栄山江流域の前方後円墳について (会報168号)
田道間守の持ち帰った橘のナツメヤシの実のデーツとしての考察 大原重雄 (会報173号)
高松塚古墳壁画に描かれた胡床に関して
京都府大山崎町 大原重雄
遊牧騎馬民族の使っていた床几とも呼ばれる胡床は、日本でも天皇や有力者が利用していた。それは古墳の壁画にも描かれている。しかし、胡床がアグラと訓読みされたために記紀や古典の解釈で誤解が生じることがあった。この点について以下説明していきたい。
【1】絵画に描かれた折りたたみ椅子を持つ男子
高松塚古墳の壁画には、男子の一人が折りたたみの椅子を手にしているのが描かれている。埋葬者が生前に配下の者と外出した際に使ったのであろうか。描かれた男女の持ち物には遊具があるという指摘もあり、被葬者とお伴が出かけた先でこの椅子に腰かけたと考えられる。発掘調査を行った網干善教氏は、『高松塚古墳の研究』などでこの胡床は黒漆塗の木枠が使われ、座面は布地。この形式の腰掛は床几とも呼ばれ、古訓であぐらと呼ばれた、と説明されている。
高松塚古墳壁画胡床を持つ人物
『名作椅子の由来図典』の椅子研究者
西川栄明氏は胡床を、「後漢時代から胡床という名で使われ始めた。後漢時代は匈奴の侵入が脅威だったが、その風俗が後漢にも伝わり、折りたたみ式スツールが広まった。その後日本へ伝わった。」との解説がある。またユーラシア文化に詳しい森安孝夫氏の説明では、折り畳み式で移動に便利な椅子のこと。「胡」という字が付いているこの「胡床」という椅子は,騎馬文化と同様に中央ユーラシアの遊牧民族が東アジアに伝えたものであり,大陸文化を体現するもの」とし、日本書紀の継体紀に登場することから、「そんな珍しい最先端の文物を即位前の継体が使っていたのは,きっと大陸と直結していたからに違いないと考えられる」とされている。「大陸と直結」とは微妙な表現だが、日本書紀には継体以外にも何度か登場している
【2】日本書紀にみえる胡床に腰掛ける貴人
日本書紀では胡床が継体紀で「晏然自若踞坐胡床」と天皇自ら腰を掛けるものとして登場し、その後も欽明紀、敏達紀、用明紀、舒明紀、孝徳紀、天智紀と七カ所で記されている。白雉元年の胡床は人名だ。
欽明紀十五年十二月 明王、乘踞胡床
敏達十四年 物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之
用明元年 皇子乃從諫止、仍於此處踞坐胡床、待大連焉。
舒明前紀 出于門坐胡床而待
白雉元年十月 難波吉士胡床
天智十年 向於内裏佛殿之南、踞坐胡床
書紀の記事では多くは紛争のさ中に屋外で使われているようだ。天智十年の天武の場合は、胡床に座って髪を落とす場面だ。この胡床は、先ほどの網干氏の説明にあるように古訓としてすべて「アグラ」とされている。なぜアグラとされたのかは、古事記の記事からと思われる。
【3】古事記では呉床と記されたアグラ
古事記には呉床として応神記と雄略記に登場する。
応神記 詐以舍人爲王、露坐呉床 以爲弟王坐其呉床
雄略記 於其處立大御呉床而、坐其御呉床 天皇坐御呉床
この呉床がアグラと読まれていることが、雄略天皇の歌からわかる。雄略天皇が吉野宮で出会った少女に、呉床に掛けて琴を弾く場面で、天皇の歌に「阿具良韋能 加微能美弖母知 比久許登爾」とあり、この「阿具良韋能」は「アグラにすわって」となり、さらに次の歌にも「阿具良爾伊麻志アグラに坐し」とある。早くから呉床はアグラと訓まれていたと考えられる。なお雄略記の初めに呉人の渡来記事があることから、彼らがこの椅子を持ち込んだので、古事記では呉床という漢字表記にしたと考えられる。日本書紀では中国にならったからかは不明だが、すべて胡床である。先ほどの雄略記に呉床を立てて、とある。つまり携帯し、王の為に外で広げて設置したのだろう。高松塚古墳壁画の人物と同じように、お伴のものに胡床を持たせて吉野の宮に行ったのだ。ところがこの胡床が、古代の日本では異なる理解がされ少し複雑なことになっている。
坐坐
【4】床几(将几)と名付けられ、アグラと訓まれた胡床
この便利な折りたたみ椅子、スツールは、現代の日本では床几とされている。ところが天皇や貴人の椅子が胡床と表記され、古事記や書紀にあるようにアグラと訓まれているのだ。江戸中期の百科事典である和漢三才図会にも同様の図があり、折りたたみ椅子は床几で四脚の椅子はあぐらと訓む胡床となっている。正倉院所蔵の赤漆槻木胡床せきしつつきのこしょうという鳥居型の背のついた、天皇が高御座で着座する御椅子がある。先ほどの西川氏は「座がゆったりめにしつらえてあるのは、座の上に乗ってあぐらをかけるようにとの配慮かもしれない、胡床は『あぐら』とも読める。胡床は折りたたみ式の床几のことで本来なら名称には『倚子』を用いるのが自然だろう」と解説されているが、名称に疑問を持たれるのは当然である。ただ前半のあぐらが組みやすいように幅広くしたというのはおかしい。天皇が椅子にあぐらを組んで座るというのは考えにくい。これも胡床をアグラと読んでしまうことからくる誤解である。古典にはあくまで胡床に座るという記述しかない。ところが講談社日本書紀の現代語訳の宇治谷孟氏は、敏達紀十四年に物部守屋は、「自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき」とされている。座面のせまい床几はお尻を乗せるのがやっとであり、そこにあぐらを組むのは無理である。胡床をアグラという訓みにしていることからくる誤解である。他にも誤解された例がある。和漢三才絵図
【5】日本霊異記に登場する不可解な「朝床」
古典の中には、元は胡床だったのが、後世にその意味が分からず、誤解されて「朝床」に書き換えたのではないかと思われる事例がある。日本霊異記の上巻二十三話『非道の男が育ての母に孝養を尽くさないで、この世で悪い死に方の報いを受けた』には、孝徳天皇の頃、母に貸した稲の代償を厳しく要求する息子の瞻保みやすに、その母が、ならば自分に飲ませた乳を返せと胸をはだけて反撃する物語がある。そこに、息子のみやすは怒って代価を出せと母を責め立てるが、次に「時母居地 子坐朝床」とある。この箇所は小学館の現代語訳では、「母は地面に土下座し、息子は朝床に寝そべっているという傲慢な無礼さであった」としているがこの解釈はいただけない。土下座する母に、息子は寝床で責め立てるというのは考えにくい。この日本霊異記もいくつもの写本があるが、群書類従本では胡床となっている。その意味が分からないために、朝床という解釈をしたと考えられる。つまり土下座する母に、息子は胡床に掛けて責め立てていたのだ。
また下巻十五話『乞食をしている僧を打って、この世で悪い死に方の報いを受けた話』にも主人公が「辰時起居朝床 彼鯉含口取酒将飲白口黒血返吐傾臥」とあり、現代語訳で「起きかけの床にすわって、鯉を口にして酒を飲もうとした時に、口から黒い血を吐き、横ざまに倒れた」とされる。小学館の注では、「朝はゆっくり起きそのまま何もせず床に座った生活らしい」と適当な説明を付けている。しかし主人公は飲食の後に倒れ込んだとあるので、この箇所も朝床ではなく胡床に腰掛けていたとするのが自然だ。古事記にも同様のものがある。
【6】天若日子が返し矢を受けたのは朝床ではなく胡床だった。
古事記の葦原中国平定の段では、自分の放った矢を射返されてアメノワカヒコが絶命する場面が描かれている。「中天若日子寢朝床之高胸坂以死」とあり、朝床に寝ていた際に返し矢が刺さり落命するとある。しかし、朝床の朝は胡ではないかとの指摘は早くからあり、大陸に存在する胡族の用いる胡床で、天若日子は休息をとっていたとする説がある。古事記伝を完成させた本居宣長も後世の椅子のたぐいとし、古事記の応神記、雄略記の呉床と同じとされている。だがその後の写本は胡床と朝床が混在し、現代に至っているも、なぜか現代語訳では朝床と解釈されている。
寛永21[1644]前川茂右衛門
原書はわからないが、写本には古事記真福寺本など早くから朝床となっているが、本居宣長の古事記伝の前より胡床とされる写本もある。面白いことに、そこに書写時か利用者の手になるものか不明だが、朝の間違いだと指摘するような追記があるが、訓みはアグラのままである。そして後の朝床とされた写本もアグラの訓みがそのまま付けられている。これはやはり不自然であろう。朝床に訂正されたのに、訓みはそのままアグラにされたのだ。
天若日子は新嘗の後に横になっていたという解釈もあるが、新嘗が出てくるのは、日本書紀であって、古事記では、天若日子が矢に当たる直前の様子は次のように語られている。タカミムスヒが派遣した雉である鳴き女が、彼の家の門前の桂の木にとまって伝言をする。その鳴き声が不吉だから殺すようにとアメノサグメに言われて、彼はその雉を射殺する。つまり家の前にいたのだ。そしてその矢は高木神のところに戻る。その矢を高木神は射返す。そして天若日子に命中する。朝床に寝ていたのではなく、家の前で胡床に腰掛けていたのだろう。日本書紀の場合、矢を放った後に祭祀を一晩行い、朝になって寝ていたところに矢が戻ってきたというのでは、いささか間の抜けた説話になるのではないか。
【7】日本書紀の場合は、朝床という言葉は使っていない。
天稚彦は「新嘗して休臥せる時なり」とあるが、これも彼が横になっていたかどうかはわからない。書紀での「臥」の用例を見ると、33カ所で臥が登場する。そのうち天皇の寝床と考えられる「臥内」が3カ所。病気、女の膝などの仰向けは20カ所。うつむきと考えられるのが路頭での死、鹿が伏せるなど含め10カ所ある。
景行紀:獨臥曠野
仁徳紀:時二鹿臥傍
雄略紀:夜臥謂人(夜ふして語る)
顕宗紀:臥泣行號
継体紀:妃臥床涕泣
推古紀:時飢者臥道垂・臥于道飢者
皇極紀:仰臥不知所爲うなだれてなすべきことしらない
孝徳紀:臥死路頭・臥死於路
以上のことから、休臥といっても、胡床に腰据えて前かがみに休んでいたとも考えられる。日本書紀では、朝床という言葉を使っていないのは、この言葉を疑問に思い新嘗の後で横になっていた、という解釈をしたとも考えられる。このことからも古事記の朝床は胡床の間違いとするほうが妥当であろう。
【8】高胸坂の謎
これは余談だが、天若日子の矢が当たる部位が「高胸坂」という意味の取りにくい表現がされている。書紀でも「胸上」「高胸」でいずれも「タカムナサカ」と訓ませている。後の解説として、胸の高くなったところといった、苦しい説明がされている。これは、天若日子が横になって寝ていたら矢が当たらないので、胸の高い部分に当たったかのようにするために後に入れ込んだのではないだろうか。胡床の意味が誤解され、朝床や横になって休んでいたと考えてしまい、それでは矢が当たらないので、苦肉の策で高い胸といった表現を入れたのではないか。返し矢は最初に雉の胸を貫通しているのだから、どうしても天若日子の胸に刺さらなければならなかったのだろう。そもそもこの返し矢の話はニムロッドの矢の説話と類似している。神をめがけて天上に矢を射ると、その矢は神の手で地上に投げ返されてニムロッドの胸板を貫くという大陸の説話を、この天若日子の返し矢に取り入れたのは自明。すると彼が同じ大陸文化の椅子を使っていたとしても不思議ではなく、ここは返し矢の説話と胡床が関連していると考えられる。
【9】建御雷(タテミカヅチ 書紀では武甕雷)が剣の先にあぐらを組んで座るのも疑問。
アマワカヒコの次に、タケミカヅチらが大国主に国譲りを迫るために登場する。
「逆刺立于浪穗、趺坐其劒前」
ここは従来より、剣の刃先にあぐらをかいて座ったと説明されている。しかし、この「前」はサキと読まれ剣の先と解釈されてきたが、対面する大国主の目線から見て、位置関係を意味しているとも考えられる。また「趺坐」がアグラをかいて座る、と解釈されてきたが、この「趺」は足の甲を意味する。足の甲を見せるように両足を下に曲げて坐るのだ。ところが元は胡床であったのが、アグラ座りと誤解され、しかも剣の先に座ったなどと解釈されてしまった。よってここでタケミカヅチは、剣の刃を上に向けて地面にさして、彼は胡床に座ったのであろう。砂浜に直接腰をおろす様では、大国主を説得する迫力に欠けるであろう。床几にどっしりと腰を据えて、剣を立てて大国主に国譲りを迫った、というのが本来の情景だったのではないか。
ただ日本書紀では、「踞其鋒端」とあり、まさに雷神の武御雷が刃先に落ちてくるといった様にとれる。しかし、ここでは「踞」となっており、うずくまる、腰据えるといった意味だ。踞にアグラの訓みが付けられているが、これも同様に胡床のアグラという訓みに引きずられた解釈によるものであろう。よって日本書紀の場合も剣の先にあぐらをかいていたことにはならない。
【10】隋書の多利思北弧の跏趺坐も奇妙である。
「天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務云委我弟」
漢籍では魏晉南北朝や隋唐五代のもので跏趺坐を見ると、「青原志略」という仏教の記事以外では、北史と隋書があり、いずれもこのタリシホコの記事だけである。タリシホコが日の明ける前から治政報告をあぐら座りをしながら聴いて、日の出になると弟にゆだねる、というのも少し妙である。そもそも、跏趺坐は仏教の座法である。瞑想しながら政治報告を聞くとか、日の出を待つとかは考えにくい。隋の皇帝は、この趺坐をしながら執政したことを咎めたわけではないだろうが、倭国の遣使は、本来は胡床に座ることを、アグラに座ってと説明したのが、通訳には、中国語で同じ発音のアグラを組むことだと誤解されて跏趺坐と記録された、と考えられるのではないか。タリシホコも胡床に座って政務を執っていたのかもしれない。
以上のように、渡来品の胡床がよくわからず、さらには胡床がアグラとの訓みが付されたことなどから、朝床やアグラで坐ることだと理解されて、朝に横になるアマワカヒコや切っ先にアグラをかくタケミカヅチなどという奇妙な解釈が現代までまかり通ってきたのだ。
【11】埴輪などに見られる胡床に似た椅子
絵にはあっても、この胡床の現物は今のところ出土していない。しかし、古墳時代の埴輪や石製品に脚部を交差させた表現はないが、座面の左右の横棒とそこに湾曲させて布地もしくは皮を張っているような表現のものがある。奈良県の石見遺跡には背のない椅子に湾曲した面に座る人物埴輪がある。群馬県伊勢崎市赤堀茶臼山古墳の埴輪には同様の表現に背もたれの付いた腰掛がある。また奈良県のメスリ山古墳の椅子型石製品も座部は同じ形状だが、土台部に交差する脚は見えず、脚部に装飾を付けたようにも考えられる。ところが滋賀県中沢古墳では木製の腰掛が出土し、形状はメスリ山古墳のものと類似する。高さが二十センチ未満で実用的ではない。いずれも座面は表現したが、交差する脚部はよくわからなかったからか、固定の脚や装飾板を付けたような土台にしているのだ。本物の胡床の出土を期待したい。
奈良県石見遺跡椅子に座る人物
群馬県伊勢崎市赤堀茶臼山古墳埴輪背もたれ付き腰掛け
奈良県メスリ山古墳椅子型石製品
滋賀県草津市中沢古墳 木製古墳
栃木県真岡市亀山胡坐男子
また人物埴輪にはあぐらを組む表現の埴輪がある。群馬県綿貫観音山古墳の埴輪には、あぐらを組む男子象がある。ところがこれは、左足の先端部以外は、復元時に「後補」されたもので、着衣の裾の形状からあぐらを組んでいたと判断されたようだが、これは疑問である。だが、あきらかに足を組んでいるとみられるものもある。栃木県の胡坐男子とされているのだが、よく見ると、両端に胡床と考えられる横棒が表現されているが、座面が凸面になっている。胡床を直接見たことのない工人が作ったものではないだろうか。他に栃木県や福島県に、胡床表現のない座面にあぐらを組む人物埴輪があり詳細は不明だが、胡床以外にアグラをかく埴輪もあったのであろうか。ただあぐら座りで復元されている三つの埴輪がいずれも、解説では刀に手をかけているポーズというのだが、アグラ座りのまま刀を抜くというのはちょっと妙であろう。
以上のように、渡来品として入って来た胡床は、倭人にはなじみのなかったものであり、さらにその訓みがアグラとされたが為に記紀や古典、さらには埴輪の造形にまで誤解されてきたと考えられる。
【12】日本書紀の胡床に座る人物
日本霊異記の母親に借金返済を求める瞻保みやすは、庶民は持てなかったと思われる胡床を使っている。彼の身分は不明だ。だがもう一人の主人公の名前は犬養宿禰真老まおゆとされている。犬養は犬養部を司る氏族であり、宮廷の警護にもあたっているから、この主人公が胡床を持っていてもおかしくはなく、瞻保も軍事に関係する地位の人物だったかもしれない。
書紀の各記事の胡床に座る人物は、継体、聖明王、守屋、穴穂部皇子、境部摩理勢、天武である。境部摩理勢は稲目の子だが、蝦夷に反発しており蘇我氏と対立する人物が3名いるのは興味深い。また神話の二人は天孫降臨する集団の持ち物なのである。
高松塚古墳の絵画に描かれた胡床はたいへんリアルである。手元に実物があったのではないだろうか。被葬者像を検討される研究者はここに着目されてもいいのではないか。使いの男性が持つ胡床は被葬者が利用するものであろうから、ひょっとすると日本書紀において胡床を使う人物の一人である天武天皇などの近親が、被葬者である可能性もあるかもしれない。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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