九州王朝戒壇寺院の予察 古賀達也 (会報176号)
『隋書』俀国伝の都の位置情報 古田史学の「学問の方法」 古賀達也(会報178号)
追悼
「アホ」「バカ」「ツボケ」の多元史観
上岡龍太郎さんの思い出
京都市 古賀達也
一、上岡龍太郎さんの思い出
令和五年(二〇二三)六月二日、上岡龍太郎さんの訃報に接しました。心より哀悼の意を捧げます。
上岡さんは京都市ご出身のタレントで、トーク番組やバラエティーでのお笑いの芸は天才と評されていました。人気も実力も絶頂期の五八歳で芸能界を引退され、以来、テレビやラジオ番組に出ることはなかったと聞いています。また、読書家でその博覧強記ぶりはよく知られていました。
そんな上岡さんに初めてお会いしたのは、信州諏訪湖畔にある昭和薬科大学諏訪校舎で、平成三年(一九九一)八月五日のこと。古田先生の提唱により開催された「古代史討論シンポジウム『邪馬台国』徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として―」(八月一日~六日、東方史学会主催)の実行委員会にわたしは「市民の古代研究会」事務局長として参画し、講演者の上岡さんらと打ち合わせする任務についていました。上岡さんはテレビで見るよりもスマートで端正なお顔立ちでした。また、言葉も態度も丁寧で、芸能人としての上岡龍太郎の印象とは全く異なっていました。
予定では上岡さんの持ち時間は一時間で、その後が皇學館大学の田中卓先生(一九二三~二〇一八年)でした。そのスケジュールを説明すると、上岡さんは「わたしは三十分で結構です。その分、専門家の皆さんの発表時間に使って下さい」とのこと。その言葉通り、軽妙なトークで場を盛り上げると、ぴったり三十分で話を終えられたのです。しかも、時計も見ずにです。さすがはプロフェッショナル、見事な話芸を見せて頂き、感激しました。その内容は『「邪馬台国」徹底論争』第3巻(新泉社、一九九三年)に収録されています。
その後も、上岡さんとは古田先生の講演会々場でときおりお会いしました。わたしが受付をしていると、突然ふらっと現れて「カミオカです」と小声で挨拶されるのですが、どちらのカミオカさんだろうかと見ると、あの上岡龍太郎さんでした。いつも物静かな感じで〝芸能人オーラ〟は全く見せない方でした。電話での会話は別にして、最後にお会いしたのは、平成十四年(二〇〇二)二月二一日、嵐山の料亭だったと記憶しています。そのときの写真を見ると、机を挟んで古田先生と熱心に対話されており、本に掲載するための対談風景のようですが、残念ながら内容を思い出せません。なお、このときとは別に、『新・古代学』第1集(新泉社、一九九五年)に両者の対談録「上岡龍太郎が見た古代史」が掲載されています。
上岡さんは道義に篤い方でしたし、古田先生のことを敬愛しておられ、「古田先生には学恩ではなく芸恩を感じている」と仰っていました。きっと冥界で先生との対話を楽しまれていることでしょう。
二、上岡龍太郎が見た古代史
上岡さんが亡くなられて、テレビ各局で追悼番組が放送されました。その中で必ず取り上げられるのが、上岡さんが司会をしていた人気番組「探偵!ナイトスクープ」です。関西ローカルで始まった番組ですが、驚異的な視聴率を誇っていました。この番組で特集された「全国アホ・バカ分布図の完成」編(平成三年、一九九一年)は日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞などに輝いた日本テレビ史に残る名作でした。そのとき調査した「アホ・バカ分布図」に基づき、番組プロデューサーの松本修さんが『全国アホ・バカ分布考』を上梓しています(注①)。
この「全国アホ・バカ分布」については、古田先生との対談で上岡さんが紹介しています。『新・古代学』第1集(注②)に掲載された「上岡龍太郎が見た古代史」です。関係部分を転載します。
【以下、転載】
上岡 朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』が出たんが昭和四六年ですか。人間て、何か変な……。勝手にファンとか、好きな人に事よせて、何か自分と似たところがあるかを見つけたいもんでね。ボクの親父も四国高知県で、土佐清水です。(中略)
ええ、で、先生の論証によると、わが父祖の地は侏儒国やないかと思いましてね。(中略)
古田 あそこは唐人岩とか唐人駄馬とかあるでしょう。あの辺の人たちは日常生活で「この唐人!」といって、罵り言葉ですね、「このバカ」ということをいうんですよ。
上岡 その話でね、ボクは「探偵ナイトスクープ」という朝日放送の番組をやっているんですよ。これはテレビ見ている人からハガキが寄せられまして、その依頼にもとづいて、ボクが探偵局長で自分とこのタレントの探偵を派遣して、その真理について探るという番組です。
たまたま兵庫県の人からのハガキで「私は関東で主人は関西です。ケンカすると私はバカといい主人はアホといいます。アホとバカの境界線はどこにあるんでしょうか」というのがきたんで、「探しに行け!」と。東京ならみんな「バカバカ」というわけですよね。そしてずーっと来だしたら名古屋で「タワケ」ゾーンに突入してしもうたんです。名古屋では「タワケ」というんです。そして名古屋から滋賀県あたりまで来ると「アホ」になるんですね。北野誠というタレントがやっているんですが、「わかりました『タワケ』と『アホ』のゾーンは関ヶ原なんです」と、道を挟んで向こうは「タワケ」でこっちが「アホ」でした。
古田 アハハ、なるほど。
上岡 で、「わかりました」っていうから、「お前な、だれが『タワケ』と『アホ』を調べえというたんじゃ。『バカ』の分布図を調べよ」。これはもう手に負えんということで、朝日放送が日本中の各教育委員会、小学校にアンケートで配布しまして、そして「アホ・バカ」分布図というのを作り上げたんです。(中略)
全国各地から「あなたのところでは人を罵る時にどういうてますか」というふうに……。そしたら柳田国男の方言周圏論、「カタツムリの検証」という、都を中心にしてどんどん広がって外へ行くほど古い言葉が残っている、というのが実証されてたんです。この『全国アホ・バカ分布考』というのはテレビでしか調べようがないんだというんで、かなりすばらしい本なんですよ。
その中の地図を見てみますとですね、古代王朝があったとされるところはやっぱり特色があるんですよ。北九州、出雲、吉備、それからもちろん近畿、そいから越、これらだけは際だって言葉が違うんですよ。で、その中に東北で人をののしる時に「ツボケ」。
古田 そうそう。
上岡 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。
古田 そうなんですよ。
上岡 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これをやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちょっと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。
古田 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうです。
上岡 ほう、やっぱり先住民。
古田 ええ「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。
【転載、おわり】
三、「タワケ」「ツボケ」の分布考
松本修『全国アホ・バカ分布考』の結論として、「アホ」と「バカ」の分布は柳田国男の方言周圏論で説明できるとされました。
最初に都(京都)で成立した罵倒語の「バカ」が全国に広がり、その後、同じく京都で発生した「アホ」が周囲に広がるのですが、先に進出した「バカ」により、西は岡山県くらいで止まり、東は関ヶ原まで進むと、なぜか中部地方の「タワケ」圏に阻まれます。この「タワケ」も静岡県で止まり、それ以東の「バカ」圏に阻まれます。更に東北地方には「ツボケ」圏があり、「バカ」と混在します。しかし、この「ツボケ」は北海道には渡らないという不思議な分布を示します。このことを上岡さんは古田先生との対談で、次のように語られています。
〝これボクは松本修に聞いたんです。
「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。〟(注③)
このように、「アホ」と「バカ」は方言周圏論で説明できそうですが、「タワケ」が「バカ」発生後「アホ」発生以前に、なぜ都ではない中部地方で発生したのかの説明は困難です。東北地方の「ツボケ」に至っては全く説明不可能です。「ツボケ」の分布も同書の調査結果によれば、岩手県は県下に広く分布しますが、青森県と秋田県は県内の一部地域の分布とされており、「ツボケ」圏の中心地は岩手県となりそうです。ですから、「タワケ」「ツボケ」は方言周圏論では説明できず、異なる歴史経緯があったと考えざるを得ません。この点、上岡さんは次のするどい見方をしています。
〝その中の地図を見てみますとですね、古代王朝があったとされるところはやっぱり特色があるんですよ。北九州、出雲、吉備、それからもちろん近畿、そいから越、これらだけは際だって言葉が違うんですよ。で、その中に東北で人をののしる時に「ツボケ」。〟(注同上)
すなわち、この視点は「古代日本の多元的王朝論」に他なりません。罵倒語の成立や分布の研究にも、古田先生が提唱された多元史観が必要です。
四、肥後と信州に分布する「田蔵田」
『全国アホ・バカ分布考』に不思議な罵倒語とその分布図がありました。それは「田蔵田(タクラダ)」系というもので、熊本県と長野県に濃密分布しています。このような罵倒語があることをこの本を読むまで知りませんでしたし、聞いたこともありません。類語として東北地方に「タクランケ」が散見しますが、熊本県(タクラ)と長野県(タークラター)に濃密分布しており、これは古代に遡って両地方に交流があった名残ではないでしょうか。というのも、九州と信州の両地方における歴史的交流の痕跡について、「洛中洛外日記」などで何度も取り上げてきたところです(注④)。それは次のようなものです。
【「洛中洛外日記」九州と信州関連記事】
四二二話(2012/06/10) 「十五社神社」と「十六天神社」
四八三話(2012/10/16) 岡谷市の「十五社神社」
四八四話(2012/10/17) 「十五社神社」の分布
一〇六五話(2015/09/30) 長野県内の「高良社」の考察
一二四〇話(2016/07/31) 長野県内の「高良社」の考察(2)
一二四六話(2016/08/05) 長野県南部の「筑紫神社」
一二四八話(2016/08/08) 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
一二六〇話(2016/08/21) 神稲(くましろ)と高良神社
一七二〇話(2018/08/12) 肥後と信州の共通遺伝性疾患分布
今回知った罵倒語の「田蔵田(タクラダ)」を上記に加えることにします。なお、九州内では熊本県のみに分布が紹介されていますが、それは昭和六年に熊本県内の小学校を対象としたアンケート調査資料(注⑤)に基づくためとのことですので、昭和六年時点では福岡県や鹿児島県にも「田蔵田(タクラダ)」が分布していた可能性が高いように思います。この言葉の意味には諸説あるようですが、今のところ納得できるものはありません。それにしても、不思議な分布の罵倒語です。
五、東北地方の「ツボケ」の歴史背景
『全国アホ・バカ分布考』には、不思議な罵倒語として、「田蔵田(タクラダ)」の他に東北地方の「ツボケ」があります。これを言素論で解析すると、語幹は「ツボ」で、「ケ」は古層の神名と理解できます(注⑥)。すなわち「ツボ」の神様となります。「ツボ」は文字通り「坪」「壺」のことか、あるいは地名の可能性もありそうです。たとえば「つぼの碑(いしぶみ)」という石碑のことが諸史料に見え、これを青森県東北町坪(つぼ)の集落近くで発見された「日本中央」碑のこととする説があります(注⑦)。そうすると、「ツボ」は地名のこととなります。
いずれにしても、「ツボ」の「ケ」(神)が罵倒語として使用されていることから、対立し罵倒された「ツボケ」の民が、ある時代に存在していたと考えられます。恐らく、この対立は古代に遡るものであり、「ツボケ」の民とは蝦夷国の民であり、蝦夷国が祀った神様に「ツボ」の「ケ」様がいたのではないでしょうか。この推測を支持する史料があります。和田家文書『東日流外三郡誌』です。同書には古代東北(津軽)にいた「津保化族」の説話が多数収録されています。津軽には「津保化族」と「阿蘇部族」が住んでいたが、大和あるいは筑紫から逃げてきた安日彦・長脛彦兄弟に征服されたとする説話です。
六、新時代の研究、罵倒語多元論
松本修さんの『全国アホ・バカ分布考』は優れた労作で、「アホ」「バカ」が京都で発生し、周囲に拡散したとする方言周圏論による解釈が可能であるとする実証的考察に成功しています。他方、中部地方の「タワケ」や東北地方の「ツボケ」をうまく説明できていません。平安時代以降の京都中心主義では、これらの分布が説明できないことを明らかにしたことも、同書の功績ではないでしょうか。
この点、古田史学によれば、古代日本列島における多元史観、すなわち複数の王朝が興亡したと考えますから、こうした罵倒語の発生や分布を、異言語勢力による征服・被征服という視点での考察が可能です。ですから、罵倒語の発生や分布を多元史観で解明することが、古田学派研究者には求められています。柳田国男の方言周圏論を越える、罵倒語多元論とでも言うべき新時代の研究段階にわたしたちは入ったようです。
〔令和五年(二〇二三)六月二二日、筆了〕
(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(一九九三)。平成八年(一九九六)に新潮文庫から発刊。
②『新・古代学』第1集、新泉社、一九九五年。古田史学の会も協賛団体として同書編集委員会に参加した。
③「上岡龍太郎が見た古代史」『新・古代学』第1集、新泉社、一九九五年。
④古賀達也「古代の九州と信州の接点」『東京古田会ニュース』一九〇号、二〇二〇年。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」四一話(2005/10/30)〝古層の神名「け」〟
同「古層の神名」『古田史学会報』七一号、二〇〇五年。
⑦ウィキペディアには次の解説がある。
〝十二世紀末に編纂された顕昭作の『袖中抄』十九巻に「顕昭云(いわく)。いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。」とある。〟
〝青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に一千人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
明治天皇が東北地方を巡幸する一八七六年(明治九年)に、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。
一九四九年(昭和二四年)六月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。〟
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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