「筑紫なる飛鳥宮」を探る 正木裕(会報103号)
筑紫なる「伊勢」と「山邊乃 五十師乃原」 正木裕(会報108号)
磐井の冤罪 I ・ II ・III・IV
論争のすすめ 上城誠(会報105号)
金石文の九州王朝 -- 歴史学の転換 古田武彦
生涯最後の実験へ 古田武彦
論争の提起に応えて
川西市 正木 裕
古田史学会報一〇五号で上城氏から貴重なご指摘を頂いた。氏の主旨は、「正木は古田氏や古賀氏はじめ古田史学会各位の説を多く引用しているが、それらの説の正当性を十分検討した上での引用なのか。会報の紙面からは判断できないので、この点を確認したい」というものと理解する。
確かに、引用する説について、別の紙面や研究会等で既に見解を発表済みのものは、紙面の都合上再述・再掲を略しているので、上城氏の疑問と指摘は至極尤もといえる。幸い良い機会を与えて頂いたので「『古事記』序文の壬申大乱」を例に再度見解を述べ、また「阿志岐=明日香」説についての疑問にも併せてお答えしたい。
なお本稿の前提として、是非古田氏の『壬申大乱』(東洋書林二〇〇一年)をお読み頂きたい。
一、『古事記』序文の壬申大乱
古賀達也氏の「夜水=筑後川」「南山=高良山」説の検討に際し重要なのは、古賀氏の論には、上城氏も引用されている通り「古田氏が指摘されたように、壬申の乱の吉野を佐賀県吉野とするならば」との前提がある事だ。
1、古田氏指摘の「佐賀なる吉野」
詳しくは論じ得ないが、私は以下の理由で古田氏の「佐賀吉野」の論証の正当性を疑う事が出来ない。
(1).『書紀』で持統は三一回の行幸中、厳冬期(旧暦十二月~二月)に八回も行幸している。
(2).人麻呂の万葉歌(三六番?三八番)で「瀧の宮処」と呼び、大宮人が「舟並めて舟競」ったとするが、大和吉野にはそのような滝や川は無い。
(3).天武の万葉歌(二五番、二七番)の「耳我の嶺」や「多良人」等、大和では意味不明だが、佐賀なら「嶺の県・耳田」や有明湾岸に「多良」がある。
また何よりも、大和吉野の河畔の宮では臣下や兵を入れる余地もなく、「袋のねずみ」のような状況であるのに、「虎に翼をつけた」と恐れられたのは極めて不自然なのだ。
加えて嘉瀬川や吉野ヶ里遺跡等、現地佐賀の状況を踏まえた古田氏の「天武の逃れた吉野は佐賀吉野である」との説は極めて説得力があるからだ。
そして、吉野が佐賀吉野であれば「夜水」「南山」は筑後川と高良山一帯以外に無いことは明らかだろう。若し違うというなら佐賀吉野周辺で別途夜水・南山を探さねばならないが、これも私には不可能であり、従って「佐賀吉野」を前提とする限り、古賀論証の正しさは認めざるを得ない。
2、太安万侶の乱の認識
しかし、問題は『古事記』序文の壬申の乱が「佐賀吉野」を認識した上で書かれたのかだ。もし、『書紀』と同一の認識で、極端にいえば『序文』は『書紀』を要約し文飾を施したにすぎないものだったなら(通説はこの見解だ)、当然に「夜水」は「名張の横川」、「南山」は「吉野山」となる。
もちろん、近畿天皇家元明への上表文であるから、『書紀』と全く異なる内容に出来ないのは当然だ。しかし、和銅五年(七一二)に『古事記』を上表した太安万侶が、四〇年前の壬申の乱の実際の経緯を知らないとは考えがたい。従って歴史の真実が「佐賀吉野」なら、その認識、つまり『書紀』とは異なる乱の経緯が何らかの形で『序文』に反映されている可能性があると思われる。
3、『序文』と『書紀』の壬申の乱の認識差
そして、事実『序文』と『書紀』では乱の経緯について認識の差、叙述の差が見られるのだ。
(1).『序文』では天武の挙兵の経緯を次の様に記す。
i 、夢の歌を開きて業を纂がむことを相(おも)ひ、夜の水に投(いた)りて基を承けむことを知りたまひき。
ii、然れども、天の時未だ臻(いた)らずして、南山に蝉蛻(せんせい せみの抜け殻・世俗を超越する事)し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。
つまり、『序文』ではa「夜水で基を承けむ(皇位に就く)啓示を得る」→b「天の時至らず南山に蝉蛻」→c「人事共給はり東国に入る」と言う順なのだ。
(2).一方、『書紀』で天武は天智十年(六七一)十月庚辰(十七日)に出家(これは語義から「蝉蛻」といえよう)。壬午(十九日)に吉野宮に入り、翌天武元年(六七二)六月二二日に挙兵し、二四日に東国に入っている。
i 、『書紀』天武元年六月壬午(二二日)(略)「急すみやかに美濃の国に往りて(略)、機要を宣ひ示して、先ず當郡の兵を発おこせ。仍、国司等に経ふれて、諸軍を差し発して、急に不破道を塞げ。朕、今発路たたむ」とのたまふ。(略)甲申(二四日)是の日に、途発ちて東国に入りたまふ。
そして、東国入りに際し皇位に就く啓示を得る。
ii 、『書紀』天武元年(六七二)六月甲申(二四日)(略)夜半に及いた)りて、隠郡なばりのこほりに到りて、隠の騨家うまやを焚やく。因りて邑の中に唱よばひて曰はく、「天皇、東国に入ります。故、人夫諸参赴もうこ」といふ。然るに一人も来肯へず。横河に及らむとするに、黒雲あり。広さ十余丈にして天に経わたれり。時に天皇異あやしびたまふ。則ち燭を挙げて親ら式ちくをとりて、占ひて曰はく、「天下両つに分れむ祥さがなり。然れども朕遂に天下を得むか」とのたまふ。
このように、『書紀』ではa「出家し吉野宮に入る」→b「東国に入る」→c「横河で皇位に就く啓示」と言う順となり、「夜水=横河」、「南山=吉野山」とすれば、
(1).『序文』夜水→南山→東国、
(2).『書紀』南山→東国→夜水と、両書で天武の行動の経緯・順序が全く異なってくる。
4、古田説と整合する『序文』の経緯
そして『序文』の経緯と順序は、『書紀』の記す経緯と合わず、かえって古田氏の説(天武は佐賀吉野に入り、唐等の支援を取り付けて挙兵した)と良く整合するのだ。
翻えって、古田氏の古代史の諸発見の端緒は『書紀』と『古事記』の記述の差の分析であった。この方法論を『古事記』序文の壬申大乱の分析にも適用すれば、天武の逃れた吉野は佐賀吉野であり、夜水は筑後川、南山は高良山である可能性は極めて高いものとなろう。
ちなみに「一夜川」→「夜水」と、「横河」→「夜水」のどちらがより妥当なのか。少なくとも「後者は是」、「前者は非」とは言い切れないのではないか。また『記』・『紀』・『万葉』で吉野山を南山と呼んだ例を私は知らない。(注1)
5、「夢の歌」譚が語る『古事記』抹消理由
もう一つ『序文』にあって『書紀』に無いのは「夢の歌」譚だ。この挿話があることによって壬申の乱の性格が一変する。
『序文』だと天武の挙兵動機は「夢の歌」、すなわち「『夢の告げにより』自ら皇位簒奪を決意し、好機の到来を待って挙兵した」となる。
一方『書紀』での動機は近江朝の天武討伐準備の武装だ。従って「天武は皇位を譲って隠棲したにもかかわらず、近江朝は彼を滅ぼそうとしたため、やむなく挙兵した」となる。
どちらが「反乱の名分」となりうるか、『書紀』の方なのは明白だろう。『序文』では天武は「無法な簒奪者」と解釈されかねない。いや、天武のみならず近畿天皇家の統治の正当性まで脅かされる事となる。(注2)
ここに『古事記』が近畿天皇家の史書としては採用されず、『書紀』を改めて編纂した動機の一端が伺えるのではないか。
『古事記』は近畿天皇家にとって、「統治の正当性」を証明するための「歴史改ざん」が「不徹底」であり「不十分・不満足」な史書だったのだ。
以上、こうした論拠で古賀論文を正当として引用した事、ご理解頂きたい。
二、「人事共給はりて」の解釈問題
第二点の「人事共給はりて」については上城・古賀両氏ともに「そなわり」ではなく「たまわり」とする点で差はない。隠れた主語を天とするか唐とするかの違いだ。上城氏は文理上「天」と見るべきとされ、この見解も理解できる。
1、古賀氏の論拠
ただ古賀氏は、「唐」から軍事支援を得たという論拠を、二つあげている。
(1).『釈日本紀』に天武が唐人に戦略を聞いたとする記事があること。
i、磐鍬見兵起乃逃還之
私記曰、案、調連淡海、安斗宿禰智徳等日記に云ふ。石次兵の起るを見、乃ち逃げ還る。既に天皇、唐人等に問ひて曰はく「汝の国は数た戦の国なり。必ず戦術を知らむ。今如何」とのたまふ。一人進みて奏して言はく「厥れ、唐国、先に覩者を遣はし、以て地形の険平及び消息を視しむ。師を出す方は、或は夜襲、或は昼撃す。但し深き術は知らず」といふ。時に天皇、親王に謂はく、云々(『神道大系 古典注釈編五 釈日本紀』)
(2).古田氏から、万葉二七番歌「天皇、吉野の宮に幸しし時の御製歌、「淑き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見」(淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 多良人四来三)」中の「多良人」を有明海沿いの多良と見る見解が示されていること、これらはいずれも有力な論拠となりうるから、主語を「唐」とする古賀氏の見解を文理解釈だけからは否定しづらいのではないか。
2、「唐人」は筑紫に滞在していた
これに加え、私としては乱直前の天武元年五月まで唐の郭務宗*等「唐人」が筑紫に滞在していたこと、また郭務宗*と共に、筑紫君薩夜麻も捕囚となっていた唐から帰国していたことを論拠に挙げたい。天武が天智十年に「佐賀吉野」に入っていたとすれば、当然彼等に会っている筈なのだ。
i、『書紀』天武元年三月己酉(十八日)に、内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇の喪を郭務宗*等に告げしむ。
ii、『書紀』天武元年(六七二)夏五月壬寅(二二日)に、甲冑弓矢を以て、郭務宗*に賜ふ。是の日に、郭務宗*等に賜ふ物は、総合て?一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。
従って「人事共給はりて」については「唐」だけでなく「九州王朝」も隠れた主語であり、「天恵により、唐や九州王朝(唐から帰国した薩夜麻)から軍事支援を給わり」との意味を持つと考える。
三、「阿志岐=明日香」について
古田氏は『壬申大乱』に於いて、小郡井上地区の「飛鳥(飛嶋)」地名や朝倉「麻底良山」に「明日香皇子」が祀られている事等を踏まえ、井上地域が本来の「飛鳥」であり、「飛鳥浄之宮」の比定地とし、「明日香皇子」は筑紫君薩夜麻の皇子時代の名であるとされた。
1、比定成立の二つの条件
ただし、この説が成立するため必要と思われる条件が二つある。
ひとつは万葉一九六番歌で、皇子の名「明日香皇子」の命名の由来を「御名に懸かせる 明日香川」としているところから、「明日香川」が小郡付近に存在しなければならない。(注3)
また、一九九番歌には「明日香真神原」とあるからには当然小郡一帯が明日香(明日香の原)と呼ばれていなければならない。(注4)
古田氏指摘どおり、筑紫小郡井上地区一帯が飛鳥(明日香)であるとすれば、この条件を満たす川は、かつて「阿志岐川」と呼ばれた宝満川であり、「明日香の原」は宝満川沿いに広がる「阿志岐の野」以外に考えようがない。従って、もし「阿志岐」が「明日香」でないなら「小郡=飛鳥」説の成立は難しくなろう。以下万葉歌を例に「阿志岐」と「明日香」について検討する。(注5)
2、万葉歌と「阿志岐」の可能性
「阿志岐」は小郡から見て、北は阿志岐山(宮地嶽)から阿志岐川(宝満川)が流れだし、川沿いに阿志岐野が広がる。南は三井・山本両郡にわたって中世に阿志岐村が確認され、高良山中にも阿志岐山(古宝殿城のあった妙見山の古名)が存在する。従って、小郡井上一帯は広い意味で「阿志岐」地域に含まれるのだ。
それでは、「阿志岐」と「明日香」の関連はどうなのか。
古田氏は、宝満川はかつて「得川・徳川」と呼ばれたが、江戸時代にこの表記は使われなくなったと述べ、「当代の政治権力」がそれまでの「地名表記」を「消し去った」事例とされた。加えて私は、九州年号大化期から移されたと思われる大化改新詔中に、王や皇子の名を地名から抹消すべきとの趣旨の詔がある事を指摘した。(注6)
『書紀』大化二年(六四六)八月癸酉(十四日)(略)而るに王の名を以て、軽しく川野に掛けて、名を百姓に呼ぶ。誠に可畏かしこし。凡そ王者の号みなは、将に日月に随ひて遠く流れ、祖子みこの名は天地と共に長く往くべし。
そこから、万葉歌当時は「明日香川」と「明日香野」、そして一般に「明日香」と呼ばれていた小郡を含む広い地域が、「阿志岐」に変えられたとの仮説が導かれる。その仮説の裏付けとして会報に幾つかの万葉歌を例示した。
私は「明日香河 逝き廻る岡の秋萩は 今日降る雨に 散(落)りか過ぎなむ」や、注2で挙げた「明日香川 明日だに 見むと思へやも 吾王の 御名忘れせぬ」の例から見て、
「をみなへし 秋萩交る 蘆城の野 今日を始めて 万代に見む」よりも「をみなへし 秋萩交る 明日香の野 今日を始めて 万代に見む」、「玉匣 葦木の河を 今日見ては 万代までに 忘れえめやも」よりも「玉匣 明日香の河を 今日見ては 万代までに 忘れえめやも」の方が「明日・今日・万代」と時の移り行きを歌いこんでいる分技巧的にも優れ、趣も深いと思うのだがどうだろうか。ちなみに(注3)で示した万葉一九六番歌でも「御名に懸かせる 明日香川万代までに はしきやし 吾王の形見かここを」と「明日・万代」とある。
「悪木山 木末ことごと 明日よりは 靡きてありこそ 妹があたり見む」については、「悪木山」だと何故「明日よりは」と詠んだのかが不明確だが、「明日香山」だと「その名のとおり明日よりは」と文意が通る。
「明日香河 逝き廻る岡の秋萩は 今日降る雨に 散りか過ぎなむ」が、例えば「吉野川 逝き廻る岡の秋萩は 今日降る雨に 散りか過ぎなむ」であれば、感覚の問題ではあるが平凡な歌となるように思う。何とでも置き換えられる語句(〇〇川)と、下の句(今日)と連携して意味を深める役割の語句(明日)とは、その働きが大いに違うのではないか。
繰り返すと、古田氏の「小郡飛鳥」説の成立の為には、付近に明日香川が流れ、一帯が明日香と呼ばれていた事が必須条件。これを満たす川は「阿志岐川」、地名は「阿志岐」しか無い。従って、かつての明日香は消され、阿志岐と改名されていなければならない。私は、消された明日香のかすかな「痕跡」が万葉歌にある可能性を指摘し「小郡飛鳥」説の補強としたのだ。
次に「可能性として、『安子奇命』自体が本来『アスカ(安子可など)』だったとも考えられる」と述べたのは「明日香皇子」が「安子奇命」に「変えられた可能性」に触れたもので、「音韻変化」を言わんとしたものではない。
ただ、安易に「アスカ」に「安子可」の漢字を充てたのは軽率であり、ご指摘に感謝し削除したい。(注7)
3、「耳我の嶺」と「御金が岳」
「耳我の嶺」と「御金が岳(今「青根ケ峯」に擬す)」については、大和に「耳我の嶺」はないから、「御金が岳」に書き換えられたのは確実だと考えられる。ただ幸いにして二五番歌と三二九三番歌の両方が残っていたから「書き換え」が判明したのであり、若し三九二三番歌しかないのに「御金が岳は本来耳我の嶺だった」などと言えば、一笑に付されるか、発狂したかと思われるだろう。私は書き換えが明白な例をあげ、万葉歌の地名も都合よく書き換えられ、場合によっては抹消されうる事を示し、「明日香」にもその可能性があると述べたかったのだ。
(二五番歌)「天皇の御製の歌」み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くそ 雨は振りける その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
(三二九三番歌) み吉野の 御金が岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ その雨の 間なきがごと その雪の 時じきがごと 間もおちず 我れはぞ恋ふる 妹が直香に
以上、不十分ではあるが上城氏のご指摘に答えさせて頂いた。研究会での活発な論争が会報では全国の会員各位に伝えられていないという上城氏の貴重な、かつ重要な指摘については、今後よく検討し改善すべき課題だと考える。
ちなみに、昨年の「禅譲・放伐シンポ」などの試みは、相互の議論や検討の過程を明らかにする意味で有効だったのではないだろうか。
なお「阿志岐が明日香に変えられた」との仮説については八月の古田史学会関西例会で議論され、古賀氏からは「万葉歌だけでは論拠が不十分ではないか」、西村氏からは「権力が地名を変えたなら、明日香を連想させない、全く異なる地名にするはず」との指摘があった。当時は「宝満(川)・宮地(嶽)・妙見(山)」等「好字二字」に変えられた可能性はあるが「阿志岐」地名も残存しており、今後「小郡明日香」説については資料や伝承・地名等の調査が一層必要となると実感したことを付記したい。
(注1)『筑後国風土記』の磐井の乱記事中に南山が見える。「豊前の國上膳の縣に遁れて、南山の峻しき嶺の曲に終せき。ここに、官軍、追ひ尋ぎて、蹤を失ひき。士、怒泄まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき」。この南山は豊前の南の嶺を指すはずだが、南山に磐井を追ったが見失い、筑後岩戸山古墳の石人・石馬を破壊したとするのは不自然。戦いは三井郡だから「三井郡で戦い、磐井が高良山(耳納連山)に隠れ見失なった為、八女の石人・石馬を破壊した」というのが自然だ。この場合も南山は高良山となる。
(注2)「夢の歌」については、八月の関西例会に於いて古賀・西村両氏の示唆があった。
(注3)万葉一九六番歌)明日香皇女木(乃倍)殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ(略)吾王の 立たせば(略)御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて (略) 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 吾王の 形見かここを (一九八番歌)明日香川 明日だに 見むと思へやも 吾王の御名忘れせぬ
題詞には「明日香皇女」とあるが、次の万葉一九九番歌と比較し、(1) 共に殯宮の歌。(2) 同じ「城上の宮を 常宮と」する。(3) 「明日香真神原と明日香川」と「明日香」地名も共通。(4) 一九九番歌と連続する等から、両歌は同一人、即ち「薩夜麻」を偲ぶ歌と考えられる。
(注4)会報で述べた通り、この歌が夏の戦の壬申の乱での高市皇子の活躍を偲んだものではないのは明白。明日香宮を造営し崩御(磐隠り)した父(吾大王)と、白村江直前の厳冬の半島で戦った皇子(吾王)薩夜麻を歌ったと考えられる。
(一九九番歌)高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
(1) (父大王)かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に 久堅の 天つ御門を 畏くも 定め賜ひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 吾大王(略)
(2) (皇子薩夜麻)東の国の 御いくさを 召し賜ひて ちはやぶる 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任し賜へば(略)
(3) (厳冬の戦い)み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向ひしも(略)百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ(以下略)
(注5)小郡の他の川、たとえば井上地区の小水路を明日香川とし、小字「飛鳥」のみを明日香とする可能性もないではない。しかし、「明日香真神原」とあるから相当の広さを有するはずで、かつ九州王朝の皇子の名を採るべき著名な川や地名とは想定しがたいのではないか。
(注6)近畿天皇家では天長十年にも山川に尊名をつけるのは諱に触れるとの詔を発している。近畿天皇家は、表面上こうした理由をつけ九州王朝ゆかりの地名を消したのではないか。『続日本後紀』天長十年(八三三)「天下諸国、人民姓名及郡郷山川等号、有触諱者」
(注7)「奇」を「カ」と読む事例は『書紀』万葉に散見される(『日本漢字音の歴史』沼本克明)が、「子」を「ス」にあてた例は十二世紀からと言われている。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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