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「壹」から始める古田史学 ・四十三
吉野ヶ里と邪馬壹国
古田史学の会事務局長 正木裕
1、「吉野ヶ里遺跡」とは
二〇二三年六月佐賀県の調査により、吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・神埼町)の、「北墳丘墓」西方の「日吉神社跡」から、弥生時代後期~終末期(二世紀後半~三世紀中頃)とされる石棺墓が発掘・公開され、邪馬壹(台)国時代の有力者の墓(佐賀県発表)だと報道され関心を集めています(注1)。
吉野ヶ里遺跡は、工業団地の開発計画に伴い一九八六年に第一次調査が開始され、これまで二~三mの深さを持つ二重環濠と、鋭い木柵の列に囲まれた四〇㏊(*埋蔵文化財包蔵地)という、唐古・鍵遺跡(約三〇㏊)を上回る国内最大級の環濠集落が発掘されています。環濠内には南北二つの集落(内郭)と南北二つの墳丘墓があり、北墳丘墓の十四基の大型甕棺からは、銅剣・菅玉などが見つかっており、「支配者層」の墓ではないかとされています。
また、日吉神社跡の北では、六〇〇m~一〇〇〇mに及ぶ一〇〇〇基以上の甕棺墓列が発掘され、その中には、肩に刀剣傷があり「首」が切り落とされた人骨、石剣の先や銅鏃の残る人骨が出土し、「激しい戦闘」の跡を留めていました(注2)。
同遺跡では、BC四世紀ごろに集落が形成されはじめ、AD三世紀ごろに最盛期を迎えますが、AD四世紀(古墳時代)には衰退したと推測されています。現在は佐賀県と国が史跡指定し、一帯は歴史公園として整備され、「祭殿」とされる大型建物、物見櫓とされる高楼、倉庫とされる高床式建物、竪穴式住居も復元されています(*形状は想像による)。
2、石棺墓の発見とその概要
今回の報道は、未調査で「謎のエリア」とされていた、「北墳丘墓の西の地区(吉野ヶ里丘陵地区Ⅸ区)」が、当該地区にあった日吉神社の移転により発掘でき、その中で蓋の全長約二.三m、幅約六〇㎝、石棺内長約一九二㎝、内幅約三五㎝、深さ二七㎝の石棺が見つかったというものです。石棺墓は、これまでも日吉神社の北に接する志波屋四の坪地区から七基発掘され、遺骨の一部も残っていましたから、その延長と考えられ新規性はありませんでした。しかし、吉野ヶ里遺跡の本格的な発掘調査は一〇年ぶりであり、過去の志波屋地区の調査では、甕棺墓から「俾弥呼」を連想させるような、右腕に南海産イモガイの腕輪を着けた四〇~五〇歳の女性の遺骨や、『倭人伝』に記す絹の布片、朱、漢式鏡(内行花文鏡)などの遺物が発見されていたことから、その成果が注目されていました。
石棺の中には遺骨や遺物は発見されませんでしたが、俾弥呼と同時代の遺跡と発表されたことから、「邪馬『台』国の中心が吉野ヶ里である」かのような報道も見受けられました。
3、古田武彦氏の『吉野ヶ里の秘密』
古田武彦氏は、第一次の発掘成果が明らかになった一九八九年に、『吉野ヶ里の秘密』(カッパブックス)を上梓し、その中で、『魏志倭人伝』に記す『宮室・楼観・城柵、厳かに設け・・兵を持して守衛す』との記述通りの「環濠集落遺跡」が九州で発掘されたのは、邪馬壹国九州説を証するもので、
①倭国の首都圏は『筑前中域』から『肥前東域』に広がり、「吉野ヶ里は『首都圏の一端』に属す。(二一四頁)」
②ただし、遺跡の規模や出土物の比較から、「邪馬壹国の中枢」は、吉野ヶ里ではなく「春日市(須玖岡本遺跡付近)(二〇九頁)」だ、と述べています(注3)。
4、吉野ヶ里は比恵・那珂・須玖遺跡群に及ばない
古田氏の言うように、吉野ヶ里は『倭人伝』に記す女王の居所の特徴は備えていますが、その規模や内容は、比恵・那珂・須玖遺跡群と比較すれば、「女王の居所」即ち邪馬壹国の中心ではないことが分かります。
吉野ヶ里遺跡の環濠内の広さは約四〇㏊で、吉野ヶ里歴史公園全体でも一一五㏊です。一方、比恵・那珂・須玖遺跡群は、比恵六五㏊、那珂八三㏊、山王遺跡一五㏊、須玖遺跡群二〇〇㏊で、合計三六三㏊あり、かつ博多駅にも近く発掘に限界がある為、隣接する東那珂・那珂召林・板付五十川ほかの遺跡の全体像も明らかになっていません。
さらに、比恵・那珂遺跡では、全長二㎞、幅八m、側溝幅一.五mの道路が南北に貫き、宮室(居館)、楼観(超大型建物)、城柵、環溝、邸閣、市が発見され、井戸の数から三〇〇〇人以上の人口があったと推定されています。そして、出土物から三世紀ごろの遺跡と編年されており、「邪馬壹国の首都」に相応しい規模・内容となっています(注4)。
また、須玖岡本遺跡の「巨石下甕棺墓」は、蓋の全長約三.六m、幅約二mで、石蓋の厚さは約四〇㎝あり、石蓋下の甕棺からは多数の銅鏡や剣などが発見されており、「王墓」と呼ぶにふさわしい墓となっていました(注5)。これは吉野ヶ里遺跡や石棺の規模やありようとは大きな差があることを示しています。そこから、古田氏の指摘どおり「吉野ヶ里は邪馬壹国の首都ではない」といえるでしょう。
5、軍事的緊張状態にあった吉野ヶ里
前述のように、吉野ヶ里遺跡には、①深い環濠、②厳重な城柵、③戦闘を示す遺骨群、④物見櫓とされる楼観など、「軍事的な緊張状態」を推測させるような遺構があります。そして、内外の史書には、俾弥呼の時代の直前の倭国に戦乱があったことが記されています。まず『魏志倭人伝』には、
◆「その国、本また男子を以って王とす。住とどまりて七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年。すなはち、一女子を共立して王とす。名は卑弥呼といふ。鬼道に事へ、よく衆を惑はす。年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟有りて国を治むるを佐く。」と「暦年の攻伐(戦乱)」を記述しています。
これを「倭国大乱(注6)」の証拠とする見解もありますが、ここに「大乱」の言葉は無く、古田氏は「暦年の乱」とは『三国志』の用例から数年~一〇年未満の期間を指すとされました。例えば、
➀『三国志・魏書』鍾繇しょうよう伝に、「臣又疾病し、前後の歷年、氣力日に微おとろえる。」とあり、これは「ここ数年」という意味です。
②同荀彧じゅんいく荀攸じゅんゆう賈詡かく伝に、「曹洪の女に美色あり、粲(荀粲じゅんさん)是を娉へいす。(略)歷年の後、婦病亡す。(略)痛悼つうとうやまず歲余亦亡す。
時に年二十九」とあり、結婚後「暦年」で愛妻を無くし、その翌年に「二十九歳」で亡くなったのですから、これも「数年」の意味としか解釈できません。また、「住りて七、八十年」とは「二倍年暦」であれば男王の在位は三五年~四〇年と考えられます。
従って、倭国では男王の末期の数年間に戦乱がおき、これを俾弥呼共立により収拾し、二三八年に魏に遣使できたことになります。
ちなみに、俾弥呼の年齢の「長大」を「老年」とする解釈がありますが、「長大」とは「老年」という意味ではありません。これも『三国志』の用例から確かめられます。
◆『三国志・魏書』劉曄りゅうよう伝。「(兄の劉)渙かん九歲、曄七歲、母病に困し、臨終に渙・曄を戒さとしていはく、『普(ふ 父親の劉普)の侍人(近従)には、諂害之性てんがいのしょうあり。身死して後、必ずや家亂みだれんことを懼おそるるも、汝長大になれば(大人になれば)能くこれを除かん・・・』。曄年十三・・曄即ち室に入りて侍者を殺し、徑ただちに出でて(母の)墓を拜おがむ。」
この大意は「父劉普の近侍は悪質な佞臣だから、私が死んだら必ず家が乱れるだろう。あなたが大人になれば彼を除け」と戒さとした。曄は「十三歳」になって、侍者を殺し、母の墓に参り報告したというもので、ここでは「十三歳」が「長大」にあたり、「老人」ではなく大人というに「相応の年齢」という意味。従って、「年、すでに長大にして、夫婿なし」とは、「俾弥呼は結婚していてもいい年なのに夫がいない」というもので、魏の使者が倭国を訪れた正始元年(二四〇)には俾弥呼は三〇歳前後であり、俾弥呼共立は中国の混乱期(二二〇年~二三〇年)だった可能性が高いことになります。
6、『魏志倭人伝』を裏付ける『筑後国・肥前国風土記』
また、『筑後国風土記』には、筑紫と筑後の間で「生死に係る騒乱」があり、これを「甕依姬」を「祝はふり=神職」とし収拾したと記します。
◆『筑後国風土記』(矢田部公望案)「筑後国は、本筑前国と合せて一つの国たりき。昔、此両国の間の山に峻さかしく狹さき坂あり。・・此の堺の上に、麁猛神あらぶるかみ有りて、往来の人、半ば生き半ば死にき。其の数極めて多し。因りて人の命盡神つくしのかみと曰ふ。この時、筑紫君、肥君等これを占ひ、筑紫君等の祖甕依姬みかよりひめをして、祝はふりとし之を祭らしめき。爾それより以降、路を行く人、神害せられず、是を以て筑紫神と曰ふ。」
この「甕依姬」について、古田氏は「『風土記』にいた俾弥呼(注7)」で、
①『風土記』の甕依姫共立譚は『魏志倭人伝』の俾弥呼共立譚と酷似している、
②甕依姬は「筑紫君等の祖」とする、
③「甕」には「かめ・みか」の読みがある、
④俾弥呼の時代は「甕棺墓」の全盛時代である、などから、俾弥呼の呼称は「ひみこ」ではなく、「日甕ひみか」で、甕依姬のモデルは俾弥呼だとされました。
『筑後国風土記』には「筑前・筑後国の間」とありますが、古代の太宰府から筑後に伸びる官道は、基肄城のある肥前基山(標高四〇〇m)の山麓を通るので、「筑紫・筑後の間」は肥前国で、「騒乱」は筑前と肥前の間におき、当事者である「筑紫君と肥君」が騒乱を収めたことになります。
また、『筑前国続風土記』(貝原益軒)は、『風土記』の内容を裏付けるように、「此処は則両筑肥前の境なれば風土記の説に附合せり・・城の山(基山)の東をこえて、肥前国基肄郡にゆく道あり。馬往来自由なり。むかしは肥前筑後より此の城の山道をこえて、太宰府の方に行し由いへり。・・肥前筑後の人は、所により今も此道を通る」と記しています。
そして、基山の東、旧三笠郡筑紫村の「隈・西小田遺跡」でも激しい戦闘を示す、頭部が切断されたり、銅剣が刺さった人骨が多数発掘されています。この遺跡の存する筑紫村には「筑紫神社(祭神は「筑紫の神」)」も鎮座し「筑紫神と曰ふ」とある風土記とも一致しています。
さらに、『肥前国風土記』にも「吉野ヶ里付近」での同様の騒乱を記します。
◆『肥前国風土記』(神崎郡)昔この郡に荒ぶる神ありて往來の人、多に殺害されき。纏向まきむくの日代ひしろの宮に御宇あめのしたしろしめしし天皇(すめらみこと 景行天皇)巡狩し、この神和平らぐ。
同(佐嘉郡)郡の西に川あり。名を佐嘉川といふ。・・此の川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半ばを生かし、半ばを殺しき。ここに、縣主等の祖大荒田おほはらた占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女おほやまだめ・狭山田女さやまだめ云ひしく、「下田の村の土を取りて、人形・馬形を作りて、此の神を祭祀らば、必ず應和やはらぎなむ」と。即ち其の辭の随に、此の神を祭るに、逐に應和ぎき。
つまり、①『魏志倭人伝』では俾弥呼共立の前の三世紀初頭に「倭国騒乱」が起きた。
②『風土記』では甕依姬共立の前に「筑前と肥前の間」で騒乱が起きた。
③国境の基山を挟んで筑紫側(西小田遺跡)と肥前(吉野ヶ里)双方に「騒乱」をうかがわせる遺跡が発見されていた。
7、吉野ヶ里は邪馬壹国に属していなかった
そして、甕依姬のモデルを俾弥呼とすれば、筑紫の勢力と肥前の勢力は対立しており、「倭国騒乱」は筑紫・肥前間の戦乱であり、同時に俾弥呼共立以前の吉野ヶ里は、北部九州という意味では「倭国の首都圏にあった」としても、「邪馬壹国には属していなかった」ことを意味します。
それでは「吉野ヶ里」はどの国に属していたのでしょうか。次回は、肥前・吉野ヶ里は、五十七年の金印下賜当時は「倭奴ゐぬ国」に含まれており、俾弥呼時代には「伊都国の東南百里」とある「奴国ぬこく」に属していた可能性があることについて述べます。
注
(注1)ただし、遺骨や遺物は発見されていないため、年代は確定されていない。
(注2)佐賀県文化財調査報告書二一四集「吉野ヶ里遺跡―弥生時代の墓地」ほかによる。
(注3)ただ、『吉野ヶ里の秘密』には「女王国の首都圏の一端」(二一七頁)と、「吉野ヶ里を女王国(邪馬壹国)の中に含む」ような記述があり、「吉野ヶ里邪馬壹国説」であるかのように誤解される原因となった。
(注4)「古墳時代における都市化の実証的比較研究―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地(纏向・南郷等)総括シンポジウム報告書」(大阪市文化財センター二〇一八年十二月)
「三世紀(*俾弥呼の時代)にかけて、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の那珂川と御笠川に挟まれた台地上に広がる比恵・那珂遺跡地域である・・纏向遺跡においては、そのような状況は依然ほとんど不明である」(福岡市埋蔵文化財課久住猛雄)
(注5)昭和五年の京都大学発掘調査報告書によれば、甕棺に収納されていたと考えられる遺物は、方格四星草葉文鏡 一、重圏四星葉文鏡 二、蟠螭鏡 一、星雲文鏡 五面以上、重圏文銘帯鏡 五面以上、内行花文銘帯鏡 十三面以上、不明 五面、銅剣 二本、銅矛 四本、銅戈 一本、瑠璃壁・勾玉等
(注6)「倭国大乱」とは、『魏志倭人伝』の「住りて七、八十年」を根拠に、俾弥呼即位前の男王時代の倭国に長期(七、八十年)にわたる「大乱」があったとする説。「倭国大乱」については古田武彦『邪馬壹国への道標』(角川書店一九八二年)に詳しい。
(注7)古田武彦「古代は輝いていたⅠ『風土記』にいた俾弥呼」(朝日新聞社一九八八年)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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