2022年8月16日

古田史学会報

171号

1,「室見川の銘版」と倭王の陵墓・祭殿
  正木裕

2,二倍年暦・二倍年齢の一考察  
 服部静尚

3, 若狭ちょい巡り紀行
 年縞博物館と丹後王国
 萩野秀公

4,初めての鬼ノ城探訪
 多元的「鬼ノ城」研究序論
 古賀達也

5,「壹」から始める古田史学・三十七
「利歌彌多弗利」の事績
古田史学の会事務局長 正木 裕

6, 古田史学の会
第二十八回会員総会の報告
二〇二二年六月一九日
アネックスパル法円坂
(略)

 

古田史学会報一覧

『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識 古賀達也 (会報170号)
百済人祢軍墓誌の「日夲」 -- 「本」「夲」、字体の変遷 (会報170号)
官僚たちの王朝交代律令制官人登用の母体 古賀達也( 会報172号)


初めての鬼ノ城探訪

多元的「鬼ノ城」研究序論

京都市 古賀達也

一、鬼ノ城を初訪問

 本年五月、四国(屋島)ドライブの帰途に鬼ノ城(岡山県総社市)を初訪問した。期待に違わず、大野城や基肄城と並ぶ見事な巨大山城であった。山上の鬼城山ビジターセンターではガイドブックや報告書が販売されており、『鬼城山』(注①)はお勧めだ。なお、拙稿「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」(注②)で紹介した『史跡鬼城山2』(注③)や『国指定史跡鬼城山』(注④)はWEB上で閲覧可能。本稿では、これらの報告書から得られた知見に基づき、鬼ノ城が持つ多元的古代の片鱗に迫った。

 

二、鬼ノ城の列石と積石遺構

 鬼ノ城訪問により、わたしの認識は大きく改まった。古代山城は朝鮮式山城と神籠石山城とに分けられることが多く、『日本書紀』などに記されているものを朝鮮式山城、文献に見えない山城を神籠石山城とする区別が一般的。また、一段列石が山を取り囲むタイプを神籠石山城、積石で囲むタイプを朝鮮式山城とする区別もある。より学術的な呼称として、『日本書紀』天智紀に見える山城を「天智紀(期)の古代山城」とする表記も近年では目立つ。また、「○○神籠石」をやめて、「○○山城」のように「山名・地名」+「城」とすべきとの意見もあり、「阿志岐城」(筑紫野市)のように、旧称の「宮地岳古代山城」に替えて、「地名」+「城」に変更した例もある(注⑤)
 文献に見えない場合は、この表記方法(「山名・地名」+「城」)が適切と思うが、著名な鬼ノ城という通称をわたしは使用している。他方、行政上の山名は鬼城山で、遺跡名は史跡鬼城山とされる。
 これまで、鬼ノ城は一段列石(神籠石タイプ)と積石(朝鮮式山城)が混在したタイプとわたしは理解していたが、今回の訪問により、それほど単純なものではないことを知った。鬼ノ城は一段列石であれ積石であれ、その上部に版築土塁が築かれている。これらの防塁・防壁(高さ5~6m)により、鬼ノ城は強力な防御施設になっていた。

三、鬼ノ城の造営年代と造営尺

 『鬼城山』を何度も読んだが、従来の認識ではうまく説明できないことがある。たとえば、鬼ノ城の造営年代と造営尺だ。ほとんどの神籠石山城の造営年代を七世紀後半とわたしは考えてきた。その根拠は次の通りだ。「洛中洛外日記」より転載する(注⑥)

〝古代山城研究に於いて、わたしが最も注目しているのが向井一雄さんの諸研究です。向井さんの著書『よみがえる古代山城』(注⑦)から関連部分を下記に要約紹介します。
(1)一九九〇年代に入ると史跡整備のために各地の古代山城で継続的な調査が開始され、新しい遺跡・遺構の発見も相次いだ(注⑧)

(2)鬼ノ城(岡山県総社市)の発掘調査がすすみ、築城年代や城内での活動の様子が明らかになった。土器など五〇〇余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(七世紀末~八世紀初頭)のもので、大野城などの築城記事より明らかに新しい年代を示している。鬼ノ城からは宝珠つまみを持った「杯G」は出土するが、古墳時代的な古い器形である「杯H」がこれまで出土したことはない。

(3)その後の調査によって、鬼ノ城以外の文献に記録のない山城からも七世紀後半~八世紀初め頃の土器が出土している。

(4)最近の調査で、鬼ノ城以外の山城からも年代を示す資料が増加してきている。御所ヶ谷城―七世紀第4四半期の須恵器長頸壺と八世紀前半の土師器(行橋市 二〇〇六年)、鹿毛馬城―八世紀初めの須恵器水瓶、永納山城―八世紀前半の畿内系土師器と七世紀末~八世紀初頭の須恵器杯蓋などが出土している。

(5)二〇一〇年、永納山城では三年がかりの城内遺構探索の結果、城の東南隅の比較的広い緩やかな谷奥で築造当時の遺構面が発見され、七世紀末から八世紀初めの須恵器などが出土している。〟

 この見解は今も変わっていないが、鬼ノ城については七世紀前半まで遡る可能性も考える必要がありそうだ。確かに鬼ノ城からの出土土器は七世紀第4四半期頃の須恵器杯Bが多く、その期間に鬼ノ城が機能していたことを示す。
 他方、城内の倉庫跡の造営尺に前期難波宮(六五二年創建)と同じ29.2㎝尺が採用されていることから、倉庫群の造営が七世紀中頃まで遡る可能性があった。倉庫群よりも先に造営されたと考えられる外郭(城壁・城門など)の造営尺は更に短い27.3㎝の可能性が指摘されており、時代と共に長くなるという尺の一般的変遷を重視すれば、外郭の造営は七世紀前半まで遡ると考えることもできる。この27.3㎝尺は鬼ノ城西門の柱間距離から導き出されている。
 「(西門の)柱間寸法は桁行・梁間とも4.1mが基準とみられ、前面(外側)の中柱二本のみ両端柱筋より0.55m後退している(棟通り柱筋との寸法3.55m)。」『鬼城山』二一一頁
 この4.1mと3.55mに完数となる一尺の長さを求めると27.3㎝が得られ、それぞれ十五尺と十三尺となる。その他の尺では両寸法に完数が得られない。この短い27.3㎝尺について『鬼城山』では、北魏の永寧寺九重塔(五一六年)の使用尺に極めて近いとする。今のところ、27.3㎝尺がどの時代のものか判断できないが、鬼ノ城外郭の造営は七世紀前半か場合によっては六世紀まで遡るかもしれない。

四、西門と永寧寺九重塔の造営尺

 鬼ノ城西門の造営尺27.3㎝(正確には27.333㎝)に極めて近い尺として、北魏洛陽の永寧寺(五一六年創建。注⑨)九重塔造営尺があるとの指摘が『鬼城山』にある。
 奈良国立文化財研究所の調査報告書(注⑩)によれば、永寧寺九重塔は東西101.2m、南北97.8mの堀込地業)上に一辺38.2m、高さ2.2mの基壇とある。基壇の二つの数値(38.2mと2.2m)で完数に近くなる尺は約37.3~27.4㎝で、それぞれ約一四〇尺と約八尺になる。正確に両者を完数とできる尺はないので、複数の尺の併用かもしれない。
 古代中国の尺に27.3㎝のような尺は見当たらず(注⑪)、鬼ノ城西門の造営尺が北魏永寧寺九重塔造営尺に関係するとしても、その造営時期が六世紀まで遡るとするのは無理があるように思われる。たとえば『史跡鬼城山2』では、鬼ノ城第0水門流路下流から出土した木製品(方形材、加工材)の炭素年代測定により、「伐採年代をAD六八〇年より新しい年代とは考えにくいとし、西門の築造を六八〇年以前と推測している。」とある。これは出土土器編年とも整合し、鬼ノ城築城年代を七世紀後半とする説を支持する。
 永寧寺は菩提達摩が訪れた寺としても有名で、『洛陽伽藍記』(注⑫)に次のように記されている。

 「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯ペルシャ国の胡人也。起ちて荒裔なる自り中土に来遊す。(永寧寺塔の)金盤日に荽き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡く、而して此の寺精麗にして閻浮所にも無い也、極物・境界にも亦た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。」『洛陽伽藍記』巻一

 菩提達摩の年齢が百五十歳とあるが、二倍年齢としても七五歳であり、当時その年齢でペルシアから中国まで来訪できたとは考えにくく、不思議な記事だ。

五、鬼ノ城山麓の先行(五世紀)土塁

 鬼ノ城山麓からは鬼ノ城に先行する五世紀初頭の城塞跡(土塁)が発見されている。高橋護「鬼ノ城に先行する城塞について」(『鬼城山』)に発見の経緯が紹介されている。

 「鬼ノ城を発見した当初、塁線を追って何日も山頂を巡っていた。浸食の進行や、灌木の繁茂で明確に確認できない塁線を追及していたのである。そんなある日、麓に目をやると不思議な光景が認められた。街道も通っていないのに、街村のように直線に谷を横断した家並みが見られたのである。不思議に思って現地を訪れてみると、周囲よりも一段高い土地が直線に伸びており、この土地を敷地として建てられた家並みであった。盛土は殆ど失われて整地されているが、東端では新池北側の丘陵の端に向かって斜面を這い上がっているのが観察された。
 その状況から基肄城の山麓などに存在している小水城と呼ばれている防塁に相当するものではないかと考えていたのである」『鬼城山』一八一頁。

 この土塁跡は「池ノ下散布地」と称され、鬼城山の東南1.8㎞の山麓にあり、血吸川によって形成された谷部が総社平野に向かって大きく開放する位置に当たる(総社市西阿蘇)。岡山県による発掘調査(二〇〇〇年)の結果、古代の防塁であることが確認され、土塁の北にある山上からは掘立柱建物跡も発見された。発掘調査結果は「付章 池ノ下散布地の試掘結果」(『国指定史跡鬼城山』)に詳述されている。そして土塁基底部に敷かれた粗朶の葉の炭素年代測定値は五世紀初頭(AD四一〇年)を示した(『史跡鬼城山2』)。この測定結果を受けて、高橋氏は次の見解を発表した。

 「5世紀の初め頃、吉備で起こった大きな出来事は、造山古墳群の築造であるが、それと並んでこの奥坂の土塁の築造があったのである。(中略)土塁から正面に見える山上に位置していることからみて、土塁と一体の遺跡である可能性を考えて良いのではないだろうか。
 年代からみても、好太王軍と戦った倭の王は、この時代では最大の大王陵を築いた造山古墳の被葬者であったと考えられる。高句麗軍と戦った経験や、半島諸国の戦いの実績から城塞の重要性を知って、谷の入り口に土塁を築く高句麗型の城塞を造ったものであろう。(中略)
 この城塞の築造が、後に足守宮の伝説を生む原因の一つになったものと考えられるが、土塁の前面に御門という字が遺されていることから、吉備太宰府や惣領所も奥坂に置かれていた可能性が考えられる。」同、一八五頁

 これは「倭の五王」吉備説とでも言うべきもの。結論には賛成できないが、吉備の大宰や鬼ノ城の先行城塞などについて、多元史観による検討が必要であることを改めて認識した。ちなみに、高橋氏は鬼ノ城の発見者である(注⑬)

六、坪井清足氏の六世紀築城説

 高橋護氏は鬼ノ城を七世紀後半の築城とし、『日本書紀』天武紀に見える吉備の大宰の山城とした。他方、坪井清足氏(注⑭)の「鬼ノ城神籠石との出会い」では、六世紀築城説が述べられている。鬼ノ城の築城は七世紀とわたしは判断しているが、坪井氏の説明にも一理ある。七世紀後半築城説に対して、氏は次の疑問を投げかける。

 「ところがどうしても納得がいかないことがある。というのは底に矩形の列石を百陳べその上を版築で築きあげる城壁構築法は韓半島の三国時代に百済にしか例がなく、高句麗、新羅にはなく、後者には城壁は石垣作りしかみられないことで、百済でも7世紀の扶余の扶蘇山城などではこの方法は用いられておらず、百済滅亡後亡命した百済人に指導されて作ったと記録され大野城以下天智築城のいずれの城壁もこの方法で築いていないこと。さらに九州では神籠石の城門は精査されていないが鬼ノ城の四門と天智築城の城門の構造の作りが異なっていることがあげられる。
 (中略)いずれにせよ韓半島で百済でしか見られない城壁構築法、しかも百済でも最後の都扶余ではその方法をやめてしまい、したがって百済からの亡命者の指導で作られた天智築城のいずれにも使用されていない城壁構築法が、天智朝に継続する天武朝の吉備の大宰の築城につかわれ、さらに岡山市東端の大廻小廻り、対岸の坂出市城山に見られ、吉備の大宰時代よりほんの三十年前に築城された屋島城には用いられていなかったのは納得ゆかない理由である。」『鬼城山』一七九~一八〇頁

 坪井氏が根拠とした、百済の六世紀以前の築城技術が、天智期築城とされる大野城や屋島城などには見られず、岡山県の鬼ノ城・大廻小廻と坂出市の城山にのみ見られるとすれば、それは多元史観・九州王朝説でなければ解明できないように思う。古田学派による本格的な鬼ノ城研究が待たれる。
〔令和四年(二〇二二)七月七日筆了〕

(注)

①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、二〇一一年。

②古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」『東京古田会ニュース』二〇二号、二〇二二年。
同「洛中洛外日記」二六一二話(2021/11/11)〝鬼ノ城、礎石建物造営尺の不思議〟
同「洛中洛外日記」二六一三話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟

③『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書二三六 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、二〇一三年。

④『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書二〇三 国指定史跡鬼城山』岡山県教育委員会、二〇〇六年。

⑤『阿志岐城跡 阿志岐城跡確認調査報告書(旧称 宮地岳古代山城跡) 筑紫野市文化財調査報告書第九二集』筑紫野市教育委員会、二〇〇八年。

⑥古賀達也「洛中洛外日記」二六〇九話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟

⑦向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、二〇一七年。

⑧播磨城山城(一九八七年)、屋島城南嶺石塁(一九九八年)、阿志岐山城(一九九九年)、唐原山城(一九九九年)など。

⑨北魏の孝明帝熙平元年(五一六年)に霊太后胡氏(宣武帝の妃)が、当時の都の洛陽城内に建立した寺。高さ「千尺」の九重塔があったと『洛陽伽藍記』にある。永寧寺の伽藍配置は日本の四天王寺の祖形とされる。

⑩『北魏洛陽永寧寺 中国社会科学院考古研究所発掘報告』奈良国立文化財研究所、一九九八年。

⑪山田春廣氏(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)掲載の「古代尺の分類図」には27.3㎝尺に近い尺は見えない。

⑫『洛陽伽藍記』全五巻。六世紀、東魏の楊衒之撰。

⑬河本清「岡山県内の史跡整備事業における鬼城山(鬼ノ城)整備の位置づけ」(『鬼城山』)には、鬼ノ城発見の経緯を次のように紹介する。

 「鬼ノ城跡の発見は一九七〇(昭和四五)年であった。その発端は、発見者高橋護氏が以前から『日本書紀』に記載されている「吉備の大宰」の居場所探し、つまり吉備の大宰府の場所探しに興味を示したことによる。その探りの視点はユニークであった。九州の大宰府の後背地には大野城跡があるので、この関係を重要視して吉備中枢において古代の山城さがしを始めたことによるものであった。そして以前から起きていた鬼城山の山火事跡地を踏査して、今の西門跡の東先で神籠石系の列石を発見したことによる。」一八九頁。

⑭坪井清足(一九二一年~二〇一六年)元奈良国立文化財研究所所長、元元興寺文化財研究所所長。大阪府出身。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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