2022年8月16日

古田史学会報

171号

1,「室見川の銘版」と倭王の陵墓・祭殿
  正木裕

2,二倍年暦・二倍年齢の一考察  
 服部静尚

3, 若狭ちょい巡り紀行
 年縞博物館と丹後王国
 萩野秀公

4,初めての鬼ノ城探訪
 多元的「鬼ノ城」研究序論
 古賀達也

5,「壹」から始める古田史学・三十七
「利歌彌多弗利」の事績
古田史学の会事務局長 正木 裕

6, 古田史学の会
第二十八回会員総会の報告
二〇二二年六月一九日
アネックスパル法円坂
(略)

 

古田史学会報一覧

出雲への史跡チョイ巡り行 2014年5月31日~6月2日 萩野秀公 (会報124号)

 


若狭ちょい巡り紀行

年縞博物館と丹後王国

東大阪市 萩野秀公

 久しぶりに行って来ました。日帰りのハイキングなどではなかなか行くことのできない地域へ、泊りがけでレンタカーなどを利用して周遊し、史跡廻りをする小旅行です。過去には高松・出雲・奥和歌山等、周遊してきました。コロナの影響もあり、しばらく途絶えて来た事に拠る〈久しぶり〉と言う訳です。
 メンバーは、先回の奥和歌山の時と同じ、当会副代表小林嘉朗氏・同会計監査杉本三郎氏・元役員西井健氏及び小生の四人旅で、六月十二、十三日(月火)の一泊二日の紀行となりました。
 予てより計画して来て、三年越しで実現した若狭年縞博物館の見学を初日のメインとし、二日目は、丹後王国の遺跡と思われる巨大古墳や、〈もう一つの天孫降臨伝承地〉の籠神社の他、当地の郷土博物館や浦島神社等々、見聞きして来ましたので報告します。
 今回の紀行中に於いて報告対象の筆頭は、やはり、年縞博物館の〈年縞〉について、その奇跡の存在及び出来上がった経緯・仕組みについて理解ができ感動した事であります。
 我ら四人の為に専属で一人の案内ガイドがついてくれて、限られた時間の中で非常に要領よくこちらが確認したいと思っていた点などを説明・案内をしてくれました。時間にして四、五十分、私には感動の連続でした。
 そもそも先ず、ここに言う〈年縞〉についてですが、福井県若狭の三方五湖のうちの水月湖が、特殊である事により、偶然できた七万年にも及ぶ堆積層に因ってでき上った縞模様を〈年縞〉と呼ぶようになったようです。これと類似したものが、世界各地に於いて既に研究されているそうでありますが、七万年もの間途切れることなく連続して形成されているのは他に類がなく、世界中の研究者から注目の的になっているとの事でありました。
 そして、何故七万年と言うような途方も無く長い期間にわたり、縞模様が継続したのか、それを作った水月湖の特殊性とは、また、その特殊性が複数重なり合う偶然とは、いったいどのような仕組みであるのかなど、私なりに理解したことを簡潔に書き綴ってみたいと思います。

 水月湖の特殊性

一、生物のいない湖底
 水深三十四メートルと海岸沿いの湖にしては深い湖で、その水深部が無酸素状態の為に魚や水生昆虫・ゴカイ類などが住めない環境にあり、季節の堆積物の差によって年縞が出来上がるのですが、その静かな沈殿の妨げになる〈かき混ぜ〉が無いことです。

二、流れ込む大きな河川のない地形
 更に水月湖が三方五湖の内、中湖に当る為に、河川からの土砂などの直接流入が無く、又、汽水湖でもあり、海からの流入もあると言う事ですが、言い換えればどちらからの流入も緩やかで、流れに拠る湖底への影響が殆ど無い環境がキープされていること。

三、山々に囲まれた地形
 又、三方を小高い山々に囲まれていて強風の影響を受けにくいことも年縞環境を保全したものと思われます。

四、湖底が下がる奇跡の湖

 そしてこれこそが七万年の秘密、と理解したことですが、水月湖は、近くの断層に因る地形の沈み込みによって、長期間少しずつ湖底が下がり、一定の水深がキープされてきたまさに奇跡としか言いようがない、年縞製造の為の湖と言っても過言ではなく、湖底の沈下は、七万年で四十五メートルと言う事になる訳です。
 
 その成果が、博物館の目玉となっている、高さ四十五メートルに積み重ねられた年縞で、その向きを横に入れ替えて、博物館の端から端までと言った具合に展示されている様は、実に圧巻でした。
 一から四の特殊性を、水月湖という一つの湖が偶然持ち合わせた事に拠り、この〈埋まらない湖〉が製造し続けた四十五メートルもの縞々、年数にして七万年強に及ぶ、年ごとにカウント可能な地層ができあがったのです。従って、既に実用化されているC14炭素年代測定法と組み合わせる事で、従来よりもかなりの測定誤差を無くすことが可能との事でありました。
 例えば、約三万年前の姶良カルデラの火山灰から、〈三万七十八年プラスマイナス四十八年〉の数値が計測され、これが七千年前の鬼界カルデラの火山灰となると〈七千二百五十三年プラスマイナス二十三年〉となり、つまり、何千年何万年前の噴火年代の測定に於いて、数十年の誤差の範囲に収まると言う事なのです。案内ガイドの方から、そのそれぞれの噴火時期を、年縞に指し示して頂いたのですが、初見の我々にもはっきりとそれを確認できたのです。凄くないですか。この精度には驚嘆です。
 この年縞は既に、私ども古田史学の会の研究者ほか古代史研究に活用している人が有るとの事ですが、私には未だ具体的な活用法を検討しようかと言う段階です。しかし、土器などの発掘年代は当然のこととして、その製造年代の特定までも、この精度でもって解き明かすことができる様な期待の持てるものだと思います。例えそれが、期待だけで終わろうとも、年代測定法に於いてこの〈年縞〉は確実に一歩前進したと言えるのではないでしょうか。

 さて本紀行は、丹後半島周遊に先駆けて、籠神社に参拝をして行く訳ですが、初日は、JR新快速で敦賀に出て、ここからレンタカーで周遊開始です。十二時に年縞博物館、そしてそれに隣接している縄文博物館の見学後、若狭湾(宮津湾)を右に見ながら、湾の東端から西端の天橋立まで移動するのに三時間半程所要しました。
 天橋立の内海は、阿蘇海と呼ばれていて、由来及び説は色々とありましたが、九州の阿蘇山との関連は、何も無さそうでした。この周辺一帯は、縄文・弥生・古墳時代と、途切れることなく人が生活し続けたようで、古代遺跡の宝庫と言えそうです。
 この阿蘇海の東側の天橋立の付け根の部分に僅かな切れ目があり、外海と繋がっています。この切れ目には可動式の橋が架けられていて、遊覧船などが行き来します。従って、人は徒歩でも天橋立を渡り切ることができるのです。其の付け根の所にある旅館が今紀行の宿泊場所に予定していた所ですが、そこを一旦通り越し、阿蘇海の対岸、天橋立の反対側の付け根のエリアに向かいました。
 ここに籠神社が所在するのですが、籠神社は、次の日の予定とし、当地の丹後郷土博物館が、翌日の月曜を休館日としていたので、これを先に繰り上げて見学しました。そしてそのすぐ隣には「丹後国分寺跡」が整備された状態にあり、それを踏査した後に、再び阿蘇海沿岸道を逆回りして宿泊予定のホテルへと向かいました。その途中の長寿公園に、ご当地の今は無き岩滝丸山古墳から出土の石棺が移設されていましたので、この見学を以て初日の最終としました。
 宿泊は、天照の湯・素戔嗚の湯など他多数の神々の湯を備えた温泉旅館で旅の疲れを癒やし、コース料理の饗応を受けて、少々贅沢に活力を充填しました。

 二日目は、宿泊ホテルから天橋立に拠って繋がる対岸の籠神社をスタート地点としましたが、車なので再々度、阿蘇海の外周を廻ることとなりました。
 籠神社へは、私自身、十年程前に来た事がありまして、その時に八十二代宮司の海部光彦氏より、八十一代宮司穀定氏の著書、『元初の最高神と大和朝廷の元始』を紹介され、執筆活動に役立てるよう提供された経緯がありまして、小生の愚作(「倭姫世記 (紀)について」Ⅰ~Ⅳ、古田史学の会関西の例会2019年五月~十一月の間にて発表済み)を持参し、光彦宮司に面会を求めた所、何と去年の暮に亡くなられていたのであります。齢九十一歳との事。先回お会いした時には、とてもそのような年齢には見えず、愕然としてしまいました。仕方なく遅ればせながら、その場で弔意を申し上げ、ご冥福をお祈りすると共に持参した愚稿を奉納し、そして改めて当日二日目の紀行の無事を祈願致しました。
 尚、籠神社の紹介が遅れましたが、ここは元伊勢と称され、先程の〈年縞〉の七万年には及びませんが、宮司八十代以上の由緒ある神社で、天皇家と並ぶ、〈もう一つの天孫降臨〉を窺わせる最古の本系図及び勘注系図を所有していた神社です。この他、前・後漢時代の伝世鏡と言われている古鏡などを含め、現在は国宝に指定されるなど公開されていますが、それまでは、代々の宮司のみの秘伝とされて来たようです。始祖と言われている「彦火明命(饒速日命)」・豊受大神と天照大神の関係その他の紹介は、2015年三月、四月の例会発表にて詳細に済ませておりますが、再度改めて発表を検討しています。
 さて、籠神社の奥宮である真名井神社を参拝後、先ず丹後半島の北の先端を目指し、時間の許す限りの周遊旅と言うことで、出発しました。最初は伊根の舟屋を、今、何かと旬の観光船で、カモメやトンビの歓迎を受けながら廻り、次は浦島神社へ、そして最先端の経ヶ岬に於いて、急に対岸のロシアを想い、何故か複雑な気持ちで、海原しか見えないウラジオストク方面の日本海をただ無言で展望しました。
 午前九時に籠神社を出発し、ここまでかなりの距離をドライブしましたが、道路が整備されているのと信号が極少で、想定以上に余裕を持って折り返し地点まで到着できました。
 丹後三大古墳と称される大型古墳の内の二つがこのルートにありまして、時間の関係で行けるかどうか不安でしたが、諸条件が整い、どうにか神明山古墳と網野銚子山古墳を踏査することができました。
 経ヶ岬から西南西に網野に向かう途中に丹後古代の里資料館があり、そこに隣接して竹野神社と丹後第二位の大きさ、百九十米の神明山古墳があります。
 この辺りは大城古墳群と呼ばれ複数の古墳が点在しているとの事で、食指が動きますが、ここは大表古墳のみの踏査に留めました。資料館と竹野神社を見学し、そこから二百五十米程の距離を徒歩で上り、古墳の後円部の頂上に辿り着きますと、なんとそこにはパノラマの素晴らしい絶景が広がり、ただ無言で立ちすくみ心地よい海風だけを感じる瞬間が在りました。正面には日本海が開け、その手前には奇岩の立岩が見事な姿勢でそそり立ち、左右の小高い丘に囲まれた、昔は入り江であったであろう田園風景を眼下にし、古代風景を夢想しつつ、しばし大王の気分に浸ることができました。
 押していた昼食を終え、〈鳴き砂〉で有名な琴引浜を右手に見て、一路、丹後最大の網野銚子山古墳を目指しました。目的地付近に来て驚いたのは、直近の交差点の名前が「御陵」だったことで、私の認識では、ここの古墳の主が天皇を自称していた可能性がある事に他ならないからです。「御陵」と言う地名が何時からのものなのか等、詳細に調べてみる必要がありますが、今回は車で全長二百米と言われている古墳外周を一回りし、東側から徒歩にて後円部に登頂しました。ここは先ほどの神明山古墳の時よりも登頂が楽でしたが、頂上からの景観はよく似ていました。整備の仕方が同じせいかも知れません。

 さて、今回の紀行は天候にも恵まれ、ここまで予定以上の成果と言って良さそうです。帰路についてまもなく、ナビゲーターを担当して頂いた小林氏が、「この道沿いのすぐそこに赤坂今井墳墓が有る」と。すると帰路進行方の向右手道路沿いに、はっきりと古墳と判る丘を目にし、立ち寄るべきか否か、瞬時の葛藤がありましたが、帰路ベクトルの慣性の法則により通り過ぎてしまいました。後で資料を見て分かったのですが、この赤坂今井墳墓は、弥生時代の古墳としては国内最大級の大型方形墳丘墓とのこと。立ち寄れなかったのは残念でしたが、一応見る事は出来ましたし、次回の久美浜方面への周回紀行の楽しみにとって置く事としました。
 籠神社での祈願のお蔭か、レンタカーの全走行距離三百八十キロ、無事敦賀に到着できました。後は、大阪方面への電車待ちの時間四十分程にて、恒例の反省会(駅前の居酒屋で)を手短に終え、本紀行の打ち上げとしました。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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