2015年10月 9日

古田史学会報

130号

1,「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来
 正木裕

2,「権力」地名と諡号成立の考察
 古賀達也

3,「仲哀記」の謎
 今井俊圀

4, 九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎
 合田洋一

5,「熟田津」の歌の別解釈(一)
 阿部周一

6,「壹」から始める古田史学 II
古田武彦氏が明らかにした
「天孫降臨」の真実
 事務局長 正木 裕

7,「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載

8,「坊っちゃん」と清
 西村秀己

 

古田史学会報一覧

垂仁記の謎 ( 会報131号)
神功の出自 (会報137号)


「仲哀記」の謎

千歳市 今井俊圀

 私は「古田史学の会・北海道」の仲間たちと、毎月の勉強会で『古事記』を勉強していますが、その過程において分かってきた事を報告したいと思います。

 (1). まず、「仲哀記」には「帯中日子天皇、穴門の豐浦宮、また筑紫の訶志比宮に坐しまして、天の下治らしめしき。」とあります。これは、仲哀が山口県の下関市(長府の「忌宮神社」といわれています)と福岡県福岡市東区の「香椎宮」に都を置いて、天下を支配したという事です。通説では、「仲哀」は「成務」の都である近江国の志賀の「高穴穂宮」において即位し、南国を巡狩中に熊襲が反乱した事を知り熊襲を討つ為に穴門へ向かい、その地に神功を呼び寄せ「穴門豐浦宮」を立て、更に筑紫へ向かい「橿日宮」に居た。とされています。

 二年の春正月の甲寅の朔甲子に、気長足姫尊を立てて皇后とす。
 (二年)三月の発丑の朔丁卯に、天皇、南国を巡狩す。是に、皇后及び百寮を留めたまひて、駕に従へる二三の卿大夫及び官人数百して、軽く行す。紀伊国に至りまして、徳勒津宮に居します。是の時に当りて、熊襲、叛きて朝貢らず。天皇、是に、熊襲国を討たむとす。即ち徳勒津を発ちて、浮海よりして穴門に幸す。
 秋七月の辛亥の朔乙卯に、皇后、豊浦津に泊りたまふ。
九月に、宮室を興てて居します。是を穴門豊浦宮と謂す。

 しかし、不思議な事に『日本書紀』の「成務紀」・「仲哀紀」には、「近江国・志賀・高穴穂宮」がまったく出現しないのです。唯、「景行紀」に、

 五十八年の春二月の辛丑の朔辛亥に、近江国に幸して、志賀に居しますこと三歳。是を高穴穂宮と謂す。
 六十年の冬十一月の乙酉の朔辛卯に、天皇、高穴穂宮に崩りましぬ。

とあり、「景行」が「近江国の志賀の高穴穂宮」で死去したと記しています。
 次の「成務紀」に、

 大足彦天皇の四十六年に、立ちて太子と為りたまふ。年二十四。
 六十年の冬十一月に、大足彦天皇崩りましぬ。
 元年の春正月の甲申の朔戊子に、皇太子、即位す。

とあるので、「成務」は「近江国の志賀の高穴穂宮」で即位したと解されているのです。しかし「成務紀」の中に、「近江国の志賀の高穴穂宮」がただの一回も出現しないのです。そして、「景行紀」には、四十六年の記事自体がありません。「成務」が太子になったという記事は、五十一年の八月の条なのです。「景行紀」と「成務紀」では、太子(皇太子)になった時期が違うのです。

 (五十一年) 秋八月の己酉の朔の壬子に、稚足彦尊を立てて、皇太子としたまふ。

 又、「成務紀」の

 四十八年の春二月の庚辰の朔に、甥足仲彦尊を立てて、皇太子としたまふ。

 六十年の夏六月の己巳の朔己卯に、天皇崩りましぬ。

とあり、「仲哀紀」に

 稚足彦天皇の四十八年に、立ちて太子と為りたまふ。
 六十年に、天皇崩りましぬ。
 元年の春正月の庚寅の朔庚子に、太子、即天皇位す。

とあるので、仲哀も「近江国の志賀の高穴穂宮」で即位したと解されているのです。しかしながら、「仲哀紀」の中にも「近江国の志賀の高穴穂宮」がまったく出現しないのです。『日本書紀』の中では、ほかに遷都したとも書かれていないので、「成務」の都も「仲哀」の都も「近江国の志賀の高穴穂宮」であろうとされているのです。
一方、『古事記』にはその様な記事はまったくありません。「仲哀」が近畿にいた形跡がまったくありません。「景行記」の「后妃皇子女」の項の系譜や、「成務記」には「仲哀」の名がまったく登場しないのです。「仲哀」の系譜が出てくるのは、「景行記」の「倭建命の子孫」という項にだけ出てくるのです。しかし、その「倭建命」の系譜では、「倭建命」の曾孫である「?野眞墨比賣命」の更に孫である「迦具漏比賣命」と、「景行」の間の子である「大江王」の更にその子である(つまり、「迦具漏比賣命」と「景行」の孫)「大中津比賣命」が「仲哀」の第一后であり、「香坂王」と「忍熊王」の母であるとしています。常識では考えられない、あり得ない不自然な系譜です。恐らく、「近畿王権」とは別の系譜から切り取って貼り付けた系譜と思われます。
又、熊曾征伐の為、近畿の都を発って穴門の「豐浦宮」へ来、そこへ神功を呼び寄せたという記事もありません。はたして、『古事記』と『日本書紀』の記事のどちらが正しいのでしょうか?
都をカットし、都から「穴門の豐浦宮」や「筑紫の訶志比宮」へ来た記事をカットして、神功や応神にとって何のメリットがあるのでしょうか?そこをカットしてしまったら、神功が穴門の「豐浦宮」や「筑紫の訶志比宮」にいるレーゾン・デトールが失われてしまうのです。すなわち、『古事記』の記述の方が原形であると考えるのが妥当なのです。
 つまり、『古事記』を見る限り、「仲哀」は「穴門の豐浦宮」と「筑紫の訶志比宮」を支配地の拠点とする九州王朝の王族の一人であるという結論に達するのです。そして、おそらく応神の時代に、応神たちの侵略王朝(河内王朝)と、「景行」・「成務」の近畿王権を結ぶ操作がなされたのだと思われます。「成務」と「仲哀」は断絶しており、万世一系ではないのです。

 

 (2). 「仲哀記」には、

 「天皇、筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曾國を撃たむとしたまひし時」

とあります。

 通説の通りだとすると、「仲哀」が軍を率いて、近畿から「穴門の豐浦宮」や「筑紫の訶志比宮」にやって来たとして、その時、九州王朝は何をしていたのでしょうか?唯、だまって見ていたのでしょうか?まずこの時期、実力的に見て、近畿王権が九州に攻め入る事が出来たとは考えられません。仮に、九州王朝の「熊曾國」征伐の応援として来たとしても、その後(「仲哀」の死後)、神功たちが新羅を攻め、更に軍を東へ引き返す等々、やりたい放題をしているのに、それを九州王朝が黙認したとは、「多元史観」の立場からは考えられないのです。
やはり前述の通り、「仲哀」が九州王朝の王族の一人であり、この記事は九州王朝内部の「熊曾國」征伐準備記事(その後の記事を見ると、結局、「熊曾國」征伐は立ち消えになってしまいます)と考えるのが妥当ではないでしょうか。
それではこの時期、「熊曾國」はいったい何処にあったのでしょうか?
樋口隆康氏作製の「弥生時代青銅器出土地名表」を見ると、熊本県熊本市の緑川河口と大分県の竹田市・豊後大野市・臼杵湾を結ぶ線以南からは、ほとんど青銅器の出土がありません。
 宮崎県からは、文政年間に発見されたとする、伝日向国といわれる「中広矛」と、宮崎県内から発見されたとする出土状況が不明の「平剣」の二点。鹿児島県からは、志布志市(旧・有明町)の土橋集落から大正六年(一九一七年)に出土した「中広矛」と、姶良郡湧水町(旧・吉松町)の永山古墳(薩摩隼人塚といわれる地下式石積石室墓)から昭和四八年(一九七三年)に発見された素文鏡(彷製鏡)の二点のみなのです。いずれも、弥生時代の地層あるいは墓から出土したかどうか分からない物ばかりなのです。
 又、熊本県からは、球磨郡多良木町大久保の「カリカケ松遺跡」から、細型銅剣が出土しているだけです。
 しかしながら、樋口氏の「弥生時代青銅器出土地名表」は昭和四九年(一九七四年)に作成された古いもので、熊本県に関しては、熊本県教育庁文化課の高木正文氏が平成一五年(二〇〇三年)に作製した表では、緑川河口以南の前記以外のものは、

 熊本市南区城南町宮地新御堂 新御堂遺跡 巴形銅器、内行花文鏡、舶載鏡等
 八代市上日置町女夫木 上日置女夫木遺跡 小銅鐸
 八代市長田町用七 用七遺跡 鏡、ヤリガンナ
 球磨郡あさぎり町本目 本目遺跡 鏡
 球磨郡錦町木上 夏女遺跡 内行花文鏡、銅釧

であり、熊本県内五十八遺跡中、五十二遺跡が緑川以北であり、圧倒的多数を占めます。
 これらから推測される弥生時代の九州王朝の勢力範囲は、前述の熊本県中部と大分県中部を結ぶ線以北であるという事です。この「仲哀」の時代(私は四世紀初め頃と考えています)も、おなじ様な状況であったと考えられます。

 つまり、熊本市の緑川以南、現在も球磨郡と呼ばれている地方に、この説話の「熊曾國」があったのではないでしょうか。「天孫降臨」以前は九州北部にもいた人々が、天孫族(九州王朝)に追われ、しだいに南下し、この時代に「球磨地方」に落ち着いていたのに、又、九州王朝に攻撃されようとしていたのが、この説話なのではないでしょうか。(尚、拙稿「景行説話と天孫降臨説話」において、「熊曾」と呼ばれた人々が、北部九州、それも糸島半島にいた事を論証してあります。)
 因みに、前述の熊本県中部と大分県中部を結ぶ線は、紀元前四四〇〇?紀元前四三〇〇年頃に起きた、鹿児島県硫黄島(鬼界カルデラ)の大爆発によって、火山灰が二〇〜三〇センチ積もった地域の北限、古田武彦氏のいう「半死半生地域」とほぼ重なります。
 古田氏は、町田洋氏の作成した、「アカホヤ火山灰の降灰分布」図から、

(A領域)全滅及び全滅に準ずる地域 火山灰三十センチ以上。
鹿児島湾岸、南半部をふくむ硫黄島周辺海域上の島々は全滅。鹿児島県の中央部及び北半部(有明海沿岸を除く)、宮崎県の、ほぼ全部、高知県の足摺岬近辺は、全滅に準ずる地域。
(B領域) “”半死半生”地域  
火山灰、三十センチと二十センチの間
鹿児島県と熊本県の有明海沿岸、阿蘇山周辺と大分県のほぼ全部。
(C領域)火山灰被害はあっても、人間の社会生活自体の消滅は、ほとんどない地域  
火山灰、二十センチ以下。
長崎県、佐賀県、福岡県、山口県(三分の二)、島根県、鳥取県(西半分)。

と分析し、このC領域が筑紫や出雲の「記紀神話」の舞台であり、「記紀神話は火山が生んだ」とされています。
 前述の樋口氏の「弥生時代青銅器出土地名表」と、町田氏の「アカホヤ火山灰の降灰分布」図が対応している事が分かります。

   二〇一五年七月一五日


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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