2015年10月 9日

古田史学会報

130号

1,「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来
 正木裕

2,「権力」地名と諡号成立の考察
 古賀達也

3,「仲哀記」の謎
 今井俊圀

4, 九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎
 合田洋一

5,「熟田津」の歌の別解釈(一)
 阿部周一

6,「壹」から始める古田史学 II
古田武彦氏が明らかにした
「天孫降臨」の真実
 事務局長 正木 裕

7,「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載

8,「坊っちゃん」と清
 西村秀己

 

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割付担当の穴埋めヨタ話㉀ 五畿七道の謎 西村秀己


「坊っちゃん」と清

西村秀己

 二〇一五年八月二九日高松市の菊池寛記念館主催の講演会が行なわれた。筑波大学・群馬県立女子大学名誉教授平岡敏夫氏による「『坊っちゃん』と『こころ』」である。この講演の趣旨は「坊っちゃん」岩波文庫一九八五年改版の同氏による解説に既に書かれているものとほぼ同様のものであるが、要するに「坊っちゃん」と「こころ」は一見真逆の作品だが、

『 坊っちゃん』と『こころ』には八年のひらきがあり、その間に漱石自身の変貌もあったであろうが、人間の孤独の問題、利欲に満ちた現実社会と相容れない精神の問題、愛の問題、財産の問題、生と死の問題等々とあげて行くと、『こころ』にある問題はすでに『坊っちゃん』に出ており、一見対照的な両作品の基底には、まぎれもなく同じ漱石が存在しているという事実につきあたらざるをえないのである。(同氏解説の二頁目)

 さて、平岡氏の講演で印象深かったのは、「清」に関する部分であった。

 まず、この作品は清が死んでから間もなく「おれ」が語った回想という構造であるということに注意したい。(中略)こういう清をなぜ作者は死なせてしまったのか。心から坊ちゃんを愛した唯一の存在が現実には非在であるという「今」でなければ、「おれ」が語れなかった物語が『坊っちゃん』なのである。(同氏解説の三頁目)
 「もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだ」には、「おれ」の妻などほかに想像できぬ、さながら新家庭のごときひびきがある。(同氏解説の十二頁目)
 愛する者同士が死しては同じ穴に永遠に眠るという願いがここにある。「だから清の墓は小日向の養源寺にある」というが、養源寺は兄が相続した〈家〉の菩提寺であるから、九州にいる兄に無断で下女を葬ることはできないはずであり、もともと下女が主家の寺に葬られ、その墓穴で主人を待つことができるのだろうか。(同氏解説の十四頁目)

 こうして平岡氏は清が限りなく「おれ」の妻に近い存在であるとするのだが、実は慎重にその断定を避けているのだ。その理由は清が作中で「婆さん」と形容されているからであろう。この「婆さん」は「胡麻塩の鬢の乱れを」とか「年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方清がすきだから、その魂が方々の御婆さんに乗り移るんだろう。」によって補強されていく。「おれ」は四国辺の中学校に勤務時代「履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」「可哀想にこれでもまだ二十四ですぜ」とあるように数え年二十四歳である。当時の女性の平均寿命は四十四歳だが、病死などが多かった時代の平均寿命であるからまさか四十四歳で「婆さん」ではないであろう。「婆さん」と呼ばれる限り少なくとも五十歳は超える必要があるのではないだろうか。とすれば清は「おれ」の倍以上の歳であり、さすがに結婚させるには躊躇われる。

 だが本当に清は「婆さん」なのか。本稿の目的はそれを検証することにある。
 まず「おれ」の「中学校勤務時代」を特定したい。その候補は三っつある。
 (1). 漱石が二十四歳であった明治二十三年
 (2). 漱石が松山の中学校に赴任した明治二十八年
 (3). 漱石が「坊っちゃん」を発表した前年の明治三十八年

 まず(1). は作中で「旅団長が祝詞を読む、知事が祝詞を読む」という「祝勝会」が登場するので否決される。(2). は日清戦争(3).は日露戦争が終わった年なので該当するが、作中には地の文ではあるものの「日露戦争」や「クロパトキン」などの単語も登場するので最も有利なのは(3).の明治三十八年となろう。平岡氏もこの明治三十八年説をとっている。

 作中時間が、明治三十八年夏過ぎから日露戦争祝勝会を経て、翌年二月の清の死後、作品発表の明治三十九年四月までであるとすれば(以下略)(同氏解説の三頁目)

 ところが、これでは短期に過ぎないだろうか。「おれ」が十月に学校をやめてから本作を語るまでに、赤シャツたちに天誅を加え、東京に帰り、清に会いに行き、清と暮らす家を借り、街鉄の技手になり、死んだ清を養源寺に葬らなければならない。角川文庫の解説者池内紀氏も

 「行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きているばかりである」
 巧みに時間の経過がつけ加えてある。四国の城下町に赴任したのは、あきらかにずっと以前のことなのだ。何年前かはわからない。かなり前であって、相当むかしのことなのだ。

と書く。確かに「中学校勤務時代」が明治三十八年で執筆時期が明治三十九年三月だとすれば「ただ懲役に行かないで生きているばかりである」というフレーズは理解しがたい。従って本稿では「中学校勤務時代」を明治二十八年と断定したい。また、「坊っちゃん」と再会して僅か四ヶ月で死んでしまっては、清があまりに哀れではあるまいか。
 では、明治二十八年に「婆さん」である清が五十歳だったと仮定してみよう。この清は弘化三年生れで明治元年では二十三歳である。作中では清は次のように記述されている。

 この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までする様になったのだと聞いている。
 元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。
 婆さんは何も知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。
 成程読みにくい。字がまずいばかりではない。大抵平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読をつけるのに余っ程骨が折れる。

 平岡氏などの大方の研究者は「もと由緒のあるもの」を夏目家がそうであったように旗本クラスの身分と考えているようだ。旗本など武士の没落は戊辰戦争の明治元年乃至秩禄処分の明治八年により始まる。弘化三年生れの清は実家の没落前に成年に達していて、教育どころか他家に嫁いでなくてはならない年齢なのである。江戸時代の武家の教育は幼年期から始められているので、清のように平仮名を書くのがやっとという教育レベルであるなら、実家の没落の時点で清はせいぜい五〜六歳であったと想像できる。清の実家の没落が秩禄処分以降であるのなら、清は「おれ」とほぼ同い年となる。作中の清はどう読んでも「おれ」よりは年上なのでこれはないだろう。とすれば清の実家の没落は明治元年のことであり、清の実家の当主は戊辰戦争で戦死し、その後の救いの手が無かったことになる。この時清はやや幅を持たせてみれば、一歳〜六歳ではなかったろうか。つまり明治二十八年には清は二十八歳〜三十三歳で「おれ」より四歳〜九歳の年長である。(一番可能性のある年齢は慶応三年生れ、すなわち漱石と同年である。これなら「おれ」よりたった五歳年長にもかかわらず「婆さん」呼ばわりされることが理解できる。漱石の韜晦であろう)
 さて、これで清は「おれ」より年長だが結婚対象となっても不思議ではない年齢となった。
 「坊っちゃん」の登場人物の登場回数をカウントしてみれば、一位は敵役である赤シャツ(或いは教頭)の一八五回、二位は同志である山嵐(或いは堀田)の一七四回、三位が清(或いは婆さん)の九九回なのである。作品の舞台は全十一章の内、第二章から第十一章の殆どが四国(漱石は松山とは書いていない)なのにもかかわらず、東京にいる清が三位であるのはある意味異常と言えよう。
 第一章では清の親切に戸惑いを見せていた「おれ」は四国で「野蛮な」「気の利かぬ田舎もの」「やな女」「失敬な奴」「しみったれ」「分からずや」「憐れな」「卑怯な」「生意気な」・・・(筆者も四国の人間なのでこのくらいで)に触れるにつけ徐々に清の心根の美しさに気づいていく。
 第七章では下宿の婆さんが「お嫁さん」からのと勘違いしている清からの手紙を「おれ」は訂正しようとしない。こうして作中では清が重みを増していく。

 どう考えても清といっしょでなくっちあ駄目だ。
 東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろう。
 どうしても早く東京へ帰って清といっしょになる。
 東京へ行って奥さんを連れてくるんだ。
 東京で清とうちを持つんだ。

 こうして「おれ」は清に会うために東京に向かうのだが、この時の問題の文章が次のものだ。

 その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。

 このフレーズを松山市民は辛抱強く我慢していると思うのだが、いまや「不浄な地」は別の意味を持つようになった。すなわち「清のいない土地」である。
 「坊っちゃん」のヒロインはマドンナなどではない。マドンナ(或いは遠山の御嬢さん、不貞無節なる御転婆)の登場回数は二八回第八位であり、「おれ」と会話すら交わしていないのだ。主人公と会話を交わさないヒロインなど有り得ない。「坊っちゃん」のヒロインは清なのである。そして「坊っちゃん」は「中学生向けのユーモア小説」ではなく一種の「恋愛小説」なのだ。「おれ」と清との愛、清の死の悲しみを描いた小説なのだ。でなければこの作品のタイトルの「坊っちゃん」が意味をなさない。「坊っちゃん」とは唯ひとり、清からだけの「おれ」の呼称なのだから。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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