2015年10月 9日

古田史学会報

130号

1,「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来
 正木裕

2,「権力」地名と諡号成立の考察
 古賀達也

3,「仲哀記」の謎
 今井俊圀

4, 九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎
 合田洋一

5,「熟田津」の歌の別解釈(一)
 阿部周一

6,「壹」から始める古田史学 II
古田武彦氏が明らかにした
「天孫降臨」の真実
 事務局長 正木 裕

7,「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載

8,「坊っちゃん」と清
 西村秀己

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「壹」から始める古田史学 I   II  III IV  VI(?) VII(?) VIII(?) IX(?) X(?)
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「壹」から始める古田史学 II

古田武彦氏が明らかにした「天孫降臨」の真実

古田史学の会事務局長 正木 裕

1、「天孫降臨」とは何か

 「天孫降臨てんそんこうりん」とは「天照大神あまてらすおおみかみの命により、葦原中国あしはらのなかつくにを治める為、邇邇藝命ににぎのみことが高天原あまたかはらから筑紫の日向の高千穂峰へ天降った」という神話の事で、戦前は”史実”であるかのように喧伝されていました。尋常小学校の「国定教科書」には、
◆大日本帝国は大神が御孫(みまご)邇邇藝命をして治めたまひし国なり。「此の国は我が子孫の君きみたるべき地なり。汝皇孫いましすめみまゆいて治めよ。寶祚ほうそのさかえまさんこと天壌てんじょうときはまりなかるべし」と仰せ給へり。(略)邇邇藝命は三種の神器を奉じて日向に降りまさりき。」等と書かれ、天孫が雲に乗り降臨する挿絵もありました。 戦後はさすがにこうした神話は「史実にあらず」と否定されましたが、日向に「ひゅうが」とルビがふられ、降臨の地は「宮崎なる日向」であるとする見解は全く変わっていません。

2、それは青銅の武器を持つ海人族による筑紫侵攻だった

 これに対し古田氏は、『盗まれた神話』ほかで、
◆「天孫降臨神話」は大和朝廷の史官による創作ではなく、「歴史上の事実を“本質的に”反映している。それは紀元前二〜三世紀頃、朝鮮海峡を拠点とする天照や邇邇芸命ら海人あま族による、稲作が盛んだった豊穣の地(豊葦原水穗国とよあしはらみずほのくに)“博多湾岸”への青銅の武器を携えての侵攻だった」とされました。
 『古事記』では降臨の地は「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気くしふるたけ」で、「此地は韓国からくにに向い真来通まきとおり、笠沙かささの御前みまえにして、朝日の直刺たださす国、夕日の日照ひでる国なり。故、此地は甚吉いとよき地」とあり、「韓国に向い真来通り」はどう見ても宮崎に当てはまりません。また、鹿児島や宮崎の「高千穂」に紀元前に遡る天孫降臨を示す遺跡もありません。
 これに対し“福岡なる筑紫”では、記紀の文言と合致する地勢や、古田氏の言う天孫降臨を示す“考古学的な証拠”が多数存在します。

3、地名・伝承と一致する筑紫への降臨

 まず「日向」ですが、慶長年間の福岡恰土郡高祖村椚くぬぎに関する黒田家文書に「日向山に、新村押立」とあり、『福岡県地理全誌』恰土郡には「民家の後に、あるを、くしふる山と云」とあることから、「竺紫の日向」とは“宮崎なる日向ひゅうが”ではなく、日向ひなた峠・日向ひなた川のある福岡(筑紫)恰土郡高祖連山一帯の地と考えられます。
 そこは東に「御笠川・御笠山のある御“笠”郡の地(沙は河口の砂地)」、北西に「壱岐から対馬・韓地へ通じる行路」を望む『古事記』の文面通りの地でした。
 そして、『古事記』には邇邇芸命の子日子穗穗手見命ひこほほでみのみことは、「高千穗宮たかちほのみやに、伍佰捌拾歳ごひゃくはちじゅさいします。御陵みささぎは、即ち其の高千穗山の西なり」とありますが、日子穗穗手見命を祭る「高祖神社」が今も高祖山の西山麓、怡土平野にあり、近辺には邇邇芸の妻木花咲耶姫このはなさくやひめを祭る「細石さざれいし神社」もあります。
 このように筑紫高祖山一帯は地勢的にも、また伝承からも記紀神話に描かれる天孫降臨の地“高千穗”に相応しいところと言えます。

4、証明された「豊葦原水穗国」への侵攻

 『古事記』では邇邇芸は「豊葦原水穗国」に天降ったとされています。
 最近の考古学の発展で、博多湾岸から唐津にかけては、早ければ紀元前十世紀、遅くとも紀元前七世紀頃に水稲栽培が開始され、菜畑遺跡では“縄文水田”とも言うべき大規模な水田耕作施設も作られていたことが分かってきました。また、紀元前六〜前二世紀頃の糸島地域の支石墓群(志登・曽根石ヶ崎・新町・三雲加賀等)からは、磨製石鏃や壁玉製管玉等の“縄文の遺物”が出土し、同時に縄文人の形質を色濃く残した人骨も埋葬されていました。
 一方、紀元前二世紀頃の博多湾岸吉武高木遺跡や野方遺跡からは天孫降臨神話に見える青銅の鏡・銅剣・銅鉾等が出土し、埋葬された人骨は“弥生系”の特徴を備えています。同時に吉武大石遺跡からは“磨製石剣の切先や磨製石鏃”等も出土しますが、これらは戦闘の結果「体内に残された可能性が高い(福岡市博物館)」とされています。
 こうした状況は、「水稲栽培を行い、石剣・石鏃を用い、支石墓群を残した縄文系の色彩の濃い先住民」と、「銅剣・銅矛を用いた弥生系の勢力」の間で紀元前二世紀ごろに戦闘が行われたことを示し、青銅の武具を携えた弥生人の筑紫侵攻、即ち「天孫降臨」を考古学的にも実証するものです。

5、群を抜く海人族の本拠・対馬の青銅武具

 また対馬には“天照大神あまてらすおおみかみの原型”といえる「阿麻氏*留あまてる神社」があるほか、縄文後期から弥生時代の多くの遺跡が存在し、銅矛の出土は一二〇本以上に上り、九州に比べても群を抜く数となっています。また朝鮮系の出土物も多く、この地にいち早く青銅の武具が齎されたことは疑えません。一方、倭人伝に「良田無く」とあるように耕作可能地は僅かで、「新型の青銅武器はあるが作物は少ない」対馬・壱岐の海人族が、「食料は豊富だが旧来の武器しかもたない」北部九州の水田地帯に侵攻し支配することは、歴史の必然だと考えられます。
     氏*は、氏の下に一。 JIS第3水準ユニコード6C10

 このように古田氏が述べる「天孫降臨の真実」は文献上も現地伝承からも、また考古学上も確認できるのです。
 ちなみに、降臨前の豊葦原水穗国の“宗主国”は「出雲」でした。それは天照が天穂日命あめのほひのみことや天稚彦あめのわかひこらを派遣するも、何れも出雲大己貴おおなむちに「侫媚(ねいび *媚びへつらうこと)」して成就せず、武甕槌たけみかつちらによって大己貴や事代主ことしろぬしを屈服させ「国譲り」させてから「天降った」ことからも明らかです。また、出雲神話には「金属器」が登場しないのも、彼らが支石墓人と同時代の「縄文の支配者」だったことを考古学的に裏付けるものです。
 先程、『古事記』に日子穗穗手見命は、「高千穗宮に、伍佰捌拾歳坐します」とあることを述べましたが、古田氏は五八〇才とは「二倍年歴」で、二九〇年間代々「襲名」し筑紫を統治してきたことだとされています。次回はこの「二倍年歴」を取り上げます。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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