますが、仁徳紀「難波の堀江」記事を根拠として、なんとかそれらを「大阪・難波」にむすびつけようとしているものです。
 仁徳紀「難波の堀江」記事以外に古代に上町台地が難波と呼ばれていた確たる証拠は記紀からは見えてきません。「難波の堀江」=上町台地が否定されたことにより、これらの説明は根拠が非常に弱くなってくるものと考えます。
 そして長年の調査に関わらず、上町台地とその周辺には、それらの宮や外交館の遺構はまだ見つかっていません。また外国との交流を示す遺構・土器なども出土していません。

 (上町台地の地名)
 古代に「上町台地」にあった地名で中世以降も続いているのが「味原郷」です。和名抄にあり、近世では『摂津名所図会』にも描かれ、現在も上本町六丁目近くに「味原」の地名が残っています。万葉集巻六の一〇六二番歌は田辺福麻呂が聖武天皇の難波宮を歌ったものとされています。この歌において聖武天皇の宮を難波宮=味原宮と二つの名前で呼んでいます。“味原(地名)にある「難波宮」”と呼ばれていた可能性が考えられます。「難波宮」の名称は地名からではなく、「孝徳の難波長柄豊崎宮、斉明の難波朝(いずれも九州王朝の博多湾岸の宮都か)」から由来したものではないかと考えます。
 上町台地の南に四天王寺があります。古代、近くに阿部氏の本拠地のあったところです。ここも「難波」と呼ばれていた痕跡はありません。中世になりそれまで湿地帯であった四天王寺西側の土地開発が行なわれ、始めて「難波荘」が出来ます。それが現在の大阪のミナミの地名「難波(ナンバ)」の起こりです。
 二中歴に「倭京二年(六一九)難波に四天王寺をつくる」の記述がありますが、この記事も大阪・難波ではないと考えます。七世紀初頭に「大阪・難波」はまだ海岸にありました。
 これらのことから、古代「上町台地」周辺に「難波」と呼ばれた地名はなく、聖武天皇の時に始めて、宮名として「難波」が使われた、と考えます。

 (前期難波宮遺構)
 孝徳紀・難波長柄豊崎宮=前期難波宮遺構が白雉年間(六五〇~六五四)のものとする見解が定説化しています。古賀氏の前期難波宮遺構=九州王朝副都説もこの立場にたっています
 前期難波宮遺構については、七世紀後半説も多くあったのですが、「戊申年(六四八)」木簡が傍の谷間から出土したことから、これが決定的証拠とされ七世紀中葉建設説が確定的となりました。
 はたして、傍の谷間のゴミ捨て場にあった木簡が前期難波建設時代の確実な根拠となるのか、また発見されている木簡の多くは六七二年以降の天武・持統の時代以降のものではないのか。この前期難波宮遺構の七世紀中葉説については疑問を感じています。
 また古代の宮都遺跡を研究している京都の考古学者から、前期難波宮整地層の下層遺跡から出土している土器に七世紀後半のものが含まれている。その上層遺跡である前期難波宮遺構はそれ以降のものではないかとの指摘がされています。(『京から出土する土器の編年的研究』小森俊寛、2005年、京都編集工房出版)
 さらに、この論文には、“前期難波宮下層遺跡からの出土物を分析すると、兵站に関するものがあり、当時、「白村江の戦場」に送るための物資を上町台地に集めたのではないか”という興味深い記述があります。

 (「書紀・難波」は博多湾)
 六世紀頃から『書紀』の外交関係の記事に「難波」が多く現れます。七世紀の「白村江」に向けて、中国・朝鮮との関係が緊張してゆく時期です。この時代、大陸と関係をもっていたのは「九州王朝」で首都は「太宰府」です。当然中国・朝鮮の外交使節の来る場所は博多湾です。鴻臚館では外国との交流を示す遺構・土器が大量に出土しています。博多の住吉神社にある古地図○4によると、古代には鴻臚館のそばに大きな入江(草香江)が存在し、そこには明治時代に字「難波」という地名がありました。現在でも「難波」と呼ばれている池があります。また鴻臚館から太宰府へ通ずる古代の官道跡も出土しています。
 これらのことから『日本書紀』の外交記事などに描かれた「難波」は九州博多湾のものと考えます。(参照、古田武彦講演録 二〇〇〇年四月堺市泉北考古資料館、「古田史学の会」HP・新古代学扉掲載)
 聖武天皇の上町台地「難波宮」、中世の上町台地西側に出来た「難波村」、また『書紀』の「博多湾・難波」記事が混同され、古代から「難波」地名が上町台地にあったかのように扱われてきたと考えます。

○5 博多古図(博多住吉神社蔵)に地名記入

○5 博多古図に地名記入(博多住吉神社蔵)古田史学会報107号

四.摂津・難波と物流

 (『神代記』の難波浦)
 奈良末から平安時代ごろに書かれたとされる『住吉大社神代記』があります。
この『神代記』に住吉神社社領の記載があり、その中に長柄と難波浦の場所が書かれています。その位置と大阪湾岸で見つかっている古代の津の遺構(上津島、住吉津、桑津)、五世紀の大倉庫群(蛍池、法円坂)の遺構の場所を地図○6に記入しました。
 「長柄」は現在の大阪市北区の長柄・豊崎でなく、大川を越えた東側の都島区から鶴見区・守口市のところとされています。上町台地から遠く離れています。
 「難波浦」は神崎川の河口、現在の豊中市から尼崎市域にかけての当時の海岸部にあるとされています。中世の尼崎の史料に「難波」地名が記載されており、現在も尼崎市に「難波」地名があります。またこの地域は中世の淀川から瀬戸内につながる海運の拠点で、たくさんの港湾遺構が見つかっています。
 難波と長柄また上町台地はまったく別のところにあったのです。難波長柄豊崎宮=上町台地説はまったく成り立ないことになります。

○6 古代摂津の津・大型倉庫(井上智博「土地環境の変化」『弥生時代の考古学』3巻同成社に加筆)

○6 古代摂津の津・大型倉庫(井上智博「土地環境の変化」『弥生時代の考古学』3巻同成社に加筆) 古田史学会報107号

 (古代摂津の港まち・豊中)
 豊中市の上津島に弥生終末から平安時代にかけての遺跡群があり、海を越えた交流を示す土器、物流の主体となる倉庫・建物跡などが出土しています。また、この場所で神崎川の旧河床が確認され、北から流れてくる猪名川と東からの神崎川の合流点であったことがわかってきました。当時、上津島は猪名川流域と神崎川・淀川水系を結び、瀬戸内から北九州に繋がる水運の拠点であったことが伺われます。この地域の港湾活動は平安時代には衰退に向かい、水運の中心は下流の椋橋庄・庄本、神崎、そして尼崎のほうに移ってゆきました。(『中世土器研究』一二六号、「はたして「難波津」はどこにあったのか?」二〇一〇年、橘田正徳著)

 (古代大阪湾の物流)
 豊中市の北にある蛍池遺跡で五世紀に作られた大型倉庫群が見つかっています。この地は西国街道のすぐ南にあり東は高槻・茨木、山背につながっています。また傍に猪名川が流れその上流が能勢地域です。港のあった上津島まで千里川の水運があります。北摂・能勢・山背の産物がここにあつまり、それらを一旦保管し、上津島から船で瀬戸内海、北九州へ運びだしていたと考えられます。当時は倭の五王が朝鮮半島で軍事作戦を展開していました。朝鮮半島で必要な物資を北九州から輸送していた可能性も考えられます。
 同じころ、上町台地の北側、法円坂に蛍池と同じような大型倉庫群が作られています。この近くの港として、河内湖側に桑津、大阪湾側に住吉津があります。大和川で運ばれ玉造の近くにあった津で陸揚げされた物資は、法円坂倉庫に保管され、住吉津から九州へ運びだされたと考えます。同じように朝鮮半島への兵站の役割をはたしていたのではないでしょうか。

五.まとめ

 弥生時代から古墳時代にかけての古代大阪湾の地形が明らかになり、従来の「大阪・難波」を説明する根拠がなくなってきました。また『書紀』の難波記事も多くは博多・難波のものであると考えられます。
 古代遺跡についても、生駒山麓西側の中河内地区に弥生の遺跡が密集し、高度な土器が生産されています。また北摂の豊中から尼崎にかけてもたくさんの弥生の遺跡があります。
 五世紀になると柏原市大県遺跡で大規模な鉄生産が行われ、当時の古墳から出土する大量の鉄製武具を供給しています。北河内には牧があり、蔀屋北遺跡からはたくさんの馬の遺骸が出土しています。
 蛍池・法円坂の大型倉庫群とその近くの港遺構から古代大阪湾の物の流れは、北部の猪名川、淀川・神崎川の物資は豊中・上津島の港、また南部の大和川流域・和泉の物資は住吉津、二つの主要拠点を通じて瀬戸内に繋がっていたことが見えてきます。
 中世において、それらは近くの尼崎、堺の港に移ってゆきましたが、物の流れは基本的に古代から中世にかけてほぼ同じ構図であったことがわかります。この間、上町台地が物流を含めて摂河泉の中心になった痕跡は見当たりません。
 大阪の歴史については、『日本書紀』の難波(津)の記事、また聖武天皇の後期難波宮遺跡に影響されてか、古代から近代まで常に上町台地が中心に組み立てられ、古代にはあたかもこの地で華々しい外交活動が行われていたようにまで語られています。本当にそうであったのか?
 上町台地が重要な土地となってくるのは、近世の秀吉の大阪築城と徳川幕府の大阪城下町の整備・発展からです。それまでの大阪の中心地域は河内・摂津、ではなかったのか?
 難波=上町台地説の呪縛を解き放ち、大阪の歴史を根本から見直す必要があると思います。
 本件に関し、関西の会員、石川邦一氏から新しい地図や京都考古学会の情報など貴重なデータをいただき、また例会での発表において先輩諸氏より多くの助言をいただきました。お礼を申し上げます。

(参考文献)

・『地質学論集』第七号「大阪平野の発達史」梶山彦太郎、市原実、一九七二年。
・『大阪遺跡』大阪文化財協会編、創元社、二〇〇八年。
・『古代景観の復元』日下雅義、中央公論社、一九九一年。
・『第十三回道修町文化講演会』「船場・道修町、その土地の成り立ちに迫る」趙哲済、道修町資料館、二〇〇八年。
・『角川日本地名大辞典二七大阪府』角川書店、一九八三年。
・『古代に真実を求めて』第十二集「前期難波宮は九州王朝の副都」古賀達也、二〇〇九年。
・『京から出土する土器の編年的研究』小森俊寛、京都編集工房出版社、二〇〇五年。
・『なかった真実の歴史学』第五号「大化改新批判」古田武彦、ミネルヴァ書房、二〇〇八年。
・『住吉大社史中巻』田中卓、内外印刷(株)、一九九六年。
・『中世土器研究』一二六号、「はたして「難波津」はどこにあったのか?」橘田正徳、中世土器研究会発行、二〇一〇年。
・『豊中市史第四巻(考古)』豊中市発行、二〇〇五年。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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