朝鮮の史料『三国史記』新羅本紀の
倭記事の信頼性を日食記事から判定する
龍ヶ崎市 都司嘉宣
一、はじめに
朝鮮半島に古代に存在した新羅、百済、高句麗の三国の歴史を記述した『三国史記』は、高麗国仁宗の命を受けて金富軾が撰した朝鮮半島の現存する最古の文献である。全五〇巻からなり、そのうち第一巻から第十二巻までが新羅本紀であって、ここに新羅の初代王・赫居世から、第五六代敬順王までの事跡が記されている。初代王・赫居世の即位はBC五七年とされ、最終王である敬順王の治世の最終年はAD九三五年であるから、実に千年近い歴史が述べられていることになる。金富軾が三国史記を執筆したのは一一四三年から一一四五年の間であるから、彼の執筆の対象となったのは、執筆年代の約一二〇〇年前から一一〇年前までである。この年代を今我々が生きている令和五年(二〇二三)を起点として引き直せば、平安時代の始め(八〇〇年ころ)から、大正元年(一九一二)までの年代の歴史書と言うことになろう。当然、執筆対象の末年に近い九世紀や十世紀ころの記載は信頼性が高いであろう。しかし、記述対象の始めの方の、新羅の初代王・赫居世の治世のC五七年からAD四年の頃の記載は、果たして信頼を置くことができるのであろうか?
二、『三国史記』に記された倭・日本の記事
『三国史記』などに記された、倭と日本に関する記事を集めた本として、岩波文庫から佐伯有清の編訳本である『三国史記倭人伝』が岩波文庫から刊行されている(一九八八年)。この本には、漢文体の原文の印影文、読み下し文、現代語訳文、および豊富な注記が付されていて大変親切な本である。この本によると、『三国史記』の新羅本紀、高句麗本紀、百済本紀、及び雑志と列伝を併せて、倭の記事は一一〇件、日本の記事は十七件存在する。すなわち両者合わせて一二八件の日本関係の記事が掲載されていることになる。
「倭」と書かれた最後の記事は新羅本記・巻十の新羅の高官・均貞を新羅王子ということにして倭に人質として送ろうとした、というAD八〇二年の記事である。この年以降には倭と書かれた記事は存在しない。
いっぽう「日本」と書かれた最初の記事は、新羅本紀・第六巻文武王十年(AD六七〇)の「倭国、更あらためて日本と号す」である。このあと、第八巻孝昭王七年(AD六九八)の日本国使が新羅を訪れ、崇礼殿で孝昭王に接見したという記事が続く。この記事以後、八〇二年の記事を除いて、すべて日本と表記されていて、倭と記された記事は存在しない。
以上のような史料状況から見て、新羅本紀に倭と記されたAD六七〇年より前の記事は、すべて近畿大和の天皇家の記事ではなく、九州王朝としての倭国、およびその支配下の倭人の記事であると判断される。その記事数は新羅本紀に五八件、百済本記に十六件、列伝に二十六件で、合計ちょうど百件となる。倭、すなわち九州王朝に関してこれほど豊富な記録が存在するのである。(倭山など地名として現れる記事は除外した)。
三、『三国史記』新羅本記の記載
以上に述べたように朝鮮半島の古代の歴史書である『三国史記』には九州王朝と、その支配領域に住む倭人の記事が豊富に存在する。では、これらの倭の記事は信頼のおける史料なのだろうか?この問題に関して、日本古代史の権威として著名な同志社大学教授・三品彰英氏(一九〇二~一九七一)は「『三国史記』新羅本紀の倭関係の記載で、いちおう史料として利用できるのは、四世紀後半の奈勿麻立干(第十七代王)のころからであり、また紀年にとらわれなければ助賁尼師今(第十一代王、二三〇~二四六)本紀あたりまでは、ある程度の利用は可能であって、それ以前になると全くの伝説時代である」と述べている。
この説に従えば、AD二三〇年以前の新羅本記の記述は、信頼性が低い、と言うことになろう。ところで、新羅本紀の記述は初代王である赫居世のBC五七年から始まっている。三品説ではBC五七年からAD二三〇年まで二八七年間の新羅本紀の記述は信用してはいけない、ということになる。
この信頼できないとされた新羅初期にあたる二八七年間の年代には十四個の倭に関する記事が現れる。たとえば第二代王である南解王の十一年(AD十四年)の記事に次のような記述が現れる。
倭人、兵船百余隻を遣わし、(新羅の)海辺の民戸を掠む。
この記事には主語が小規模な海賊に類するグループであれば使われることのない「遣」、「兵船」の字が使われていることから考えれば、主語は「倭国の権力者」であると判断される。これは倭国(九州王朝)にとって国家的な侵略を行った重大な記事だ。船百余隻ともなれば、その船の製作準備、それらの船に載せる,おそらく千人を超える大量の兵や食料などの調達など、国家全体が計画的、かつ大規模に取り組んだ事業であったはずである。これは九州王朝の歴史の中でも特筆すべき大事件であったはずなのである。日本史上の出来事としても、重大事項として扱うべき事件ということになろう。
ところが、三品説に従えば、この記事は年代的に信用できない記事だということになってしまう。本当に、この記事は、金富軾、或いは彼が用いた原史料の記載者の誰かが捏造して生み出された記事なのであろうか?この記事を含むAD一年前後の記載は捏造、あるいは虚実があやふやな神話のような文章としてとらえるべきものなのであろうか?
実際に新羅本紀の最初から読んでみると、神話的な要素は、日本の古事記や日本書記の神話部分に比べて極めて少ないのである。新羅本紀には編年体の文章が淡々と続いている。たとえば、倭との関係のほか、王の行動、暴風雨や疫病、百濟や高句麗との交渉、それに日食や彗星の記事などが並んでいるのであって、神話的な話(神異譚)ほとんど出てこない。もっとも神話的な話が全くないわけではない。たとえば、初代王の赫居世は馬が残した卵から生まれた、と神異譚が記されている。しかし、常識的な知識からは不思議な神異譚だらけの古事記の神話に比べれば,新羅本紀のこの記事は、ほんのささやかな神異譚と言うべきであろう。率直な直観にすぎないが、新羅本紀は逐次編年体に近い形式で冷静に客観的な事実が淡々と述べられているように見えるのである。
四、新羅初代王・赫居世の治世(BC五七~AD四)に現れた倭と日食の記事
それでは、新羅本紀のうち初代王・赫居世の治世中に記述された倭と日食の記事をすべて次に掲げよう。東洋文庫・三国史記1(一九八〇刊)記載の読み下し文を引用する。
A 四年(前五四)夏四月、辛丑の日にあたる朔ついたち、日食が起こった。
X 八年(前五〇)倭人が出兵し、[新羅の]辺境に侵入しようとしたが、[新羅の]始祖には神のような威徳があると聞いてひきかえした。
B 二十四年(前三四)夏六月、壬申の日にあたる晦みそか、日食が起こった。
C 三十年(前二八)夏四月、己亥の日にあたる晦、日食が起こった。
D 三十二年(前二六)秋八月、乙卯の日にあたる晦、日食が起こった。
Y 三十八年(前二〇)(この項は抄訳:筆者注)
新羅は馬韓に瓠公ここうを派遣した。瓠公は、「辰韓弁韓楽浪倭人に至るまで新羅を敬い恐れている」と言った。
Z 瓠公は倭から来た人である。
E 四十三年(前一五)春二月、乙酉の日にあたる晦、日食が起こった。
F 五十六年(前二)春正月、辛丑の日にあたる朔、日食が起こった。
G 五十九年(二)秋九月、戊申の日にあたる晦、日食が起こった。
以上である。このように新羅初代王・赫居世の本紀には、A~Gの七件の日食記事と、X~Zの三件の倭に関する記事が含まれている。これらは当然、三品彰英が「信用してはいけない」としたAD二三〇年以前の記事である。それでは、これら十個の記事は、三品の言うように、本当にすべて信頼性の劣る記事なのであろうか?残念ながら倭に関するX~Zの三個の記事は直接にはその信頼性を確かめる手段はない。しかし、七件の日食記事の方は?幸いにも、公開された日食天文計算ソフトによって、これらの日食記事の正しさを明確に検証することができるのである。
五、日食計算ソフトEmapWinについて
幸いにも、古今に発生した日食の状況を計算するソフトEmapWin が公開されていて、パソコンでネットにアクセスできる人は簡単に利用することができる。このソフトは竹迫忍氏(たけさこしのぶし 日本数学史研究会)が開発されたものである。このソフトに、任意の西暦年を入力すると、その年に発生した各日食について、地球上でその日食が観察できる範囲、とくに皆既食・金環食が見られる日食については、それらを見ることができる線状地帯がともに表示される。さらに観測点を指定すれば、その日食がその地点の空でどのように日食が進行するかが示されるのである。この観測点を新羅の首都であった慶州(Gyeongju 東経一二九度十二分、北緯三五度五〇分)と指定しておけば、慶州の空で見える日食の様子が画面上に再現されるのである。
六、BC六八年~AD二六年に中国と新羅で記録された日食の再現計算結果
そこで、前項で述べた新羅初代王・赫居世の治世を含むBC六八年からAD二六年までに起きた中国と新羅で記録された二十五回の日食について、新羅の首都・慶州における各日食の見え方をまとめたものが表1である。
表1 BC六八年からAD二六年までに中国と新羅で記録された日食
表1には上述の赫居世の年代に記録された七個の日食記録二、第二代王・南解王三年(AD六年)と同王十三年(AD十六年)に起きたと記録されている日食も表に付け加えてある。
さて、この九十四年にわたる年代期間には、中国では二十五回の日食が記録されている。日食計算ソフトによって、そのほとんどは、この時代の中国の首都若しくは副都であった洛陽で実際に観測されうるものであった。表1の「中国洛陽食分%」の欄には、各日食について、洛陽での最大食分の値を%で記してある。最大食分とは日食が最大になったとき、太陽面の直径の何%が月に覆われているかを示す数字で、例えば太陽面が全部月に覆われる皆既日食だとこの数字は百%になる。この食分の数字が四十%を超えると、大部分の人に気づかれる。逆に食分二十%以下だとほとんどの人には気づかれず、見過ごされるとされる(渡辺敏夫、日本・朝鮮・中国日食月食宝典、一九九四復刻版刊)。
さて、表1によるとこの九十四年にわたる年代に新羅本紀には合計九回の日食が記録されている。いっぽう中国の記録である『漢書』と『後漢書』には二十五個の日食が記録されている。それで、新羅で記録された九個の日食はすべて中国でも記録されている。
するとここで次の疑問が生ずるであろう。『三国史記』の編者・金富軾は、新羅に古くから伝わった日食記録を参考にしたのではなく、ただ盲目的に中国の日食記録をコピーしただけではないのか?たしかに、金富軾は『漢書』と『後漢書』を見ていることは確実である。したがってこの疑問が生ずるのはもっともである。この点もう少し深く考察してみよう。
表1の「新羅慶州食分%」の欄には、新羅の首都・慶州での各日食の食分が記されている。この数字が四十%を超えていると、日食発生の事実は多くの人々に気づかれる。逆に二十%以下の浅い日食だと、人々に気づかれにくい。また、日食が起きているときの太陽の水平線上の高度(角度、仰角)が三度以下だと、盆地にある慶州では、太陽が水平線上にはあっても、山の後ろに隠れてしまい、この場合もこの日食には気づかれにくい。
以上、食分と日食中の太陽高度の両面から、雨天曇天でない限り、慶州で完璧に日食が観察されたと考えられる場合を◎、食分、あるいは太陽高度の点から、少し気づかれにくい日食を〇、食分、太陽高度の両方から考えて、慶州では日食と気づかれることがかなり困難なケースを△、中国洛陽では日食が観察されたが、新羅慶州ではすでに日没後であって、日食が観察されなかった場合を×として、表1の最終欄に各日食についてこれらの分類記号を記入しておいた。
さて、表1によると、この九十四年間に中国で記録された二十五回の日食のうち、新羅慶州で観察の好条件(◎)の日食は十一回である。このうち七回が実際に新羅本紀に記録されているのである。◎の好条件であるのに記録されなかった四回は、当日中慶州は雨か曇りの悪天候であったからであろう。十一回のうち七回は晴、四回は悪天候。この比率は慶州を含む朝鮮半島の気象条件からみて自然であろう。
今度は、中国で日食が記録されたが、その日食は新羅慶州では食分、あるいは太陽高度の点で観測条件が悪かったもの(×と△)の数を数えると、十二回を数える。この新羅慶州での観測条件が悪かった十二個の事例で、新羅本紀に記録された日食は?一例もない。
すなわち、中国では観測され『漢書』や『後漢書』に記載された日食ではあっても新羅の首都慶州では天文学的条件が悪くて日食が観測されなかった事例は、新羅本紀には一例も記されていないのである。
以上の事実は何を物語るであろうか?当然、『三国史記』の編者・金富軾は盲目的に中国に記録にある日食記録をコピーしただけである、という憶測を完全に否定することとなろう。金富軾は、正しく新羅で観察され、正しく伝えられてきた日食だけを新羅本紀に記載したのである。すなわち『三国史記』の編者・金富軾は新羅の初代王・赫居世の治世の頃のかを示す数字で、例えば太陽面が全部月に覆われる皆既日食だとこの数字は百%になる。この食分の数字が四十%を超えると、大部分の人に気づかれる。逆に食分二十%以下だとほとんどの人には気づかれず、見過ごされるとされる(渡辺敏夫、日本・朝鮮・中国日食月食宝典、一九九四復刻版刊)。
さて、表1によるとこの九十四年にわたる年代に新羅本紀には合計九回の日食日食記録は、正しく紀元〇年前後から伝わった正確な記録に基づいて記載した。
このことから我々は、どういう結論が得られるであろうか?それは次の結論である。新羅本紀を含む『三国史記』の中の多数の記事は、日食記録だけではなく大部分の記録項目は信頼性の高いものであると結論すべきである、ということである。すなわち『三国史記』に記された多数の倭の記録は、九州王朝の動向を正しく反映した事実の記録である、と言うことである。
[補足]表1について少々補足説明をしておこう。日食番号2は洛陽では観察できないはずの日食ではあるが、朝鮮半島に近い地域では観察が可能である。中国の日食記録は、首都だけではなく、広大な中国全体のどこかで観察された日食ならば記録に残されたようである。新羅の日食記録では、たまたま日食のとき悪天候であった場合には見逃された。しかし広大な中国の場合、その領域中のどこかで日食が観測されれば記録が残った。このため、この日日食が起きているはずであるのに。たまたま洛陽では悪天候であったために記録には残らなかったという事例はほとんど生じていないと考えられる。
日食番号6は、この日付には中国でも新羅でも日食は起きていない。なぜこの日食記録が残ったのか不思議であるが、あるいは濃厚な黄砂現象が起きて、それを日食と見誤ったものか?
日食番号21の日には実は地球全体で日食は起きてはいない。その約二ケ月前には中国でも新羅でも食分の大きな日食が起きていた。表1の無番号の日食である。単なる日付の錯誤である。当然、このような錯誤が中国の記録と新羅の記録の双方で偶然に起きたとは考えにくいので、この日食のただ一例に関してだけは、『三国史記』の編者・金富軾は中国の『後漢書』記載を盲目的にコピーしたと認めるのにやぶさかではない。
七、本稿の結論が九州王朝論に与える影響
本稿の議論の範囲では、直接には『三国史記』のうちの新羅本紀の初代王赫・赫居世の統治した紀元前一世紀ころの記録が信頼することができると証明できたにすぎないけれども、このことから類推すれば、『三国史記』全体が、信頼性が高いであろうことは容易に類推することができる。すると、そこに記された百項目以上の倭・日本に関する記事も大部分が真実であろうことは、これまた容易に推定することができる。その作業は本稿では行わないけれども、非常に実り豊かな成果が得られるであろうことは予測することができる。ほんの二,三の例だけを挙げれば、五世紀、倭の五王の一人、倭王武は朝鮮半島にせめこんでそこに支配地を獲得したことを中国に報告している。この事実は同時期の『三国史記』の記載と対応関係を持っているだろうか?さらに、『日本書記』には『百濟新撰』などの記事が引用され、また本文化されている。これらは、近畿天皇家の事実で
なく、九州王朝と百済の関係であることが古田武彦によって指摘されている。では『三国史記』の記載と『日本書記』に引用されたこれらの百済系史料とは整合性を持っているだろうか?さらに暴風雨、疫病、蝗害、黄砂など、日本・中国・朝鮮で同時期に共通して起きた可能性のある現象について、この三国で共通した記載がみられるであろうか?
これらの点について、出来たら多くの人に関心をもっていただいて研究が進むことを希望したい。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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