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「壹」から始める古田史学・三十六
多利思北孤の時代⑪
もう一人の聖徳太子「利歌彌多弗利」
古田史学の会事務局長 正木裕
一、なぜ九州王朝説は教科書に載らないのか
1、『記紀』をもとにつくられている古代史学
先日の奈良での講演会で「なぜ九州王朝説は教科書に載らないのか」との質問をいただきました。ここで若干の見解を述べます。
今の日本の古代史学界、特に「文献史学」は、『古事記』『日本書紀』をほぼ唯一かつ最も信頼すべき資料とし、その記述に依拠しています。また、考古学の編年の基準にも『書紀』を用いることがよく見受けられます。そして「記紀」に「九州王朝」の存在は記されませんから、「九州王朝はなかった」とするのが学会の「常識」として通用することになっています。
2、外国史書と一致しない『書紀』記事
しかし、『書紀』には、『後漢書』に記す西暦五七年に光武帝から金印を下賜された倭奴国王や永初元年(一〇七)に安帝に朝貢した倭国王帥升、『三国志』に記す三世紀の俾弥呼・壹與、『宋書』等に見える五世紀の「倭の五王(讃、珍、済、興、武)」、『隋書』に記す六〇〇年・六〇七年に遣使した俀王阿毎多利思北孤などの「我が国の支配者(大王・天子)の名」は一切記されません。特に多利思北孤の国は「阿蘇山あり・陸少なく水多し・冬も温暖で草木が青く茂る」とされ、どう考えても「ヤマト」ではありえません。これは「記紀に無いことは存在しない」のではなく、『記紀』は「我が国の本来の歴史を『消し』たり、『改ざん』した」史書であることを示しています。その逆に記紀に記すヤマトの歴代天皇の名は、これら中国史書には記されません。これは「ヤマトの歴代天皇は我が国を代表する支配者ではなかった」ことを示します。
3、外国史書・資料の無視
今の古代史学界(特に文献史学)は、こうした資料事実に目をつぶり、「中国史書に我が国の支配者と書かれているからにはヤマトの天皇に決まっている」かのように、無理やり『書紀』の天皇に比定しようとしています。いわゆる「ヤマト一元史観」の立場ですが、これがうまくいってないのは「倭の五王は即位の年代や続き柄が五世紀の天皇と合わない」ことでも明らかです。
もっとも「ひどい」のは、『旧唐書』(九四五年奏上)の「倭国条・日本国条」の無視です。『旧唐書』には、倭国と日本国は別国で、「倭国は金印を下賜された倭奴国から魏・南朝・隋・唐に至るまで中国と交流していた、東西を行くのに五か月・南北は三か月かかる範囲を勢力下においていた大国」であり、日本国は「もと小国で倭国を併合した国」とあり、使者が粟田真人と記しますから「大和朝廷」を指すことは明らかです。
『旧唐書』では、歴代中国史書に記す王・天子たちは、「倭国の王・天子」となり、これは中国の歴代史書に大和朝廷(日本国)の天皇の名が見えないことと整合します。古代史学会の大勢は、『旧唐書』は「ヤマト一元史観」と相いれないため、後代に『書紀』など(注1)を参照して作られた『新唐書』(一〇六〇年)を「真」とし、『旧唐書』を不体裁と決め無視する立場をとり続けているのです。
4、九州年号の無視
これと同様なことが「九州年号の無視」です。九州年号は『書紀』に見えないからか、未だに「九州年号は後代の偽作」とする見解が流布されています。しかし、『続日本紀』では聖武天皇が詔報で「白鳳・朱雀」という九州年号を用いたことが記され、また法令である『類従三代格』にも白鳳年号が記されています。(注2)ほかにも九州年号を記す文書は極めて多く、これを記さない『書紀』の方が「孤立した資料」とさえいえる資料状況です。
5、考古学資料の黙殺
さらに「一元史観」には考古学資料をも無視する姿勢が見受けられます。白雉元年が『書紀』の六五〇年ではなく、九州年号の六五二年であることを示す「元壬子」年(六五二)木簡も黙殺されています。藤原宮木簡で、七〇〇年以前の我が国の地方制度が、『書紀』に記す「郡」ではなく「評」であることが判明した後も、「律令の制度に書き換えただけ」という立場をとり、坂本太郎氏の「『書紀』がどうして郡字に限って評字を使わないで、後世の用字を原則としたかという疑問を私は未だ捨てることができない。」という重要な問題提起をとり上げようとはしません。この九州年号や評が『書紀』に記されないのも、それらが『旧唐書』に言う「倭国」の制度だからと考えれば、考古学資料とも整合します。
倭国(九州王朝)の存在を証する「九州年号」や「評制」の問題、つまり「誰が九州年号を制定し、また評制を施行したのか」という問題が無視、あるいは看過されているのは、「中国史書の無視」同様に、古代史学会が、未だに『記紀』に依拠した「一元史観」中心主義から脱していないからだと考えられます。「九州王朝説が教科書に載らない」のは、こうした我が国の古代史学会の現状を反映しているからだと言えるでしょう。
二、「一元史観」の大きな弱点「聖徳太子」
1、『隋書』及び「釈迦如来像光背銘」と厩戸皇子の不一致
ただ「一元史観」には海外史書や、考古学的事実と整合しない大きな「弱点」があります。その最大が「聖徳太子」問題です。『隋書』の俀王多利思北孤は「厩戸皇子で聖徳太子だ」とされますが、厩戸は「倭王」ではないし、多利思北孤とは名前が異なり、太子の名(利歌彌多弗利と山背大兄王)も違います。また、「釈迦如来像光背銘」に記す「上宮法皇」と、『書紀』の「厩戸皇子」も没年や母・后の名が異なり、厩戸は「法皇」になっておらず「法興」という年号も用いません。そればかりか、『聖徳太子伝記』などに記す聖徳太子と厩戸皇子も、「太子の生涯が九州年号で記される」ことや、「即位年(太子は十八才五八九年。厩戸皇子が推古の摂政となったのは推古元年五九三年)が違う」などの相違点があります。こうした点を資料事実に沿って細かく指摘していくことが、九州王朝説の理解を広め、一般化していく道だと考えます。
2、「聖徳太子・上宮法皇」のモデルは多利思北孤
こうした視点から、「多利思北孤の時代」では、「聖徳太子」や「上宮法皇」のモデルは、『隋書』に記す倭国(九州王朝)の天子「阿毎多利思北孤」であるとして、その事績を検討してきました。
聖徳太子や上宮法皇のモデルが多利思北孤であれば、誕生は金光三年(五七二)、国政を執行(即位)したのは十八歳で端政元年(五八九)となります。 そして、『聖徳太子伝記』で太子は十九歳(五九〇)の十一月に「優婆塞」(うばそく 五戒を受けた正式の仏教信者)となったと書かれ、翌年五九一年が『光背銘』に記す「法興元年」にあたります。仏門に帰依し授戒すれば法号(法名・戒名)が与えられるので、「法興」は多利思北孤(上宮法皇)の「法号」で、五九一年に法皇に即位したと考えられます。
これを契機に、多利思北孤は宗教・政治の両面での最高権威「菩薩天子」となり、「宗政一致」の統治を進め、以後は「天子の年紀である九州年号」と別に、「法興」を「法皇としての年紀」として用います。これが「九州年号と法興年号の並立」の理由だと考えます。「二年号並立」は「菩薩天子(天子であり菩薩である)」という多利思北孤特有の出来事で、多利思北孤=上宮法皇=聖徳太子であることを示しているのです。その多利思北孤は法興三十二年(六二二)二月二十二日に登遐し、翌年の六二三年に九州年号が「仁王」に改元されるので、「仁王元年」に倭国(九州王朝)の新天子が即位したと考えられます。
三、「聖徳太子」と多利思北孤の「太子」利歌彌多弗利
1、『隋書』に記す「太子利歌彌多弗利」
そして、『隋書』は、多利思北孤には「利歌彌多弗利」という太子がいたと記します。(注3)
◆『隋書』開皇二十年(六〇〇・推古八年)、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞彌と号す。使を遣わし闕に詣でる。(中略)名付けて太子を利歌彌多弗利と為す。
また『光背銘』にも、上宮法皇の臨終に際し「王子」が枕頭にいたと記します。
◆時に王后・王子等、及び諸臣と與ともに、深く愁毒を懐いだきて、共に相ひ発願す。
多利思北孤が上宮法皇なら、この王子は利歌彌多弗利で、上宮法皇が登遐した六二二年の翌年には九州年号が「仁王」に改元されていますから、そのまま次代の天子に即位したことになるでしょう。
2、利歌彌多弗利と「聖徳」年号
そして、「聖徳太子」没後の我が国に「聖徳」年号(六二九~六三四)があります。この年号は『二中歴』には見えませんが数多くの古文書に残されています。
①『海東諸国記』舒明天皇敏達孫名田村元年己丑(六二九)改元聖徳
②『茅窻漫録』聖徳〈舒明帝即位元年己丑紀元、六年終、年代、皇代、暦略、諸国記皆同、古代年號作聖聽〉
③『襲国偽僭考』舒明天皇元年巳丑(六二九)聖聴元年とす。
如是院年代記に聖徳に作る。そのほか『如是院年代記』『麗気記私抄』『防長寺社由来』『帝王編年記(役行者本記)』など多数存在する。
「聖徳年号」は、上宮法皇の「法興」が『二中歴』の「端政~倭京」と重複するように、「仁王」と重複しています。そして、「端政~倭京」の六年号では、一年号あたりの平均年数が五・六年、仁王の次の「僧要~白村江前の白雉」までは六・五年なのに、仁王だけは十二年間続いています。「聖徳」年号が実在するなら仁王六年間(六二三~六二八)「聖徳」六年間(六二九~六三四)で、前後の九州年号の年数の分布と整合するのです。「聖徳」年号は九州年号に存在したけれど、聖徳太子の没後に「聖徳」とあるのは不自然なので、『二中歴』から削除されたと考える方が理にかなっています。
3、「聖徳」は「法興法皇多利思北孤」の後継に相応しい
当時の東アジアでは、「仏教治国策」が採用され、皇帝や王が仏門に帰依し「法号」を得ています。
①隋の煬帝は、智顗大師から、開皇十一年(五九一)「菩薩戒」を受戒し「総持」を号し、②新羅の「法興王」(在位五一四~五四〇)は法空と号し、③次代の「真興王」(在位五四〇~五七六)は法雲と号した。
◆(法興王)王、位を遜きて僧と為り、名を法空と改め、(『海東高僧伝』『三国遺事』)
◆(真興王)「王、幼年にして柞(王位)に即きたれども、一心に仏を奉じ、末年に至り祝髪し浮屠(ふと *仏教徒)と為り、法服を被り自ら法雲と号し、(『海東高僧伝』)
そして、『三国遺事』には、「真興王」は「仏法を篤く信仰した」父の「法興王(法皇)」の、「徳を継ぎ聖を重ねて」(継德重聖) 即位したとあり、「継德重聖」の要約が「聖徳」です。
◆『三国遺事』真興すなわち徳を継ぎ聖を重ね、袞職こんしょくを承け九五に処る(*「袞職・九五」は天子の座の意味)。
利歌彌多弗利も、真興王同様「仏法を興した」先代の「法興法皇(多利思北孤)」の後継者として仏門に帰依し、受戒して法皇となり、「父の徳を継ぐ」ことを示す「聖徳」を「法号」として用いたのではないでしょうか。多利思北孤だけが聖徳太子のモデルなら、没後に「聖徳年号」を用いるのは不自然です。
ところで、七世紀末頃の中国と倭国に「南岳禅師後身説話」がありました。これは南岳禅師(慧思。五一四~五七七)が倭国王子に転生し仏法を興隆し衆生を済度したとするものですが、禅師の没年は五七七年で、「王子」とは禅師の没年より先の五七二年に生まれた「聖徳太子」のことにはなりません。
中国史書で「倭国王子」と記すのは「太子利歌彌多弗利」だけなので、「仏法を興隆し衆生を済度した太子=聖徳太子」とは、利歌彌多弗利にあたります。つまり利歌彌多弗利もまた、聖徳太子のモデルだと考えられます。
四、利歌彌多弗利の事績
1、利歌彌多弗利時代の「一切経渡来」と「無量寿経」説法
この利歌彌多弗利の時代に『一切経』が渡来します。
◆『二中歴』僧要(六三五~六三九)五年(元年)乙未 自唐一切経三千余巻渡」
『一切経』とは、仏教の経典を集成したもので、「無量寿経」などの経典と戒律及びその解説を含みます。そして、『書紀』には、僧要五年にあたる舒明十一年
(六三九)に、「秋九月に、大唐学問僧恵隠・恵雲、新羅の送使に従ひて京に入る」とあります。「僧要」は「僧を求める」という意味ですから、その要請に応え唐に留学していた学問僧らが帰国したことになるでしょう。
『書紀』では、恵隠は推古十六年(六〇八)に「唐」に学問僧として派遣されすが、実際は「隋」で、『隋書俀国伝』では俀王「多利思北孤」が推古十五年・大業三年(六〇七)に派遣したと記します。
◆『隋書俀国伝』大業三年、その王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。
『書紀』で僧要年間にあたる舒明七年から十一年は記事が薄く、「唐」関連記事は恵隠らの帰国しか無いため、『一切経』は彼らが六三九年に齎したことは確実で、現に舒明十二年(命長元年・六四〇)、恵隠らにより「一切経」に含まれる「無量寿経」が説経されています。
◆舒明十二年五月辛丑(五日)に、大きに設斎す。因りて、恵隠僧を請せて、無量寿経を説かしむ。
「無量寿経」では、法蔵菩薩(阿弥陀仏が菩薩だったときの名前)の四十八願中、第十三願の「寿命無量の願」、第十五願の「眷属長寿願」が説かれ、「仏となればその寿命が寿命長久であり、国中の人天、寿命も限量かぎりなからん」とします。つまり「無量寿」とは「寿命長久」で、六四〇年が「命長」と改元されたのは「無量寿経の説経」によることになります。六〇七年の遣隋使は多利思北孤の派遣ですから、一切経を携えての帰国は利歌彌多弗利の事績であるのは明白で、九州年号改元と一致する「無量寿経の説経」も利歌彌多弗利の事績となるでしょう。
2、「三十四年繰下げ」られた利歌彌多弗利の事績
なお、白雉二年(六五一)に難波宮遷都に伴う一切経読誦記事があります。
◆白雉二年(六五一)冬十二月の晦に、味経宮に、二千一百余の僧尼を請せて、一切経を読ませむ。
しかし一方で、『書紀』は天武二年に始めて一切経を写したと記します。
◆天武二年(六七三)三月是月、書生てがきを聚つどへて、始めて一切経を川原寺に写したまふ。
六五一年の一切経読経から二十二年後に「始めて一切経を書写する」というのは極めて不自然です。古田武彦氏は、『書紀』に記す持統天皇の吉野行幸は、倭国(九州王朝)の天子の事績を「三十四年前から繰り下げた」ものとされましたが、天武二年(六七三)の三十四年前は、まさに恵隠らが「一切経」を梓得て唐から帰国した六三九年にあたるのです。つまり、利歌彌多弗利は恵隠らが持ち帰った経典を直ちに写経させたと考えられるのです。
そもそも『書紀』白雉二年(六五一)に二千一百余の僧尼に一切経を読ませるのには相応の写本が必要で、それまでに写経されたのは確実です。天武二年(六七三)の一切経書写記事は、三十四年前の舒明十一年・僧要五年(六三九)の九州王朝の天子利歌彌多弗利の事績の盗用といえるでしょう。
注
(注1)大寺の僧侶奝然ちょうねんが九八四年に北宋の太宗に献上した『王年代紀』を参照したとされる。
(注2)『続日本紀』神亀元年(七二四)十月朔日に、(聖武天皇)詔報したまひて曰はく、「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明らめ難し。」 『類従三代格』天平九年(七三七)三月十日付太政官符謹奏。「白鳳年より淡海天朝に至るまで、内大臣家財を取り割ち講説の資とす。」
(注3)古田氏は「太子、名を利と号く。歌彌多弗(*上塔)の利なり」と読んで、「利」は、讃・珍・済・興・武同様の「一字名」で、「歌彌多弗」は「博多の字地名(旧、九州大学の地帯)上塔に関連する地名ではないか、とする。
◆「上塔(かみとう カミタフ)という地名が、九州博多にある。元の九州大学のあったところが上塔・下塔の地名があり、塔とうは、「タフ」のことです。ですから「太子は上塔にいる利り」という人物である。」(『古代に真実を求めて』第九集百十七頁 (明石書店)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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