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「壹」から始める古田史学 ・四十一
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅲ
古田史学の会事務局長 正木裕
1、「筑紫太宰府」と「筑紫都督府」
前号・前前号の、「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅰ・Ⅱでは、
①多利思北孤による倭京・太宰府(大宰府古層)造営。
九州年号「倭京(六一八~六二二)」年間に、宮が条坊の中央(通古賀地区)にある「周礼式」都城として造営された。(*遺跡名は「大宰府」、九州王朝の都城の意味では「太宰府」と表記する。)
②伊勢王による常色・白雉期の「大宰府Ⅰ期」造営。
九州年号常色元年(六四七)に即位した伊勢王は、常色・白雉期に、切迫した半島情勢を踏まえ、宮城の安全を図ることとした。そのため、「古層の条坊を踏襲」しながら、宮城を、水城や大野城などに護られる「条坊の北部(現都府楼跡付近)」に遷し、難波宮(京)と同じ北闕式の都城とした、ことを述べました。
本号では、「大宰府Ⅱ期」は、白村江の敗戦で唐の捕囚となった筑紫君薩夜麻が、羈縻きび政策により「筑紫都督倭王」として帰還し、壬申の乱で近江朝を倒してのち、六七〇年代に「筑紫都督府」として造営されたことを述べます。
2、「都督府」と呼ばれた「太宰府」
「大宰府政庁Ⅱ期跡」は、一般に「都督府古址・都府楼」の名で呼ばれ、現地に「都府楼跡」との標柱も立っています。大宰員外帥(正式な大宰帥や、その代理の権帥でない職)に左遷された菅原道真(八四五~九〇三)も、漢詩「不出門(門を出でず)」で「都府楼は纔わづかに瓦の色を看み、觀音 寺は只だ鐘の聲を聽く」と大宰府政庁を「都府楼」と呼んでいます。
しかし、『書紀』では「筑紫都督」が任命されたことはなく、景行五十五年(一二五)に、彥狹嶋王が「東山道十五国都督」に任命されたのが唯一の記事です。ただ、「筑紫都督」はいませんが、「筑紫都督府」は天智六年(六六七)記事に、一度だけ記されています。
◆天智六六六七年十一月乙丑九日に百済鎮將劉仁願、熊津ゆうしん都督府熊山ゆうさん縣令上柱国司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積いはつみ等を筑紫都督府に送る。
通説では「大宰府を唐は都督府と呼んだ」だけであり、この時代『書紀』で「都督」に任命された人物は記されないから、「筑紫大宰(或いは筑紫率)」は存在しても、「都督」はいなかったとします。
しかし、『書紀』にはいませんが、『旧唐書』の記事から、倭国に「都督」が任命されていたことが分かるのです。
3、白村江敗戦と「倭国酋長」の捕囚
天智二年(六六三)八月、倭国は二万七千余の軍を半島に派遣し、百済遺民を助け、唐・新羅の連合軍と白村江(現在の錦江河口付近とされる)で戦いました。そして倭船千艘のうち、四百艘が焼かれ「煙は天を灼やき、海水が真赤になる」大敗北を喫し、倭人は降伏したことが、『旧唐書』や『三国史記』に記されています。
◆『三国史記』龍朔三六六三年倭国の船兵、来りて百済を助く。倭船千艘、停まりて白沙に在る。・・是に、仁師・仁願及び羅王金法敏、陸軍を帥ひきいて進む。・・倭人と白村江に遇う。四戦皆克かち、其の舟四百艘を焚く。煙炎天を灼き、海水丹を為す。・・王子扶余忠勝・忠志等、其の衆を帥い、倭人と与に並び降る。
その敗戦で、「筑紫君薩夜麻」が唐の捕囚となっていたことが、持統四六九〇年記事から分かります。
◆持統四六九〇年十月乙丑二十二日、軍丁筑紫国上陽咩郡の人、大伴部博麻に詔して曰く、天豊財重日足姫天皇斉明の七年六六一、百済を救う役に、汝唐の軍の為に虜にせられたり。天命開別天皇天智三年六六四に洎およびて、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児、四人(略)。
そして、『旧唐書』によると、唐の高宗は麟徳元年(六六四年・天智三年)七月、東夷の平定を記念し、来る乾封元六六五年正月に泰山で「封禅の儀」(注1)を挙げる旨を天下に告げ、諸王は麟徳二六六五年十月に洛陽へ、諸州刺史は同十二月に泰山へ集まる事を命じました。その諸王の中に、白村江で捕虜とした「倭国酋長」がおり、凱旋将軍劉仁軌に従い高宗に謁見したと記し、『冊府元亀』(注2)にも同様の記事があります。
◆『旧唐書』麟徳二六六五年、泰山に封ず。仁軌、新羅及百済・耽羅・倭四国の酋長を領いて赴會するに、高宗甚だ悦び、大司憲を櫂拜す。
◆『冊府元亀』「突厥・于闐うてん・波斯(はしペルシャ)・天竺国・罽賓けいひん・烏萇うじょう・崑崙こんろん・倭国、及び新羅・百済・高麗等の諸蕃酋長、各其の属を率ゐて、扈從こじゅうす。」
『書紀』で、中大兄ほかヤマトの王家の皇族は誰一人白村江に参戦していませんし、捕虜にもなっていません。その点、『書紀』に見える唐の捕虜となった人物で「倭国酋長」に相応しい名を持つのは「筑紫君薩夜麻」しかいません。岩波『書紀』の補注は、「酋長」を「倭国の使人」と読み替えたうえ、「遅れて参加した(使人)らの一行を併記した」としていますが、さすがにこれは「倭国酋長が、封禅の儀で劉仁軌に率いられ参列した」とある『旧唐書』『冊府元亀』を全く無視した話で成立しません(注3)。
そして、「筑紫君」と呼ばれたのは「磐井(『古事記』。『書紀』では国造)と葛子」で、磐井は「筑紫・豊・火」を支配し、高麗・百済・新羅・任那等は毎年磐井に朝貢していたと記しますから、彼は倭の五王を継ぐ倭国(九州王朝)の王(天子)だと考えられます。従って、同じ「筑紫君」とされる薩夜麻も、倭国(九州王朝)の王に相当する人物となるでしょう(注4)。
4、唐の「羈縻きび政策」と薩夜麻の「都督倭王」としての帰国
唐は半島平定後、捕虜とした国王たちを「臣従」させた後、「羈縻きび政策」をとり、何れも唐の官吏である「都督」として帰国させ、そのまま王として国を統治させています。
➀百済平定(六六〇)では、百済義慈王は六六〇年に没し、王子豊璋(生没年不詳)は六六八年まで高句麗に逃れ唐に抵抗していた為、白村江で唐に協力し、また封禅の儀に参加した百済王子扶余隆(六一五~六八二)を、六六四年に「熊津ゆうしん都督」に任命し、百済王とする。
②高句麗平定(六六八)では、高句麗宝蔵王(~六八二)を九年後(六七七)に開府儀同三司・「遼東州都督」任命し、朝鮮王に封じる。
③戦勝国新羅でも、唐は六六三年に鶏林大都督府を設置し、文武王(六二六~六八一)を「鶏林大都督」に任命し、新羅王とする。
こうした例によれば、「倭国酋長」筑紫君薩夜麻も「都督」に任命され、「筑紫都督倭国王」として送り返されることになります。
5、「都督」薩夜麻の帰国は天智六年十一月六六七
『書紀』では、薩夜麻(薩野馬)の帰国は、天智十六七一年十一月とされています。
◆『書紀』天智十六七一年十一月癸卯十日、対馬国司、使を筑紫大宰府に遣して言さく、「月生二日つきたちてふつかにひに、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝すぐり娑婆・布師首磐ぬのしのおびと、四人、唐より来りて曰さく、唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、総合二千人、船四十七隻に乗りて、倶ともに比知島に泊りて、相謂りて曰く、『今吾輩が人船数かず衆おほし。忽然に彼に到れば、恐るらくは彼の防人、驚き駭とよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預め稍やうやくに来朝の意を披陳さしむ』とまうす」とまうす。
しかし、この天智十六七一年記事は次の点で不審です。
①郭務悰ら唐使の来朝は『書紀』で天智十年は六回目で、(三年五月・四年九月・六年十一月・八年是歳・十年正月・十年十一月)対馬も何回も経由している。にもかかわらず大部隊だからといって警告を発するのは不自然。白村江後間もない頃とすれば合理的に理解できる。
②天智十六七一年正月辛亥一三日に、百済の鎮将劉仁願の李守真等派遣記事があるが、劉仁願は三年前の天智七六六八年八月に雲南へ配流されており、この記事は三年以上前に遡上る可能性が高い。
◆『書紀』天智十六七一年春正月(略)辛亥十三日百済の鎮将劉仁願、李守真等を遣して、表ふみ上たてまつる。
③天智十年の、唐の使節の「筑紫大宰府」派遣記事は十一月、天智六六七一年の唐の使節が「筑紫都督府」に送られた記事も同じ十一月。
そして何よりも、「筑紫都督」の役所が「筑紫都督府」ですから、都督薩夜麻の帰国は、唐の使節や境部連石積らを「筑紫都督府に送る」とある天智六年六七一十一月の可能性が高いと考えられます。
しかも天智十六七一年以前に、「倭国王」の唐や新羅への朝貢・祝賀記事が見られます。
④『冊府元龜』の咸亨元六七〇(天智九年・白鳳十年) 年三月記事に、「倭国王遣使賀平高麗」と、倭国王の朝貢記事がある。しかし、『書紀』には記録はなくこれは天智の事績ではない。
⑤『三国史記』新羅本紀・文武王八六六八(天智七年)年条に「八年春、阿麻あま来きたりて服ふくす)」とあり、「阿麻あま」は『隋書』に「俀(倭)王、姓は阿毎、字は多利思北孤」と記すように倭国(九州王朝)の天子の姓。また、六六八年は新羅が唐と共に高句麗を滅ぼした年にあたる。
これらの記事も、「筑紫都督倭王」薩夜麻が六六七年に筑紫に帰国しているなら自然な記事となります。
前号で文献や瓦の編年から、筑紫観世音寺の造営は六七〇年、「大宰府Ⅱ期」の造営は六七〇年代と述べました。そして「都督の政庁」は「都督府」ですから「大宰府Ⅱ期」は「薩夜麻の都督府」だったことになります。古田武彦氏は「壬申の乱を唐の支援を得た天武による九州から近畿にかけての大乱だ」とされましたが(注5)、そうであれば、唐の都督薩夜麻は、六七二年に近江朝を倒したのち、改めて都督府を造営したことになります。現地で「大宰府政庁跡」を「都督府古跡・都府楼」と呼ぶのはこの「都督薩夜麻時代」の名残と言えるでしょう。
6、「唐の都督薩夜麻」と唐の使節と軍の筑紫駐留
『書紀』には、白村江後の九州・筑紫に唐の使節郭務悰と軍が駐留し、壬申の乱直前の天武元六七二年五月には、膨大な武器と資材が提供されたと記します。
◆天武元六七二年三月一八日己酉內小七位阿曇連稲敷いなしきを筑紫に遣し、天皇天智の喪を郭務悰等に告ぐ。五月壬寅一二日に、甲冑・弓矢を以て郭務悰等に賜ふ。是の日に郭務悰等に賜ひし物、總合すべて絁ふとぎぬ一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤なり。
「絁」は太絹の織物「布」は麻織物。匹・端いずれも「むら」と読み、「反」と同じ約一二〇〇㎝×七〇㎝で着物一人分です。武器に加えて絁と布で四千五百二十五反ですから、「多数の唐兵」に下賜されたことになります。主語が無いので誰が郭務悰に渡したのか不明ですが、大友皇子は吉備国守当摩公広嶋・筑紫大宰栗隅王が大海人側に立つのではと疑い、挙兵を強要しますが拒絶され広嶋を殺害、栗隅王も殺害を試みます。大友が、協力を拒否した吉備・筑紫を経由し郭務悰に大量の軍備を提供したというのは疑問です。これは、薩夜麻と九州の諸司が「郭務悰に武器・布を供出した」記事と考えるのが自然です。
7、唐の軍はいつまで駐留したのか
唐の軍が筑紫に駐留している間に、唐羅戦争が勃発しました。唐は白村江後、百済に熊津都督府、高句麗に安東都護府、新羅に鶏林州都督府を置き、半島全体の支配をねらいます。新羅はこれに反発し、高句麗復興軍を支援、六七〇年三月に唐・新羅戦争が勃発します。六七一年七月に、新羅は唐の支配下にあった泗沘城を陥落させ百済地域を占領、十月には唐の水軍を破る勝利を挙げます。
しかし、六七二年・六七三年には唐と靺鞨が連合して新羅を破り、六七四年に唐は文武王の冊封を取り消します。これをうけ、新羅文武王は、六七五年二月に謝罪使を派遣しますが、早くも同年九月には唐と戦端を開き、十一月には唐の水軍も破り、その結果唐は六七七年に半島から撤退します。
半島から撤退すれば、補給路が絶え、我が国での駐留が困難になることは明らかで、遅くとも六七七年ごろまでに唐の軍は筑紫から撤退したと考えられます。
『書紀』に「天武元六七二年五月庚申三十日に、郭務悰ら罷り帰りぬ」とあることから、唐の軍も武器や布を携えて撤退したというのが通説ですが、古田武彦氏は「二千余人」の帰還は書かれておらず、天智の崩御という倭国政治の重大な転換点で引き上げるのは不可解とし、「郭務悰ら罷り帰りぬ」は、唐による天武への(壬申の乱等での)支援がなかったかのようにするため「全員が引き上げた」かに見せる『書紀』の筆法だとされています(注6)。
唐に臣従している間は「独自年号」を用いることはできません。新羅も太和六四七〜六五〇を最後に独自年号を廃止し、以後は唐の年号を用います。九州年号「白鳳 六八一〜六八三」が二十三年間続いたのは、倭王が都督として唐に臣従していたからであり、唐の撤退後、六八四年の「白鳳大地震」をもって、ようやく独自年号「朱雀」に改元できたのだと思われます。
唐が撤退すると都督薩夜麻は「後ろ盾」を無くし、倭国(九州王朝)の力は衰えていくことになります。次回は壬申の乱とそれ以降の、ヤマトの天武と薩夜麻の倭国(九州王朝)を巡る、我が国の政治状況を見ていくこととします。
(注1)封禅の儀は古代中国、天下平定を祝し、天子が泰山で行った天と地(山河)を祀る一大祭祀。
◆『史記正義』泰山の上に土を築き壇とし、以て天を祭り、天の功に報いる。故に封と曰ふ。此泰山の下の小山の上を除き地の功に報いる。故に禪と曰ふ。
秦の始皇帝も始皇二十八BC二一九年、漢の武帝も元封元BC一一〇年、光武帝は建武三十二AD五六年に盛大な儀を催している。
なお、「倭奴国王」は紀元五十七年朝賀(元日に拝謁)し、光武帝から金印を下賜されているから、九州の倭人が封禅の儀に伺候していたことが分かる。
(注2)北宋時代の一〇〇五~一〇一三年ごろに編纂された史書。唐・五代の歴史に詳しい。
(注3)『書紀』では、天智四六六五年九月に唐から劉徳高・郭務悰らが来朝し十二月に帰国。そして「是年」に小錦守君大石等が唐に派遣されたと記す。
◆『書紀』天智四六六五年九月壬辰二十二日、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。等とは右戎衛郎将上柱国百済祢軍・朝散大夫柱国郭務悰を謂ふ。・・(十二月)是月、劉徳高等罷り帰りぬ。是歳、小錦守君大石等を大唐に遣すと、云々。・・・蓋し唐の使人を送るか。
しかし、高宗の封禅の儀の布告は六六四年七月。「倭国酋長」が参加するから、劉徳高らの来朝も「倭国への布告」の為と考えられる。守君大石らが劉徳高らの「送使」であれば、六六五年十二月の派遣では六六六年正月の封禅の儀に間に合わない。従って、守君大石等の派遣は「天智四年」でなく「白鳳四六六四年」のこととなろう。ただし、「小錦」は高位ではあっても『旧唐書』に言う「酋長」と言えないことは明らかだ。
(注4)古田氏は『古田武彦と百問百答』(ミネルヴァ書房二〇一五年)で次のように述べている。
◆「天智十年十一月には、注目すべき人物が返されています。『筑紫君薩夜麻』です。これは、九州王朝の天子であり、白鳳元年(白村江戦の直前)に、天子だった人物です。(記紀関係・問三十三)」なお、古田氏は晩年に薩夜麻は摂政だったのではないかとしている。
(注5)『壬申大乱』(ミネルヴァ書房・二〇一二年八月)「壬申の乱」の本質については別途述べる。
(注6)古田氏は唐の軍は「元正天皇の頃」まで駐留していたのではないか(『古田武彦と百問百答』前出)とするが、半島全体が新羅支配下に置かれると事実上駐留は不可能になるので、筑紫からの撤退はやはり六七七年頃までとなろう。
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