2011年 2月 5日

古田史学会報

102号

1,年頭のご挨拶
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2,前期難波宮
 の考古学(1)
九州王朝の副都ありき
 古賀達也

3,短里の史料批判の
問題点などについて
 棟上寅七

4,白村江の会戦の
年代の違いを検討する
 青木英利

5,「斉明」の虚構
 正木 裕

 

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古代大阪湾の新しい地図 -- 難波(津)は上町台地になかった 大下隆司(会報107号)

前期難波宮の考古学(1)(2)(3) -- ここに九州王朝の副都ありき 古賀達也


前期難波宮の考古学(1)

ここに九州王朝の副都ありき

京都市 古賀達也

はじめに

 孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮の所在地について、江戸時代から論争が続いてきたが、その候補地として上町台地に求める説と、長柄や豊崎という関連地名が存在する平野部あたりに求める説があった。しかし戦後、山根徳太郎氏の発見に始まり現在に至るまでの遺跡・遺物の発掘調査により、上町台地北端部法円坂の現難波宮跡に、前期と後期の二層からなる大規模宮殿・朝堂院が発見され、この地が難波長柄豊碕宮(前期難波宮)と確定されるに至った。その上層の後期難波宮は聖武天皇による難波宮とされ、今日ではこれら認定が不動の定説となっている。
 他方、前期難波宮の大規模な朝堂院様式の宮殿が、孝徳天皇の前後に当たる皇極・斉明・天智・天武らの宮殿に比べて破格の規模と異質の様式であることから、宮殿の発展史から見て突出していることも指摘されてきた。(注1)
 こうした問題点などから、わたしは前期難波宮は孝徳の難波長柄豊碕宮ではなく、九州王朝の副都とする仮説を二〇〇七年に発表し、古田史学の会関西例会や古田史学の会ホームページなどでその史料根拠や考古学的根拠などを提示してきた。(注2) これら発表について、関西例会などにおいては大方の賛意を得てきたものの、いずれも学術論文の形式ではなかったこともあり、まとまった論文として発表する必要性を感じていた。そこで、前期難波宮九州王朝副都説を主に考古学的論点を中心に、本稿にてあらためて論述することにしたい。

地勢 図8 7〜8世紀頃の難波とその周辺 前期難波宮の考古学(1) ここに九州王朝の副都ありき,前期難波宮の地勢

前期難波宮の地勢

 難波宮跡は上町台地の北端にあり、標高は二二〜二四mで、その南は標高が低くなっていく。七〜八世紀の上町台地の地勢は南から伸びる半島状であり、難波宮はその北端に位置し、西は大阪湾で東は河内湖になる。従って、難波宮は両方の水上からその威容を眺望できたと思われる。逆に言えば、難波宮は大阪湾と河内湖を、あるいは北方の平野部を見下ろすことのできる、二つとない場所を選んで設置されたのである。その位置関係は第1図を参照されたい。(注3)
 なお、この地図にも記されているが、「長柄」地名は難波宮の北方に位置し、明らかに別の場所だ。こうしたことから、この平野部の長柄に難波宮があったとする説が出されたのである。従って現存地名の点からすれば、前期難波宮跡を孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とする現在の定説には無理がある。(注4)
 なお、難波宮がおかれた半島(上町台地)の大阪湾側には難波津があったとされ、五〜七世紀の遺跡(倉庫群等)も発見されている。恐らく、東国から召集された防人たちが難波津を中継基地として瀬戸内海航路(あるいは陸路)を経て九州に赴いたのではあるまいか。

前期難波宮の規模

 二〇一〇年十二月、わたしは遷都千三百年を記念して復原された平城宮大極殿を訪れた。その目的は大極殿と朝堂院の規模を自らの目で確認することにあった。というのも、七一〇年の平城遷都によりこの宮殿と朝堂院にて律令体制による全国支配を行った大和朝廷であるが、当時に於いて全国支配と政治を行うにふさわしい、あるいはそれに必要な宮殿と朝堂院の規模を確かめたかったからである。
 古田史学・九州王朝説によれば、七〇一年以前の列島の代表者であった九州王朝の支配領域と国家としての格を、「禅譲」であれ「放伐」であれ大和朝廷は引き継いだのである。この事を突き詰めれば、九州王朝もその支配と政治のために必要な宮殿・役所等を有していたはずであり、それは平城宮と同程度の規模であったことが類推できる。何故なら、平城宮は王朝交代時の双方の宮殿の片方であり、同時代において九州王朝が大和朝廷よりも貧弱な宮殿・役所であってもよいとはいえないからだ。
 こうした視点から見れば、「大宰府政庁2期」は平城宮に比べてあまりにも規模が貧弱であり、このことは九州王朝説に立つわたし自身においても解決すべき課題であった。他方、七世紀中頃において、平城宮に匹敵する宮殿は、全貌が未調査の近江宮を除けば前期難波宮しかない。七世紀末には藤原宮が創建されるが、これは大和朝廷の宮殿とされている。(注5) 参考までに、前期難波宮、大宰府政庁3期(2期とほぼ同規模)、伝承飛鳥板葺宮3期、藤原宮の同縮尺平面図を第2図に示す。
 大和朝廷の宮殿変遷としては伝承飛鳥板葺宮2期→前期難波宮→伝承飛鳥板葺宮3期→藤原宮とされており、前期難波宮と藤原宮が朝堂院様式であるのに比べて、両者の間に伝承飛鳥板葺宮3期があり、宮殿様式の発展史から見ればその前後の宮殿に比較して前期難波宮が突出している。他方、「大宰府政庁」の規模は劣っており、九州王朝と大和朝廷との同時代の宮殿としてはアンバランスなのだ。
 こうした考古学的事実から、前期難波宮を九州王朝のものとすれば、この二つの問題が一挙に解決する。このことに気づき、わたしは前期難波宮を九州王朝の副都と見なすに至ったのである。(つづく)

(注)
注1 一九八六年発行『考古学ライブラリー46 難波京』(中尾芳治著、ニュー・サイエンス社)には「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(九三頁)との指摘がある。

注2 ホームページ掲載「洛中洛外日記」。その後『古田史学会報』 No.八五(二〇〇八年四月)に転載。

注3 植木久著『難波宮跡』同成社刊(二〇〇九年六月)より転載。

注4 前期難波宮跡が長柄とは別の場所にあるとの指摘は、西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人)から教えていただいた。古田武彦氏も『なかった 真実の歴史学』第五号(ミネルヴァ書房、二〇〇八年六月)所収「大化改新批判」でこの問題を指摘されている。

注5 西村秀己氏は藤原宮には九州王朝の天子がいたとする説を古田史学の会・関西例会などで発表されている。

宮一覧 前期難波宮の考古学(1) ここに九州王朝の副都ありき前期難波宮の規模

宮一覧文献
(縮尺を五〇〇〇分の一に統一)

原案 古賀達也
作成 横田幸男

1,太宰府
『太宰府古文化論叢 上』
太宰府庁域考 石松好雄
第5図 太宰府府庁域図(1/4000)
    間違いのママ

2,難波宮
『日中古代都城図録』
03 前期難波宮
1 前期難波宮の遺構配置(1:5000)

3,飛鳥京
『日中古代都城図録』
06 飛鳥浄御原宮
1 飛鳥浄御原宮II-B期(1:2500)
(参考)
『橿原考古学研究所論集 第六』吉川弘文館
飛鳥京跡小考 亀田博
第1図 飛鳥京跡復元図1:2000)

4,藤原宮
(尺表示 ほぼ五〇〇〇分の一)
『日本古代旧都の研究』岸俊男 岩波書店
第二図 藤原宮朝堂院図
(『古文化の保存と研究』巻末付録再録)

5,平城京
『日中古代都城図録』
30 平城京中央区朝堂院と東区朝堂院(1)
 奈良時代前半の平城宮中枢部(1:4000)
藤原宮の縮尺を確認比較のため


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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