2020年10月13日

古田史学会報

178号

1,「二倍年暦」と「皇暦」から考える
「神武と欠史八代」

 正木 裕

2,さまよえる拘奴国と銅鐸圏の終焉
 茂山憲史

3,俀国伝と阿蘇山
 野田利郎

4, 覚信尼と「三夢記」についての考察
豅弘信論文への感想
 日野智貴

、『隋書』俀国伝の都の位置情報
古田史学の「学問の方法」

 古賀達也

6、「壹」から始める古田史学 ・四十四
「倭奴国」と「邪馬壹国・奴国」①
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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「壹」から始める古田史学 ・四十四

「倭奴国」と「邪馬壹国・奴国」①

古田史学の会事務局長 正木裕

1、『後漢書』の「倭奴国」

 『後漢書』には紀元五十七年に「倭奴国王」が朝貢し、金印(志賀島の金印)を下賜されたことが記されています。通説では「倭奴国」を「わのなのくに」と読みますが、「奴」に「な」の読みはなく「の・ぬ・ど」で、かつ「金印」が下賜されるのは「倭奴国」は倭国全体の代表者であることを示します。

 そして、当時の「倭奴国」の中心は高祖連山の西の怡土平野にあったことが『古事記』や「遺跡・遺物」から知ることが出来ます。
①『古事記』で、邇邇藝命を継ぐ「日子穗穗手見命」は、「高千穗宮に五八〇歲坐す。御陵は、卽ち其の高千穗山の西に在り」と記され、これは「二倍年暦」で約三〇〇年にあたります。

②邇邇藝命の降臨年代は、我が国で初めて「三種の神器」が出土する吉武高木遺跡の年代から紀元前二世紀ごろと推測でき、その後、紀元前後の約三〇〇年間、怡土平野で王墓級の遺跡(三雲・平原・井原など)が続きます

 従って、五十七年に金印を下賜された「倭奴国王」や、一〇七年に朝貢した帥升は、歴代の日子穗穗手見にあたり、「高千穂宮」と呼ばれる王都は怡土平野にあったことになります。そして、その位置は『魏志倭人伝』に記す「奴国」と一致するのです。

 

2、『魏志倭人伝』の「奴国」

 『魏志倭人伝』には伊都国の東南百里に二万戸の「奴国」があると記します。
◆(末盧国から)東南陸行五百里伊都国に到る。・・・千余戸有り・・。東南、奴国に至る。百里なり・・二万余戸有り。
 伊都国が怡土平野にあることは、「末盧国から東南に陸行五百里」との行程記事や、『翰苑』の「邪ななめに伊都に屆とどき傍ら斯馬に連なる」から知ることが出来ます。
 ただ、伊都国の人口は「千戸」で、これを糸島半島(怡土平野)全体に比定するには少なすぎること(注1)、伊都国の東南百里(約八㎞)に「奴国」が、東百里に「不彌国」があるという位置関係などから、古田武彦氏は『続・邪馬台国のすべて』(注2)で、「倭国の官庁や軍団所在地のところが伊都国であって、あと(南の平野部、怡土平野)は、すべて奴国です」とされています。
 つまり「三世紀の『奴国』は二世紀ごろまで『倭奴国』だった」ということになります。但し、「倭奴国王」は倭国の代表者でしたが、三世紀の倭国の代表者は俾弥呼であり、その王都は比恵・那珂・岡本という「高祖連山の東」の御笠川や那珂川の流れる「福岡平野」側に移っていたと考えられます(注3)
 これを証するように俾弥呼の邪馬壹国は七万戸、奴国は二万戸で、勢力は福岡平野側が怡土平野側を上回っています。

 

3、「魏使」が立ち寄らなかった「奴国」

 古田氏は、『魏志倭人伝』の行程記事で「渡・行」といった「動詞」があるのが実際に行った国、無いのは「傍線経路」で行っておらず「方位と距離」を示したものとされました。そして「奴国」へは「東南至奴国百里」と「動詞」がありません。そうであれば、魏使は、伊都国からわずか百里(七~八㎞程度)にある「二万戸の大国の奴国」へは立ち寄らなかったことになります。
 それはなぜなのか不思議でしたが、元の倭人の代表国で俾弥呼の時代も北部九州で「№2」の実力のあった「奴国」へは「政治的配慮」で立ち寄らなかった、あるいは「俾弥呼側が立ち寄らせなかった」のではないでしょうか。「漢王朝が金印を授け、我が国の№1と認めた国が魏と接触・交流する」ことは望ましくないとの判断だったと考えられます。

 

4、吉野ヶ里は奴国に含まれる

 古田氏は「怡土平野は全て奴国」としていますが、その範囲がどこまでかは示していません。「注1」で示した壱岐の面積と戸数の関係から、二万戸の奴国の面積を概算すると、千戸の伊都国(十数㎢)の二〇倍で二百~三百㎢となります。その一方、怡土平野の面積は丘陵部を含んでも二〇㎢程度で「二万戸」は怡土平野に収まりません。
 二百~三百㎢といえば、怡土平野と佐賀県の末盧国(松浦半島)以東~有明海沿岸部を併せた範囲(約一五〇〇㎢)から、脊振山地(東西約五〇㎞、南北約二十五㎞、約一二五〇㎢)を除外した範囲となります。
 つまり、「奴国」は倭奴国時代の怡土平野の「王都」を継ぎつつ、唐津付近から有明海沿岸部までを領域とする国で、これは、「吉野ヶ里も奴国に含まれる」ことを意味します。
 古田氏は『吉野ヶ里の秘密―解明された「倭人伝」の世界』(光文社一九八九年六月)で、遺跡や出土物を比較し、「倭国の主心臓部は福岡市・春日市。吉野ヶ里一帯は副心臓部」とされましたが、これは「吉野ヶ里一帯は邪馬壹国に次ぐ№2の奴国に含まれる」とする考えと一致します。
 そして「一世紀では怡土平野を王都とする倭奴国が我が国の代表だったが、三世紀には博多湾岸を王都とする邪馬壹国が我が国の代表者となり、倭奴国を継ぐ奴国は№2となった」ことになり、そこから『魏志倭人伝』に記す「倭国の乱」や「俾弥呼共立」の経緯が明らかにできるのではないでしょうか。

(注1)壱岐の一三八㎢・三千許家と「千戸」を比すると、伊都国・不彌国は各約四〇㎢。壱岐の耕地割合(現在でも約一/三程度)を考慮すれば、両国の面積は高々一〇~十三㎢で、伊都国は加布里湾を囲む範囲の国、不彌国は古代の今津湾を囲む範囲の国となろう。

(注2)古田武彦ほか『続・邪馬台国のすべて』(朝日新聞社一九七七年)

(注3)「俾弥呼の時代に、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の比恵・那珂遺跡地域」福岡市埋蔵文化財課久住猛雄(『古墳時代における都市化の実証的比較研究総括シンポジウム資料集』。大阪文化財研究所二〇一八年十二月)

 


 これは会報の公開です。

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