2022年10月12日

古田史学会報

172号

1,『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注
谷本茂

2,室見川銘板はやはり清朝の文鎮
大原重雄

3,官僚たちの王朝交代
律令制官人登用の母体
古賀達也

4,倭国の女帝は如何にして
仏教を受け入れたか

服部静尚

5,乙巳の変は九州王朝による
蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだった

満田正賢

6,「二倍年暦」研究 の思い出
古田先生の遺訓と遺命
古賀達也

7,「壹」から始める古田史学・三十八
九州万葉歌巡り
古田史学の会事務局長 正木 裕

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九州王朝万葉歌バスの旅 上田武(会報174号)

「壹」から始める古田史学・三十八

九州万葉歌巡り

古田史学の会事務局長 正木裕

1、古田武彦氏の「万葉歌解釈の方法論」

 奈良市で毎月古代史の講演会を主宰している代大和史研究会の皆さんらを中心に企画された「九州万葉歌巡り」を十一月十六日(水)から十八日(金)にバスを仕立てて実施することになりました。
 古田武彦氏は、万葉歌について『人麿の運命』『古代の十字路ー万葉批判』『壬申大乱』という「万葉三部作」(注1)で、「万葉歌を歴史資料として活用する」ための「方法論」を示しました。それは、「歌の本文こそが一次資料。題詞等は二次資料。本文と題詞などが矛盾する時は本文を以て正とする」というものです。古田氏はこの方法論に基づき万葉歌の資料批判を行い、『書紀』などでは隠されていた「九州王朝の歴史」を明らかにしました。
 多くの万葉歌には「題詞」(歌の前に置かれ、題名や歌が詠まれた経緯などを述べたもの)や、「左注」(歌の後に成立事情や異伝などを記したもの)が記されています。しかし、万葉集は大和朝廷による『書紀』編纂以後の七六〇年~七八〇年頃に、大伴家持らにより編纂され、「題詞」等はその時に付された「後付け」です。そうした成立事情から、『書紀』に合うように題詞を作り、七世紀末までの「九州王朝の時代の九州の歌」を、「大和朝廷時代の大和の歌」に変えている事例が見出せるのです。今回の企画は、古田氏が「万葉三部作」などで取り上げた「九州王朝にゆかりのある万葉歌の歌枕」を九州に巡るものですが、ここではその内の幾つかの歌を紹介します。

2、糸島なる伊勢

 最初に向かうのは「糸島なる伊勢」です。『記紀』の神武東征譚に記す「神武歌謡(久米歌)」には、「伊勢の歌」があります。
◆『書紀』神武即位前紀「神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺しただみの 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ 」
 「伊勢の海の大石」とありますが、神武イワレヒコは三重などに行っておらず、神武の出身とされる「宮崎なる日向」にも「伊勢」は見当たりません。しかし、福岡の糸島高祖連山には「日向(日向峠・日向川)」があり、東の山麓には我が国で最も早く三種の神器の出土した吉武高木遺跡があります。また、怡土平野西部の加布里湾岸(一貴山銚子塚古墳周辺)に「伊勢浦・伊勢田(神在村伊勢田)」地名があり(注2)、湾の奥には「大石(糸島市志摩師吉)」もあります。
 そして、糸島の志摩半島には、三重の二見ヶ浦よりはるかに立派な「桜井二見ヶ浦(糸島市志摩桜井)の夫婦岩」があります。古田氏は「福岡県志摩郡北半分の場合、その北岸、玄界灘沿いの地は、海鵜の大量繁殖地である」とし、「撃ちてし止まむ」は海鵜を獲る掛け声(兼川晋氏)とします。
 このように、神武の出自を怡土平野とし、「伊勢」を糸島半島周辺の海とすれば、神武歌謡の「撃ちてし止まむ」は見事に当てはまることになります(注3)。「万葉歌巡り」では最初の訪問地ですが、運が良ければ岩にウミウが群がっているのが見えるかもしれません。

 

3、「糸島なる伊勢」と染井神社・染井の井戸

 次に向かうのは「神功皇后」ゆかりの「染井の井戸」のある染井神社(糸島市大門六七二)ですが、万葉三二三四番に「伊勢と五十師の原」の歌、反歌(三二三五番)には「五十師の御井」の歌があります。
◆(三二三四番)やすみしし 我ご大君 高照らす 日の御子の きこしをす 御食つ国 神風の 伊勢の国は(略)あやに畏き 山辺の 五十師の原に (略)ももしきの 大宮人は 天地 日月とともに 万代にもが
◆反歌(三二三五番)山辺の 五十師の御井は おのづから 成れる錦を 張れる山かも

 本居宣長は、この歌中の伊勢は当然「三重なる伊勢」と考え、「山邊乃 五十師乃原・五十師の御井」を探し行脚しましたが、結局「三重なる伊勢」には見つかりませんでした。そもそも、「おのづから 成れる錦」の「錦」を「紅葉」のことだとしても、なぜ「御井」が「錦を 張る山」なのか不可解です。
 一方、『筑前国続風土記』「巻之二十二怡土」(貝原益軒、一七〇九年)には、「染井の井戸」について、次のような伝承が載せられています
◆神功皇后が半島出征前に「三韓征伐」の必勝を祈願し、この井戸に鎧を沈めたところ、緋色に染まり勝利を告げた、そこで「染井の井戸」と称されるようになった。また、鎧をかけて干した松は「鎧懸の松」として伝承され、井戸で染まった幡を干した松も「旗染の松」として井戸背後の「染井山」山上にあったという。

 つまり、染井の井戸に鎧や幡を沈めたら「おのずから=自然に」緋色に染まり、これを山上の松に懸けて干したのが染井山だというのです。「御井はおのづから成れる錦を張れる山」とは一見意味不明ですが、「糸島なる伊勢の染井山と染井の井戸の歌」とするなら、神功皇后伝承にちなんだ臨場感あふれる優れた歌となるのです。
 なお、万葉八一番歌に、 「和銅五年(七一二)壬子夏四月に長田王を伊勢齋宮に遣しし時、山辺御井で作る」と題する歌があります。
◆山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども あひ見つるかも

 しかし、『続日本紀』の和銅五年に伊勢齋宮派遣記事は無く、和銅五年~六年にかけて「隼人討伐の軍」が筑紫・南九州に派遣されており、長田王の詠んだ歌から、彼は九州に派遣され、隼人討伐に加わったことが伺えます。長田王が遣されたのは三重の伊勢ではなく糸島なる伊勢の「御井(染井の井戸)」に行き、神功の故事に倣い隼人戦必勝を願った歌だと考えられるでしょう。

 

4、筑紫雷山

 染井神社の南に伊都国歴史博物館や、磐長姫と木花開耶姫を祭る「細石さざれいし神社」があり、その南方に聳えるのが雷山(標高 九五五m)で古来、雷神の鎮座する霊山とされています。神籠石で守られ、中腹に雷神を祀る「雷神宮」があって、古田氏は『古代の十字路』で「筑紫雷山」が万葉歌では「ヤマト飛鳥の雷山に変えられている」と指摘しています。
◆(二三五番)天皇(*持統)雷岳に御遊の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
すめろぎは 神にしませば 天雲の 雷の上に廬りせるかも
おほきみは 神にしませば 雲隠る *雷山に 宮敷きいます  *原文「伊加土いかづち山」
(右或本に云ふ。忍壁皇子に献る。)
 この歌は「大君は神であるので、雷の上に仮宮をお作りになっておられる。」等と解釈されています。しかし題詞のように雷岳が高さ十mほどの「大和飛鳥の雷丘」なら、「天雲の 雷の上」 に「雲隠る」となるはずもなく、雷丘を雨雲や雷に見做すのは余りにも「奇矯な発想」です。
 この点、古田氏は「神にしませば」は「神であり万能の存在だから」ではなく「崩御されて神として祀られた」のだとしました(注4)。飛鳥の雷丘に天皇の墓や祠はありません。一方、「筑紫雷山」の頂上には、天宮(石宝殿)という祠があり、「皇」と呼ぶにふさわしい、皇室の祖たる瓊々杵尊(中殿)、国常立から伊弉諾・伊弉冉に至る天神七代(左殿)、天照から鸕鶿草葺不合に至る地神五代(右殿)が祀られています。古田氏は、これらの祭神は九州王朝の祖や歴代の天子であり、崩御して雷山に祭られているのだと述べています。そして、題詞に「長皇子遊猟路池之時柿本朝臣人麻呂作歌」とある二四一番歌「皇すめろぎは神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも」の「海を成すかも」を「海成(海鳴り)せすかも」と読み、実際は「雷山に祭られた九州王朝の歴代天子を悼む歌」だとします。(*長皇子を皇とは呼べない)
 「雷山は九州王朝歴代の墓所であり、人麻呂は雷山で海鳴りを聞いたにすぎない。しかしその雷山には九州王朝の代々の王者が葬られている。その死者の声が「海鳴」として聞こえてくる。この世の破滅。九州王朝の破滅の声が「海鳴」として聞こえてくる。」「神と人麻呂の運命」(講演記録 二〇〇二年一月一九日大阪市北市民教養ルーム )

 

5、「君が代」のルーツ「千代・細石神社・井原・水無鍾乳洞」

 博多湾岸から雷山に向かうコースを古田氏は「君が代」のルーツで、本来九州王朝の賛歌だとしています。「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌いはほとなりて苔のむすまで」の「千代」は福岡市博多区の町名、「さざれ石」の「さざれ」は「神聖な」との意味で、細石神社の名に用いられています。細石神社から*井原いわら遺跡を越え山中に入れば「水無鍾乳洞」があります。「巌」は「石穂」の意味で、何千年もかけて成長する鍾乳洞の鍾乳石を意味するというものです。残念ながら現在水無鍾乳洞は立ち入り禁止となっており見学は出来ません。(*古田氏は「岩羅」の意味とする)

 

6、天の香具山

 古田氏は、題詞では「舒明が香具山に登って国見をした歌」とされる万葉二番歌は、「題詞と本文(歌の内容)」が矛盾し、舒明が登ったヤマトの「香具山」とは到底考えられず、別府鶴見岳こそ「香具山」に相応しいとしています。
◆(二番歌)高市岡本宮御宇天皇(*舒明)代 天皇登香具山望国之時御製歌
 大和(山常)には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和(八間跡)の国は
 「大和の香具山」からは海原は見えず、カモメも飛びません。そこで、通説では「国原の煙」は「民家の炊爨の煙」、「海原」は「湿地帯か池」、「カモメ」は「水鳥」として、大和三山の「香具山」と解釈できるとします。しかし万葉歌で「海原」とあるのは二十一首で、皆「海・海浜」で平野の湿地などではありません(注5)。登ってみれば民の竈の煙など見えない事が分かります。
 一方、『書紀』神代紀第七段・一書第一に、
◆「故に即ち石凝姥いしこりどめを以て冶工とし、天香山の金を採りて日矛を作る。」
 とあり、大和香具山では金属はとれず、また、神武東征以前の天照と素戔鳴譚の記事ですから「天香山」は当然九州の山となります。そして古田氏は大分県の鶴見岳こそ「天の香具山」に相応しいとされました。その根拠として、
①豊後国の古名が「安萬あま」。
➁「蜻蛉島」は『書紀』では「豊秋津州あきつしま」で、豊後国の別府湾口に「安岐」がある。
③別府湾奥には「迦具土かぐつちの神」を祭神とする、標高一三七四.五mの火山「鶴見岳」が、他に抜きん出て聳えている。中腹に神楽女かぐらめ湖があり「かぐやま」と呼ぶにふさわしい。
④鶴見岳への登り口、脇浜に「登り立」があり、別府湾に飛ぶカモメも、盛んに立ち上る脇浜温泉の湯気も見えることを挙げています(注6)
 また「天香山の金を採りて」とありますが、大分県は鉄や銅・金などの産地で知られています(注7)。そして、水野孝夫氏は「鶴見山神社由来記」に「天の香具山」とあると指摘しています(注8)
 「九州万葉歌巡り」では別府まで足を伸ばし、鶴見岳ロープウェイに乗り「別府なる香具山」を見学する予定で、さらに明日香皇子が祭られる麻氐良布神社(朝倉市杷木志波)、宗像大社や宮地嶽神社などを廻りますが、紙面の都合上別途報告することとします。

(注1)『人麿の運命』(原書房一九九四年)、『古代の十字路ー万葉批判』・『壬申大乱』(東洋書林二〇〇一年)何れもミネルヴァ書房より復刊。

(注2)「糸島市水道事業及び下水道事業の設置等に関する条例(旧)」に「曲り田・伊勢ヶ浦(糸島市二丈松国)の一部・大曲」、「糸島市防災行政無線局管理運用規程」に「糸島市神在、加布里、伊勢田(糸島市二丈福井)」。

(注3)ちなみに、神武が菟田の穿うかちの邑で兄猾を討った時の神武歌謡「宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし くぢら障る…」では、吉野宇陀にクジラは獲れず不審だが、怡土平野東部の旧今津湾岸には「宇田(宇田川原)」がある。そして、玄海灘はクジラ漁が盛んで、「寄りクジラ」というクジラの乗っ込みも見られる。

(注4)「崩御されて神として祀られた」歌の例
◆(二〇五番)大君は 神にしませば 天雲の 五百重が下に 隠りたまひぬ

(注5)三四九八番「海原の根柔ら小菅あまたあれば君は忘らす我れ忘るれや」を湿地帯の例にあげる向きがあるが「根柔ら小菅」は塩莎草シホクグで、「カヤツリグサ科の多年草、海岸や河口の塩湿地に群生(『広辞苑』・『松江の花図鑑』など)」し、大和平野の湿地に生えるものではない。

(注6)古田氏は「山常」を「ヤマネ・山根」、「八間跡」を「ハマト・浜跡」と呼んでいる。ただ福岡には北部の博多湾岸に「下山門やまと」、西部の有明海沿岸に「筑後山門やまと」がある。そして、大分に山国川・耶馬渓があるから、邪馬壹国の東の入口として別府一帯は「山門・ヤマト」と呼ばれていたとも考えられよう。

(注7)『別府市誌』(昭和八年)「別府地区が各種各様の単純鉱物乃至化合鉱物を包含せる事実は、これを推知するに難からざる所なり(*但し、現在はほとんど廃坑)」。なお、鶴見岳・船原山東山麓の「雲泉寺地区」に、かつて、金鉱山があった。

(注8)水野孝夫「別府・鶴見岳を天ノ香具山とする文献」(二〇〇四年六月。古田史学会報六十二号)「鶴見岳は天ノ香具山(続)」二〇〇四年八月。同六十三号)

 

Y0ouTube講演

盗まれた筑紫の万葉歌 -- 舞台は大和・飛鳥などに変えられていた 正木裕

・万葉の覚醒〔参考)
英文解説:
第二百三十五歌と第二百三十六歌 二百四十一歌 そして二百五歌:
これらの歌は大和で天皇家に奉(たてまつ)られた歌ではない
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jsumerog/jsumero1.html

皇は神にしませば 天雲の雷の上に廬りせるかも
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jsumerog/jsumero4.html

み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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