菩薩天子と言うイデオロギー 日野智貴 (会報174号)
『日本書紀』の対呉関係記事 日野智貴(会報176号)
上代倭国の名字について
たつの市 日野智貴
はじめに
古田武彦(敬称略、以下同)が『魏志』「倭人伝」における倭国の高官である都市牛利の「都市」を「姓」であるとする仮説を提唱した ① ことについて、管見の及ぶ限りでは古田学派内部での議論が残念ながらあまり活発ではない様に思われる。古谷弘美より「都市」を職掌名とする論稿 ② が発表されてはいるが、古田説との関連は論文中明記されていない。
中でも私が重視するのは、古田説の内容が「都市」をいわゆる「本姓」ではなく「名字」とするものである、と言う点である。この点は従来あまり関心を払われていなかったが、通説と大きく異なる古田の認識を示すものであり、古田学派内部で議論することが古田の学恩に応えることになるのではないか。
本稿は古田説の当否について何ら結論を出すものではないが、古田説の重要なポイントである「上代名字の存在」について議論を喚起することを目的とする。
古田武彦の「姓」観
古田武彦が「姓」と言う言葉を用いる際、それには二つの意味がある。例えば、古田は「源」と「徳川」の双方を家康の「姓」とした上で、これを区別している。③
つまり、古田は「源」と「徳川」という二種類の異なる概念の名前について、その双方を「姓」と表現しているのである。だが、それだと議論が煩雑になるので本稿においては前者を「本姓」とし、後者を「名字」として区別することとする。
古田は「『古事記』と『魏志倭人伝』の史料批判」において難升米の「難」を本姓の意味で「姓」であるとする一方、これとは別種の意味での「姓」として都市牛利の「都市」を挙げた。
たとえば「豆腐屋の甚兵衛」さんを呼ぶときがあるとします。一回目に言うときは「豆腐屋の甚兵衛」と職能付きで名前を呼ぶが、二回目・三回目は「豆腐屋」は付けない。二回目からは「甚兵衛」さんで良い。これと同じく「都市牛利」の「都市」は三世紀では姓ではない。現在は姓ですか。では何か。三世紀の世界では、「豆腐屋」さんと同じく職能としての「都市」です。(古田、二〇一一)
ここで「都市」は「三世紀では姓ではない」が「現在は姓」である概念として扱われている。言うまでもなく「現在」一般に「姓」と呼ばれているのは「名字」のことである。
しかしながら、揚げ足を取る訳では無いが、より厳格に言うと「現在」の法制上「姓」は存在しない。現行法では「姓」とは「本姓」のことであって「名字」は「氏」として扱われる。そして「姓」の方は「姓尸不称令」により廃止したものとして扱われている。公文書の届け出や戸籍にも「氏名」欄はあっても「姓名」欄は無い。
ただ、重要なことは今の通説においてそもそも「名字」とは「三世紀では姓ではない」というレベルではなく「三世紀には存在しない」、否、「平安時代後期以降に登場した」というものである、ということである。
皇室の「姓」についての古田説
上代において名字が存在するという命題は、一見すると古田の晩年の仮説のようにも思えるが、古田の著作を精査すると古田は従前から明記はしていないものの同様の仮説を抱いていた可能性がある。
古田は神武天皇の父親である「鵜葺草葺不合」の「鵜葺草葺」の部分を「姓」であるとする仮説を提唱していた④。私はこれを漠然と「本姓」の意味で用いているのだと考えていたが、改めて読み直すとそうでは無い可能性がある。
というのも、古田は「鵜葺草葺」を「姓」だと述べる際、同時に「天」も「天皇家」の姓であると指摘しているからである。
「天皇家に姓はない」ということを、わたしはこれまで何回も聞いたことがあります。もっとも文献にそういうことを書いたものはないのですが。それで天皇家というのは、大したものだと思っていたのですが、しかし考えてみるとこれはおかしい。たとえばのちの『隋書』俀国伝の「日出ずる処の天子」の条に、「天」(阿毎)と姓が出てくるし、しかも不思議なことに『記』『紀』の神話世界でも天照はじめ天という姓がたくさんある。それが神武以降になると天がなくなってしまうのです。(古田、一九八七)
今改めてこれを読み返して、私がこの文章を最初に読んだときに(当時は小学五年生であったが)漠然と「矛盾している」と感じたのを思い出した。
この文章をそのまま読むと、神武以前(当然、鵜葺草葺不合命も含まれる)の「天皇家」の「姓」は「天」であるように解釈できる。従って、「鵜葺草葺」を「姓」だとすると「天」とは一体何だったのか、「姓」ではなかったのか、と言う話になってしまう。
なお、これとは別種の疑問を当時から(これは今「思い出した」のではなく、今までずっと)抱いていた。それは「天」を姓としていることについて、実際には邇邇芸命から鵜葺草葺不合命までの名前の「天」は「天津日高日子」という称号の一部であるから、「姓」とすべきはむしろ「天津日高日子」の方ではないか、というものである。しかし古田は「天津日高日子」を「姓」とは言及していない。
「鞍作」は「本姓」であるのか
話を戻すと、鵜葺草葺不合命の姓は「天」なのか「鵜葺草葺」なのか、古田説は一見矛盾しているように感じる。だが古田は徳川家康の例でも「徳川」(名字)と「源」(本姓)の双方を姓としており、二つの異なる概念の双方を「姓」と呼ぶことがある。従って、古田は「天」と「鵜葺草葺」の双方を「姓」としているが、それらを「別種の概念」としていた可能性もあるのである(「難」と「都市」のように)。
そこで古田は「鵜葺草葺」を「名字」と解釈したのではないか、と考えてみた。しかし、次の文章を見ると古田は「鵜葺草葺」を「本姓」としているようにしか見えなかった。
神聖な家屋や首長クラスの住んでいる家屋などの「かや」を鵜鶿草と呼び、そういう鵜葺草を葺くのに、一つの専門家として「鵜葺草葺」という職掌が成立していた。姓の例は、この段階ではなかなかわからないのですが、ずっと後の『記』『紀』その他でみると、たとえば鞍作止利が挙げられます。彼は有名な仏師で、この場合も鞍作が姓で、止利が名であったとみられます。そしてこの姓は、鞍部というものに属していたのでしょう。(略)これは、職掌が姓になっている典型的な例です。(古田、一九八七)
ここで「鞍作」を本姓であるとすると、「鵜葺草葺」も本姓と言う意味の姓であると古田は考えていることになり、それは神武以前の「天皇家」の「天」を姓とする古田自身の仮説と矛盾する。
しかし、流石に同一の書籍のそれも同一文脈の中で古田が同一人物の姓について矛盾したことを述べているとは考えにくい。そこで「鞍作」を本姓と解釈したのはあくまでも私の判断であり、古田は異なる解釈をしていた可能性がある、と考えてみた。
注目すべきは「鞍作が姓で、止利が名であったとみられます」と言う表記だ。
私は鞍作が姓であることを「自明の理」としていたが、古田のこの表現では鞍作が姓であることは必ずしも自明では無いと解釈できる。そこで当時の文献を見て「鞍作」という姓が存在するのかを確認してみた。
結果、『新撰姓氏録』にも『続日本紀』以降の正史にも、また同時代史料たる木簡においても、鞍作を姓として用いていた例は皆無であった。但し、『続日本紀』には按作磨心という者が雑戸から解放されて柏原村主の姓を下賜された記録があり、太田亮によると按作と鞍作は同じ姓である。⑤
なお、奈良文化財研究所が「鞍作」をウェブページ「木簡庫」において「雑戸姓」と表現していた⑥。この「雑戸姓」なる聞き慣れない用語について念の為に国立情報学研究所の論文検索サイト「CiNii Research」で検索してみたが〇件のヒットであり、やはり学術論文でこの単語を用いているものは無いようである。つまり「雑戸姓」というのは学術用語ではなく、便宜上の表記なのであろう。
雑戸とは公民権を有しない良民であり、公民権を有する百姓とは区別される。「百姓」と言う言葉の意味からすると、律令においては百姓身分の者には姓を保証していたが百姓身分を有しない雑戸には姓を保証していない、とも解釈できる。『類聚三代格』を見ると管見の限りにおいて雑戸(雑色人)の名前に「姓」という表記を用いている例は見られなかった。一方、『続日本紀』では雑戸の名前にも「姓」の表記が用いられているが、これらは全て百姓身分の姓を天皇より下賜される場合の記事であるから、雑戸の姓は百姓の姓と明確に区別されているようであり、本姓と同じ性格であるか否かは必ずしも明確ではない。そこで「雑戸姓」という表記が用いられたものと推察される。
以上をまとめると、次のようになる。第一に、古田が鞍作を「姓」と言った場合にそれが本姓を意味しているのかは必ずしも明確ではない、ということ。第二に、鞍作がそもそも「本姓」に該当するかも疑問の余地がある、ということ。従って、古田が鵜葺草葺を姓とする仮説を発表した際、本姓を念頭に置いていたかは議論の余地がある。
「皆姓時代」は奈良時代後期以降の現象
いわゆる「雑戸姓」と本姓の関係は不明瞭であるが、確実なことは鞍作が後世において本姓として扱われたことはない、と言う事実である。
天平十六年(西暦七四四年)に聖武天皇の勅令により雑戸の解放が行われ、雑戸は全員が百姓身分と同じ姓を新たに与えられた。この時点で「鞍作」というものが姓として扱われる余地は無くなったのである。
さらに天平宝字元年(西暦七五七年)に孝謙天皇の勅令により「その戸籍に無姓及び族字を記すは理に穏やかならず。宜しく改正すべし。」とされ、全ての百姓身分に対して本姓が授けられた。なお、ここでは無姓と並んで古代の戸籍に頻出する「○○族」という姓も問題視されているが、「○○部」という姓は特に問題とされていない。部民を律令国家以前の隷属民とする解釈への疑問は過去に例会で述べたが⑦、部姓が族姓とは異なり「改正」の対象となっていないことはそれを裏付けるものと言える。
もっとも、族姓の人間の方が部姓の者よりも社会的地位は高かったという研究も存在はする。前之園亮一は族姓者とカバネ姓者の通婚や「美濃国戸籍」において位階を有する者が部姓の者よりも多いこと等を根拠に「伝統的に族民が豪族の軍事的同族であったが故に、部姓・人姓者より優遇」されたという仮説を提唱している⑧。
ただ、族姓の性格が如何なるものであれ、それは天平宝字元年に「不穏」なものであるとされて改められる対象であった。つまり、天平宝字元年以降は百姓身分にとって「穏当」であると朝廷に判断された姓を全ての公民が名乗ったのであり、既に百姓身分に編集されていた元雑戸たちもそうした姓を名乗ることになったのである。以後、形式的には明治四年(西暦一八七一年)の「姓尸不称令」まで天平宝字元年以来の姓を百姓身分の者は名乗っていたのであり、それが本姓と現在呼ばれているものである。
現在の「鞍作」の名字
従って、鞍作は少なくとも天平宝字元年以降においては本姓では無いのであるが、現在大阪府に鞍作の名字を持つものが知られている⑨。
これについては、次の二つの可能性が考えられる。
第一に、過去の「鞍作」とは無関係に誕生した名字であるというものである。
第二に、天平宝字元年以降「本姓」としては「不穏」であると判断された「鞍作」を、名字として継承してきたというものである。
第二の可能性は名字の起源を奈良時代以前に遡るものであり、容易にこの仮説を証明することは出来ない。しかしながら、この可能性を完全に排除するのもまた、学問的な態度とは言えない。
学問における仮説とは、検証可能性のあるものを指す。鞍作の名字がどこまで遡るかの検証を後世に委ねることこそ、学問的な態度であると言える。
過去の本姓を名字とした例
本稿の主題は「都市」等が上代倭国に起源する名字であるとする古田説の検証であるが、冒頭で「議論を喚起」と言う表現に留めたのは、都市という名字について私の調査力不足によりその起源を十分に明かすことが出来なかったからである。唯一、宮本洋一が平戸藩士に「都市」と言う名字の者がいたと主張しているが⑩、その典拠を明らかにすることは出来なかった。
太田亮の『姓氏家系大辞典』にも「都市」と言う名字は収録されていない。しかしながら、この議論についての「補助線」ともなり得る思わぬ収穫があった。
太田は『姓氏家系大辞典』の「十市」の項目において、『国民郷土記』(「和州国民郷土記」のことか)からの引用として、次の話を引いている。
十市家。中原氏、安寧の皇子磯城津彦の孫、十市宿禰に中原の姓を賜ふ。馬上六十七騎、雑兵六百七十人、十市村に住す。
ここでは、十市家は中原氏であると記されている。名字は「家の名」であり、本姓は「氏の名」であることから、名字が十市で本姓が中原だということである。
引用文では中原氏の説明をあまりにも簡略にしているが、中原氏は十市氏の末裔である。従って、この史料から判ることは「本姓中原」の人間が「祖先の本姓」である十市を名字とした、ということである。
なお、太田は藤原氏や源氏の十市家についても収録しているが、九州の「都市」家とつながりのあるものは見つからなかった。
従って、上代において本姓では無かった名前が現在名字として使用されているという古田説を裏付ける史料は発見できなかったものの、過去の本姓を名字として使用する例が発見できたことは、本姓と名字の関係を考察する上で重要な視点であると考える。例えば、鞍作の名字についても参考になるであろう⑪。
まとめ
私の調査力不足もあり、本稿においては古田説の当否について何ら結論を出せなかった。なお、正木裕よりで都市は名字ではなく難升米の難と同様本姓と解釈しても問題ないのではないか、冨川ケイ子より難升米は三文字とも下の名前であって「難」を姓と解釈するのは根拠に乏しいのではないか、という指摘を口頭でいただいた。これらの可能性も今後検討していきたいと考える。
しかしながら、本稿において明らかになった次の点は、今後議論を進めていく上で大いに参考になると考える。
第一に、古田武彦の西暦三世紀の時点で名字があったという説は、断定はできないものの一九八七年の時点で既に古田の脳裏にあった可能性があること。「天」と「鵜葺草葺」という「二つの姓」を古田が鸕鶿草葺不合命の姓として想定したことの是非については、改めて議論される必要を感じる。
第二に、「鞍作」を始め我々が漠然と本姓と見做してきた名前が本姓であることは、必ずしも自明では無いこと。従って、上代に名字の起源が遡る可能性は、一概に否定できないと言える。
第三に、本稿の主題に直接の影響は無いものの、過去の本姓を名字とする家が存在したこと。当然のことながら、過去の「本姓以外の名前」を名字として採用する家があったとしてもおかしくないのではあるまいか。
以上の三点を踏まえ、今後古田学派内部での名字の起源についての議論を深めていくことが出来れば幸いである。
① 古田武彦(二〇一一)「『古事記』と『魏志倭人伝』の史料批判」『古代に真実を求めて』第一四集
② 古谷弘美(二〇一八)「長沙走馬楼呉簡の研究」会報一四七号
⑤ 太田亮(一九三四)『姓氏家系大辞典 第二巻』姓氏家系大辞典刊行会
⑥ 奈良文化財研究所「木簡番号 83」(木簡庫、二〇二三年一月一二日閲覧)
⑦ 発表の様子は竹村順弘氏より「「部民制」はあったのか@日野智貴@20210717@古田史学の会7月例会@福島区民センター@29:01@DSCN9830」https://www.youtube.com/watch?v=-XeH-E9TtHoとして公開されている。
⑧ 前之園亮一(一九七三)「日本古代における族民の性質とその起源」『研究年報』(学習院大学文学部)第一九号
⑨宮本洋一「鞍作」(日本姓氏語源辞典、二〇二三年一月一三日閲覧)
⑩ 宮本洋一「都市」(日本姓氏語源辞典、二〇二三年一月一三日閲覧)
⑪ 「柿本家系図」においても参考になる可能性がある。また「筑紫」の名字(本姓は源氏)についても同様の可能性が検討され得る。
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