2022年8月16日

古田史学会報

171号

1,「室見川の銘版」と倭王の陵墓・祭殿
  正木裕

2,二倍年暦・二倍年齢の一考察  
 服部静尚

3, 若狭ちょい巡り紀行
 年縞博物館と丹後王国
 萩野秀公

4,初めての鬼ノ城探訪
 多元的「鬼ノ城」研究序論
 古賀達也

5,「壹」から始める古田史学・三十七
「利歌彌多弗利」の事績
古田史学の会事務局長 正木 裕

6, 古田史学の会
第二十八回会員総会の報告
二〇二二年六月一九日
アネックスパル法円坂
(略)

 

古田史学会報一覧

本薬師寺は九州王朝の寺 服部静尚(会報165号)
倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか 服部静尚(会報172号)

「二倍年暦」研究の思い出 -- 古田先生の遺訓と遺命 古賀達也(会報172号)


二倍年暦・二倍年齢の一考察

八尾市 服部静尚

 中国の周代および孔子の時代に二倍年暦あるいは二倍年齢があったことの証明、これが古田武彦氏の遺訓の実現につながるかのごとく言う方がおられる。(文献1) しかし、私が知る限り古田氏は個別テーマの結論にこだわる方ではない。古田氏の遺訓は次の二つである。
 一つは「人間の論理」(道理)を根本におくこと、一つはその立場から、すべての用例(文献、考古学的出土物、その他)をひとつひとつ逐一再検証する労を惜しまないこと、この二点につきよう。毀誉褒貶は学問にとって「浮雲のごとし」だ。関与するところではないのである。このような立場に立つ限り、課題は“山”のように生れ、存在し、やがて消え、また生れ、尽きる日はないのである。(文献2)
 ご存じのように古田氏は頻繁に自説を変えられた。間違ったと思われたら直ぐに訂正される。判らない物は判らないと言う、これが氏の学問の姿勢で、これこそ受け継ぐべきものである。

 そのような視点で、ここでは中国の二倍年暦・二倍年齢の議論を検証する。

一、 古代の人の寿命について

 古賀氏は「周代史料などの高齢寿命記事には百歳か百二十歳までで、百四十歳・百六十歳とするものがほとんど見えない。すなわち史料根拠に基づく限り、周代の人の寿命は五十歳~六十歳(二倍年齢で百歳~百二十歳)が限界と認識されていたようなのです。他方、現代日本に生きる私たちが、人の寿命は古代においても七十歳や八十歳に及ぶ例が少なからずあったと錯覚するのも無理からぬことです。(文献1)とする。
これに対して中村通敏氏(文献3)より、次のような批判がある。

①「縄文時代から現代に至る日本人の生存数グラフ」(中橋孝博・二〇〇五年『日本人の起源』より)図1は(福岡市)金隈弥生人が十五歳前後での生存数は四十五%くらいで、極めて幼年時の死亡が多いことを示し、限界寿命は七十歳プラス程度である。

図1 生存者数の年齢推移図1 生存者数の年齢推移

②三国志登場人物の死亡時年齢調査すると、死亡時平均年齢は五十二・五歳であるが、二〇一人中九十六歳以上生きた者が七名、約三・五%存在している。(図2)

図2 三国志登場人物死亡時年齢グラフ図2 三国志登場人物 死亡時年齢グラフ

 私も同様の疑問を持っている。二〇一三年九月の古田史学の会関西例会で、『史記』に見える周王の在位年数を、後の時代の漢および唐の天子在位年数を統計的に比較しても有意差が無いことを報告した。唯一、周の穆王が一〇五歳で亡くなったことになるのが気にかかるが、それでも周王の年齢は二倍年齢の証拠とはならないのだ。また、文献から推測された夏・殷・周王朝の存在年代が、炭素14年代測定で明らかになった各王朝遺跡の年代と齟齬が無い点も報告した。つまり文献も考古学も周代の二倍年齢を否定するのだ。
 唯一の気がかりであった周の穆王の年齢も、中村氏が『東方年表批判』で引用された「夏商周断代工程年表」より、紀元前九七六年の即位、紀元前九二二年没で、在位五十五年で『史記』に同じだが死亡年齢は七十一歳となる、でクリアしていたことが判明した。

 加えて、私は現存する日本最古戸籍(御野国加毛郡半布里の大宝二年戸籍)と、日本で初めて国勢調査が実施された大正九年(一九二〇)の年齢別人口表比較して、次のように考察した。
(1)竹内理三・一九六二年『寧楽遺文』には現存する各地の最古戸籍が示されている。このようなデータを統計処理するにはサンプリングに片寄りが無いこと、つまり全抽出もしくはランダムサンプリングが条件なのだが、御野国加毛郡半布里の大宝二年戸籍この里の人口ほぼ全ての一一一六人の名前と性別・年齢が戸のまとまりごとに記載されており、唯一条件を満たすデータであった。

(2)この半布里戸籍一一一六人の年齢分布を棒グラフにし、これと大正九年の年齢別人口を比較して図3に示す。尚、大正九年の総人口は約五六〇〇万人なのだが、比較のためこれを一一一六人換算する。半布里戸籍にはゼロ歳表記が無いので数え年計算で、大正九年データは満年齢計算なので一歳のズレがある。
大正九年データは八〇歳代と九〇歳代以上が分離されていないので、八〇歳代データの中に九〇歳代データも含まれている。

図3 年齢別人口の比較図3 年齢別人口の比較

(3)両者の比較をすると、三〇歳代以上で半布里戸籍側の全体比率が若干多いものの、分布形としてはよく似ている。七〇年から一九二〇年のこの一二〇年以上の期間で、多少平均命は延びたものの(大正十年十五年間の平均寿命は約四十歳と別途報告があり、半布里籍から平均寿命を推測すると〇歳代と考えられる)、年齢人口表に大きな変化は無かっのである。ちなみに、小林和氏・一九七九年『人類学講座』示したデータ(一〇歳以上死数に対する一〇歳未満死亡数比率=幼児死亡率と、六〇歳上死亡数中の八〇歳以上死亡の割合=八〇周代を外挿することにはリスクがあるが、少なくとも平均寿命三歳以上の長寿)を見ると、昭和三〇年(一五五)以降急激に幼児死亡率減少し、昭和三〇年~五十二にかけて、急激に八〇歳以上寿率が増えており、現代の高化人口表は太平洋戦争後に一気に出来上がったことになる。

(4)七〇二年当時の半布里には、最高年齢で九十三歳、七〇歳代・八〇歳代・九〇歳代の方がおられた。近代から七世紀のデータで〇歳代の時代に八〇・九〇歳は普通におられたことが判っていただけるだろう。

二、『論語』(文献4)は二倍年齢で書かれているのか

 『論語』子罕第九―「子曰く、後生畏おそる可し。いづくんぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」その意味するところは、四〇歳五〇歳になっても有名になれなければ、たいした人間ではなく畏れることはない、ということです。しかし、孔子の時代(紀元前六~五世紀)より七百年も後の『三国志』の時代、そこに登場する人物で没年齢が記されている者の平均没年齢は約五十歳であり、多くは三十代四十代で亡くなっている。従って、孔子の時代が『三国志』の時代よりも長命であったとは考えられず、とすれば四十歳五十歳という年齢は当時の人間の寿命の限界であり、その年齢で有名になっていなければ畏るるに足らないと言うのではナンセンスである。従って、この四十歳五十歳という表記は二倍年暦によるものと考えざるを得ず、一倍年暦の二十歳二十五歳に相当する。これならば、名を為すに当時としてはリーズナブルな年齢であろう。(文献5)

 三国志の時代の没年齢は一―②で中村氏が反論している。それを踏まえて、はたして記述どおりの年齢では奇妙なのだろうか、二倍年齢で無いと意味が通じないのだろうか、これは次を見れば判る。
 為政第二―「子曰、吾十有五而志於学;三十而立;四十而不惑;五十而知天命;六十而耳順;七十而從心所欲,不踰矩。」和辻哲郎氏は、これを孔子の自伝に他ならぬとするが私もその通りだと思う。孔子は七十二~七十四歳で亡くなったので、「七十而從心所欲,不踰矩」という語は、孔子が一生を回顧して、晩年の二~三年のみを自ら許したのであろうとする。ここで孔子が何を伝えたかったのかと考えると、答えが出てくる。
 これが万一、二倍年齢だとすると「私は七歳半で学に志し、十五歳で自立し、二〇歳にして惑わず、二十五歳で天命を知り、三〇歳に至っては何を聞いてもすらすら判るようになって、三十五歳で心の欲する所に従えば道理にあった」となる。これではただの自慢話である。これから弟子達は何を学ぶのだろうか。やはり孔子は偉く、私達とは違うんだ、いくら勉強しても追いつかない、そんな心境に追い込んでしまう。
 私は、先の「後生畏るべし」と同様に、弟子に学問の勧めるための章だと考える。孔子でさえ「十有五而志於學」、そして「四十而不惑」なのだ、私達にはまだまだ時間はあるのだと悟らしているのである。私も四〇歳になるともう惑わなかった、君たちも同じだ。しかしさすがに四〇・五〇歳となると遅すぎるよというのが「後生畏るべし」の教訓なのである。これが『論語』で年齢が出てくる全てを調べての私の結論です。
 もちろん『論語』は教育書では無くて、ただの日記と見れば古賀氏の言う解釈もあり得る。つまり「ああも言える、こうも言える」のである。そのレベルの主張は論証には使えないとするのが妥当である。

三、五歳再閏(文献6)は二倍年暦の証拠となるのか

 次に、西村秀己氏が提起された「五歳再閏は実は二倍年暦を示す」を考えたい。氏の主張は次である。
 『周易』繋辭伝上に次の文章がある。「分而為二以象両 掛一以象三(中略)五歳再閏」これを、『十三経注疏』「注」を書いたとされる魏の王弼は「凡閏、十九年七閏為一章、五歳再閏者二」つまり十九年間に七回の閏月があるのだから五年間に二回の閏月があると解説し、『十三経注疏』の「疏」を書いたとされる唐の孔頴達は、「五歳再閏者、凡前閏後閏相去大略三十二月、在五歳之中、故五歳再閏。」閏月と閏月の間はおおよそ三十二ヶ月が入るので五年の中に収まる。だから五歳再閏だとする。後漢の蔡邕は『獨斷』で、「三年一閏、五年再閏。」とする。これらの解釈は「再」を「二」と単純に読んでいるが、果たして再=二なのだろうか。蔡邕・王弼・孔頴達らの解釈は二倍年暦を知らないが故の苦しい解釈と思える。
 ところが、南宋の朱熹は『周易本義』で次のように書く。「閏、積月之餘日而成月者也。五歳之閒、再積日而再成月。故五歳之中、凡有再閏、然後別起積分。」閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の閒、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。これは、まさしく「五年経つと(また)次の閏月が来る」という意味だ。(一年を二年とする二倍年暦ならこうなる。)
 西村氏は「再」の本義は「二」ではないと「再三再四」の四字熟語を例に挙げる。確かに「二・三、二・四」では意味が通ぜず「みたび、よたび」で意味が通じる。ところが「維基文庫」を利用し「再三再四」を検索したところ、十八件全て明・清時代以降の文献であった。「再三」であれば周易、周易正義、そして唐代文献を中心に多数ある。ここから言えることは元々「再三」という熟語があって、後の時代になって「再三再四」という四字熟語が作られたのであろう。 そして「再三」は「二回・三回、ふたたびみたび」と解すべきである。少なくとも『周易』が書かれた時代においては。西村氏の引用通り後漢の蔡邕、魏の王弼、唐の孔穎達も「五歳二閏」と解釈している。
 西村氏はこれを十二世紀の朱熹が「五歳一閏」と解釈したとする。しかし、「五年間で余日を合せて月を為す。その結果五年間に二つの閏月ができる。」とも解釈できる。 しかもこの後に朱熹の次の言葉が続く。「掛懸其一於左手小指之閒也三三才也揲間而数之也竒所揲四数之餘也扐勒於左手中三指之両間也 閏積月之餘日而成月者也」。「(天策を四本ずつ数え)余りを左手の人差し指と薬指の間に挟む。次に地策を数え、余りを左手の(人差し指と薬指)指の間に挟む。余りは閏月のようなものである。」と言うのである。筮竹の五本の指の間の二カ所挟むという操作手順を、五年に二度の閏月に喩えて説明している。 朱熹も蔡邕らと同じ解釈だったのである。「再」の本義は「二」ではなくて、「同一であることが、二度あること。ふたたび。」である。よって、五歳再閏は二倍年暦を示さず一倍年暦を示していると判っていただけるであろう。

 

四、最後に

 古田氏の教え通り道理を根本におき、すべての用例をひとつひとつ逐一再検証する労を惜しまずに研究すると、周代および孔子時代に二倍年暦・二倍年齢の痕跡は見当たらないのである。新しい知見が出てくるまでこの話しはやめませんか。

(文献1)古賀達也、二〇二〇年「東京古田会ニュース」一九五号にて

(文献2)古田武彦、二〇一〇年『古田史学会報』一〇〇号にて

(文献3)中村通敏、二〇〇九年『孔子の二倍年暦についての小異見』古田史学会報九二号にて。および二〇一九年『東方年表批判』「東京古田会ニュース」一八四号にて。および二〇二〇年『「二倍年暦」は中国に伝播したという仮説について』、古田武彦記念古代史セミナー二〇二〇にて

(文献4)吉田賢抗、一九六〇年「新釈漢文大系 論語」明治書院

(文献5)古賀達也、二〇〇四年『新・古典批判―二倍年暦の世界』「新・古代学」第七集 新泉社

(文献6)西村秀己、二〇一九年『五歳再閏』「古田史学会報」一五一号にて、


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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