2020年6月10日

古田史学会報

158号

1,『隋書』俀国伝の
「俀王の都(邪靡堆)」の位置
 谷本茂

2,俀王の都への行程記事
 『隋書』俀国伝の新解釈
 野田利郎

3,『隋書』音楽志における
 倭国の表記
 岡下英男

4,都城造営尺の論理と編年
 二つの難波京造営尺
 古賀達也

5,「壹」から始める古田史学二十四
 多利思北孤の時代Ⅰ
 「蘇我・物部戦争」以前
古田史学の会事務局長 正木裕

6,会員総会中止と代替措置
 編集後記

 

古田史学会報一覧

『二中歴』・年代歴の「不記」への新視点 谷本茂(会報160号)

俀王の都への行程記事 -- 『隋書』俀国伝の新解釈 野田利郎(会報158号)

『隋書』俀国伝を考える 岡下英男(会報155号)
何故「俀国」なのか 岡下英男(会報164号)


『隋書』俀国伝の「俀王の都(邪靡堆)」の位置について

神戸市 谷本茂

一、はじめに

 『隋書』俀国伝の俀王の都と行程記事中の「秦王国」の場所については、多元史観の立場からの積極的な論考が少ないように思われるので、改めて、記事の解釈を巡る課題を指摘し、一試論として「俀王の都=熊本県有明海東岸部」説を提起する。

二、従来の諸説

 通説では、俀王の都は、奈良盆地内にあることになり、「竹斯国」から東の「秦王国」は豊国(行橋市あるいは宇佐市の周辺)であり、「十余国」は瀬戸内海航路の途中の国々であり、その行程で達した「海岸」は大阪湾岸(難波津付近)という理解である。
 この当時のヤマト王権の大王は「推古天皇」であるから、俀王が男性である記述とは相入れないのであるが、一元史観の立場からは、「聖徳太子(厩戸皇子)」あるいは「蘇我馬子」を誤認したのであろうとして『日本書紀』と『隋書』の記述の相違を無視するしかない。
 古田武彦氏は、「秦王国」について多角的に取り上げながらも、結果としては情報不足のため遺憾ながら明確な指定は困難であるとした(『古代は輝いていたⅢ』)。ただし、俀王の都はチクシに存在するとしているが、一元史観と多元史観の両方の視点から批判される結果になっている。
 多元史観の視点からこの問題について言及された阿部周一氏の論考(本会報一四八号「『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」」など)では、俀王の都は「肥」以外には指定出来る場所はない旨が述べられている。阿部氏の示す「肥」は後の「肥後」「筑後」「肥前」を併せた領域となり、かなり広大な領域を含む、とされる。(特定の小領域の場所は示されていないようである。)

 

三、『隋書』俀国伝の「又経十余国達於海岸」の理解について

 通説では、隋使の一行はチクシで下船せずに、そのまま船で関門海峡を通過し、瀬戸内海航路で大阪湾岸まで達し、そこで初めて下船したと解釈する。そうすると、途中に船旅で経過した行程の国々が「十余国」であることになるが、この国を大領域の後代の「国」と考えると、経過国は十に満たないことになり得る。「秦王国」を豊国の領域と仮定すると、そこからは、周防、安芸、吉備、播磨、淡路、摂津しか経由せず、六国しかない。吉備を備後、備中、備前としても八国にしかならない。
 一説では、瀬戸内海で両岸の国々を経由したと考えれば、伊予、讃岐も加えることが可能であるから合計十国になるという見方もあるが、実際には瀬戸内海がいくら幅の狭い海だといっても、両岸を眺めながら航行するというのは現実的ではないし、そのような記述の仕方でもない。
 また、「国」を「郡」のような中領域と考えた場合、本州山陽道沿いの海岸部の郡は、少なくとも二十六郡あり、「十余国」をはるかに超えてしまう。
 以上、いずれにしても、「十余国」という表現を満たす行程は、瀬戸内海航路では見出すのが容易ではない。この点からも、「海岸」が大阪湾岸であるという理解は蓋然性が低いと思われる。
 ここで理解の分岐点となるのは、隋使一行がチクシで下船したかどうかという点である。俀国の風俗の記載に「阿蘇山」があるので、隋使一行が実際に九州内陸部の阿蘇山(阿蘇宮)を訪れたと仮定すれば、隋使一行はチクシで下船し陸行で九州内陸部の「十余国」を経て、海岸に達した事になろう。この仮説を措定すれば、その「海岸」はチクシから阿蘇山経由で九州の東側か有明海の東岸のどちらかと考えられる。
 「東高西下」を俀王の都(邪靡堆)の地勢と見做せば、「海岸」の近くにある都は、九州東側の海岸では適切ではなく、有明海の東岸部である可能性が高いであろう。
 前記の仮説に立った場合、(九州島内には多くても九国しかないので)「国」は大領域の国ではなく、明らかに郡の様な中領域を指すものと考えられる。そこで、一つのシミュレーションとして、郡単位で古い幹線道路に沿ってチクシから阿蘇山経由で有明海の東側に抜ける行路を想定してみる。江戸時代の『文政年間 国郡全図』に従って、幹線道路(赤色で示されている)に沿って行くと意外な結果が導かれた。
 どの道路を選ぶか自由度が多いのではないかと迷う必要は無く、江戸時代ですら、国や郡を跨ぐ幹線道路は少なくて、選択の余地は(幸運にも)ほとんど無いのである。筆者が想定した行程は以下の通りである。

「竹斯国」=那珂郡→その東の「秦王国」=御笠郡(太宰府のある郡)→①夜須郡[または基肆郡]→②御原郡(松崎がある郡)→③御井郡(府中/高良社のある郡)→④三潴郡(福島のある郡)→矢部川沿い→⑤上妻郡(八女のある郡)→⑥下妻郡(大淵のある郡)→⑦山鹿郡(高橋のある郡)→菊池川沿い→⑧菊池郡→⑨合志郡(隈府のある郡)→⑩阿蘇郡(坂梨のある郡/阿蘇宮)→白川沿い→合志郡→⑪託摩郡(大津のある郡)→⑫飽田郡(上立田・熊本のある郡)→海岸(有明海)

 合計十二郡(のべ十三郡)を通過した事になり「十余国」という記述に矛盾しない。勿論、このシミュレーションにより、「十余国」はこの経路であると判断することなど出来ないが、少なくとも前記の仮説が必要条件を満たしており、検証に値する仮説であることは主張してよいように思う。もしこの行程仮説に立脚すれば、俀王の都は、飽田郡の海岸部あるいはそれに隣接する玉名郡の海岸部の周辺に存在したことになり、「東高西下」の地勢にも合致するのである。そしてこの領域は六世紀~七世紀前半の装飾古墳の分布密度の高い地域としても知られている。玉名市の永安寺東古墳・西古墳は六世紀末~七世紀前半のユニークなペアの装飾石室円墳であるし、熊本市北区の釜尾古墳は、六世紀後半の装飾石室円墳である。また、五世紀~六世紀初頭とされる江田船山古墳(前方後円墳)は有銘鉄刀が出土したことで著名であるが、石人・石馬の配置された古墳として石人山古墳や岩戸山古墳の系列に属することも軽視できない。

 

四、「俀王の都=有明海東岸部」仮説は有効か?

 本稿の仮説は、古田武彦氏の俀国に関する論考(特に『古代は輝いていたⅢ』)に対して、大きく相違する内容を含む。
 まず、古田氏が「秦王国」の場所は情報不足のため不明である、とした点について、「秦王国=御笠郡(太宰府のある郡)」と想定した。古田氏が「又至秦王国 其人同於華夏 以爲夷洲疑不能明也」の「其人」は「俀国の人」と理解した部分は、文脈上、「俀国の人」と理解するのは難しいと思う。(この点、従来から少なくない批判があった。詳細は煩雑になるため割愛する。)ここは素直に「秦王国の人」と理解するのが良いのではなかろうか。
 更に、古田氏は、歴史的に都の位置の大きな変遷は認められないから、俀王の都もチクシ(この場合のチクシは筑紫国に相当する大領域を想定したものと考えられる)に存在すると理解された。有明海東岸部は明らかにチクシではないから、本稿の仮説は氏の理解とは随分異なる。そうであれば、「有明海東岸部の都」と「太宰府」(本稿では「秦王国」に想定した)の関係は、どのように理解すれば良いのであろうか?
 ここで、『隋書』に記述された(開皇二十年[六〇〇年]条の高祖が大いに義理無しとした)俀国の「兄弟統治」形式が、前記の「都の二重性」と見える現象に関係しているように思われる。つまり、兄の「阿毎 多利思北(比)孤」の居る主たる場所が有明海東岸部であり、弟の居る主たる場所が太宰府またはその近辺と解釈しうるのではないか。実際には弟が昼間の執政を担っていたのであるから、太宰府の方が実質的な政治の中心だったかも知れないと考えられ得る。「兄弟統治」下の「副都制」のような状況だったとも考えられよう。
 「秦王」は煬帝の弟(開皇二十年没)そして大業四年当時はその弟の子に与えられた称号であったことは、古田氏も指摘されている通り周知の事実であった。「秦王国」が現地音を模写した名称とは考えにくいことから、これは矢張り古田氏が指摘された通り、俀国側の漢字使用に基づいた記述であり、その場合の「秦王」は俀王の弟を示すものではなかったであろうか?いささか憶測が過ぎるかも知れないが、そのような視点に立つと、俀国伝の特異な「秦王国」の表現を無理なく理解できそうである。
 僭越ながら、この様な特異な俀国の支配構造を積極的に想定することにより、古田氏が悩まれた「秦王国」問題に解決の糸口が見出されるのではないかと考える。

 

五、おわりに

 古田武彦氏が『古代は輝いていた』三部作において、多元史観の視点から、日本列島の古代史の俯瞰図を描いてから既に三十五年が過ぎた。これまで、『隋書』俀国伝の行程記事に関する分析は、情報量が少ない事もあり、活発に行なわれてきたとは言い難い状況であった。一元史観の立場からは川村明氏の全般的な「九州王朝説批判」が公表されていて、通説通りの解釈で妥当である旨の主張がなされてきた。しかし、筆者はその史料批判にも結論にも到底首肯できなかった。あまりにも「結論先にありき」の史料読解には方法論として全く賛成できないのである。多元史観の立場において、野田利郎氏の研究発表(編集部注=本号に掲載)や前述の阿部周一氏の論考に刺激されながら、愚考を重ねて、本稿仮説を試論として提示するまでに至った。
 なお、古賀達也氏から本会報一三六号に氏の「「肥後の翁」と多利思北孤」と題する貴重な先行論考があることを教示された。「兄弟統治」や「肥後」に関する別角度からの鋭い考察がなされていたが、迂闊にも筆者は見落としていた。今後、古賀氏の論考も踏まえて、本仮説の考古学的検証を進めてゆきたい。ここに拙論への会員諸氏の批評を賜れば幸いである。 (二〇二〇年五月一〇日稿了)


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