2011年10月 8日

古田史学会報

106号

1,新年賀詞交歓会
「古田武彦講演」(要約)
 文責 大下隆司

1、論争の提起に応えて
 正木裕

2、「邪馬一国」と
「投馬国」の解明
倭人伝の日数記事を読む
 野田利郎

3、唐書における
7世紀の日本の記述の問題
 青木英利

4、反論になっていない
古賀氏の「反論」
 内倉武久

5,磐井の冤罪 I
 正木 裕

6、史料紹介
 古谷弘美

 

古田史学会報一覧

九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について(会報104号) 正木 裕

磐井の冤罪 I II IIIIV


磐井の冤罪 I

川西市 正木 裕

一、盗用と入れ替えの磐井の乱

 『書紀』継体紀に記す「磐井の乱」について、古田武彦氏は『失われた九州王朝』では、「継体の乱」であるとされたが、『古代に真実を求めて』第八集(二〇〇五年)では「磐井の乱はなかった」という立場をとられている。
 この最近の古田説を踏まえ「磐井の乱」の記事を再検討した結果として、本稿では、『書紀』の磐井の乱に関する記事のほぼ総てが、人物やエピソード、年代の入れ替え手法で編纂されており、記事中の磐井の言と行動は、別人の別の時点におけるものとすり替えられている事を明らかにする。

 

1、『書紀』に記す磐井の罪状

 言うまでもなく「磐井の乱」とは次の事件だ。「筑紫国造磐井」が反乱を起こし、任那復興の為継体天皇が派兵した近江毛野臣の軍を妨げた。そこで物部麁鹿火を送り、磐井を斬り筑紫・火・豊国を奪還した、というもので、継体二一年六月条には「磐井の乱語なめりごと」をはじめとする彼の悪行・罪状の数々が列記されている。以下磐井の乱の記事全文を掲げる。
【記事A】『書紀』継体二一年丁未(五二七)の夏六月の壬辰朔甲午(十三日)に、近江毛野臣、衆六万を率て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・喙己呑を為復し興建てて、任那に合せむとす。是に、筑紫国造磐井、(1) 陰に叛逆くことを謨はかりて、(2) 猶預うらもひして年を経。(3) 事の成り難きを恐りて、恒に間隙を伺ふ。新羅、是を知りて、密かに貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏へよと。是に、磐井、火・豊、二つの国に掩おそひ拠りて、使修職つかへまつらず。外は海路を邀へて、(4) 高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢みつきものたてまつる船を誘わかつり致し、内は任那に遣せる毛野臣の軍を遮さいぎりて。乱語なめりごとし言揚げして曰はく、「今こそ(5) 使者つかいひとたれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器おなじけにして同食ものくらひき。安んぞ率爾にはかに使となりて、余をして爾が前に自伏したがはしめむ」といひて、遂に戦ひて受けず。(6) 驕りて自ら矜たかぶ。是を以て、毛野臣、乃ち見防遏へられて中途にして淹滞さはりとどまりてあり。天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔して曰はく、「筑紫の磐井反き掩おそひて、西の戎の地を有たもつ。今誰か将たるべき者」とのたまふ。大伴大連等僉みな曰さく、「正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し」とまうす。天皇曰はく、「可ゆるす」とのたまふ。
 秋八月の辛卯の朔に、詔して曰はく、「咨あ、大連、茲惟これこの磐井率はず。汝徂きて征て」とのたまふ。物部麁鹿火大連、再拝おがみて言さく、「嗟、夫れ磐井は西の戎の奸猾かだましきやつこなり。川の阻さがしきところを負たのみて庭つかえまつらず。山の峻たかきに憑りて乱を称ぐ。徳を敗りて道に反く。侮り[女曼]おごりて自ら賢しとおもへり。在昔むかし道臣より、爰ここに室屋に及るまでに、帝を助まもりて罰つ。民を塗炭くるしきに拯すくふこと、彼も此も一時もろともなり。唯天の賛たすくる所は、臣が恒に重みする所なり。能く恭み伐たざらむや」とまうす。詔して曰はく、「良将の軍すること、恩を施して恵うつくしびを推し、己を恕おもひはかりて人を治む。攻むること河の決くるが如し。戦ふこと風の発つが如し」とのたまふ。重また詔して曰はく、「大将は民の司命いのちなり。社稷くにいへの存亡、是に在り。勗めよ。恭みて天罰を行へ」とのたまふ。天皇、親ら斧鉞(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制とらむ。筑紫より西を汝制れ。専賞罰たくめたはひものつみを行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ」とのたまふ。
     [女曼おご ]は、女編に曼。。45ADA

【記事B】継体二二年戊申(五二八)の冬十一月甲寅朔甲子(十一日)に、、大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の帥磐井と、筑紫の筑紫御井郡に交戦ふ。旗鼓相望み、埃塵ちり相接げり。機を両つの陣の間に決さだめて、万死みをすしつる地を避らず。遂に磐井を斬りて、果して橿場さかひを定む。十二月に、筑紫君葛子、父のつみに坐りて誅つみせられむことを恐れて、糟屋屯倉を献りて、死罪贖あがはむことを求まうす。

2、磐井の悪行・罪状を整理する

 まず【記事A】の中で、磐井は一体どのような「悪行」を行ったとされているのかを見よう。
(1).陰に叛逆くことを謨はかりて→ひそかに謀反を企てる

(2).猶預うらもひして年を経→心で思い、ぐずぐずして実行しない。(岩波注)

(3).事の成り難きを恐りて、恒に間隙を伺ふ→事(謀反)の失敗を恐れ、常に隙(謀反のチャンス)をうかがう。

(4).高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢る船を誘り致し→半島諸国の毎年の職貢船を欺き誘致する。

(5).任那に遣せる毛野臣の軍を遮り、乱語し戦ひて受けず→毛野臣の軍と戦い、半島出兵を妨げる。

(6).驕りて自ら矜ぶ→傲慢でおごり昂ぶる、等だ。

 しかし(1).から(3).までは具体的な行動事実が書かれていない。事実を示さずレッテルを貼る、いわば誹謗・中傷・悪罵の類だ。(4).は古田氏指摘どおり、高麗・百済・新羅・任那が毎年磐井に朝貢しているという事実以上の何者でもない。「誘り致し」というが実際に「欺いて誘致した」事実の記載はない。考えれば当り前で、これら諸国が毎年欺かれるはずもなく、彼らは自発的に磐井に朝貢しているのだ。

3、磐井の悪行は「創作」ではなく「剽窃・盗用」

 九州王朝説の立場からは、こうした「悪罵」は九州王朝の天子たる磐井を貶めるための『書紀』編者の全くの創作・捏造だと考えられてきた。しかしそれはある意味で誤りなのではないか。その理由は次のとおりだ。
 天武・持統紀の「三四年遡上盗用」や斉明紀の「斉明と九州王朝の天子の入れ替え」、孝徳紀の「大化改新記事の九州年号大化からの移転」等の分析を通じ、『書紀』の編纂姿勢は、
(1).九州王朝史書から編者の都合に合わせて記事を剽窃し、一部を改変する。

(2).時間・場所・人名・官職等を入れ替え、潤色して『書紀』に貼り付けるといったものであり、一から記事を創作する姿勢は見受けられない。

 従って磐井の記事も「創作・捏造」ではなく、九州王朝の史書から「盗用」し、時間・場所・人名等を「入れ替え」たものと考えるのが自然なのだ。

4、磐井の悪行はどこから盗用されたのか

  i 、「磐井の乱語」の真実 -- 大将軍」を「使者」というのか
 そうした観点から『書紀』を再考すると、磐井の乱の真相が明らかになる。その鍵は磐井の毛野臣に対する「(1).今こそ使者つかいひとたれ」という言葉だ。毛野臣は任那復興のため六万の軍を率い半島に渡ろうとする将軍で、磐井に対する使者の役目など担っていない。また、半島の例を見ても「使者サジヤ」は正規の官職名だ。当然「将軍ジャングン」とは違う。毛野臣を「使者」と呼ぶのは、何とも不自然なのだ。
*高句麗では十二階の四位に「太大使者テデサジャ」がある。
(尤も磐井を九州王朝の天子だとすれば、そもそも毛野臣に「吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食き」等と言うとは考えられないのだが)

  ii、本当の「使者」といえるのは「調吉士」
 一方、継体紀には数多くの「使者」が記されている。中でも「毛野臣」に関して継体二四年(五三〇)九月条に重要な「使者」の記事がある。毛野臣の半島における悪行・不行状を知った「天皇(継体)」が、毛野臣を召還するため「調吉士」を「皇華之使」として派遣する記事だ。なお、「皇華(こうか)」とは(1).天子・皇室を敬って言う語。(2).勅使を意味する。

【記事C】継体二四年(五三〇)秋九月に、任那の使奏して云さく、「毛野臣、遂に久斯牟羅にして舍宅を起し造りて、淹留とどまりすむこと二歳、〈一本に三歳といふは、去来かよふ歳の数を連ぬ。〉政を聴くに懶(よそほしみ=怠ける・怠る)す。爰に日本人と任那の人との、頻しきりに児息うこめるを以て、諍訟決め難きを以て、元より能判ことわること無し。毛野臣、楽このみて誓湯うけゆ置きて曰はく、『実ならむ者は爛ず。虚あらむ者は、必ず爛れむ』といふ。是を以て、湯に投して爛れ死ぬ者衆おほし。又吉備韓子那多利・斯布利を殺し、〈大日本の人、蕃の女を娶りて生めるを、韓子とす〉。恒に人民を悩して、終に和解あまなふこと無し」とまうす。

【記事D】
是に、天皇、其の行状を聞きて、人を遣はして徴し入る。而に来肯まうきかへず。願しのびに、河内母樹馬飼首御狩を以て、京に奉詣まうでしめて、奏して曰さく、「臣、未だ勅の旨を成さずして、京郷みやこに還入まうでこば、労ねぎらへて往きて虚しくして帰るなり。慚しく悪きこと安いずくにか措かむ。伏して願はくば、陛下、国命を成して、朝に入りて、謝罪うべなひまうさむを待ちたまへ」とまうす。使を奉し後に、更自ら謨はかりて曰はく、
【ア】「其れ調吉士は、亦是皇華の使なり。若し吾より先だちて取帰かへりて、依実あるままに奏聞せば、吾が罪過、必ず重からむものぞ」といふ。
【イ】乃ち調吉士を遣して、衆を率て伊斯枳牟羅城を守らしむ。(乃遣調吉士、卒衆守伊斯枳牟羅城)。
【ウ】是に、阿利斯等、其の細しく砕しきことを事として、期ちぎりし所を務めざることを知り、頻しきりに帰朝かへりまうでねと勧むれども、尚し還ること聴かず。
【エ】是に由りて、悉に行迹あるかたちを知りて、心に翻背かへりそむくことを生す。

【記事C】では、毛野臣は言を左右して帰国を拒否し、その後に、あたかも調吉士の帰国を妨げるため、彼に伊斯枳牟羅城を守らせたかのように記す。しかし、天子の勅使を臣下が戦に動員できるはずもない。調吉士も勅命に対する回答も奏上せず毛野臣の指示に従うとは、とても考えられない。また、何故伊斯枳牟羅城を守るのかも全く不明だ。

 現に翌十月条に、調吉士の報告記事がある。
【記事E】二四年冬十月に、調吉士、任那より至りて、奏して言さく、『毛野臣、人と為り傲もとり恨いすかはしくして治体まつりごとを閑ならはず。竟に和解あまなふこと無くして、加羅を擾乱さわがしつ。惆*儻たかまに意の任にして、思ひて患を防がず』とまうす。
      惆*儻の惆*は、立心偏の代わりに人編。JIS第4水準ユニコード501C

 この記事から、調吉士はすぐ帰国して、毛野臣の非行と償還拒否を奏上したことがわかる。
 そして磐井の毛野臣に対する言「乱語し言揚げして曰はく、『今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食き。安んぞ率爾に使となりて、余をして爾が前に自伏しめむ』」とは、その内容と事実関係において、磐井ではなく毛野臣が、帰国を促す使者調吉士に抗って発した言葉にふさわしい。
 そうであれば、「遂に戦ひて受けず」とは毛野臣が調吉士に対し帰国を拒否し兵を挙げた事を示すから、「乃遣調吉士、卒衆守伊斯枳牟羅城」との記事は、本来は「乃調吉士遣衆卒、守伊斯枳牟羅城」、つまり調吉士は衆った卒(一般兵士=『漢典』より)を遣して伊斯枳牟羅城を守らせた記事だと考えるのが自然なのだ。

 iii、「驕りて自ら矜ぶ」る人物は毛野臣
 『書紀』で磐井は「驕りて自ら矜ぶ」とあるが、調吉士は毛野臣こそ「惆*儻」であるとする。
 「惆*儻」とは、現在の日本語では「才気があってすぐれていること、独立していて拘束されない意味(広辞苑)」だが、古代中国語では「狂放」と同義、すなわち「ほしいままに振る舞い、自由奔放である」事を言う。岩波解説も「タカ(高)ホ(秀)の意か。他に拘束されない。自分勝手」とする。磐井には具体的事実抜きで「驕りて自ら矜ぶ」と罵るのみだが、毛野臣には任那の使【記事C】や調吉士【記事E】により「惆*儻」の具体的な行為が記されている。「 驕りて自ら矜ぶる」人物としては磐井より毛野臣が相応しいのだ。

 iv、「猶預して年を経」たのも毛野臣
 磐井は「猶預うらもひ」=ぐずぐずして実行しなかったとされるが、任那の使の言では、毛野臣の行状として「政を聴くに懶す(怠ける)」とか「決め難きを以て、元より能判ことわること無し」とある。
 更に、阿利斯等の言に「細しく砕しきことを事として、期ちぎりし所を務めざる」とあり、これら毛野臣の行状は、磐井の行状とされる「猶預」にぴたりとあてはまるのだ。

 

  v、「陰に叛逆くことを謨った」のはだれか
 さて、疑いなく「磐井の謀反」を表す文とされる「陰に叛逆くことを謨」ったというのは、本当は誰についての記事なのか。
 『書紀』で、磐井以外に謀反を企図した人物として描かれるのは阿利斯等だ(【エ】記事)」。「阿利斯等は毛野臣が帰国に応じないので謀反を企図した」と記すが、何故「毛野臣帰国拒否」が阿利斯等の謀反動機となるのか、全く不可解だ。
 この状況で真に謀反の動機があるのは毛野臣だ。彼は「調吉士が天子に報告すれば罪は免れない事を自覚した(【ア】)」のだから、「謀反を企図した(【エ】)」としても全く不思議はない。極めて十分な動機があった。
 ここでは記事が動かされ、【イ】【ウ】は別記事から挿入されたもので、本来は、【ア】のあと、すぐ【エ】に続くのが本来の記事だった、そして謀反の企画者は阿利斯等ではなく毛野臣だったと考えられる。
 「行迹」は「行踪と同じ意味、行方、あとかた」で、「今後の事の成り行き」という意味だ。毛野臣は「今後の成り行き」即ち罪過を逃れることが困難であると判断し翻背(謀反)の決意をしたのだ。阿利斯等謀反は冤罪だった。
 また、磐井が「陰に叛逆くことを謨った」具体的動機や経緯は記されていないが、毛野臣については謀反の十分な背景・動機が記されている。「陰に叛逆くことを謨った」のも磐井ではなく毛野臣がはるかに相応しいのだ。

 vi、毛野臣に帰国を促した任那王阿利斯等
【ウ】の阿利斯等の毛野臣への帰国指示記事は、本来は【記事C】の前段にあったと思われる。それは『書紀』では阿利斯等は任那の王とされる。
■継体二三年(五二九)。夏四月の壬午の朔戊子(七日)に、任那の王己能末多干岐、来朝もうけり。己能末多と言ふは、蓋し阿利斯等なり。
 任那王阿利斯等は、数々の非行が顕著な毛野臣を叱責し帰国を指示した(【ウ】)が、毛野臣は応じなかった。そこで使を遣して倭国の天子に奏上した(【記事C】)、つまり「任那王の命拒否→倭国天子に奏上」というのが事の順序として正当だ。

5、「磐井の乱」本来記事の復元

 以下、阿利斯等奏上後の経緯について、これまでの検討結果をもとに、本来の記事を復元しよう。
 毛野臣の非行を聞いた天子は調吉士を派遣し召還した(【記事D】)。しかし、毛野臣は皇華(天子)の使となった調吉士に「今こそ使者たれ」以下の「乱語」を発し拒否した(【記事A】)。ただ、今後の懲罰(行迹)についての不安から謀反を企図(【エ】)し兵を挙げたため、調吉士は兵士を派遣し伊斯枳牟羅城を守らせる(【イ】)とともに、天子に奏上した(【記事E】)、というのが自然の流れなのだ。
 以上、『書紀』で磐井の悪行とされているのは、本来毛野臣の悪行にこそあてはまるものであり、磐井にとっては全くの冤罪だといえる。
 そして、磐井の乱記事は『書紀』編者の大規模な盗用と入れ替えの産物だったのだ。
 (次号では半島での毛野臣の行動記事の分析から、『書紀』の「磐井の乱」記事とは、「新羅と通じた毛野臣の倭国への謀反」記事を盗用したうえ、毛野臣と磐井をすり替えたものであることを述べる。)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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