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九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について
川西市 正木 裕
一、「法興・聖徳・始哭」年号とは何か
古田武彦氏が九州王朝の年号として「再発見」された九州年号については、古田史学会諸氏の熱心な発掘運動や研究により、その本来形は、ほぼ『二中歴』の通りと考えられ、また近年古賀達也氏が「大長」を「大化」以降の九州年号として位置づける等、その研究に深化が見られるところだ。
そうした研究のなかで「謎」とされる年号に「法興・聖徳・始哭」がある。これらには多利思北孤等との関連が伺え、九州王朝に関すると思われるが、『二中歴』には不存在である上、その諸年号と重複する等の矛盾があり、古田氏はこれら年号を捉え、兄弟統治に見られる九州王朝の「二元制」と関連があるのではとされている。(註1)
本稿では
(1).法興・聖徳は、本来は多利思北孤とその太子「利(利歌彌多弗利)」の法号(法名)であり、これが彼らの法号授与後の年期として記されたもの、
(2).始哭は多利思北孤が高良玉垂命の崩御に際し「哭礼」を始めた記録が「年号」の様に誤解されたもの
であって、何れも仏教に深く帰依した九州王朝の天子の事跡を示す事を述べる。
先ず各年号についての概観を示そう。
1、「法興」年号について
「法興」年号は『法隆寺釈迦三尊像光背銘』や『伊予国風土記逸文』『長光寺縁起』『上宮法王帝説』『聖徳太子傳私記』『太子像胎内納入文書』他に残る(後に詳述)。
こうした資料では、「法興」は法興元世・法興元とも書かれ、その元年は辛亥(五九一)で崇峻四年にあたり、末年は三二年壬午(六二二)で推古三〇年となる。以降は仁王元年癸未(六二三)~十二年甲午(六三四)に続く。
そして「法興」は『二中歴』他に記す九州年号「端政」から「倭京」までと以下の通り重複する。
■『二中歴』( )は筆者注。
(1).端政 五(年間・元年)己酉(五八九~五九三) (細注)自唐法華経始渡
(2).告貴 七 甲寅 (五九四~六〇〇)
(3).願転 四 辛酉 (六〇一~六〇四)
(4).光元 六 乙丑 (六〇五~六一〇)
(5).定居 七 辛未 (六一一~六一七) (細注)注文五十具従唐渡
(6).倭京 五 戊寅 (六一八~六二二) (細注)二年難波天王寺聖徳造
2、「聖徳」年号について
「聖徳」年号は『海東諸国記』『襲国偽僭考』『麗気記私抄』『茅[窗/心]漫録』『如是院年代記』や諸寺社の縁起等に広く記されている(後述)。これら資料によると聖徳は「聖聴・正徳・聴徳・宗朝・聖暦」とも書かれ、聖徳三年辛卯(六三一年『園城寺伝記』他)、聖徳六年甲午(六三四年『役行者本記』他)とあるから、元年は己丑(六二九)舒明元年で、末年は六年甲午(六三四)舒明六年となる。以降僧要元年乙未(六三五)~五年己亥(六三九)に続く。
[窗/心]は、窗の下に心。JIS第3水準ユニコード7ABB
この年号も『二中歴』の仁王と重複する。
(7).仁王 十二 癸未(六二三~六三四) (細注)自唐仁王経渡仁王会始
3、「始哭」年号について
「始哭」は『和漢年契』や『茅[窗/心]漫録(ぼうそうまんろく)』に見られる。(以下は上記二書が収録されている『古事類苑』から抜粋)。(註2)
■『和漢年契』「凡例」推古帝之時(略) 告貴〈十年終。按一説推古元年為喜楽。二年為端正。三年為始哭。自四年至十年、為法興。是四年号、通計十年而終。与告貴年数正相符。十年之間、蓋与告貴互相行也耳。始哭一作大〉
■『茅[窗/心]漫録』
告貴〈推古帝二年甲寅改元、七年終、年代、皇代記、春秋暦略皆同、諸國記告貴作從貴、一本作告言、如是院記二年改元、作告貴、〉
始哭〈推古帝三年乙卯改元、一年終、見古代年號、〉法興〈推古帝四年丙辰改元、五年終、見古代年號(以下略)〉
これら資料では「始哭」元年を推古三年乙卯(五九五)とする一方で、「端正(政)元年→始哭元年→法興元年」とし、始哭は両年号の間の存在とする。
「端正(政)元年」は殆どの九州年号資料で推古二年(五九四)ではなく崇峻二年(五八九)が元年で、法興も先述の通り崇峻四年(五九一)が元年だ。従って、これらの年号を推古期とするのは推古天皇との接合を図った結果の産物であり、始哭の本来形は端政元年と法興元年の間の五九〇年(或いは、端政の別系列と見れば五八九~五九〇年)と考えられる。なお「始大」は字形から「始哭」の変形と推測される。
二、法興年号の正体について
1、「法興」の記述事例
以下三年号の正体について、各資料をもとに詳しく検討を進める。
先ず「法興」について、その代表記述事例である『釈迦三尊像光背銘文』の分析から始めよう。
i 、『釈迦三尊像光背銘文』
■『釈迦三尊像光背銘文』 *( )内は筆者注
法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼(推古二九年六二一)前太后崩明年(推古三〇年六二二)正月廿二日上宮法皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並著於床時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐癸未年三月中(推古三一年六二三)如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳具竟乗斯微福信道知識現在安穏出生入死随奉三主紹隆三寶遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造
この銘文は、上宮法皇やその太后の疾病と登遐・即世、王后・太子の愁毒・釈迦三尊像造立の経緯等を記す。古田氏は
(1).法皇の登遐年月日「癸未年(六二二)二月二二日」は、『書紀』に記す聖徳太子の薨去年月である「推古二十九年(六二一)春二月己丑朔癸巳(五日)」と相違する。
(2).「鬼前太后」や「干食王后」も太子の母・妻の名と合わない。
(3).「上宮法皇の『法皇』とは、明らかに仏教の僧籍に入った天子の意味である」が聖徳太子が僧籍に入った形跡は無い。
等から、「法皇とは聖徳太子ではなく、九州王朝の天子『多利思北孤』」であって、「法興元」は多利思北孤の年号とされている。(註3)
ii 、「伊予温湯碑」
また、『釋日本紀』に引用の『伊予国風土記逸文』中の「伊予温湯碑」には、法興六年(五九六)に「法王大王」が伊予を訪れたとある。
■『伊予国風土記逸文』「伊予温湯碑」(『釈日本紀』巻十四)
法興六年(五九六)十月、歳在丙辰。我法王大王、与恵総*(総)法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験。欲叙意、聊作碑文一首。(略)
総*の異体字 公の下に心。JIS第3水準ユニコード5FE9
iii、その他(本会HPによる)
(1).『蒲生郡志 長光寺縁起』法興元廿一年壬子の年二月十八日
(2).『上宮法王帝説』釋曰法興元世一年此能不知也
(3).『聖徳太子傳私記下』法興寺者(略)其時在法興元世一年號
(4).『聖徳太子伝古今目録抄』法興元世一年
(5).『太子像胎内納入文書』法興元世一年
これら資料に現れる「法皇・法王」という語が菩薩天子を自負する多利思北孤に相応しい事は古田氏の指摘どおりだ。
また古賀氏は、「『法王大王』は『釈迦如来大王』と同義であり、また、『法王』は『法華経』に頻出するところ、『二中歴』端正年間(五八九~五九三)に『自唐法華経始渡』とあって、時間的に見て、多利思北孤が仏教に深く帰依し、法王と称し法興と改元(五九一)する動機と考えられる」と述べている。(註4)
三、菩薩天子と法号(戒名・法名)
1、法号(戒名・法名)とは
ところで仏教において受戒し僧籍に入った者には、仏門に入り戒律を守る証として師より戒名(宗派により法名・法号ともいう。以下法華経に因み「法号」を用いる)が授けられる。法号は仏教が中国に伝わった際、字(あざな)・諱(いみな)・道号等の風習を取入れて生れたといわれる。
i 、我国における受戒と法号授与
我国の受戒と法号授与について、天皇では聖武天皇、光明皇后が、天平勝宝元年(七四九)一月に大僧正行基を戒師として菩薩戒を受け出家し(『扶桑略記』『濫觴抄』他)、天平勝宝六年(七五四)四月に鑑真により再度戒を受けた(『鑑真和上東征伝』他)のが初で、聖武天皇の法号は「勝満」、光明皇后は「萬福」であったとされる。
しかし、一般人の受戒はこれを遥かに先行し、『書紀』によれば、敏達十三年(五八四)に、司馬達等の娘(斯末売・嶋)らが恵便の弟子として出家し、「善信」ほかの法号を授けられている。
■『書紀』敏達十三年(五八四)是歳。蘇我馬子宿禰、其の仏像二躯を請せて、鞍部村主司馬達等・池辺直氷田を遣して、四方に使して、修行者を訪ひ覓めしむ。是に、唯播磨国にして、僧還俗の者を得。名は高麗の恵便といふ。大臣、乃ち以て師にす。司馬達等女嶋を度せしむ。善信尼と曰ふ。〈年十一歳。〉又善信尼の弟子二人を度せしむ。其の一は漢人夜菩が女豊女、名を禅蔵尼と曰ふ。其の二は錦織壼の女石女、名を恵善尼と曰ふ。〈壼、此をば都苻と云ふ。〉
ii 、中国「隋」における受戒と法号(註5)
そして、同時代の中国(隋王朝)では、初代王楊堅(文帝)が北周武帝の仏教弾圧から一変して崇仏施策をとり、開皇元年(五八一)には出家を認め、開皇四年(五八四)には、天子の権威とは別に、仏教上の律師の権威を容認した。
■『隋書経籍志巻四』(開皇元年)高祖、普く天下に詔し、任(ほしいまま)に出家を聽す。
■(開皇四年)弟子は是れ俗人(僧に対して、世間一般の人)の天子、律師は是れ道人(仏教の修行をする者)の天子ゆえに、俗を離れむと欲する者有らば師に任せ度せ。(『仏祖統紀』)
更に、開皇五年(五八五)には文帝自らが菩薩戒を受戒した。
■(開皇五年)法経法師を招き、大極殿に菩薩戒を受く。因りて獄囚二万四千九百人を放つ。(『弁正論巻三』)
そして、多利思北孤が『海西の菩薩天子』と呼んだ隋の煬帝(当時は晋王「楊広」)は、天台宗の宗祖である智者大師智[豈頁](ちぎ)に帰依し、開皇十一年(五九一)に智[豈頁]から菩薩戒を授かって「総持」という法号を与えられた。
智[豈頁](ちぎ)の[豈頁]は、JIS第3水準ユニコード9857
■(開皇十一年)智[豈頁]為楊広受戒、正式接受自己入佛門以来政治身組最高的弟子、并授楊広「総持」法号。楊広跪受。
(『中国歴史故事網』)
2、菩薩天子は法号を持つべき
i 、多利思北孤と法号
こうした中国及び我国の仏教の趨勢や法号の授与状況を見れば、仏教を崇拝し自らを「菩薩天子」と位置づけた多利思北孤が法号を持って何ら不思議はない。菩薩は仏門に入り修行する者であって、「法皇」即ち「仏教の僧籍に入った天子」にもあてはまる。そして僧籍に入れば法号を授かる事は当然なのだ。
ii 、五八九年に多利思北孤即位
ところで、『太宰管内志』によれば隋の煬帝が受戒した五八九年に、九州王朝の天子の系列とされる高良玉垂命が逝去し、九州年号は「端政」と改元されている。
また『聖徳太子傳記』他によれば聖徳太子が「国政を執行」したのは太子十八才で、これも五八九年とされている。
■『聖徳太子傳記』太子一八才御時春正月参内して国政を執行したまへり。(太子十八才は五八九年・九州年号「端政」元年)
多利思北孤が一般に聖徳太子と置き換えられているのは、前述の釈迦三尊光背についての古田論証により示したところであり、『太宰管内志』九州年号の改元、『聖徳太子傳記』等からも彼がこの年に即位した事が伺える。
iii、百済からの僧侶渡来と受戒
そして、『書紀』ではその前年の崇峻元年(五八八)に百済から「聆照律師」が「恵総法師」らを伴いが来朝したと記す。隋の文帝が「律師に任せ度せ」と詔した「律師」と、伊予温湯碑で「法王大王」と共に伊予に逍遥した「恵総*(総)」だ。
総*の異体字 公の下に心。JIS第3水準ユニコード5FE9
『書紀』によれば、蘇我馬子は彼らに「受戒之法」を問うとあり、続いて崇峻三年(五九〇)には鞍作鳥の父とされる多須奈ら多数が出家し法名を与えられている。
■『書紀』崇峻元年(五八八)是歳、百済国、使并て僧恵総・令斤・恵寔等を遣して、仏の舍利を献る。百済国、恩率首信・徳率益文・那率福富味身等を遣して、調進り、并て仏の舍利、僧、聆照律師、令威・恵衆・恵宿・道厳・令開等、寺工太良未太・文賈古子、鑪盤博士将徳白昧淳、瓦博士麻奈文奴・陽貴文・陵貴文・昔麻帝弥、画工白加を献る。蘇我馬子宿禰、百済の僧等を請せて、戒むことを受くる法(受戒之法)を問ふ。善信尼等を以て、百済国の使恩率首信等に付けて、学問に発て遣す。
崇峻三年(五九〇)是歳、度(いへで)せる尼は、大伴狭手彦連の女善徳・大伴狛の夫人・新羅媛善妙・百済の媛妙光、又漢人善聡・善通・妙徳・法定・照善・智聡・善智恵・善光等。鞍部司馬達等子多須奈、同時に出家す。名けて徳斉法師と曰ふ。
iv、法興は多利思北孤の法号
隋における天子の受戒、国内における受戒の始まり、九州王朝の天子交代、律師来朝といった流れから判断すると、多利思北孤が端政三年(五九一)に仏門に入り、聆照律師から戒を受け法号を授かった可能性は高い。その法号こそ「法興」だったのではないか。
「法興」は、「法興元」と「元」を付けての使用が多い。これは「多利思北孤が仏門に帰依し、法興という法号を得てからの年数を示す」と言う「注釈」の意味なのではないか。
即ち法興は本来の九州年号ではなく、多利思北孤が仏門に帰依してからの年数を示すもの、即ち「法皇」多利思北孤一人に属する仏教上の年期・年号といえよう。(註6)
四、「聖徳」とは何か
1、「聖徳」の記述事例
次に「聖徳」の検討に移ろう。
「法興」同様に「聖徳」も『二中歴』にはないが、九州年号資料には広く残されている。古田史学会のHPほかから、その例を拾ってみよう。
(1).『海東諸国記』舒明天皇敏達孫名田村元年己丑改元聖徳六年甲午八月彗星見七年乙未改元僧要三月彗星見二年丙申大旱六年庚子改元命長在位十三年寿四十五
(2).『襲國偽僭考』舒明天皇元年巳丑。聖聴元年とす。如是院年代記に聖徳に作る。1説曰舒明帝之時聖聴三年終
(3).『如是院年代記』【聖徳元】《第三十五代舒明》忍坂大兄皇子之子。敏達之孫。己丑即位。居大和高市郡岡本宮。治十三年。壽四十九歳。
(4).『麗気記私抄』第卅五代舒明帝治元号聖徳元己丑也
(5).『茅[窗/心]漫録』聖徳〈舒明帝即位元年己丑紀元、六年終、年代、皇代、暦略、諸國記皆同、古代年號作聖聽、三年改元、〉
[窗/心]は、窗の下に心。JIS第3水準ユニコード7ABB
(6).『防長寺社由来』舒明天皇之御宇聖徳三歳経七月役小角誕生自聖徳三年辛卯(六三一)・・・御歳七十二歳御入虚)
(7).『金峰山寺古年皇代記』舒明天皇聖徳三辛卯経七箇月・・・役小角誕生是縁起ニ見タリトアリ)
(8).『講私記』(心鑑抄修要秘訣集)役行者舒明天皇聖徳三年辛卯十月二十八日降誕
(9).『長吏由来之記』欽明天皇御宇聴徳三歳辛卯年・・・聖武天王之御子出生給
(10).『園城寺伝記』夫仁経・・・欽明天皇・・・同御宇聖徳三年辛卯九月廿日辰尅
(11).『本土寺過去帳』(千葉県松戸市長谷山本土寺)聖徳三年八月、聖徳五年十一月
(12).『君台観左右帳記』聖徳六年戊巳(甲午か)
(13).『箕面寺秘密縁起』役行者・・舒明天皇御宇正徳六年甲午(六三四)春
(14).『役行者本記』(帝王編年記)役小角行者舒明天皇聖徳六年甲午正月(一説に十月)朔日降誕
これら資料から聖徳元年は六二九年と考えられる。
2、「利」の即位・崩御と「聖徳」
ところで、『釈迦三尊像光背銘文』から多利思北孤の崩御は六二三年で、この年九州年号は「仁王」と改元されている。従って、この年に太子「利(利歌弥多弗利)」が即位したと考えられる。
また、『善光寺縁起集註』には命長七年(六四六)の年号と「斑鳩厩戸勝鬘」の署名の入った文書がある。その内容は善光寺如来に「助我濟度常護念」と祈願するもので、これは死を目前にした者に相応しく、多利思北孤の崩御から二三年という間隔と、翌年に九州年号は「常色」と改元されているところから、末年の「利」の文書と考えられ、「斑鳩厩戸勝鬘」との署名は、「利」もまた聖徳太子のモデルとされていた事を示す。(註7) そうであれば彼も父多利思北孤同様仏門に帰依し、法号を得ていた可能性が高く、それが「聖徳」だったのではないか。
3、「聖徳」の終焉と唐の仏教施策変化
そして「聖徳」年号は九州年号「仁王」とともに六三四年で終る。
『書紀』によれば舒明五年(六三三)唐の高表仁らが帰国。彼はイ妥国において「利」の王子(次代の天子)と礼を争ったとあり、これより二〇年間唐への遣使は途絶え、唐との関係が悪化した様子が伺える。(註8)
■『書紀』舒明五年(六三三)春正月の己卯の朔甲辰(二六日)に、大唐の客高表仁等国に帰りぬ。
■『旧唐書』(倭国伝)貞観五年(六三一)(略)新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。
そして唐の成立により仏教をめぐる環境も多利思北孤時代とは大きく変わっていた。菩薩戒を受けた煬帝は滅ぼされ、唐の高祖は六二六年には仏教・道教の二教を廃毀する詔を発した。玄奘三蔵の訳経事業を支援した次代の太宗(在位六二六~六四九)も、国内政治においては貞観十一年(六三七)に「道先僧後」の詔を発し、道教を上位におき、仏教抑圧施策をとっている。
こうした情勢の変化は高表仁らによって知らされ、また彼らの外交姿勢にも現れていたはずだ。「法皇大王=菩薩天子」の権威を認める事は、唐朝の仏教冷遇方針を体現する高表仁にとって不可能であり、またイ妥国側も天子の仏教上の権威を否定することはできなかったに違いない。
「礼」を争う大きな原因は、仏教と政治の関係についての唐とイ妥国の価値観の差だったと考えられる。
隋における仏教による統治の破綻と、唐の仏教冷遇姿勢を実感した「利」は、表仁帰国後の六三四年に僧籍を離脱する一方、唐と礼を争った王子を中心に唐との関係悪化に対応した集権体制の確立を急ぐ事になったのではないか。
六四六年の「利」崩御後の九州王朝の天子は「礼を争った」王子と推測される。彼は即位後唐・新羅に対し強硬姿勢を貫き、六四七年「常色」と改元し、集権体制確立に向け全国に評制を敷き、「国宰」を創設するなど地方統制を強め、その拠点として難波宮を建設した。また、七色十三階の冠位制度を設け統治機構を強化した。宗教においても「神郡」創設や寺社の改革を進めた。
こうして九州王朝が二代にわたって実践してきた、「法興・聖徳」の二法号に象徴される「仏教を梃子とした支配」は廃され、以降「力による統治」へ大きく転換していく事となる。
六三四年に「仁王」が「僧要」に改元され、同時に、「聖徳」が終わったのはそうした大転換の象徴だったのだ。
五、「始哭」とは何か
1、疑わしい「始哭は年号」
「法興・聖徳」が豊富な資料を持ち、かつ一定の期間存続しているのに対し、「始哭」の資料は貧弱であるばかりか、先掲の通り『茅[窗/心]漫録』は「一年終」とするなど、これが「年号」かどうか「法興・聖徳」より更に疑わしい。
ここで「始哭」元年である五八九年または五九〇年とはどんな年だったのかを見よう。
先述の通り『太宰管内志』によれば、五八九年は九州王朝の天子である高良玉垂命が三瀦で亡くなった年であり、同時に、九州年号が「端政」に改元され、かつ二年後には「法興」が始まることから、多利思北孤の即位年と考えられている。
従ってこの年には玉垂命の崩御に伴う葬儀や、多利思北孤の即位の式典などの行事が盛大に執り行われたと考えられる。崇峻元年から三年にかけての百済からの法師来朝や多数の出家は、高良玉垂命の延命祈願や法要のためとすれば自然に理解でき、また葬儀に関する仏教行事が盛大に開催されたことの裏付けともなるだろう。
2、葬儀と「哭礼」
i 、中国における「哭礼」
ところで、中国では漢代から儒教の影響下、葬儀の際に「哭礼」という儀式が広がった。
「哭礼」とは、葬儀に際し特別な声をあげて泣き、追悼の意思を表示する儀礼だ。
■「中国の葬礼で、墓前や葬式で大声をあげてなくこと。哭礼。諸侯が亡くなった場合は異姓ならば城外でその国に向かって、同姓ならば宗廟で、同宗ならば祖廟で、同族ならば父の廟で哭礼を行う。魯の場合、同姓の姫姓諸侯ならば文王の廟、同宗のケイ*・凡・蒋・茅・胙・祭の場合は周公の廟で行う。」(『春秋戦国辞典』)
また、泣き終わるのは「卒哭」といい、日本では今も卒哭忌(「そっこう」または「そっこく」き)、即ち亡くなった日を含めて百箇日目の法要という仏教上の儀式として続いている。
ケイ*は、にじゅうあしに阜編。JIS第3水準ユニコード90A2
「卒哭」という泣き終わりの儀式があるなら、「始哭」もあってしかるべきなのではないか。
端政元年(五八九)に高良玉垂命の崩御を受け、後を継いだ多利思北孤がその葬儀と「哭礼」を執り行うのは極めて自然なのだ。
ii 、我国における「哭礼」
葬儀において「哭」すること自体は『書紀』で天稚彦の殯に「而於天作喪屋殯哭之」とあるから、相当古い習慣だと思われる。
信頼性のある記録では『魏志倭人伝』に倭人は葬儀に際し、喪主が十余日間哭泣するとある。
■その死には棺あるも槨(墓室)なく、土を封じて冢(塚)を作る。始め死するや十余日にして喪を停む。時に当りて肉を食わず、喪主は哭泣し、他人は就きて歌舞飲酒す。巳に葬れば、家を挙げ水中に詣(いた)り、澡浴(そうよく=水浴び)し、以って練沐(れんもく=練り絹を着て沐浴すること)の如くす。
『書紀』では五世紀允恭の崩御に際し新羅王が弔問の使節を送り、彼らが各所で「大哭・歌舞」したとある。
■允恭四二年癸巳(四五三)春正月乙亥朔戊子(十四日)に、天皇崩りましぬ。時に年若干。新羅の王、天皇既に崩りぬと聞きて驚き愁へて調船(八十艘と種々の楽人八十を貢ぎ上ぐ。是に対馬に泊し大哭す。筑紫に到り亦大哭す。難波津に泊するに、則ち皆素服し、悉に御調を捧ぎ、且つ種種の楽器を張す。難波より京に至るに、或は哭泣し、或は歌[イ舞]し、遂に殯宮に参会す。
なお新羅弔使らが喪礼を終えて帰還するのは同年十一月だから、殯は一年弱となろう。
そして七世紀初頭の『隋書』イ妥国伝では、阿蘇山のあるイ妥国即ち九州では、貴人の殯は三年であると記す。(但し、満三年か足掛け三年かは不明)
■死者は棺槨に収め、親しき賓(客)は屍に就き歌舞す。妻子兄弟は白布を以て服を製る。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜ひて埋*(埋)む。葬に及ぶや、屍を船上に置き、陸地に之を牽く、或いは小輿を以てす。阿蘇山あり、其の石故無くして火起し天と接するに、俗以て異となし、因りて檮*祭を行う。
[イ舞]は、人偏に舞。JIS第4水準ユニコード511B
埋*は、埋の別字。JIS第3水準ユニコード761E
イ妥国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。
檮*は、木編の代わり示編。JIS第3水準ユニコード79B1
そして、『隋書』高麗(高句麗)伝ではその間「哭泣」するとされる。
■「死者は屋内に殯し、三年を経て吉日を択びて葬す。 居する父母及び夫の喪では皆三年、兄弟では三月服し、初めて哭泣を終る」
従って当然玉垂命の殯に於いても哭泣の儀礼が行われ、埋葬まで続いたと推測される。その主催者は当然次代の天子たる多利思北孤となろう。この「哭泣の儀礼」を始めたという多利思北孤の事跡が、玉垂命の崩御年の「端政」元年(五八九)あるいは翌年(五九〇)にかけての記録として残り、「法興」とセットで「年号」であるかのように伝承したのではないか。
この考えについて本会の西村氏から、「『二中歴』細注はその年の九州王朝の出来事を記録したものであり、これには『始』の字が頻出する。始哭もこうした記録がまぎれこんで九州年号のように錯覚されたものではないか」との意見を頂いている。たとえば「始哭礼」とかだった可能性だ。
『二中歴』細注には当然ながら「原資料」があったはずで、そこにはもっと豊富な九州王朝の事績が記されていたことは確実だ。
「始哭」はその断片を我々に垣間見させてくれているのかもしれない。
(参考)『二中歴』細注の「始」(十六中九箇所)
1善記(同三年発誰成始文善記以前武烈即位)
2教到(舞遊始)
3明要(文書始出来結縄刻木止了)
法清(法文〃唐渡僧善知傳)
蔵和(此年老人死)
4和僧(此年法師始成)
鏡當(新羅人来従筑紫至播磨焼之)
5端政(自唐法華経始渡)
定居(注文五十具従唐渡)
倭京(二年難波天王寺聖徳造)
6仁王(自唐仁王経渡仁王会始)
僧要(自唐一切経三千余巻渡)
7白雉(国々最勝会始行之)
白鳳(対馬採銀観世音寺東院造)
8朱雀(兵乱海賊始起又安居始行)
9朱鳥(仟陌町収始又方始)
(註1)古田氏は『失われた九州王朝』でこれらの年号を指摘され、また各々の実年については、「『両京制』の成立 -- 九州王朝の都域と年号論」(古田史学会報三六号・二〇〇〇年二月)において「主幹系列の端政」の別系列として、「端正(五八九~五九〇)」「始哭(五八九~五九〇」「始大(五八九~五九〇)」「法興(五九一~六二二)」と記されている。
(註2)『古事類苑』(歳時部一・年號・逸年號)による。『古事類苑』は明治政府が明治十二年(一八七九)に編纂を開始、明治二九年(一八九六)から大正三年(一九一四)にかけ出版した前代までの文化資料を集大成した大百科辞典。
『和漢年契』は寛政十年(一七九八)高安蘆屋(高昶)著の日本と中国の帝王の系譜・年号を比較した資料。
『茅[窗/心]漫録』は文政十三年(一八三〇)茅原虚斎(一七七四-一八四〇)著の随筆。一種の百科事典的見聞録で魑魅魍魎に詳しいことで有名。
(註3)古田武彦著『失われた九州王朝』 -- 天皇家以前の古代史(一九七三年八月朝日新聞社)、同『古代は沈黙せず』(一九八八年六月駸々堂)同氏講演「釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった」(一九九八年十月豊中市立生活情報センター)ほか多数。
(註4)古賀達也著「日出ずる処の天子」の時代 -- 試論・九州王朝史の復原」(『新・古代学』古田武彦とともに 第五集 二〇〇一年 新泉社)
(註5)この項は小山満著『敦煌隋代石窟の特徴』(『創大アジア研究』第十三号一九九二年三月)に負う事大である。
(註6)「法興」は「仏法興行」と云う用語で、多利思北孤関連資料に散見する。これからも「法興」年号は多利思北孤が仏法興行して○○年の意味を持つといえる。
■『平家物語』長門本(国書刊行会蔵本) 平家物語巻第五 厳島次第事
「(前略)厳島大明神と申は、旅の神にまします、仏法興行のあるじ慈悲第一の明神なり、婆竭羅龍王の娘八歳の童女には妹、神宮皇后にも妹、淀姫には姉なり、百王を守護し、密教を渡さん謀に皇城をちかくとおぼして、九州より寄給へり、その年記は推古天皇の御宇端政五年(五九三)癸丑九月十三日、(後略)」
これは九州年号端政五年に厳島大明神が「九州」から来たという内容で、宗像三女神と接合されてはいるが、年次的に多利思北孤の事績と考えられる。彼は「仏法興行のあるじ」といわれているのだ。(厳島神は「旅の神」(『古賀達也の洛中・洛外日記』第二六七話二〇一〇年六月)
(註7)『善光寺縁起集註』
■御使 黒木臣 名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩 仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念 命長七年丙子二月十三日 進上
本師如来寶前 斑鳩厩戸勝鬘 上
古賀達也「『君が代』の『君』は誰か -- 倭国王子『利歌弥多弗利』考」(古田史学会報一九九九年十月十一日三四号 小題「善光寺文書の『命長の君』」
(註8)『通典』(唐の杜祐編纂の古代から唐玄宗代までの政書)に「由是遂絶」とある
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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