2022年8月16日

古田史学会報

171号

1,「室見川の銘版」と倭王の陵墓・祭殿
  正木裕

2,二倍年暦・二倍年齢の一考察  
 服部静尚

3, 若狭ちょい巡り紀行
 年縞博物館と丹後王国
 萩野秀公

4,初めての鬼ノ城探訪
 多元的「鬼ノ城」研究序論
 古賀達也

5,「壹」から始める古田史学・三十七
「利歌彌多弗利」の事績
古田史学の会事務局長 正木 裕

6, 古田史学の会(略)
第二十八回会員総会の報告
二〇二二年六月一九日
アネックスパル法円坂

古田史学会報一覧

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「壹」から始める古田史学・三十七

「利歌彌多弗利」の事績

古田史学の会事務局長 正木裕

一、「放生会」を始めたのは天武でなく利歌彌多弗利

1、『一切経』伝来と「放生会」

 前号の「もう一人の聖徳太子『利歌彌多弗利りかみたふり』」では、利歌彌多弗利の時代の舒明十一年(僧要五年・六三九)に、多利思北孤が大業三年(六〇七)に隋に派遣した学問僧恵隠・恵雲らが帰国し、『一切経』(仏典の集成・大蔵経)が齎されたこと、翌六四〇年五月辛丑(五日)に『一切経』の内の『無量寿経』が読誦・説経され、年号が「無量寿」を意味する「命長」に改元されたことから、『書紀』に記す『無量寿経』読誦は、ヤマトの舒明ではなく、九州王朝の「利歌彌多弗利」の事績であることを述べました。
 また、『書紀』の天武二年(六七三)の「始めて一切経を川原寺に写す」記事は、六三九年の『一切経』伝来時の記事が「三十四年繰下げ」られたものであると述べました。
 この『一切経』伝来と関連するのが、食された生物を供養するとともに、殺生を戒めるため魚や鳥獣を放す宗教儀式の「*放生会」で、春・秋に全国の寺社で、広く催されています。『書紀』では、我が国ではこの行事は天武五年(六七六)八月に天武が「放生令」を発したのに始まると記していますが、本稿では、実際は利歌彌多弗利が命長三年(六四二)に始めたものであることを明らかにします。
(*一般には「ほうじょうえ」、福岡では「ほうじょうや」)

 

2、仏教経典(仏典)と「放生会」

 「放生会」は中国で仏教経典(『無量寿経』『金光明経』『梵網経はんもうきょう』ほか)に由来する仏教行事として、天台宗の祖「智顗(ちぎ 五三八~五九七)」が魚放生として始めたとされています。
 「放生会」の由来を仏典にたどれば、概ね以下のようになります。
①『仏説観無量寿経』(五世紀、宋の畺良耶舎きょうりょうやしや訳)では、浄土への往生の要件として「慈心不殺・読誦大乗・勧進行者」などの浄業が挙げられています。
◆かの国(*極楽国土)に生ぜんと欲おもはむものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し(*仏・法・僧の三宝に帰依する)、衆戒を具足し(*戒を守る)、威儀を犯さず(*行往・坐臥の威儀 を犯さない)。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す(*念仏三昧を奨励すること)。かくのごときの三事を名づけて浄業とす。

 この「慈心不殺」については、『聖徳太子伝暦』の敏達七年戊戌(五七八)に、八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日の六日を「六斎日(注1)」と定め、殺生禁断を天下に勅したと記されています(*勅を天下に下し、此の日に殺生の事を禁ぜしむ)。
 また、『聖徳太子傳記』の「歳序次第(*見出し部分)」に「太子七歳戊戌(五七八)、経論きょうろんを披見し、六斎日の殺生を禁断す。」とあり、本文にも「諸罪の中に於いて殺生の罪重きが故に、諸戒の中に尤も第一戒と為すなり。相構へて我君毎月の六斎日と二季の彼岸とには殺生を禁断したまふべしと説せたまひければ、君も臣も太おほひに御随喜有りて不日(*日を置かず)に勅定を日本国中の浦々島々に降して殺生御禁断有りけり」とあります。
 このように、「慈心不殺」は聖徳太子=多利思北孤の時代から「六斎日」として制度化されていたと考えられます。なお、「六斎日」の殺生禁断は、八世紀の律令時代まで続けられています。(注2)

➁また、「放生会」については、『梵網経』(鳩摩羅什くまらじゅう三四四~四一三訳)(注3)に、肉食を禁止し放生を勧める戒が記されています。
◆「第三軽戒 食肉戒」若なんじ仏子一切の肉は食うことを得ざれ。肉を食わば無量の罪を得るに、もし故ことさらに食わば、軽垢罪きょうくざいを犯す。
◆「第二十軽戒 不行放救戒」一切の地水は、これわが先の身、一切の火風は、これわが本体なるが故に、常に放生を行ず。・・人に教えて放生せしめ、もし世人の畜生を殺すを見る時は、まさに方便して救護し、その苦難を解くべし。

③さらに、『金光明経』(曇無讖どんむせん三八五~四三三訳)「流水長者子品第十六」には、流水長者(釈迦の前身)譚として池水の魚類救済が記されています。(大略)「流水長者は枯渇した池で一万の魚が死にかけているのに出会い、二十頭の象に水と家中の食物を運ばせ、池を満たし魚の餌とした。(*二十大象令得負水濟彼魚命。・・家中所有可食之物・・散著池中。)」とあり、「同・懺悔滅罪ざんげめつざい伝」には、「養う所の鶏・猪・鵞・鴨、肉用の徒、みな悉く放生す。家々に肉を断じ、人々善念して屠行を立てず」とあります。

 これ等の経典をもとに、智顗は五八一年(智顗四十四才)の時、天台山流出の河川で魚が多く殺されているのを見、衣や持ち物を売り、梁(やな 魚を捕る仕掛け)を買い取り、そこを放生の場所にした。そして、『金光明経』流水長者子品の説教をすると、漁民も無益な殺生を厭うようになり梁は廃止された。陳の宣帝は大変感動し、その流域を勅命で放生池ほうじょうちと定め、これが中国における「放生会」の始まりとされています。

 

3、利歌彌多弗利時代は「放生会」を始める十分な時期

 五八一年には北周静帝から禅譲を受けた楊堅(文帝)が即位し、隋を興します。楊堅は仏教に帰依し、開皇三年(五八三)に仏寺復興の詔を発し、開皇五年(五八五)に「菩薩戒」を受戒し、大興城に官寺大興善寺、四十五州に大興国寺・大県毎に僧・尼両寺を創設するなど仏教優遇施策をおこないます。次代の煬帝(晋王「楊広」)も、開皇十一年(五九一)に智顗から、「菩薩戒」を受戒し「総持」という「法号」を得ます。
 このように、多利思北孤が遣使し仏教を学ばせた隋代は、「放生会」を行った智顗が中国仏教界の第一人者でした。そして、「放生会」の典拠となる様々な経典が『一切経』として、六三九年に恵隠らにより我が国に齎され、六四〇年には読誦・説経も行われていたことになるのです。(*ちなみに智顗は、『梵網経』(菩薩戒)の解説である『菩薩戒義疏』を著している。)
 このように利歌彌多弗利の時代には、「放生会」を行うべき必然的な環境・背景が整っているのです。

 

4、我が国での「放生会」

 一方、『書紀』では、『無量寿経』読誦の三十五年後の天武四年(六七五)四月庚寅(十七日)に、「殺生禁断詔」が発せられ、殺生を戒め肉食を禁止し、翌年の天武五年(六七六)八月壬子(十七日)に、天武による「放生令」が出され、通説では、これが我が国における「放生会」の始まりとされています。ただ、何故この時期に、何のため天武は「放生」をおこなったのか定かではありません。
◆天武四年(六七五)四月戊寅(五日)に、僧尼二千四百余を請せて、大きに設斎をがみす。(略)四月庚寅(十七日)に、諸国に詔して曰はく、「今より以後、諸の漁猟すなどりかりする者を制いさめて、檻穽をりししあなを造り、機槍ふみはなち等の類を施くこと莫まな。亦四月の朔以後、九月三十日より以前に、比満沙伎理(ひみさきり *小魚まで獲る仕掛け)・梁やなを置くこと莫。且つ牛・馬・犬・猿・鶏の宍ししを食ふこと莫。以外は禁いさめの例かぎりにあらず。若し犯すこと有らば罪せむ」とのたまふ。
◆天武五年(六七六)八月壬子(十七日)是の日に、諸国に詔して、放生いきものはなたしむ。(同年)十一月癸未(十九日)に、京に近き諸国に詔して放生しむ。甲申(二〇日)に、使を四方よもの国に遣して、金光明経・仁王経を説かしむ。
 この詔にある穽ししあなは、底に槍襖が敷いてある落とし穴、機槍は機械仕掛けの槍で動物を殺傷して捕獲する仕掛けです。従って、これを禁止するのは、『梵網経』の「世人の畜生を殺すを見る時は、まさに方便して救護し、その苦難を解くべし」との教えと一致し、また梁を禁じることや、十一月の『金光明経』説経は、まさに智顗の『金光明経』による「放生会開始譚」をそっくり映したものであり、「放生会」の典拠となる様々な経典が齎された「利歌彌多弗利の時代」に相応しいことになります。

 

5、不自然な『書紀』の放生会開始記事

 しかも、単に「時代的背景が利歌彌多弗利時代と一致している」だけでなく、記事の日付の分析からも、「天武紀」記事が三十四年繰下げられたものであることが分かるのです。
 まず、六七五年四月庚寅(十七日)の詔で、四月一日以降の漁猟を禁止するというのは不自然です。この点、天武二年(六七三)の一切経書写記事同様に、「三十四年繰下げ」られたものであれば、元は六四一年(命長二年)の記事となります。そして、六四一年四月に「庚寅」の日は無く、三月(*小の月)の「庚寅」(二十九日)となり、これは三月の末日で、かつ「六斎日」にあたります。つまり、四月一日から実施される「殺生禁断」の措置を、前日の三月の末日、二十九日の「六斎日」に発布したことになるのです。(*大の月は三〇日まで、小の月は二十九日まで)
 また、諸国に「放生令」が発布された、天武五年(六七六)八月壬子(十七日)は、三十四年前の六四二年(命長三年)では八月(*小の月)の「壬子」(末日の二十九日)で、これも「六斎日」となります。
 また京に近い諸国で「放生会」が実施された、十一月癸未(十九日)の「癸未」の日は、六四二年の十一月には無く十月「癸未」(一日)となります。つまり、九月三十日までの「殺生禁断令」が解除された日に、以後食料となる生き物の供養のために「放生会」が行われたことになるのです。
 このように天武紀の「殺生禁断令」と「放生会」の開始記事が、三十四年前から繰り下げられたものであれば、中国における智顗の「放生会」の開始や、我が国への関連する経典の伝来時期、「無量寿経」の説経と一致し、日付も「六斎日」と一致するうえ、四月十七日に「四月一日以降の漁猟を禁止する」という矛盾も解消します。
 さらに、六七五年四月戊寅(五日)に、「僧尼二千四百余を請せて、大きに設斎をがみす」とありますが、六四一年では四月に「戊寅」の日は無く、三月「戊寅」(十七日)となります。『観無量寿経』には「大乗を読誦し、行者を勧進す」ことが浄土への往生の要の「浄業」だとしており、「大設斎」はこれにあたり、「殺生禁断令」発布(三月二十九日)の前段行事に相応しい仏教行事になるでしょう。

 

6、『書紀』に盗用された九州王朝「利」の事績

 多利思北孤によって隋に派遣されていた恵穏等が、舒明十一年(僧要五年・六三九)に唐より帰国し『一切経』『無量寿経』を齎しました。それを契機に、利歌彌多弗利は浄土への往生を期し、『無量寿経』の説くように「大乗を読誦し、行者を勧進」するため、翌年の舒明十二年(六四〇)五月五日から、恵穏等による多数の沙門を集めた無量寿経の講話をおこなわせ、九州年号を「命長」と改元しました。
 そして「慈心不殺」の浄業をなすため、舒明十三年(六四一・命長二年)三月戊寅(十七日)に、僧尼二千四百余を請せた設斎法要を行ない、三月の末日二十九日の「六斎日」に「翌四月一日から九月末までの殺生禁断令」を諸国に布告し、経の説くところを諸国に周知させようとしたのです。
 さらに、皇極元年(六四二・命長三年)八月の末日二十九日の「六斎日」に諸国に「放生令」を発布、九月末日までの「殺生禁断令」の解ける十月一日に「京の近郊で放生会を実施」しました。
 このようにして、『書紀』編者は「利歌彌多弗利」による「放生会」の開始を「三十四年繰下げ」て、天武の事績としたのです。

 

二、法隆寺薬師如来像は利歌彌多弗利を模した阿弥陀如来像

1、偽刻された法隆寺金堂「薬師如来像」光背銘

 法隆寺釈迦如来像の上宮法皇は「多利思北孤」であり、釈迦如来像は多利思北孤の姿を写したものでしたが、それでは「利歌彌多弗利」の姿を写した像は存在しないのでしょうか。
 実は、法隆寺金堂には「薬師如来像」とされる像があります。この像は、銘文により、「五八六年丙午に、用明天皇が病の平癒を祈願し『薬師像』造立を発願したが、用明が崩御した為に実現せず、その後六〇七年丁卯(推古十五年)に推古天皇と聖徳太子によって造立された」とされています。
◆『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
 池邊大宮治天下天皇(*用明)。大御身。勞賜時。歳次丙午年(五八六)。召於大王天皇(*推古)與太子(*聖徳太子)而誓願賜我大御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天皇(*推古)及東宮聖王(*聖徳太子)。大命受賜而歳次丁卯年(六〇七)仕奉。
 しかし、「薬師如来像は金銅製であるが、その金鍍金が刻字の内に及んでいないことから、鋳造と刻字は同時ではなく、鍍金後の刻字であることが判別している」(注4)、つまり「後代に刻されたもの」とされることや、「薬師如来像」であれば、光背に見える「七仏」は、景竜元年(七〇七)の義浄三蔵漢訳の『薬師瑠璃光七仏本願功徳経』(七仏薬師経)による「薬師七仏(注5)」のはずで、それ以後の造立となること、七四七年成立の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に薬師如来像の記録があることなどから、薬師如来像光背銘文は「偽文」であり、七〇七年~七四七年の間に造立され、造立に遅れて銘文が後刻(偽刻)されたことになります。

 

2、「薬師如来像」は利歌彌多弗利を模した「釈迦如来像」

 しかし、この像が「薬師如来像」とされるのは「銘文による」もので、像の姿・形状からは判断できません。その銘文が「偽文」なら、「薬師如来像」かどうかも疑わしいものとなるのです。
 そして、「薬師如来像」は、鋳造技術から見て、法隆寺釈迦三尊像より後年の造立で、かつ「釈迦三尊像を倣った古風のもの」、つまり釈迦三尊像の釈迦如来像(以下「三尊像」)と類似するとされており(注6)、そうであれば、「薬師如来像」ではなく、「釈迦如来像」である可能性が生じます。
 「釈迦如来像」なら光背の「七仏」は「三尊像」にも見える「過去七仏(注7)」で、七世紀の造立でも問題はありません。つまり、「薬師如来とする銘文」は偽刻であり、鋳造技術や「三尊像」と類似する古風な様式から、本来は釈迦三尊に遅れて白鳳時代に造立されたもの(白鳳仏)と考えられるのです(この点服部静尚氏による・注8)。
 利歌彌多弗利は、命長七年(六四六)の「善光寺如来に再度を願う願文」や、翌六四七年九州年号が「常色」に改元されていること、等から六四六年に崩御したと考えられます(注9)。
◆『善光寺縁起』
 仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念 命長七年丙子二月十三日 進上 本師如来寶前 斑鳩厩戸勝鬘

 そうであれば「薬師如来像」とされる像は、六四六年の利歌彌多弗利崩御を受けて造立された「利歌彌多弗利を模した釈迦如来像」であると考えられるのです。

 

3、大和朝廷が消した「利歌彌多弗利」

 大和朝廷は、『隋書』の多利思北孤を厩戸皇子=聖徳太子だとしても、その太子「利歌彌多弗利」を山背大兄王とすることは到底できません。そこで、大和朝廷は、利歌彌多弗利の事績を繰り下げて天武の事績とし、利歌彌多弗利の像である「釈迦如来像」の光背銘を偽造し、推古や厩戸皇子が用明天皇のために造立した「薬師如来像」に変え、「利歌彌多弗利」の存在を消したのです。

 

(注1)『扶桑略記』にも「(敏達)七年戊戌(五七八)春二月、耳聡王子。年纔七歳。焼香披見数百経論。奏曰。黒月。白月。各八十四五日。是為六齋。」とある。古代インドの暦法で、朔(新月)の翌日の月が満ち始めてから望(満月)に至るまでの十五日間を白の月、満月の翌日から、新月までの十五日間を黒の月という。
 従って、「黒月。白月。各八十四五日」とは「黒月。白月。各八日、十四日、十五日」の事で、
 ①白月では「上弦の八日」「満月の前日の十四日と満月の十五日」、
 ②黒月では「下弦の八日=二十三日」と「新月の前日の十四日=二十九日」と「新月の十五日=三十日」の計六日となり、六斎日をあらわしている。

(注2)『養老令』「第三十雑令・月六斎条」で六斎日には、公私みな殺生を禁断せよと命じている。

(注3)『聖徳太子傳記』では『梵網経』は六一四年に伝来したとする。

(注4)」『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』一九七九年、奈良国立文化財研究所による。

(注5)「薬師七仏」は「薬師琉璃光七仏本願功徳経」に記される善称名吉祥王如来・宝月智厳光音自在王如来・金色宝光妙行成就如来・無憂むう最勝吉祥如来・法海雷音如来・法海勝慧遊戯えゆげ神通如来・薬師瑠璃光如来の七仏。薬師如来の異名とする説・分身とする説・別の仏とする説がある。

(注6)平成二年に発表された「昭和の資財帳」作成の為の科学的調査等による。

(注7)「過去七仏」は、『阿含経』など最も古い経典に記される、釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した毘婆尸仏びばしぶつ・尸棄仏しきぶつ・毘舎浮仏びしゃふぶつ・倶留孫仏くるそんぶつ・倶那含牟尼仏くなごんむにぶつ・迦葉仏かしょうぶつ・釈迦牟尼仏の七仏。

(注8)服部静尚「金石文にみる九州王朝」、(「市民古代史の会・京都」主催講演会。二〇二〇年十一月十七日、キャンパスプラザ京都)での講演。(ユーチューブ動画で配信)

(注9)『書紀』では、六四六年の三十四年後の天武九年(六八〇)に「天皇が病となるがすぐ回復した」記事があるが、不思議なことに、直後に「凶兆」とされる「臘子鳥あとり天を蔽かくして飛ぶ」と記す。また、翌天武十年(六八一)五月に「皇祖の御魂を祭る」との記事がある。これは利歌彌多弗利の崩御と法要記事を三十四年繰下げたものと考えられよう。(この点、古田史学会報九四号『天武九年の「病したまふ天皇」』に詳しい。)

  図1 法隆寺金堂「薬師如来像」図1 法隆寺金堂「薬師如来像」

法隆寺「釈迦三尊像」図2 法隆寺「釈迦三尊像」

 


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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