さまよえる拘奴国と銅鐸圏の終焉
吹田市 茂山憲史
一、はじめに
「拘奴国」について、范曄の『後漢書』倭伝には「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」とあります。一方、陳寿の『三国志』魏志倭人伝には「次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王」とあります。「女王國より東へ海を渡って千余里」という『後漢書』の拘奴国と、「女王の境界が尽きる所に奴國があり、その南に狗奴國がある」という『三国志』魏志とでは、方角に矛盾があるように見え、その位置については様々な学説が生まれました。范曄の『後漢書』倭伝は、方角表記が異なるにもかかわらず「魏志倭人伝を参照して書かれたもの(写したもの)」という理解が一般的なようで、混乱が深まります。両書とも誠実に書かれていると思うのですが、そんな「拘奴国」「狗奴国」を探してこれまで悩んできました。解決の導き手は歴史にも造詣が深いフランスの哲学者ジャック・デリダの言葉でした。「私はいつも歴史への巨視的な関連に特権を与えています。(中略)時代や経過を、私はいつでも数千年という巨視的な領野の中に書き込もうと試みています」(法政大学出版局刊、『他者の言語』三〇二頁)。歴史的な出来事の意味は、それほどの長い時間の流れのなかでたくさんの要素が相互に影響し合いながら複雑に継起することなので、巨視的な時空間の中に置いて再検討しなければ合理的で整合性のある理解は得られない、ということでしょう。デリダのこの言葉に従うと、思いがけない岸辺にたどり着きました。〝数千年〟は無理でしたが、この報告はその概論です。
二、「拘」奴国と「狗」奴国
まず、拘奴国=狗奴国なのでしょうか。『後漢書』の用字では、先に「拘邪韓國」が記録されており、『三国志』魏志倭人伝にいう「狗邪韓國」と同じ位置にあります。ですから、「拘」と「狗」の用字の違いだけを根拠に「まったく別の国」とは言えない状況です。発音でも同じ「コ
ウ」です(注・古田武彦著の第一書『「邪馬台国」はなかった』では「狗」のルビは「コ」)。また『後漢書』にある「皆倭種と雖も」の「皆」は、倭についての話だから同じ倭種だというのは当然ともいえますが、ここでは「不屬」に対応した文脈で、とくに「女王国」と「拘奴国」とを対比し、「不屬ではあっても同じ倭種」だという意味でしょう。『三国志』魏志倭人伝の「不屬女王」とまったく同じ表現です。范曄の『後漢書』は『三国志』の魏よりも前の時代の後漢時代について書いているはずですが、『三国志』の方が先に完成しているため、范曄は陳寿の用字を知ったうえで、「拘奴国」と書いたと考えられます。なぜ「拘」と「狗」と用字が異なるのか、という問いはここでは一旦ペンディング①とします。
古田武彦氏も「拘奴国=狗奴国」と結論していますが、その位置については判断を変遷させているようです。『「邪馬台国」はなかった』では、明言はしていませんが、狗奴国の位置について熊本県から鹿児島県にかけてを想定していたようです。しかし氏は数年後、当時の鹿児島、熊本方面で金属器がそれほど出土しないことなどからこの説を捨てています。文化的経済的に脅威になる国があったとは思えないからでしょう。そして後年『後漢書』によって、大阪府茨木市南部にある東奈良遺跡を中心とした銅鐸圏が「拘奴国」だと確定させています。東奈良から淀川を挟んで東隣は交野かたの市です。雑談だったのかも知れませんが「この一帯は交野コウノ国だ」と聞きました。「『後漢書』を書いた范曄は南朝劉宋の五世紀の人物だから、彼が千里と言った場合は長里で考えなければならない。況や彼が見た資料は当然長里です」と論理的根拠を挙げています。「(『三国志』魏志)倭人伝の場合は(位置が)曖昧なわけです。(中略)それに対して『後漢書』では(方角と距離が)わかるわけです。」と、『後漢書』だけから位置を決めた理由も説明しています(注・ミネルヴァ書房刊、『古田武彦が語る多元史観』一三九~一四四頁、拘奴国は女王国の東四百~五百キロメートルにある計算)。論理が通っており、あとで述べる考古学の成果からも『後漢書』「拘奴国」の位置は納得できると思います。
三、「女王の境界の尽きる所」
後漢の時代の「拘奴国」と魏の時代の「狗奴国」が同じ国だとしても、中心地や版図が変化していないという保証はありません。数十年から百数十年の時間差があるはずだからです。デリダの忠告に従って、より広い空間で、より長い時間で、既知のエピソードを読み直し、再点検する必要がありそうです。
そもそも、銅矛圏の形成は北部九州への「天孫降臨」で始まりました。『古事記』『日本書紀』に加えて『出雲風土記』なども参照すれば、出雲はその支配下にあった「高天原」の一族の執拗な牒略があって「天孫降臨」による中心権力の交替劇が起きています。婚姻による工作の後の軍事力による圧迫だったように見えます。日本海沿岸を中心に西日本を支配していた出雲に国譲りを迫り、この時代に王朝という概念を当てはめていいのなら、出雲から筑紫への「王朝交代」を来たしたと思われます。ただし、出雲は国主が住む天をつくような社殿の建設を後世に渡って許されていますから、支配下に組み込まれた形ではあっても出雲一国の存続は認められています。ということは、「国譲り」という言葉の本当の意味は、出雲一国以外の国々の支配権(版図)の譲渡のはずです。そして、その国譲りの範囲は『古事記』や『出雲風土記』に明らかです。高志の沼河比賣ヌナカワヒメ、因幡の八上比賣ヤガミヒメ、胸形(宗像)の多紀理毘賣タギリビメら、日本海沿岸を越から九州北岸まで、当時は(おそらく部族国家という形態の古代のほとんどの時代は)婚姻関係を結ぶことで勢力を広げていました。瀬戸内にも支配権を及ぼしていたでしょう。その出雲の支配権が及ぶ範囲を譲渡したのです。すべてが滞りなく譲渡され得たかどうかは分りませんが、筑紫に天孫降臨したいわゆる「天孫族」は国譲りに加えて、周辺の征服戦争でも勢力範囲を拡大したようです。『日本書紀』景行紀に盗用された九州一円の平定譚に見るとおりでしょう。その結果が、後漢の光武帝による「漢委奴国王」の金印授与であり、「九州王朝」の黎明であることは、古田氏が詳説済みです。
このころ、銅鐸圏の中枢に侵入を試みたのが、「天孫族」を名乗る神武の一行でした。東侵の途次、安芸や吉備で平和的に兵力を養い、同盟者を募ることが出来たのも、国譲り及び征服戦争の成果でしょう。『三国志』魏志倭人伝にいう「使譯所通三十國」は俾弥呼・壹與がこの先人の歴史の遺産を引き継いだものです。その版図の「女王境界所盡」(女王の境界の尽きる所)が「奴國」なら、これは旧出雲王国にとっても境界の尽きる所だったでしょう。「高志(越)」の国とほぼ同じ位置だった可能性が高いといえます。『三国志』魏志倭人伝に書かれている「その余の旁国(二十一国)」の最後の「奴國」、「女王の境界の尽きる所」の「奴國」は、おそらく越前にあった「奴國」だと思います。
古田氏はミネルヴァ書房刊『俾弥呼』一四四頁で、東奈良遺跡を中心とする後漢書の「拘奴国」について「『女王の境界の尽くる所』としての能登半島の『南』にも当たっているように見える」と書いています。しかし、「境界の尽きる所」というのは『三国志』魏志の時代でのことです。『後漢書』にしたがって東奈良遺跡の大阪府茨木市南部を拘奴国の中心とするのは論理が通っているように思いますが、とても越前や能登半島の「南」とはいえないでしょう。距離がありすぎます。ですから『三国志』の「狗奴国」の位置も、ペンディング②とします。
四、銅鐸の出土分布から考える
一方、銅鐸の出土分布から考える場合、古田氏は『漢書』地理志や『後漢書』倭伝に登場する「東鯷人」を銅鐸圏と考えていました。東鯷人の位置については倭国の東、太平洋岸から日本海岸まで列島を横断して広がるとされています(注・
ミネルヴァ書房刊『邪馬壹国の論理』二二五~二四三頁)。正木裕氏も同様の見解を示し、親魏の邪馬壹国×親呉の東鯷人という代理戦争の国際関係を論証されていますので、詳細はそちらを参照して下さい。
しかし、卑弥呼の邪馬壹国は「狗奴国」と戦っていたのであり、「東鯷人」全体と戦ったとは書かれていません。しかも「東鯷人」という概念は、中国が東海の政治・地理を理解し始めた初期の概念、倭人と東鯷人の関係のリアルな理解がまだ曖昧だったころの記述ではないかと考えます。『三国志』の時代になると「東鯷人」は「倭人」の概念に吸収されて歴史から消えてしまいました。「東鯷人―その中の拘奴国(狗奴国)」という語法は「倭人―その中の邪馬壹国」と相似関係にあります。中国から見た理解でしょうが、時代が下ると「倭人」が「倭国」に〝昇格〟します。一方、『後漢書』では「拘奴国」が倭種とされ、「東鯷人」の説明は「倭伝」の項目に移されてしまいます。中国正史の表記状況では「倭人」が「倭」「倭国」に変化するのに対して、「東鯷人」が「東鯷国」に昇格し、「東鯷伝」が立てられるということはありませんでした。
そうした状況を踏まえて、銅鐸の出土分布の変遷を見てみました。銅鐸の初期は出雲をひとつの中心域として九州から北陸まで広範囲に広がっています。そこに「天孫降臨」という事件が起きたように見えます。天孫降臨事件後は銅鐸圏の出雲という中心域が消え、播磨や河内湖周辺が銅鐸圏の新たな中心になり、四国東半から東海方面まで広がるようです。前漢・後漢時代の「東鯷人」の地理表現に重なります。古田氏は、その時期の東奈良遺跡が銅鐸の鋳型の出土中心であることから、大阪府茨木市南部が当時の銅鐸圏の中心であり、「拘奴国」だったと見たようです。さらにその後、後漢時代から三国時代にかけて、銅鐸圏の中心は滋賀県の琵琶湖東岸と静岡県西部の東海地方に分れて移動しています(注・ミネルヴァ書房刊『古代は輝いていたⅡ』二〇頁の銅鐸出土分布図参照)。『三国志』魏志倭人伝の「狗奴国」は三国時代の終わり頃に滅び、関東地方まで及んでいた銅鐸圏は間もなく消滅するのですが、このあたりの詳細な編年は、考古学と文献史学が協力して再構成し直すべきだろうと考えます。
いずれにしても、これでペンディング②の謎が解けます。卑弥呼が戦っていた時代の「狗奴国」が琵琶湖東岸中心なら、越前にあった「奴国」が「女王の境界の尽きる所」で、「その南」という表現はピッタリでしょう。『三国志』魏志倭人伝も、『後漢書』倭伝も、それぞれの時代の状況をはっきり区別して、両書とも歴史・地理を正しく伝えていたことになります。
五、拘奴国も狗奴国も「江の国」
後漢時代の拘奴国も「不屬女王」ですが、後漢が拘奴国と直接敵対し、戦争をしていたとは書かれていません。国際情勢は、俾弥呼が親魏倭王の立場を鮮明にして魏に遣使したことから、決定的な変化を見せています。『三国志』魏志倭人伝には、俾弥呼が繰返し「狗奴国」と戦争状態にあることを訴えている様子が書かれています。俾弥呼側は軍事支援を求めていたはずで、魏からの「詔書」「黄幢」「檄」「告喩」という行動がその証拠になります。魏が本腰を上げ、塞曹掾史張政を倭国に派遣したのは最初の遣使から実に九年後なのですが、ペンディング①の課題はこれで解けます。つまり、中国の史書の作法通り、ただ発音を表わしていた『後漢書』の後漢時代「拘奴国」が三国時代の魏にとって敵対国(親呉国)になったとたん、「狗」の字に貶められたのでしょう。
しかし「拘奴国」の表記は、倭国側の発音を出来るだけ正確に写した表記だと考えられます。弥生時代の硯が数多く出土しているのですから、倭国側に文字があったことは間違いありません。「東奈良遺跡」を中心とする「拘奴国」ですが、倭国側の表記は残念ながら直截的な記録が残されていません。しかし、痕跡はたくさんあるようです。それは「江」です。「拘奴国」は銅鐸圏の中心に位置していたのですから、東奈良遺跡周辺、大阪府茨木市南部だけの小さな国ではなかったと考えられます。当時はまだ、かなりの大きさで「河内湖」が残っていたでしょう。「難波江」「日下江」「住之江」と「江」の地名が河内湖をぐるりと取り囲んでいます。茨木市だけではなく、河内湖岸の摂津、河内、和泉に跨がる大阪湾岸の大国ではなかったでしょうか。兵庫県の播磨地方にまで広がる可能性もあります。そうすると、「拘奴国」「狗奴国」は「江こうの国」だったのでしょう。
日本語の意味でいえば「江えの国」かも知れませんが、中国は「拘奴国こうぬこく」と発音を翻訳しているのですから、「江こうの国」と自称していたのでしょう。漢字の伝播は文字だけとか、発音だけとか、意味が分らないままとかいうことは決してありません。字形も音も意味も、ほとんど同時に伝わります。でないと伝播とは言いません。意味とは「訓読み」のことですから、当時の倭人は(エリート層だけでしょうが)音訓共に使いこなしていたはずです。
ペンディング②もこれで解けたといえそうです。「江」に思い至ったのは、銅鐸の終焉の地が「近江」「遠江」だということに気付いたからです。松江も含めて、銅鐸圏で中心をなした地域がみな、入り江や淡水湖のほとりだったのです。琵琶湖が「淡海おうみ」と呼ばれたのは縄文時代に遡ると思っています。「天孫族」との度重なる戦に敗れて「江の国」が河内湖周辺から追われ、漂泊して「近つ江の国」「遠つ江の国」ができたのだと思われます。当然「元」の「江の国」があってこその「近」「遠」ですから、大阪湾岸が「江の国」になります。小学生のころから、「あわうみ→おうみ(淡海)」に「近江」と当字する理由が理解できませんでした。七十年近くたってやっと解けた謎です。「遠江」が「とおとうみ」になる理由も同じです。
徳川が攻めた大坂夏の陣「博労ケ淵の戦い」の舞台に、「狗子島いぬこじま?」があります。現在、大阪市西区江之子島えのこじま一~二丁目として残っています。『三国志』魏志倭人伝で蔑んだ「狗」の表記、その後差別語を避け、元来の「江」に戻したのかどうか。地名は数千年残るものがあるとはいえ、残念ながらこれだけでは「狗奴国」が「江の国」だった動かぬ証拠とは言えません。
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