2011年 4月 5日

古田史学会報

103号

1,新年賀詞交歓会
「古田武彦講演」(要約)
 文責 大下隆司

2,「筑紫なる飛鳥宮」を探る
 正木 裕

3,「逸周書」による
都市洛邑の規模
 古谷弘美

4,魏志倭人伝の読みに
関する「古賀反論」について

 内倉武久

5,入鹿殺しの乙巳の変
は動かせない

 斉藤里喜代

6,前期難波宮の考古学(2)
ここに九州王朝の副都ありき
 古賀達也

7,大震災のお見舞い
 水野孝夫

 編集後記

 

古田史学会報一覧

「東国国司詔」の真実 正木裕(会報101号)
九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について 正木裕(会報104号)

論争のすすめ 上城誠(会報105号)

論争の提起に応えて 正木裕会報(106号)

金石文の九州王朝 -- 歴史学の転換 古田武彦
生涯最後の実験 へ 古田武彦


「筑紫なる飛鳥宮」を探る

川西市  正木 裕

 古田武彦氏は、その著『壬申大乱』において、「飛鳥」の地を福岡県小郡市に比定された。
 本稿では氏の研究を基に、『日本書記』や万葉歌、遺跡や現地の地勢・地名等から「明日香・飛鳥(アスカ)」は本来は筑紫小郡の地名であり、飛鳥浄御原宮ほかの飛鳥の諸宮も筑紫小郡に存在した事、これら地名や宮名は近畿天皇家により筑紫から消され、大和に盗用されたと考えられる事を示す。(註1)

 

一、二つの「飛鳥浄御原宮」記事

1、『書紀』の飛鳥浄御原宮造営記事

 『書紀』では天武元年(六七二)是歳条に「飛鳥浄御原宮」の建設記事とその翌年二月条の同宮での天武の即位記事がある。
■天武元年(六七二)是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。(略)天武二年(六七三)二月癸未(二七日)、天皇、有司に命せて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。

 しかしこの記事には不自然な点がある。それは、
 (1) 天武は天智十年(六七一)に吉野に隠棲しており、また、壬申乱の最中に天武が飛鳥浄御原宮を造営できるはずはない。

 (2) 乱が決着したのは元年九月。「行宮」ならいざ知らず、即位の式典を挙げうる大宮の建設に着手し、年内に移転するのは不可能。

 この点、一般には「後飛鳥岡本宮の内郭を継承しながらエビノコ郭と外郭を造営した」等とされるが、それでも戦後の二~三ヶ月で造営できたとは到底思えず、「天武元年に飛鳥浄御原宮を造営した」とする記事は到底信頼できない。
 従って、『書紀』の「天武二年二月に飛鳥浄御原宮で即位した」という記事を事実とすれば、天武は「既に存在していた飛鳥浄御原宮に遷り、即位した」と考えざるをえないのだ。

 

2、「飛鳥浄御原宮」の命名記事

 また、「飛鳥浄御原宮」の命名理由について『書紀』朱鳥元年に不可解な記事が存在する。
■朱鳥元年(六八六)秋七月。戊午(二〇日)、元を改めて朱鳥元年と曰ふ。朱鳥、此をば阿訶美苔利といふ。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰ふ。

 「朱鳥(阿訶美苔利)」に因んだと云うが、これではなぜ朱鳥が飛鳥浄御原宮となるのか、全くわからない。岩波『書紀』の注では「一種の嘉号」とするが、「嘉号」など幾らでも考えられる中で、何故「飛鳥浄御原」なのかの説明になっていない。
 また朱鳥改元時に「宮号を正式に決めた」とも記すが、天武元年(六七二)から十四年も名無しの宮だったはずはなく、その間の名称があったはずだが『書紀』に全く出てこないのは不自然だ。
 一般的に考えれば「その間の名称」は「後飛鳥岡本宮」となるが、それなら堂々と「後飛鳥岡本宮」で即位し、朱鳥改元時に浄御原宮とした(改名した)とすればよい。また即位時点で宮号を改めたならそう書けば良いのであって、遥か後の「朱鳥改元」を理由にする必要は更々無い。
 そのどちらとも矛盾するという事は、
 (1) 天武が即位した宮は、その時点で既に「飛鳥浄御原宮」と呼ばれて存在していた。
 (2) 『書紀』編者はその命名根拠を知らず、無理を承知で「朱鳥改元」を根拠とした。即ち『書紀』編者の牽強附会であった、と言わざるを得ない。
 つまり、『書紀』における二つの「飛鳥浄御原宮」の不自然さは、「天武は既に存在していた飛鳥浄御原宮に遷り即位したが、『書紀』編者はその名の根拠が分らず、朱鳥改元にかこつけた事から生じたもの」と考えられる。

 

二、古田氏指摘の「筑紫小郡なる飛鳥」

 「飛鳥浄御原宮」が、天武即位以前から存在していたというのは常識外であり、しかも直前の天智期は近江遷都時代で、「飛鳥」と名のつく宮は斉明以前に遡るはずだから尚更理解し難いだろう。
 しかし、これを矛盾なく解決する考えがある。
 それは古田武彦氏の「飛鳥浄御原宮は筑紫小郡に存在した、九州王朝の宮である」との説だ。
 氏は『壬申大乱』他において、万葉集の明日香皇子に関する歌や、現地の遺存地名(飛鳥)、考古学的分析(小郡の遺跡群等)を通じ、「飛鳥」の地を福岡県小郡市に比定され、「飛鳥浄御原宮」は同所に存在した九州王朝の宮であると論じられた。
 そして、明日香皇子は九州王朝の天子「筑紫君薩夜麻」の皇太子時代の名であり、白村江戦に際し唐に捕虜となり、天智期に帰国したとされる。(註2)
 この考えに基づけば、彼に因む宮は斉明・天智期に既に存在した事になり、先の考察と時代的にも整合する。また筑紫小郡の現地名に因む宮名が『書紀』編者に理解できなかったのも当然といえる。

 

三、『古事記』から探る天武の即位宮

1、「壬申の乱」の性格

 それでは「天武が筑紫なる飛鳥浄御原宮で即位した」との考えにはどんな根拠があるのだろうか。
 天武は壬申の乱の勝利で政権を掌握し「清原の大宮(『古事記』)」「飛鳥浄御原宮(『書紀』)」で即位したとされる。実はこの宮が筑紫小郡付近に存在したと考えられる根拠が『古事記』序文の「壬申の乱」の記述にあるのだ。
 古田武彦氏は、『壬申大乱』で、従来近畿での出来事とされてきた壬申の乱は、九州から近畿、東国まで巻き込んだ一大決戦であり、背後に「占領軍」たる唐の意向・天武への支援があったとされた。主な論点を挙げる(唐の支援については註3)。
 (1). 白村江以降唐の軍隊が筑紫、佐賀なる「吉野」に駐留していた。指揮官は郭務宗*であった。
 (2). 天武は兵を挙げるについて、その吉野に赴き、唐の了解・支援をとりつけ、筑紫より出征した。
 (3). 従って近江朝の「近江京より、倭京に至るまでに、処処に候を置けり」とする「倭京」は筑紫となる。

 更に古賀達也氏は「『古事記』序文の壬申大乱」(註4)で、天武が筑後川や高良山付近に雌伏していたこと、唐人に作戦を授けられたことを示し、古田説を補強された上で「壬申の乱の性格が、天武と唐による九州王朝近江遷都一派の殲滅戦としての位置付けが可能」とされた。(註5)
      郭務宗*(かくむそう)の宗*(そう)は立心編に宗。JIS第4水準ユニコード68D5

 

2、『古事記』序文の「壬申の乱」

 改めて『古事記』序文を見よう。
 (1). 飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁(いた)りて、濳龍(せんりゅう=太子、ここでは天武)元を體し、在*雷(せんらい同)期に應じき。
      在*は三水編に在。[シ在]JIS第4水準ユニコード6D05

 (2). 夢の歌を開きて業を纂がむことを相(おも)ひ、夜の水に投(いた)りて基を承けむことを知りたまひき。

 (3). 然れども、天の時未だ臻(いた)らずして、南山に蝉蛻(せんせい=せみの抜け殻・世俗を超越する事)し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。

 (4). 皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威(いきおい)を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗(こうき)兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。

 (5). 未だ浹辰(しょうしん)を移さずして、氣珍*(きれい=妖気)自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、豈*悌(がいてい=やすらぐ)して華夏に歸り、旌を卷きて戈をオサ*(おさ)め、舞詠して都邑に停まりたまひき。
     珍*は、王編の代わりに三水編。文字コードなし
     豈*悌(がいてい)の豈*(がい)は、立心偏に豆。JIS第3水準ユニコード6137
     オサ*は、JIS第3水準ユニコード6222
     
 (6). 歳大梁(たいりょう=酉年)に次(やど)り、月夾鍾(きょうしょう=二月)に踵(あた)り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。(神道体系古典編一『古事記』神道体系編纂会一九七七年十二月本による)

 (1).~(3).は古賀氏の分析どおり、「夜水」は筑後川の別名、「南山」は高良山と考えられ、天武の「筑後」雄伏を示し、(4). は壬申乱での天武の活躍を述べたものだが、問題は天武の帰還地を示す (5). だ。

 

3、天武は筑後に帰還し即位した

 「華夏に歸り」とあり、これは大和飛鳥と考えられているが、天武の「蝉蛻」の地、即ち出陣地が「筑後」なら、帰還も「筑後」のはず。また、支援を受けた唐に報告しないとは考えづらく、そして、「華夏」は中国(当時なら唐)を意味する。更に『随書イ妥(タイ)国伝』では「其の人(イ妥国人)華夏に同じ」と記し、その「イ妥国」は阿蘇山がある九州であるはずだ。
■『随書イ妥国伝』
 又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ、以って夷州と為すも、疑うらくは、明らかにするを能わざるなり。(略)阿蘇山あり。その石、故なくして火起り天に接する者、俗以て異となし、因りて祷祭を行う

 従って「華夏に歸り」とは、三重の意味で「天武の出陣地であり、唐の駐留する、九州・筑後に帰る」となる。そして「都邑に停まり」とは『随書』に「彼(イ妥国)の都」と記す九州に停まった事を意味する。
 天武は乱後、「やすらか」な気持ちで筑紫に帰り、支援者たる唐・九州王朝に報告すると共に「都邑たる筑紫に留まったのだ。そして「夜水」「南山」の地名からそこは筑後川や高良山周辺であるはずで、筑紫小郡付近はこれに良く適合する地域といえる。

 

4、『書紀』記事からも「天武帰還地は筑紫」

 壬申の乱後の天武の帰還地については、わざわざ『古事記』序文を持ち出すまでもないかもしれない。『書紀』では乱終息後、最初の行事は「筑紫」での新羅の客金押寶等への応接であり、直後の論功考証だったからだ。
■天武元年(六七二)九月。庚子(十二日)に、倭京に詣りて、嶋宮に御す。壬卯(十五日)に、嶋宮より岡本宮に移りたまふ。(飛鳥浄御原宮遷居記事略)
冬十一月の戊子の朔辛亥(二四日)に、新羅の客金押寶等に筑紫に饗たまふ。即日に、禄賜ふこと各差有り。
十二月の戊午の朔辛酉(四日)に、諸の有功勲しき者を選びて、冠位を増し加へたまふ。小山位より以上を賜ふこと、各差有り。壬申(十五日)に、船一隻、新羅の客に賜ふ。壬未(二八日)に、金押寶等罷り帰りぬ。

 古田氏指摘どおり「倭京」は筑紫であり、嶋宮・岡本宮・飛鳥浄御原宮遷居も筑紫であってこそ金押寶等を筑紫で応接できる。「船一隻を賜ふ」のも、論功考証も、金押寶帰国も、乱直後の記事は全て筑紫と考えるのが『書紀』の自然な解釈だ。


四、「清原の大宮」「浄御原宮」は小郡にあったのか

 次に、筑紫小郡が「浄御原宮」の存在に相応しい地域といえるのか、文献的・考古学的に検証しよう。

1、文献的・考古学的に「筑紫小郡」が相応しい

  I 、『書紀』に記す小郡

 『書紀』で筑紫には大郡・小郡の存在が記される。
■天武二年(六七三)十一月壬申(二一日)に、高麗の邯子・新羅の薩儒等に筑紫の大郡に饗たまふ。祿(もの)賜ふこと各差有り。
■持統三年(六八九)六月乙巳(二四日)に、筑紫の小郡にして、新羅の弔使金道那等に設たまふ。物賜ふこと各差有り。
 筑紫大郡・小郡は何れも外国要人を迎えた式典の執り行われた場所だ。先述の新羅の客金押寶等を饗した「筑紫」も大郡・小郡の何れかと思われ、『書紀』上も、天武即位と同時期にこうした施設が筑紫小郡に存在した事が確認される。

 

  II、遺跡に見る小郡

 現在『書紀』の「筑紫小郡」に比定されているのは福岡県小郡市だ。ここには、「小郡官衙遺跡」「下高橋遺跡」「上岩田遺跡」「薬師堂遺跡」等、概ね七~八世紀と見られる大型遺跡が集中し、「正倉院」跡まで発見されている。
 特に、小郡市井上地区一帯(現在の岩田地区を含む旧御原郡)には井上廃寺・井上薬師堂遺跡等の大規模遺跡がある。わけても上岩田遺跡( I 期)は、約十二万平米の規模を持ち、東西約十八米、南北約十五米、高さ約一米強の基壇と、その上の瓦葺き建物や、柵に囲まれた大型の建物群が確認されており、単なる官衙(評衙)とは考え難い。
 遺跡には筑紫大地震(六七八)によると見られる亀裂倒壊の跡がある事から、七世紀中盤から後半にかけ存在した施設と考えられる。
 また、「井上廃寺跡(井上山福田寺跡)」(小郡市大字井上字村囲)からは九州最古の白鳳前期とされる「山田寺瓦」が出土し、かつて方二町程度の寺院域と七堂伽藍を有した大寺があったと推定され、小郡は重要な儀典が開催された場所との『書紀』の記述は考古学上も確認される。(註6)

 

2、小郡井上地区の宮は「浄(清浄)」なる宮

 また、井上廃寺に隣接する本山という台地上にある広大な「長者屋敷」遺跡(未発掘)は、長者堀に囲まれ、堀は井上地区「井尻」周辺の湧水に発し、上岩田遺跡の横の「蓮輪・池尻(何れも井上地区の地名)」を経て「飛鳥(飛嶋)」まで流れ込んでいたと考えられる(『小郡市史』による)。古田氏の指摘通り、井上地区周辺は水に囲まれた「浄」い土地であり、その地に立つ宮は清浄なる宮、「浄之宮」と称されても不思議はない。(詳細な内容については氏の『壬申大乱』を参照されたい)

 

3、井上地区は旧御原郡(みはらのこおり)

 小郡の井上地区は御原郡(註7)にあったと述べたが、御原郡の初見は『肥前国風土記』の「御原郡姫社之社」であり、『和名抄』に「長柄・日方・板井・川口」で成るとあり七世紀には既に存在していたと考えられる。「日方」地名は「干潟」として井上地区の北に遺存し日方神社も同地に存する。南には「御原」地名も残っている。 しかも字も三原でも美原でもなく「浄御原宮」と一致する「御原」なのだ。
 従ってこの井上地域にあった遺跡が、かつて「浄之」「御原宮」と呼ばれた可能性は十分にある。
 つまり筑紫小郡は文献上、考古学上、更には現地の「地勢」や「地名」上も「浄御原宮」の立地にふさわしいといえる。


五、『書紀』天武紀の新宮の謎と飛鳥の諸宮

 こうした考察を更に補強するのが『書紀』天武紀に記す「新宮」の分析だ。

1、天武七年の「新宮」と皇極紀の「飛鳥板蓋新宮」

  I、不明な天武七年「新宮西庁の柱に霹靂」の「新宮」
『書記』天武七年に以下の通り「新宮に落雷した」との記事がある。しかし『書記』では近時点に遷都や新宮造営記事が無い為、「新宮」とはいかなる宮なのか不明とされている。
A■天武七年(六七八)夏四月(略)己亥(十三日)に、新宮の西庁の柱に霹靂(かむとぎ・落雷)す。
 岩波『書紀』の注では、「未詳。飛鳥岡本宮に対して浄御原宮の新築の殿舎をいうものか。十年三月条に『新宮の井』、十四年九月条に『旧宮の安殿』が見える」としている。しかし、西庁が新築されたとするのは想像に過ぎず、「新宮の西庁」とあるからには、新築された宮の「西庁」部分に落雷したと理解するのが自然だ。そのような造宮記事は天武紀には無いので、注釈者も「未詳」としているのだ。

  II、三四年遡上すれば「飛鳥の板蓋の新宮」に霹靂
 ところで、古田氏は「持統天皇の三十一回の吉野行幸は三四年遡上した白村江以前の出来事であり、これは九州王朝の史書からの盗用である」事を明らかにされた。また私は再三にわたり、天武・持統紀にこうした三四年遡上記事が多数見られ、これらは九州王朝の事績であると指摘してきた。
 そうした観点で、「新宮」への落雷記事Aを三十四年遡上させれば皇極三年(六四四)となる。
 そして、『書記』では、その前年の皇極二年(六四三)に「飛鳥の板蓋の新宮」の記事が存在する。
B■皇極二年(六四三)夏四月(略)丁未(二八日)に、権(かり)宮より移りて飛鳥の板蓋の新宮に幸す。

 従って、落雷記事Aを三四年前の九州王朝の史書からの盗用とすれば、皇極二年に「移って」いた「飛鳥の板蓋の新宮」に、翌皇極三年(六四四)に落雷した記事として成立する。


2、天武十年の「新宮」と大化三年の「小郡宮」

  I、不明な天武十年の「新宮井上」
 また、天武十年(六八一)三月条にも「新宮」の記事がある。
■天武十年(六八一)三月(略)甲午(二十五日)、天皇、新宮の井の上に居しまして、試に鼓吹の声を発したまふ。仍りて調へ習はしむ。

 岩波『書紀』注では、「七年四月条に新宮西庁が見える」とするのみで、この「新宮」も「未詳」である事に変わりない。また「鼓吹の声を発」する意義も不明だ。

  II、三四年前の大化三年に小郡宮を造営
 しかし、三四年前の大化三年(六四七)是歳条には、次のC記事の通り「小郡を壊ちて宮造る。天皇小郡宮に処して、礼法を定めたまふ」と記される。
C■大化三年(六四七)是歳、小郡を壊ちて宮造る。天皇小郡宮に処して、礼法を定めたまふ。其の制に曰はく、「凡そ位有ちあらむ者は、要ず寅時に、南門のの巾を前に垂れよ。其の鍾の台は、中庭に起てよ
 天武十年の「新宮」は三四年遡上すれば「小郡を壊ちて造った小郡宮」となる。しかも皇極三年(六四四)に落雷で破損または焼失した宮、すなわち「飛鳥板蓋宮」を三年後に再建したと考えれば時間的にも見事に整合する。(註8)
 ちなみに『岩波注』は、大化三年条の小郡宮は「難波の小郡」とし、「朝廷の迎賓などの施設の名であろう」とする。しかし、有位の官僚が「南門外に羅列、庭で再拝し参内、鐘に合せて入退庁する」という描写は、小郡宮が単なる迎賓施設ではなく、相当の規模を有する正規の殿舎・庁舎である事を示している。そうした正規の宮を難波宮造宮直前の時期に、場所も難波宮に近接して造営するとは考え難く、また狭小な上町台地では困難で、難波小郡に相当する遺跡も発見されていない。「筑紫小郡」の遺跡状況とは雲泥の差なのだ。

  III、天武十一年献上の鐘は大化四年の「鍾台」用
 また、ここに「鍾の台」設置についての記述があるが、肝心の「鐘」はどうなったのだろうか。実は天武十一年に「鐘」本体の献上記事がある。
D■天武十一年(六八二)夏四月癸未(二一)に、筑紫太宰丹比真人嶋等、大きな外に、左右羅列りて、日の初めて出づるときを候ひて、庭に就きて再拝みて、乃ち庁に侍れ。若し晩く参む者は、入りて侍ること得ざれ。午の時に至るに臨みて、鍾を聴きて罷れ。其の鍾撃かむ吏は、赤る鐘を貢れり。

 天武紀では何故、何の為に鐘が献上されたか触れられていないが、三四年遡上すれば大化四年(六四八)となり、前年大化三年の「鍾の台は中庭に起てよ」との詔に応えた行動、即ち小郡宮造営に際し鍾の台が起てられ、翌年筑紫太宰が「鐘」を献上したという極めて自然な記事となるのだ。(註9)

 この「鐘」の記事からも天武紀の新宮記事の三四年遡上は確実で、これを踏まえた板蓋宮遷居から小郡宮造営に至る経緯は次の通りと考えられる。
 (1) 「飛鳥板蓋宮の新宮」は「小郡」にあり、皇極二年(六四三)四月に遷居した(B記事)。
 (2) 皇極三年(六四四)四月に「飛鳥板蓋宮の新宮」の「西庁」は落雷を受け(霹靂す)、宮は破損あるいは焼失した(A記事)。
 (3) 大化三年(六四七)に、破損・焼失していた「飛鳥板蓋宮」を「壊ち」て、同所即ち飛鳥に「小郡宮」を造営し、礼法を定め鐘台を起てた(C記事)。
 (4) 大化四年(六四八)四月に筑紫太宰が鐘台に備える「鐘」を献上した(D記事)。

 そして三四年遡上は九州王朝史書からの盗用を示す事から、一連の宮の記事は筑紫における九州王朝の造宮を記すものと考えられるのだ。

 VI、「板蓋宮」の命名は瓦葺きの宮と区別するため
 先に上岩田遺跡には、大規模基壇を伴う「瓦葺き」建物があり、六七八年の筑紫国大地震で倒壊した可能性が高いと述べた。(1)から(4) の経過を見れば、何故わざわざ「飛鳥板蓋宮」と「板蓋」が強調されたのか分る。それは落雷で焼失した経験から、飛鳥なる「小郡宮」を再建する際、瓦葺きにしたからだ。同じ場所にあった二つの宮を区別するため、先の宮を「板蓋宮」と名づけたのだ。

3、「浄御原宮」は筑紫「飛鳥」なる小郡に

 以上、天武紀の新宮は三四年遡上した皇極・大化期に小郡に造営された飛鳥板蓋宮や小郡宮を指すものとなる。そして、飛鳥板蓋宮跡に小郡宮が造営されたとすれば、筑紫小郡は「飛鳥」と呼ばれ、小郡宮は同時に「飛鳥宮」と呼ばれた事になろう。
 更に言えば、天武十年記事の「天皇居新宮井上」を「新宮」は「井の上(ほとり)」即ち井上地区にあると解釈すれば、先述の通り同地区は御原郡で、かつ「水に囲まれた浄い土地」であるから、「飛鳥浄御原宮」があった可能性が高いと思われる。
 六七八年まで確かに存在したのは、遺構から「上岩田遺跡」であり、規模や瓦葺きという質から上岩田遺跡が飛鳥浄御原宮の第一候補であり、同時に小郡宮と呼ばれていた事となろう。(註10)

 

六、「明日香」は筑紫君薩夜麻の名

 先に、古田氏は「明日香皇子」は九州王朝の天子薩夜麻の皇太子時代の名とされていると述べた。ここで、その論証を筆者の責任で要約し、一部補足して記そう。(註11)

1、万葉一九九番は薩夜麻の半島での活躍を歌う

 まず万葉一九九番歌を見よう。
■(一九九番歌)高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくもあやに畏き 明日香の 真神の原に 久堅の 天つ御門を 畏くも 定め賜ひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 吾大王の きこしめす 背面(友)の国の 真木立つ 不破山超えて 高麗剣 和射見が原の 仮宮に 天降りいまして 天の下 治め賜ひ食す国を 定め賜ふと 鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召し賜ひて ちはやぶる 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任し賜へば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角くだの音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野毎に つきてある火の 風の共 靡くが如く 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて(略)嘆きも 未だ過ぎぬに 思ひも 未だ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ(以下略)

 ここでは「明日香の宮を造った大王」が「磐隠り(崩御)」し、もう一人の「背面の」「奉ろはぬ 国を治めと」「大雪の 乱れて来」る中で勇敢に戦った皇子が「百済の原」で「神葬り(薨去)」したと歌う。但し、并短歌の二〇一番歌では皇子は「ゆくへを知らに(去方乎不知=行方不明)」なったとも歌う。

■(二〇一番歌)埴[垣]安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ

 この歌は高市皇子の壬申の乱での活躍を歌ったとされる。しかし、
 (1). 歌詞は「厳冬の戦い」を示し、夏の戦である壬申の乱ではありえず、
 (2). 高市皇子はこの戦で戦死したわけでも行方不明になったわけでもないし、
 (3). 百済の原での薨去もあてはまらない。
 一方筑紫君薩夜麻は白村江敗戦に際し、捕虜となり唐に抑留されていた。これは『書紀』記事で確認される。
 また、『書紀』や海外資料には、白村江直前の斉明七年から天智元年にかけての冬に、半島に於いて、倭国の「高麗を救ふ軍将」が高麗・百済の兵と共に唐と戦い、唐軍を撤退させた事が記されている。
 同時に「この冬は特に寒く、鴨緑江・大同江共に凍結した」「唐軍は蛇水で大雪に苦しみ大敗」したとする(何れも岩波『書紀』注釈による)。更に「背面の国・百済の原」等も朝鮮半島を示すものだ。
 即ち歌の内容は半島での厳冬の戦いに活躍し、唐軍を撃破したが、その後の白村江で捕虜となり唐に抑留された皇子の描写に相応しい。
 そして、『書紀』記事で見る限り、その様な皇子は「筑紫君薩夜麻」しか存在しないのだ。

 

2、万葉一九六番は薩夜麻=明日香皇子を偲ぶ歌

 また万葉一九六番歌では「御名に懸かせる 明日香川」と皇子の名が「明日香皇子」であるとする。
■(一九六番歌)明日香皇女木(乃倍)殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ(略)吾王の 立たせば(略)御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず そこ故に 為むすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が吾王の 形見かここを
 (一九七番歌)明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし
 (一九八番歌)明日香川明日だに 見むと思へやも 吾王の御名忘れせぬ

 「明日香皇女」とあるが、共に殯宮の歌である上、同じ「城上の宮を 常宮と」する。また、「明日香真神原、明日香川」と「明日香」地名も共通。更に一九九番歌と連続する等から、両歌は同一人、すなわち「明日香皇子」を偲んで歌ったと考えられる。
 即ち、薩夜麻は「明日香皇子」と呼ばれたのだ。
 更に、「飛ぶ鳥の 明日香の川」に「吾王の立たせば」「朝宮・夕宮」等から、彼の宮が明日香川付近にあったと分る。そして皇子の名の「明日香」は「原」や「川」の名、即ち「地名」だから、彼が育った宮も「明日香宮」と呼ばれるのは必然なのだ。
 なお同歌中「君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食向ふ木瓲(きのへ)の宮」との句があるが、『和名抄』には小郡の隣りの筑前国下座郡に「城邊(きのへ)」が見え、これは小郡の宮から「時々出て遊んだ」宮の位置とよく整合する。 筑紫小郡御原郡明日香原の、玉藻の生い靡く浄い明日香川に接した宮、これこそ「明日香浄御原宮」と呼ばれるに相応しい宮なのだ。

 

七、消された飛鳥(明日香)地名

1、変えられた「明日香」

 現在小郡に「飛鳥」は小字名で僅かに残るのみで、しかも「明日香・アスカ」ではなく「ヒチョウ」と云う。原野・川・皇子や諸宮の名に冠せられたほどの「明日香」はどう消えてしまったのか。まず現地小郡近辺の地名状況について見てみよう。

 I 、筑紫野・小郡・久留米を貫く阿志岐地名

 小郡市の井上地区の西を「宝満川」が流れる。この川はかつて「阿志岐川」と呼ばれた。
 市の北方、宝満川上流は古くは阿志岐・蘆城(現・筑紫野市)と呼ばれ蘆城駅の存在で有名であり、近年阿志岐地区の宝満山に大宰府を守る山城「阿志岐城」が発見されている。
 また南方の三井郡・山本郡にも阿志岐村が確認され、高良山(久留米市)中には、古くは阿志岐山と呼ばれた妙見山がある。ここの高良御子神社(王子宮)には九州王朝の天子の系列である高良玉垂命第八王子の「安子奇命神」が祀られ、阿志岐は九州王朝の皇子の名にちなむ地名となっている。
 阿志岐は大宰府付近から高良山までの広い範囲に跨る、九州王朝に縁の深い地名なのだ。(註12)

 II、万葉歌は「阿志岐=明日香」を語る

 また、「阿志岐」は、万葉歌から本来は「明日香」であったのではないかと疑われる。次に掲げる(1) (2) (3)は同趣で用語も共通部分が多い歌だが、(1) の歌を見れば「明日香」が「明日か?」という疑問詞と一種掛詞として使われ、「今日」との句と対句になって意味をなしている事が分かる。
 「秋萩が逝くのは明日か? いや今日の雨に落ち過ぎるのだ」というように。
 (1) (一五五七番歌) 故郷豊浦寺の尼、私房にして宴する歌三首
 明日香河 逝き廻る岡の秋萩は 今日降る雨に 散(落)りか過ぎなむ

 (2) (一五三〇番歌) 大宰の諸卿大夫并せて官人等、筑前の国の蘆城の駅家にして宴する歌二首
 をみなへし 秋萩交る 蘆城の野 今日を始めて 万代に見む

 (3) (一五三一番歌)
 玉匣(くしげ)  葦木の河を 今日見ては 万代までに 忘れえめやも

 しかし (2)と(3) の「蘆城」では対にならず、極めて平板な歌となる。しかし「明日香」とすれば(2) は「明日香の野 今日を始めて」となり「明日香の野の美しさをめでるのは明日からか? いや今日から万代にめでよう」という二重の意味を持つ。(3)も「明日香の川を明日ではなく、今日見たからには、今日より万代にわたり決してわすれない」という趣き深い歌となるのだ。

 また阿志岐山(悪木山)も次の歌から「明日香山」であった事が伺える。
 (4) 三一五五番 羇旅に思ひを発す
 悪木山 木末ことごと 明日よりは 靡きてありこそ 妹があたり見む
 これも「悪木山」では「明日よりは」が意味をなさない。「明日香」で初めて意味を持つ。「明日香山の名のとおり、明日よりは 木末ことごとなびけ」というように。

 このほか次の通り「明日香」と「今日または明日」をかけた歌がある。
三五六番、上古麻呂歌一首
 今日もかも 明日香の川の 夕さらず かはづ鳴く瀬の さやけくあるらむ
二七〇一番 寄物陳思
 明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも

 以上の万葉歌から、筑紫小郡井上地区縁の地名である阿志岐(蘆城・悪木)は、万葉時代は「明日香」だったと考えられるのではないか。(註13)

 

2、何故「飛鳥ひちょう」と書いて「明日香あすか」か

 ところで、飛鳥を「ひちょう」と読むヒントも万葉歌にある。
 (5) 四二六一番 壬申年之乱平定以後歌二首
 大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ

 古賀氏によれば、この歌は九州王朝の筑後三瀦(水沼)遷都を示すもので、三瀦の大善寺は九州王朝の天子の系列である高良玉垂宮を祀り、同所には「天皇屋敷」までもあったとされる。(註14)
 つまり九州王朝の「皇都」は「水鳥の三瀦」でもあった。そして同様に九州王朝の宮である「明日香」小郡は「飛鳥(とぶとり)の明日香」と呼ばれていたのではないか。湿地帯だった三瀦に飛来する水鳥たちは小郡上空を天翔けて行く。位置的に「とぶとり」を冠するにふさわしい。
 あるいは古田氏の指摘どおり、井上地区の池水の形状が「とぶとり」だったのかもしれない。

3、筑紫から消された「明日香」

 I 、「大化改新」での天子・皇子関連地名の抹消詔
 九州王朝の天子の「名を負う」明日香が阿志岐等に変えられたとする根拠が「大化改新詔」にある。
■大化二年(六四六)八月癸酉(十四日)(略)王者(きみ)の児(みこ)、相続ぎて御寓せば、信(まこと)に知時の帝と祖皇の名と、世に忘れべからざることを知る。而るに王の名を以て、軽しく川野に掛けて、名を百姓に呼ぶ。誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者の号(みな)は、将に日月に随ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は天地と共に長く往くべし。

 ここでは「川野に軽々しく王や祖子の名をつけるのは恐れ多いことだ」と言っている。『書紀』では略されているが、当然これを改める詔があってしかるべきなのだ。
 大化改新詔が、本来は九州年号「大化」期、すなわち六九五年以降の詔であり、九州王朝から近畿天皇家への権力移行を示すものである事はこの間の古田史学会の研究で明らかになってきている。したがって、婉曲に表現されているが、この詔の本質も「九州王朝の天子や皇子に因む地名は消せ」というものと考えられるのだ。

 II、権力が消し去る「地名表記」
 古田氏は次の通り宝満川を例にとり、地名の変遷について次の通り言う。
■小郡市を流れる宝満川は、かつて「得(とく)川」と呼ばれていた。それはまた「徳川」とも書かれていたけれど、江戸時代においてはこの表記は“使われなく”なった、という(小郡市史編さん室、黒岩弘氏による)。これも「当代の政治権力」がそれまでの「地名表記」を“消し去った”事例である。「地名」は絶えず、そのような「権力の干渉」の中で生き抜き、そして変容させられてきたのである。(前出『壬申大乱』別論二・筑紫の飛鳥)

 九州王朝に因む飛鳥・明日香地名も、そのように「当代の政治権力」を奪った近畿天皇家によって“消し去られ、変容させられた”のだった。

 

八、盗まれた九州王朝の天子・皇子と飛鳥浄御原宮

 結論として、遺跡や『書紀』の記事、万葉歌、現地の地名・地勢等から総合的に判断して、筑紫の旧御原郡の小郡井上地区は「飛鳥の明日香」と呼ばれ、同所に建設された「小郡宮」は「飛鳥浄御原宮」と呼ばれていたと考えられる。
 そこは高良玉垂命の皇子に由来する「あすか」地名に満ちた地域だった。更に筑紫君薩夜麻の皇太子時代の名「明日香皇子」はそうした地名にちなむものだった。
 しかし、九州王朝の天子・皇子の名を冠した明日香川や明日香山は、近畿天皇家の権力が確立した九州年号大化期、即ち七〇〇年前後に消滅させられ、阿志岐や蘆城、悪木に変容させられた。その根拠が「大化改新詔」に見る「皇子地名抹消」だった。
 そして「飛鳥・明日香」は近畿天皇家の本拠である大和の地名や宮の名に移された。天武即位から朱鳥元年まであったはずの近畿天皇家の宮の名称は隠され、天武・持統の宮が始めから「飛鳥浄御原宮」であったかの如く装われたのだ。
 しかし『書紀』編者は地名・名称は盗用できても、その謂われを知ることが出来なかった。或いは知っていても筑紫小郡の現地の地勢と密接に関連する由来を記すわけにはいかず、無理な解釈で「朱鳥改元」にかこつけざるを得なかった。
 これが『書紀』において「飛鳥浄御原宮」が天武即位時と朱鳥元年に記されなければならない理由だったのだ。
 そして恐らく「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」も、本来は万葉一九九番で「明日香の宮を定め」と歌われ、「常色元年」に小郡宮を築いた九州王朝の天子、及び次代を引き継いだ明日香皇子・筑紫君薩夜麻を指すものだったと思われる。(註15)
 『書紀』編者は宮の名称のみならず、これらの九州王朝の天子も・孝徳・天武らにすり替えたのだ。

 

(註1)本稿は古田武彦『壬申大乱』(東洋書林・二〇〇一年)等における研究成果に依拠するものであり、この点氏に感謝を表する。

(註2)明日香皇子が薩夜麻の皇太子時代の名である事は後の「六項」で述べる。

(註3)『釈日本紀』巻第十五・述義十一、第二八
■磐鍬見兵起乃逃還之
 私記曰、案、調連淡海、安斗宿禰智徳等日記に云ふ。石次兵の起るを見、乃ち逃げ還る。既に天皇、唐人等に問ひて曰はく「汝の国は数た戦の国なり。必ず戦術を知らむ。今如何」とのたまふ。一人進みて奏して言はく「厥れ、唐国、先に覩者を遣はし、以て地形の険平及び消息を視しむ。師を出す方は、或は夜襲、或は昼撃す。但し深き術は知らず」といふ。時に天皇、親王に謂はく、云々
『神道大系 古典注釈編五 釈日本紀』
(昭和六一年十二月二二日。神道大系編纂会発行)

(註4)古賀達也「『古事記』序文の壬申大乱」(古田史学会報六九号二〇〇五年八月)

(註5)「九州王朝の近江遷都 -- 『海東諸国紀』の史料批判」(同六一号二〇〇四年四月)

(註6)『小郡市史』(小郡市史編集委員会一九九八年)

(註7)「御原郡」は、明治二二年に町村制施行で小郡村・御原村・立石村・三国村 (以上小郡市)、大刀洗村・本郷村 (同大刀洗町)の六村で成り、明治二九年に御井郡・山本郡と合併、三井郡となる。

(註8)大化三年(六四七)は九州年号「常色」元年にあたり、「善光寺文書」によれば前年の命長七年には前代の天子が崩御したとされる(古賀達也氏による)。常色改元とこの年の小郡遷居、礼法や「七色十三階の制」の制定が、一体として新天子の即位を示すと考えられる事は古田史学会報九五・九六号の「九州年号の改元について」で述べたところだ。その後六四九年頃に全国的に「評」制が施行され、六五二年の完成に向け副都たる難波宮が着工された。私はこうした一連の改革を「九州王朝の常色の改革」と名づけている。

(註9)「筑紫太宰丹比真人嶋」とあるが、「多治比 嶋(志摩・志麻)(六二四~七〇一)」を指すなら大化期では若年に過ぎる。『書紀』で丹比氏が真人を授けられたのは天武十三年。岩波注は「真人は追記か」とするが、父「丹治比古王(丹比公麻呂)」の潤色か。丹比公麻呂は「摂津職」に任じられているが、古賀氏は、「『日本後紀』によれば摂津職は六六六年以前から存在する九州王朝の職と考えられ、副都難波宮が存する摂津を所掌した」とする。(「九州王朝の白鳳六年『格』古賀事務局長の洛中洛外日記第一七一話二〇〇八年四月より)

(註10)万葉歌によれば薩夜麻(明日香皇子)の前代の大王が明日香宮を造営したとされる。この間の古賀氏ほかの研究で、命長七年(六四六)の前の天子の崩御を受け、六四七年に即位し常色と改元。評制施行や七色十三階の制、礼法制定、難波遷都等を行ったと考えられる。小郡宮造営は六四七年であるから、こうした見地からも小郡宮が同時に明日香宮と呼ばれていた可能性が高い。
 但し、長者屋敷遺跡や井上廃寺が十分に調査されていない現状から、これらの何れかにあたる可能性もあり、井上地区一帯の遺跡群の中での一応の推定の域を出ない。今後の発掘調査に期待したい。

(註11)紙面の都合上、万葉歌の全文は示せないが、歌は山口大学教育学部吉村教授の万葉集テキストを「万葉集検索システム」化したものから引用しており、このシステムはネット上で公開されているので参照頂ければ幸いである。

(註12)御井高良御子神社の祭神は「斯禮加志命、朝日豐盛命、暮日豐盛命、渕志命、谿上命、那男美命、坂本神、安子奇命、安樂應寳祕命」
 「九躰ノ王子ハ高良ニ住ミ厭キテ阿志岐・古宝殿城ニ下リ給フ」(「王子宮〈高良御子神社〉由来」)
 阿志岐山と古宝殿城については、古賀達也「九州王朝の築後遷宮ー玉垂命と九州王朝の都」(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集一九九九年新泉社)参照。可能性として、「安子奇命」自体が本来「アスカ(安子可など)」だったとも考えられる。

(註13)万葉歌で地名が変えられている例として、古田氏は万葉二五番、二六番歌と三二九三番歌をあげ筑紫の「耳我嶺(三根)」が「耳我山」、そして大和の「御金嶽(金峰山)」に換えらたとされる。

(註14)『太宰管内志』)古賀達也「筑後地方の九州年号」(「古田史学会報」四四号 二〇〇一年六月)

(註15)常色元年(六四七)に小郡宮を築き、諸改革を実施し、難波宮を造営、白雉と改元したのは『書紀』では近畿天皇家の孝徳とされるが、本来は九州王朝の天子「伊勢王」と考える。『書紀』で伊勢王は斉明七年に崩御とされ、九州年号白鳳改元と一致する。かつ、替わって軍事を引き継いだとする皇太子も中大兄ではなく「薩夜麻=明日香皇子」であれば、万葉歌に見る半島での活躍や、捕虜となり唐に抑留されたとの経過とよく合致する。
 九州王朝の伊勢王・薩夜麻は『書紀』編者により、近畿天皇家の孝徳・天武らにすり替えられたのだ。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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