2022年10月12日

古田史学会報

172号

1,『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注
谷本茂

2,室見川銘板はやはり清朝の文鎮
大原重雄

3,官僚たちの王朝交代
律令制官人登用の母体
古賀達也

4,倭国の女帝は如何にして
仏教を受け入れたか

服部静尚

5,乙巳の変は九州王朝による
蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだった

満田正賢

6,「二倍年暦」研究 の思い出
古田先生の遺訓と遺命
古賀達也

7,「壹」から始める古田史学・三十八
九州万葉歌巡り
古田史学の会事務局長 正木 裕

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本薬師寺は九州王朝の寺 服部静尚(会報165号)

野中寺弥勒菩薩像銘と女帝 服部静尚(会報163号)
女帝と法華経と無量寿経 服部静尚(会報164号)

YouTube講演九州王朝の仏教から王朝交代を語る -- 我が国にあった王朝交代 服部静尚


倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか

八尾市 服部静尚

一.はじめに

 インドに元々あった女性蔑視の思想が、釈迦入滅後の仏教に影響し、女性は「救いがたき者」とされた。これは、初期仏典の『中阿含経』に見える「女人五障説(女性は仏になれない)」や、『五分律』における「八敬法(先輩の尼でも後輩の僧に礼拝をしなければならない)」などに強く現れている。
 また、釈迦が尼(女人出家)を認めたために、千年続くはずであった正法が五百年で終わることになった(若不聴女人出家受具足戒 佛之正法住世千歳 今聴出家 則滅五百年)と、釈迦批判とも言える主張もある。
 当然、釈迦が女性蔑視したわけではない。弟子たちに、当時のインド社会の中で当たり前であった女性蔑視の思想が強く刷り込まれていたということがここからも判る。
 仏教は悟りを開いて輪廻から解脱する方法を説くものと私は理解している。この悟りを開いた人を仏と言い、如来と言う。つまり悟りを開くことが成仏となる。解脱した人・悟りを開いた人・仏・如来は同じことだが、女性はその仏になれないと言うのだからひどい女性蔑視である。このような女性蔑視の古代仏教が我が国にもたらされたのである。現代においても女人禁制(比叡山・高野山)の記憶は新しいところである。
 『日本書紀』が伝える七世紀初頭、この時代女性蔑視の仏教であれば、そして推古女帝のもとの摂政聖徳太子であれば、十七条憲法の「篤く三宝を敬う」という方針は出せない。女帝の世では到底できない所業である。
 十七条憲法は『隋書』が伝える倭王タリシホコ、そして法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える上宮法皇、つまり男帝によるものと考えざるを得ない。二葉憲香(「日本仏教史」一九六二年)氏は、「十七条憲法の承詔必謹の要求と篤敬三宝の要求とは、天皇自身が篤敬三宝側の立場に立つことによってのみ、辛じてその矛盾の克服を考えるものであるが、現実には二つの思想の立場は相容れない。」と言う。『日本書紀』が描く、推古女帝の世界ではあり得ず、隋から国家仏教を学ぼうとした海東の菩薩天子タリシホコであれば肯けるのである。
 しかし、その後の時代、例えば七世紀中葉の九州年号「白鳳」(六六一~六八三年)の時代、私は中宮天皇という女帝の時代であった(注1)と考えているが、その女帝は仏教を受容している。ここでは、女帝は如何にして仏教を受け入れたのかについて考察する。

二、七世紀初頭、聖徳太子の時代は本当に女性蔑視の仏教だったのか

(1)『日本書紀』によると、推古十四年(六〇六)「皇太子は岡本宮で法華経を講ずる」とあり、また「此れは、大委国の上宮王の私集にして、海のかなたの本にあらず」と記された『法華経義疏』(法華経の解説本)が現存することより、当時の主要な経典が法華経(正確には鳩摩羅什漢訳『妙法蓮華経』)だったと考えられる。 
 法華経は「一切衆生がすべて成仏できる」と説く。だから女性蔑視でないと言う方がいるかも知れない。しかし、次の妙法蓮華経第十二提婆達多品ダイバダッタの一節をみると判る。
◆その時、舎利弗(シャリホツ 釈迦の弟子)は(八歳で成仏したという)龍女に言った。「あなたが一瞬に悟りを得たと言うが信じがたい。なぜならば女身は穢くて成仏できないとされているからだ。仏道ははてしない苦行・菩薩行でかなうものだ。」「女身には五障が有る。梵天・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏身になれないということだ。」「どうして女人の身で一瞬の内に成仏できるというのだ。」
 その時、龍女は素晴らしい価値ある宝樹を持って、釈迦仏にささげ仏はこれを受け取った。そして龍女は智積菩薩と舎利弗に、「私の宝樹を釈迦仏はすばやく受け取られたか?」と聞く。「甚だ速かった。」と答えた舎利弗らに、「私の成仏がこれよりも速いことを見よ。」と龍女は言った。そして衆会の皆が見た。龍女が一瞬の間に男子に変じて、菩薩行を修め、南方無垢の世界に往き、宝蓮華に座し悟りを開いて、十方一切衆生のために妙法を説いた。

 有名な「変成男子へんじょうなんし」である。提婆達多品の前半は、極悪人で釈迦を殺そうとした提婆達多(釈迦の弟子アーナンダの兄とされる)であっても、前世の善行で成仏できると説き、後半は女性が男性に生まれ変わって成仏できるとする。本来成仏できそうにない悪人や女性でも成仏できると救済するのである。この救済によって法華経の「一切衆生がすべて成仏できる」が完成できるのである。
 ところが、鳩摩羅什が四〇〇年に漢訳した『妙法蓮華経』にはこの提婆達多品は無かった。四九〇年になって法意によって付け加えられたとされる。実は、花山信勝翻訳の『法華義疏』 (岩波文庫) を読むと、この提婆達多品が無い。つまりこれは、悪人・女性の救済が無い鳩摩羅什漢訳『妙法蓮華経』をもとにしているのである。救済されても女性にとって受け入れがたいのに、救済もされていないのである。

 誤解されないように繰り返すが、釈迦の本来の女性観は『維摩経』に見える。
◆「あなたはどうして女身を転じて男の身とならないのか。」舎利弗が天女に聞く。天女は答えた「幻に一定の特性はない。なぜそれを転ずる必要があるのか。」そして天女は神通力によって、舎利弗をて、「どうして女身を転じて男の身にならないのか。」と舎利弗に問う。舎利弗は天女の姿で「私は女人の身となったが、どうしてこうなったか解らない。」と、天女が言う「もし、あなたが自分の女人の身を転ずることができるなら、すべての女人もまた女身を転ずることができるでしょう。あなたが女でないのに女人になっているように、すべての女人も同じです。女身を現しているが女ではない。釈迦如来は一切のものは男に非ず、女に非ずと説いたのです。」

(2)いや、在家の女性信者である勝鬘夫人を主人公とした勝鬘経があるじゃないか

 そう言って、推古女帝による仏教振興を是とする学者がおられるが、そうであろうか。
 『法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳』が上宮聖徳法王御製者とする三経義疏(法華経疏・維摩経疏・勝鬘経疏)がある。その内の維摩経は在家の男性―維摩詰が仏道を説き、勝鬘経では在家の女性信者―勝鬘夫人が仏道を説く。出家しない在家信者であっても成仏のための修行ができるという、法華経の「一切衆生がすべて成仏できる」という教えを補完するものである。決して、勝鬘経は変成男子を否定するものではない。
 中国最初の女性皇帝(武則天)が仏教を受け入れるには、さらに百年近く要して、しかも大雲経改変を必要とした。『旧唐書』等によると、六八九年の唐ではそれまでの道先仏後の方針を改め、武則天は薛懐義せつかいぎに命じて、大雲経の「浄光天女が王位をつぐ」という一節を利用して「武則天は弥勒仏の下生である」との預言書を捏造させた。そして武則天は自ら皇帝となって、全国に大雲寺(我が国で言えば国分寺)を建てさせたのだ。勝鬘経では大義名分とならず、大雲経の改変を要したわけである。
 法隆寺釈迦三尊像光背銘には、
「六二一年十二月鬼前大后が崩じ、明年一月二十二日上宮法皇が病床に伏した。
干食王后も病床について二月二十一日に亡くなり、翌日上宮法皇も登遐する。」

と、『日本書紀』と異なる伝承を刻する。鬼前大后・干食王后とは不吉で不可解な名である。正木裕氏によると、『正法念処経』地獄品に「鉄野干食とは、地獄第五の別処であって、僧寺を焼き仏像を焼いて悔い改めない者が熱鉄の野干ジャッカルに食われる。」とある。また、「諸が餓鬼前身の時に、権力をふるって人に罪をなすり殺すことも厭わず、悔い改めなかったので、地獄に餓鬼となって生まれた。」ともある。大后であり王后でありながら鬼前・干食とはそういう名なのだ。やはり、当時の人は「女人五障説」をそのまま受け取っていたのである。

三、無量寿経の講義が内裏で行われる

 九州王朝の女帝(中宮天皇)は、どのように仏教を受容したのであろうか。
 『日本書紀』によると、舒明十二年(六四〇)恵隠に無量寿経を説かせ、白雉三年(六五二)内裏で恵隠に講義させ沙門千人に聴かせるとある。
 この時期になると倭国朝廷の中心部=内裏で無量寿経つまり阿弥陀如来信仰の講義が行われる。
 康僧鎧こうそうがい漢訳『仏説無量寿経』(二五二年頃の成立)によると、この無量寿経は、法蔵菩薩(後の阿弥陀如来)が四十八の願をかけて、極楽浄土に阿弥陀如来として出現し、衆生を極楽浄土への往生に導くと説く。阿弥陀如来は極楽浄土に存在している。だからこの四十八の願、例えば第十八願「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法」(私が仏となる以上、あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、往生しないということがあるならば、私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。)は成就したということになる。現在でも変わらず「南無阿弥陀仏」と十念している通りである。
 そしてその第三十五願には、「設我得仏 十方無量 不可思議 諸仏世界 其有女人 聞我名字 歓喜信楽 発菩提心 厭悪女身 寿終之後 復為女像者 不取正覺」
(私が仏になる以上、あらゆる女性たちが私の名を唱えたのに、それにもかかわらず女性のかたちであるならば、私は仏になるわけにいかない。)

 ここでは、往生以前の時点では男女平等であって、極楽浄土に男として往生させるというのである。根本的には変成男子と変わりがないのだが、「女人五障」や「変成男子」をオブラートにくるんで、一見男女平等なのである。
 この阿弥陀如来信仰に至って、女帝にも受け入れ可能な仏教となったのである。
(当稿は、二〇二一年五月十七日奈良県田原本の壽光寺で行われた「古代大和史研究会特別講演会」にて発表した内容から抜粋・集約したものです。)

(注1)『野中寺弥勒菩薩銘と女帝』服部静尚、「古田史学会報」№一六三号、二〇二一年四月十二日


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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