2011年 4月 5日

古田史学会報

103号

1,新年賀詞交歓会
「古田武彦講演」(要約)
 文責 大下隆司

2,「筑紫なる飛鳥宮」を探る
 正木 裕

3,「逸周書」による
都市洛邑の規模
 古谷弘美

4,魏志倭人伝の読みに
関する「古賀反論」について

 内倉武久

5,入鹿殺しの乙巳の変
は動かせない

 斉藤里喜代

6,前期難波宮の考古学(2)
ここに九州王朝の副都ありき
 古賀達也

7,大震災のお見舞い
 水野孝夫

 編集後記

 

古田史学会報一覧

前期難波宮の考古学(1)(2)(3) -- ここに九州王朝の副都ありき 古賀達也

前期難波宮の考古学(2)

ここに九州王朝の副都ありき

京都市 古賀達也

前期難波宮の年代

 前期難波宮の造営時期について二つの意見があった。一つは、天武十二年(六八三)に出された副都詔により天武期に造営されたとする説と、孝徳天皇の難波遷都後に孝徳期に造営されたとする説である。
 前者の根拠は、前期難波宮のような整然とした朝堂院様式の宮殿は、律令体制の整備期にある孝徳朝にふさわしくなく、天武朝こそふさわしいとする大和朝廷一元史観に立脚した文献史学からの「解釈」である。(注6)
 後者は、前期難波宮造営期の整地土層に含まれる多量の土器の年代が七世紀中頃までに留まることから、『日本書紀』孝徳紀に記されているように孝徳朝に造営されたとする。しかも、一九九九年に内裏北西側で出土した「戊申年」木簡(図3)が、同時に出土した土器の編年から六四八年の戊申であることが確定され、前期難波宮を孝徳期の造営であるとする説が現在の定説となった。(注7)

図3戌申午木簡実測図前期難波宮の考古学(2)  ここに九州王朝の副都ありき

 このように、大和朝廷一元史観に立脚した文献史学からの「解釈」に基づいた天武期造営説よりも、土器や紀年木簡という考古学的出土事実を根拠とした孝徳期造営説が優れていることは自明である。また、もし天武が近畿では前例のない大規模な前期難波宮を造営したのなら、天武の子供や孫達が編纂させた『日本書紀』にその通り記せばいいではないか。何故、天武の業績を『日本書紀』編纂者たちが隠す必要があるのか。孝徳期にずらす必要があるのか。このように、天武朝造営説は「それならば、何故『日本書紀』は今のような内容になったのか」という西村命題に答えられないのである。
 しかしながら孝徳朝造営説が大和朝廷一元史観による律令体制整備時期と不整合であるとする指摘は貴重である。何故なら、前期難波宮の整然とした大規模な朝堂院様式の宮殿が九州王朝の副都とするわたしの説であればこの疑問を矛盾無く説明可能であるからだ。この時期、九州王朝は全国に評制を施行しており、恐らく九州王朝律令に基づいた全国支配を確立したと考えられる。従って、その評制による全国支配を行うに相応しい規模と様式を持つ前期難波宮こそ、九州王朝説に立つ限り九州王朝の副都と考えざるを得ないのである。
 次に、前期難波宮滅亡時期は天武の末年に当たる朱鳥元年(六八六)で、火災による焼失が原因である。『日本書紀』朱鳥元年正月条に次のように焼失の様子が記されている。
 「乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉くに焚けぬ。或いは曰く、阿斗連薬が家の失火、引(はびこ)りて宮室に及べりといふ。唯し兵庫職のみは焚けず。」

 前期難波宮は遺構の全体に火災の痕跡が認められており、この『日本書紀』の記述に対応していることから、その焼失は朱鳥元年(六八六)とされており、この点異論はないようである。

 

九州年号改元との一致

 以上の通り前期難波宮は孝徳期に創建され天武期末年に焼亡している。『日本書紀』白雉三年九月条(六五二)によれば、次のような表現で宮殿の完成が記されている。
 「秋九月に、宮造ることすでに訖(おわ)りぬ。其の宮殿の状(かたち)、殫(ことごとく)に論(い)ふべからず。」 

 完成した宮殿が今までにないくらい素晴らしいものと形容しているのだが、日本列島初の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮を表すのにまことに的確な表現であろう。
 ここで注目されるのが、この『日本書紀』白雉三年(六五二)が、九州年号では白雉元年に相当することだ。すなわち、前期難波宮が完成した年に九州年号は白雉と改元され、焼亡した年に同じく九州年号は朱鳥と改元されているのである。焼亡は天武十五年に相当する朱鳥元年正月で、同年の七月に朱鳥と改元されいてる。すなわち、前期難波宮の完成年と焼亡年に九州年号が改元されているのである。この事実は前期難波宮と九州年号を改元公布する九州王朝との密接な関係を示すものであり、前期難波宮九州王朝副都説の有力な根拠の一つなのである。
 もし前期難波宮九州王朝副都説を認めずに、前期難波宮を大和朝廷の宮殿とする場合、完成年と焼亡年の九州年号改元との一致を、二度にわたる偶然の一致と見なさなければならなくなる。さもなくば、九州王朝は大和朝廷が造った大規模で列島初の朝堂院様式の前期難波宮の完成を祝い九州年号を改元し、焼けたときにもお悔やみよろしく改元したなどというとんでもない理解に九州王朝説論者は立たざるを得ないのである。こんな馬鹿げた想定をする九州王朝説論者はさすがにいないと思う。とすれば、二つの偶然の重構に頼らなければならなくなるのだが、こうした「偶然」説よりも九州王朝副都説の方がはるかに無理が無く、両者の論証力の優劣は明白である。(つづく)

(注)
注6 山尾幸久「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化」一三三号、二〇〇七年)は天武朝造営説に立っている。

注7 植木久『難波宮跡』同成社刊(二〇〇九年六月)は孝徳朝造営説に立っており、考古学的事実が詳細に報告されている。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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