俀王の都への行程記事を読む -- 『隋書』俀国伝の新解釈 野田利郎(会報158号)
『隋書』俀国伝の「俀王の都(邪靡堆)」の位置について 谷本茂(会報158号)
倭国と俀国に関する小稿 谷本論文を読んで 日野智貴(会報177号) ../kaiho177/kai17702.html
『隋書』俀国伝の都の位置情報 古田史学の「学問の方法」 古賀達也(会報178号)../kaiho178/kai17805.html
俀国伝と阿蘇山
姫路市 野田利郎
はじめに
『隋書』俀国伝に「阿蘇山有り。其の石、故無し。火起り、天に接する者なり。俗以て異となし、因って禱祭とうさいを行う。如意宝珠有り。其の色青く、大きさ雞卵の如し。夜は則ち光有りと、いう。魚の眼精なり」の記事がある。
古田武彦氏は、この記事を俀王多利思北孤の国の中心が九州であることのはっきりした証拠とされ、概略、次のように説明する(注1)。
阿蘇山の「其の石、故無し」とは「火山が新たにふきあげ、地表に露出させた石」であり、この観測者を裴世清とする。また、如意宝珠の「この珠は夜光る」と倭人は言うが、実際は自分(中国人)の見るところ、『魚の眼精』だというから、この中国人は『如意宝珠』を見、これを冷静に観察している。また、「阿蘇山の禱祭」に「如意宝珠=魚の眼精」が使われていたとする。つまり、氏は「この中国人は阿蘇山に足を運び、そこで禱祭の実態を見たのだ。では『この中国人』とは誰か。『隋書』の俀国伝自身のしめすところ『裴世清』その人の一行しかない」と述べている。
しかし、二つの記事は明年(大業四年)の裴世清の訪俀記事の中ではなく、風俗・制度等記事に「有阿蘇山」「有如意宝珠」と書かれている。「有り」とは裴世清が実際に「見た」ことなのか、その確認を行ったところ、見たのではなく、新羅と百済からの伝聞であることが判明した。本稿は、その報告である。
一.俀国伝の構成
俀国伝は記載順及び内容から五つに区分できる。
(イ)俀国伝・前文記事(「俀国」~「中国相通」)。
(ロ)開皇二十年の朝貢記事(「開皇二十年」~「一軍尼」)。
(ハ)風俗・制度等記事(「其服飾」~「恒通使往来」)。
(ニ)大業三年の朝貢記事(「大業三年」~「勿復以聞」)。
(ホ)裴世清の訪俀記事(「明年」~「此後遂絶」)。
二.阿蘇山等を記載する目的
阿蘇山等の記事は「(ホ)裴世清の訪俀記事」でなく、「(ハ)風俗・制度等記事」のおわりの部分にある。この阿蘇山、如意宝珠、新羅・百済の三つの記事に共通点があり、その内容を確認する。
A.「阿蘇山有り。其の石、故無し。火起り、天に接する者なり。俗以て異となし、因って禱祭とうさいを行う」(有阿蘇山,其石無故火起接天者,俗以為異,因行禱祭)
B.「如意宝珠有り。其の色青く、大きさ雞卵の如し。夜は則ち光有りと、いう。魚の眼精なり」(有如意寶珠,其色青,大如雞卵,夜則有光,云魚眼精也)
C.「新羅・百済、皆俀を以て大国にして,珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒つねに通使・往来す」(新羅、百濟皆以俀為大國,多珍物,並敬仰之,恒通使往來)
この三つの記事には次の特徴がある。
第一に「風俗・制度等記事」の最後にまとめて、A→B→Cの順に記述されている。
第二に、AとBの冒頭は「有」で始まる対句形式である。
第三に、阿蘇山、如意宝珠のそれぞれが所在する俀国での場所の記載がない。俀国の人は阿蘇山の名で九州の肥後とわかる。しかし、隋朝の皇帝、官吏等には、俀国にある火が起こる珍しい山としか理解できない。また、如意宝珠も夜光る珠が俀国にあるとわかるだけである。A、Bの二つの記事は「珍物」を述べた記事である。
第四に、新羅・百済は俀国を大国で珍物が多い国と敬仰している。以上から、三つの記事の共通点は「珍物」であり、阿蘇山と如意宝珠はCの「珍物」の例示である。三つの記事は、併せて一つの文章となっている。
Cの記事から、阿蘇山、如意宝珠が俀国にあることを、新羅・百済は知っていたことになる。百済、新羅はなぜ、俀国に珍物があることを知ることができたかを次に確認する。
三.『三国史記』百済伝
『三国史記』の百済伝、腆支王五年(四〇九年)に「倭国が夜明珠(注2)を送った」との記事がある。「夜明珠」の説明はないが「夜、明るい珠」である。如意宝珠も「夜すなわち光あり」と一致する。いずれも「倭(俀)国」にあった珠であり、しかも、俀国に珍品多しとする百済が受け取っていることから、同じ「珠」と考えられる。なお、如意宝珠とは一切の願望が自らの意に添ってかなえられるという、不思議な玉の意で、現地の倭人側の呼び名と考える。
『三国史記』に書かれた「夜明珠」の前後の状況を「百済本紀」から抜粋する。『三国史記2』(東洋文庫)の井上秀雄訳による。
(イ)第一七代 阿莘あしん王
「六年(三九七)夏五月,王は倭国と好を結び、太子の腆支てんしを人質とした」
「十一年(四〇二)五月,使者を倭国に派遣して、大珠を求めさせた」
(ロ)第一八代 腆支てんし王
「(即位前紀)腆支王は『梁書』に名は映えい。阿莘の嫡男で、阿莘在位第三年(三九四)に太子となり、六年(三九七)倭国に人質としていった。十四年(四〇五)に王が薨去すると、仲弟の訓解くんかいが政治をとって、太子の帰国を待っていた。末弟の碟礼せつれいが訓解を殺して、かってに王となった。腆支は倭にいて訃報を聞き、大声をあげて泣き、帰国を要請した。倭王は百人の兵士を護衛につけて送り、国境まできた。漢城の人の解忠かいちゅうが来て、『大王がなくなると、王弟の碟礼が兄を殺し、自立しました。どうか、太子は軽々しく国に入らないでください』と告げた。腆支は倭人を留めて自衛し、海中の島にたてこもって、待った。国人が碟礼を殺し、腆支を迎え位に即けた(四〇五年に即位)」
「五年(四〇九),倭国が使者を派遣し、夜明珠を送ってきた。王は厚く礼遇した」
この記事から、次の事がわかる。
第一に、四〇二年に百済王が求めた「大珠」とは、四〇九年に倭国が送った「夜明珠」つまり、如意宝珠のことと思われる。
第二に、夜明珠を受け取った百済の腆支王は三九七年から四〇五年までの約九年間、倭国に人質となっていた。おそらく、その時に王は、阿蘇山が「その石が故なくして火が起こる」珍しい山であることを知った。なお、百済から倭の人質となった者に、あと一人いる。第三一代、義慈王の二十年(六六〇)六月の条に「さきに倭国に人質となっていた旧王子扶余豊を迎えて彼を王子とした」とある。しかし、『隋書』の列伝の完成は六三六年であり、阿蘇山の記事との関連はない。
四.『三国史記』新羅伝
新羅も倭国へ人質を送っていた。井上秀雄訳『三国史記1』新羅本紀の記事を抜粋する。
(イ)第一八代、実聖尼師今じっせいにしきん
「元年(四〇二)三月、倭国と国交を結び、奈勿なこつ王の王子未斯欣みしきんを人質とした」
(ロ)第一九代、訥祇麻立干とつぎまりつかん
「二年(四一八)秋、王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰って来た」
新羅の未斯欣は四〇二年から四一八年までの約十七年間、倭国の人質となっていた。倭国の珍物である阿蘇山や如意宝珠などの事を知ることができた。なお、新羅から倭国に人質となった者は、『三国史記』では未斯欣のみである(注3)。
百済の腆支王と新羅の未斯欣は同じ時期(三九七年~四一八年)、つまり、東晋の末期に倭国の人質となっていた。
五.百済・新羅と裴世清の接点
百済・新羅が知った「珍物」のことが、裴世清にどのように伝聞されたかをみることにする。
(一)大業四年(六〇八年)に、裴世清が俀国を訪問するとき「百済を渡り」と百済経由である。このとき、隋の都から百済までの間を裴世清、俀の使者、百済の使者の三人は同行することができた。俀国伝には記載されていないが、帝紀に、裴世清が俀国を訪問した年(大業四年)の三月、隋の都で百済・倭・赤土・迦羅舍国が並び、使を遣わし方物を貢献している。(帝紀は「俀」でなく「倭」とある)。この時の倭国の使者の帰国に合わせて、裴世清は俀国を訪問したと思われる。当然、百済の使者も一緒に百済まで同行したから、百済経由となった。この折に、裴世清は百済の使者から俀国の珍物のことを聞くことができた。
また、『隋書』百済伝には開皇十八年、大業三年(同年に二回)の朝貢があり、隋の都でも、裴世清は百済の使者と面談の機会があった。
(二)『隋書』新羅伝に、新羅は開皇十四年の朝貢のあと、「大業以来、歳ごとに朝貢を遣わす」とある。裴世清は隋の都で新羅の使者と面談することができた。
以上の通り、裴世清は俀国訪問前に、新羅・百済の使者と面談する機会があり、その時、俀国に珍物があること、新羅・百済と倭国とは古くから通使・往来していたことを知ることができた。
六.「有」の用例
「阿蘇山有り」、「如意宝珠有り」と「有り」とあるから、これまでは裴世清が阿蘇山や如意宝珠を「見た」と考えられてきた。しかし、「有り」とは「見る」だけでなく、「考える」などで物事を認めることであるから、俀国伝のすべての「有」の用例につき、どのようにして認められたかを確認する。
(イ)俀国伝・前文記事
①有女子名卑彌呼。
②有男弟,佐卑彌理國。
③其王有侍婢千人,罕有見其面者,唯有男子二人。
④其王有宮室樓觀,城柵。
(ロ)開皇二十年の朝貢記事
⑤後宮有女六七百人。
⑥内官有十二等。
⑦有軍尼一百二十人。
(ハ)風俗・制度等記事
☆⑧婦人束髮於後、亦衣裙襦、裳皆有襈。
☆⑨有弓、矢、刀、矟、弩、䂎、斧。
☆⑩雖有兵,無征戰。
☆⑪樂有五弦、琴、笛。
⑫於百濟求得佛經,始有文字。
☆⑬性質直,有雅風。
⑭有阿蘇山,其石無故火起接天者,俗以為異,因行禱祭。
⑮有如意寶珠,其色青,大如雞卵,夜則有光,云魚眼精也。
(ニ)大業三年の朝貢記事。
⑯蠻夷書有無禮者,勿復以聞。
(ホ)裴世清の訪俀記事
⑰我聞海西有大隋禮義之國,故遣朝貢。
第一に「俀国伝・前文記事」の①、②、③、④、「開皇二十年の朝貢記事」の⑤、⑥、⑦、「大業三年の朝貢記事」の⑯は、いずれも裴世清の訪俀以前のことである。それぞれ史書、報告書により、「有り」と認識した。
第二に「裴世清の訪俀記事」でも、⑰は「我れ聞く、海西に大隋礼義の國有り」であるから、俀王が伝聞で「有り」と認識した。
第三に、「風俗・制度等記事」は、裴世清等の隋使が俀国で「見た」場合と、倭人等の伝聞から「有り」とした記事などが混在する。
☆印を付した、⑧の婦人の服装、⑨の弓矢等の武具、⑩の兵士、⑪の楽器、⑬の倭人の性格の五例は、俀王の都への行程上に通常、存在するから、裴世清等隋使が見ることが可能であり、見て、「有り」と認識したと考える。
⑫は「百済において仏経を求得し、始めて文字有り」と過去の出来事であり、俀人からの伝聞で「有り」と認識した。
⑭の阿蘇山と⑮の如意宝珠は、いずれも「裴世清の訪俀記事」に書かれておらず、しかも、俀王の都への行程上に通常存在するものでなく、俀国での場所の記載もない。新羅・百済が珍物として敬仰しているから、新羅・百済からの伝聞で「有り」と認識した。
以上の通り、阿蘇山と如意宝珠は裴世清の観察ではなく、伝聞であった。
まとめ
「有り」とは「見て」確認した場合以外に史書や伝聞で確認した場合も含まれる。百済は「如意宝珠」を倭国から贈呈され、また、新羅・百済の王子は倭国へ長期間、人質となり、「阿蘇山」を知ることができた。
「阿蘇山有り」は裴世清が肥後を訪問し、観察した記録ではなく、俀国に珍物が多いとの新羅・百済からの伝聞であった。
以上
(注2)参考までに次の書にも「夜る光る珠」関連の記載がある。
①『万葉集』巻第三,三四六番歌。太宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首。「夜光る玉といふとも酒飲みて情をやるにあに若かめやも」
②『述異記じゅついき』珍しい動植物に関する話などの小説集。南朝梁の任昉が撰したとされている。「南海に明珠すなわち鯨魚の目の瞳あり。鯨死し、しかも目は皆に精が無いが、鑒(=鏡)を以って之が夜光ると云うのであろう」とある。
③『三国志』魏志三十巻の注、『魏略』「西戎伝」に「大秦国・・明月珠、夜光珠、真白珠・・を産す」とある。
(注3)新羅から倭国の人質として、『日本書紀』の孝徳紀、大化三年(六四七年)には「(金)春秋を質とした」等の記録がある。
これは会報の公開です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。古田史学会報一覧へ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"