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「室見川の銘版」と倭王の陵墓・祭殿
川西市 正木裕
1、「室見川の銘版」と古田武彦氏の見解
「室見川の銘版」は、昭和二十三年七月に、原末久氏が博多湾岸の室見川河口西岸で発見した自然真鍮(鍮石)製の金属版で、「高暘左 王作永宮斎鬲 延光四年五」との文字が刻まれていた。
①「高暘こうよう左(大篆だいてん) ➁王作永宮斉(斎)鬲(大篆の二段書き) ③延光四年(漢字) ④五(大篆)
この銘版に注目した古田武彦氏は、多くの解決すべき問題が残るが、仮説として、次のように解釈された。(注1)
◆「高暘」は「暘谷ようこく」即ち「倭国」のことで、「左」は「東」、全体で「東夷の倭国」を指すこと、「永宮斉鬲」は「永遠の宮殿と、ととのった鬲(れき *殷・周代の三脚の祭器。青銅製・陶製がある)を作った」意味である。従って、全体としては、「高い日の輝く暘谷の東(この倭国の地)で、倭王は自己の宮殿と見事な宝物を作った。それは後漢朝の延光四年(一二五)五月のことである。」
そして、①②④は、周代~秦代に用いられた文字「篆体てんたい」の大篆(他に小篆がある)で、③の年号部分は漢字が用いられている。「篆体」は倭国(倭人)の周王朝との交流を反映しており、倭国の文字官僚の知識を示すものであるとした。漢字の使用については、近年福岡県を中心に、「使用痕」のある弥生の硯が多数発見され、古田氏の見解を裏付けている。
なお、古田氏は、「後代の偽作とか漢からの下賜品」との一般的な見解を否定し、当時の倭国で作られたものとしている。そもそも、延光四年は安帝・少帝が相次いで没し、順帝も死後に皇位を剥奪された不吉な年号で、下賜品や偽作に入れる年号ではないのだ。
2、吉武高木遺跡と瓊瓊杵ににぎの陵墓
この室見川の上流には「我が国で最初に三種の神器が出土」した、紀元前二世紀ごろとされる吉武高木遺跡(福岡市西区吉武)があり、一九八四年には、弥生時代最大級の大型建物(最大約十四×十三m、面積一八二㎡で弥生中期後半とされる)が発掘された。規模や周辺状況から「前代の有力者たちを祀る祭殿」ではないかという見解が示されており(注2)、古田氏は一九九三年の『古代史をゆるがす』(注3)で、先の解釈を裏付ける発見だと述べている。
吉武遺跡を含む吉武遺跡群(注4)は、「高祖連山」の「東の麓」で、「日向川」と「室見川」の合流点付近に存在する。そして高祖連山には、『古事記』で、邇邇藝の命の降臨地と記される「竺紫の日向の高千穗の久士布流多氣くしふるたけ」に見える「日向地名(日向山・日向峠)」や「くしふるやま(注5)」があった。
邇邇藝は「この地(降臨の地)は、韓国に向かって、真っすぐ通り来るところ、笠の沙(*御笠川河口の砂州)の前にあり、朝日が直に刺す国、夕日の日が照らるやま(注5))」があった。
邇邇藝は「この地(降臨の地)は、韓国に向かって、真っすぐ通り来るところ、笠の沙(*御笠川河口の砂州)の前にあり、朝日が直に刺す国、夕日の日が照らす国で、甚だ吉い地だ」(此地者、向韓国真来通、笠沙之御前而、朝日之直刺国、夕日之日照国、故、此地甚吉地)と言ったとされる。
「高暘左」の「暘」は「日+昜」(昜は「開く」)で、高く日が昇る・日の出の意味であり、邇邇藝の言葉や吉武遺跡の位置と対比すれば、「高暘左」は、一般的に「東夷の倭国」を指すというより、さらにその中でも「リアル」な地勢、朝日が刺し輝く「日向の高千穂=高祖連山の東」の吉武遺跡を指していると考える方が適切ではないか。
『書紀』では瓊瓊杵の陵墓は「筑紫の日向の可愛かあいの山陵」とあり(注6)、古田武彦氏は「可愛=川が合うかわあい」 の意味とされるが、そうであれば、室見川と日向川の合流地に位置する吉武遺跡が相応しいのだ。
3、陵墓・祭殿と「斉(斎)鬲(注7)」
また、古田氏は「永宮」を文字通り「永久に変わらない宮殿」とされたが、吉武遺跡が「瓊瓊杵の陵墓」であれば、「永宮」の意味は「常宮とこみや」と同じ「御陵・陵墓」か、建物であれば「祭殿」と解釈できる。そして、『周礼』(春官小祝注疏《卷二十五》)に「鬲を祖廟に懸く(鬲懸於祖廟)」(葬りて後に木主(*位牌)を作り、乃ち綴連(ていれん *連ねること)し、重とおとい鬲を祖廟に懸る)とある。つまり「鬲」は、葬儀に際し「陵墓・祭殿」に据えられる(祭られる)祭器だった。(注8)
そうであれば「高暘左王作永宮斉(斎)鬲」は、「王は降臨の聖地、朝日輝く高千穂(*高祖山地)の東、吉武の地に、陵墓・祭殿を作り、祭器の鬲を整え祭った」という意味となろう。銘版の文書の典拠が『周礼』即ち周代の儀礼にあるなら、「周代の文字」の篆書で書かれていることもよく理解できる。
内容は右のようなものだとしても、銘版は何の目的で作られたのだろうか。吉武高木遺跡の大型建物が「祭殿」であれば、木や銅板に祭殿の造営の由来を記した「棟札」に類するものだった可能性がある(古賀達也氏による)。もちろん仏教伝来以前だから寺院ではなく、「先祖を祭る霊廟」となろう。この点、博多湾岸には、我が国最古の「廟」と呼ばれる「橿日廟」(現在の「香椎宮」)がある。
神功皇后紀の「羽白熊鷲・田油津媛討伐」の出発地は香椎宮(橿日廟)とされ、かつ討伐は、博多湾岸平定の次に侵攻対象となる筑後であること、羽白熊鷲は「羽あり。能く飛び高く駈ける」と書かれるなど、「神話性」を有することから、九州王朝の「廟」は「天孫降臨」に近い時代から存在したと考えられる。一二五年に吉武高木の大型建物のような霊廟が室見川近郊に造られ、そこで祭礼が行われ「鬲」が奉納された、これを記したのが「室見川の銘版」となろう。
ただ、『周礼』の記事から、「鬲」を祭るのは葬儀での儀礼だと考えられ、そうであれば「先代の倭王」が崩御し、「霊廟」が整えられ「鬲」が祭られた可能性が高い。倭国は一〇七年に帥升が漢に朝貢しており、一二五年に崩御した倭王の第一候補は帥升となろう。漢に朝貢し臣従した帥升だから「年号」は漢字で書かれたのだと考えられる。「室見川の銘版」は帥升の陵墓・祭殿は倭国(九州王朝)の祖たる瓊瓊杵尊の故地に造られたことを示すものと言えよう。
(注1)㋐古田武彦『ここに古代王朝ありき』(第三章室見川の銘版)(朝日新聞社一九七九年)・㋑『「風土記」にいた卑弥呼』(朝日新聞社一九八四年)
(注2)(福岡市経済観光文化局「福岡市の文化財」弥生の風公園)この大型建物が、特定集団墓の東側五十mほどの近い位置にあること、墓の主軸方向(北東方向)と建物のそれが一致していることを考えれば、この建物が特定集団墓となんらかの関わりを持つものであると考えることは可能でしょう。先にも述べたように、大型建物は弥生時代中期の後半に位置づけられ、特定集団墓よりも新しいものです。しかし、この時期には樋渡地区で墳丘墓が築かれており、甕棺ロードでは甕棺墓の埋葬は継続していました。特定集団墓の存在を示す目印(標石)も大切にされていたことでしょう。以上をふまえると、大型建物は特定集団墓、つまり前代の有力者たちを祀る祭殿であった可能性もあります。
(注3)「古代史をゆるがすー真実への7つの鍵」(原書房一九九三年)(ミネルヴァ書房から二〇一五年復刊)
(注4)吉武遺跡群は、吉武高木・吉武大石遺跡(弥生前期末~中期前半)、吉武樋渡ひわたり遺跡(弥生中期後半)で構成。
①吉武大石遺跡では、鏡が無く玉類も極端に少ないが、副葬品全てが武器で、被葬者は戦闘により死傷した可能性があり兵士の墓地ともいわれている。
➁吉武高木遺跡では高位の人物を埋葬する木棺が多く出土し、青銅武具や多紐細文鏡など豪華な副葬品が埋葬されるなど、「王墓」と呼ぶに相応しい遺跡となっている。
③吉武樋渡遺跡には二十五ⅿ×十五ⅿの墳丘墓に、多数の甕棺墓と木棺墓・石棺墓があり、銅剣・前漢鏡・玉・鉄製武器が副葬され、吉武高木遺跡を継ぐ遺跡と考えられている。
(注5)「高祖たかす村、椚くぬぎ 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。其書(*「黒田家文書」)に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。民家の後に、あるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、枆と云とぞ。田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す。」(『福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部』)
(注6)『書紀』(神代下第九段)天津彥彦火瓊瓊杵尊崩ります。因りて筑紫の日向の可愛〈此をば埃あいと云ふ〉の山陵に葬りまつる。
(注7)銘版の「文字A」は、甲骨文字・金文では「齊・齋・齎」の字の上部「文字B」にあたり、神に奉仕する女性を意味する。従って、これらの漢字はいずれも祭祀に関する字で、神への供物を「ととのえる・祭る・捧げる」などの意味を持つ。
文字A
文字B
(注8)「鬲」は青銅に限らず陶製の鬲もあり、秦代の墓の随葬品として出土している。寺社仏閣に備えられる「大型の香炉」は「三脚の鬲の形状」をしており、周代からの「鬲を祖廟に懸く」伝統が現在に伝わっている可能性が高い。
大型の香炉・鬲
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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