「弓削氏と筑紫朝廷」 日野智貴(会報173号)
上代倭国の名字について 日野智貴(会報175号)
菩薩天子と言うイデオロギー
たつの市 日野智貴
はじめに
多利思北孤が天子であった時代の倭国では「法皇」や「菩薩天子」と言った用語が使用されていた。本稿ではそうした用語を倭国が用いる背景となったイデオロギー①について考察する。
十七条憲法について
多利思北孤時代の倭国のイデオロギーについて、十七条憲法を参考資料とする考えもあるようであるが、私は十七条憲法については、今回は横において議論を進める。その理由は大きく二つある。
第一に、私は十七条憲法を倭国の天子が公布したという仮説は、根拠が薄弱でありそれを前提として議論することには疑問がある。
若干の根拠を述べると、十七条憲法では「承詔必謹みことのりをうけたまりてはかならずつつしめ」(第三条)や「仁めぐみ」(第六条)よりも先の、第二条において「篤あつく三寶さんぽうを敬ゐやまへ。三寶とは佛ほとけ・法のり・僧ほうしなり。則ち四生よつのうまれの終帰をはりのよりどころ、萬よろづ國の極宗きわめのむねなり。何れの世、何れの人かこの法みのりを貴たふとばざる。尤はなはだ悪あしきもの鮮すくなし。能よく教ふるをもて従う。其れ三寶に歸よりまつらずば、何をもてか枉まがれるを直たださん。」とある。天皇を重んじる思想や儒教で重視される「仁」よりも、仏教が先に来ているのである。
内容についても「三寶に歸りまつらずば、何をもってか枉れるを直さん」という表現は、第三条の「(詔を)謹つつしまずは自づから敗れなむ」という表現よりも、強い語調である。詔を守らない場合は「敗れる」ことになるが、三宝に帰依しなければどんなことも「直らない」という、より怖ろしいことが待っているのである。これでは天皇よりも仏教を上においている条文と解釈できる。
実際、私だけでなく過去においてもこの条文は天皇を仏教の劣後に置くものと解釈された。そのため、江戸時代の勤皇思想家が重視した『先代旧事本紀大成経』では十七条憲法の第二条を移動して末尾の第十七条とし、内容も「三宝」では無く「三法」を敬うものへと改変されている。つまり、十七条憲法は後世の人物から「仏教を天皇よりも重視する思想であれたものだったのであり、そのようなものを倭国の天子が公布したとする仮説に私は疑問を抱く。
つまり、十七条憲法を公布した人物は天子ではない、と考える。
第二に、仮に倭国の天子が公布した文書からの盗用であるとしても、その年代が多利思北孤の時代であるという保証はない。
『日本書紀』において九州王朝の史書からの盗用とされるものの多くは年代が改変されている。『日本書紀』では十七条憲法は甲子の年に制定されたことになっているが、「甲子革令」の思想によって年代を改変された上で盗用された可能性もあるのである。なお、九州年号は甲子の年には改元されていない。
「法王」と「法皇」の意味
多利思北孤の称号である「法皇」(法隆寺釈迦三尊像光背銘)の意味であるが、まずこの称号は「法王」とは「法皇」とは異なる意味であると考えられる。何故ならば、大和朝廷の時代に編纂された『上宮聖徳法王帝説』では「上宮法皇」を「上宮法王」と改竄の上、法隆寺釈迦三尊像光背銘が引用されているからである。実物を目の前にして何の意味もなく文字を改竄するはずがなく、これは「法皇」の称号が大和朝廷にとって不都合であったことを示唆する。
仏典では法王は「菩薩」の意味で用いられている②。ここで多利思北孤が「法皇」と名乗った意図は、単なる「菩薩」ではなく「天子(皇帝)」であることを強調したものと思われる。つまり「法皇」とは「菩薩天子」の意味である③。
なお、多利思北孤は隋の皇帝を「海西の菩薩天子」と呼んでいるから、ここで言う「菩薩天子」は「出家した(僧籍を持つ)天子」のことでは無い。「菩薩戒を受戒した天子」のことである④。
本会において先行研究がある通り、煬帝は皇太子時代の開皇十一年(五九一)に智顗から「菩薩戒」を授かって「総持」という「法号」を与えられている⑤。なお、「海西の菩薩天子」については煬帝説が有力ではあるが、文帝を指すという学説も今なお存在する⑥。無論、文帝も菩薩戒を受戒している。
煬帝は皇太子時代に菩薩戒を受戒しているから受戒は個人的な趣味乃至信仰と言えるかもしれないが、文帝は即位後の受戒であり政治的な意図があると考えるのが妥当である。無論、煬帝についても全く非政治的に菩薩戒を受戒したとは考えにくい。
当時の中国仏教では、僧侶が天子を拝するべきかと言う議論があった。隋の前の王朝である北魏では僧官の法果が「太租は明叡にして道を好む。即ちこれ嘗今の如来なり。沙門は宜しく応に禮を尽くすべし」と述べ、皇帝と如来を一体化させるロジックにより僧侶による天子礼拝が行われた。しかし、これは言うまでも無く苦しい解釈であり、法果はこの礼拝について他人に「われは天子を拝するにあらず、乃わち是れ佛に禮するのみ」とも述べていた⑦。つまり、教義上は僧侶による皇帝礼拝が非であるというのが、当時の中国仏教の見解であったのである。
だが、これを言い換えると天子が僧侶から礼拝されるためには、自分を如来に近い存在であると認識させれば良いのである。無論、天子を既に解脱している如来扱いさせることは困難であるが、大乗仏教において如来の前段階である菩薩であれば在家の人間でも名乗ることが出来る。文帝や煬帝が菩薩戒を受戒したことにはそのような背景もあるのではないか。
少なくとも、煬帝は僧侶に自身を礼拝させようとしていた。彼は『大業律令』において僧侶に自分を礼拝するように命じた⑧。この動きは僧伽(サンガ、僧侶の自治組織)の反対運動により挫折するものの、「菩薩戒を受戒した天子」が僧侶に自身への礼拝を求めていたという事実は「法皇」「菩薩天子」という称号に込められたニュアンスを示唆している。
倭国による「天子」の正統性
隋の皇帝が菩薩戒を受戒した時代には、僧伽と天子の関係を巡る北魏以来の政治的課題があった訳であるが、同じ頃の倭国でも天子の正統性を巡る政治的課題があった。
というのも、中国では天子とは天命を受けた王者であるが、それを納得させるためには「血統」だけでは困難である。無論、北魏の皇帝は異民族であるにも拘らず黄帝の子孫を称していたし、隋の皇帝も後漢の宰相である煬震の子孫を名乗っており、一応煬氏も晋の公子の子孫であるとされているから⑨晋公も黄帝の曾孫である帝嚳の子孫であるため、北魏や隋の皇帝も血統を正統性の根拠の一つにはしていたであろう。
しかし、北魏も隋も血統だけで天子を名乗っていた訳ではなく、天命を受けていることを明確にするため様々な主張を行った。隋の場合は北周から禅譲を受け、その北周も北魏から禅譲を受けている。北魏については漢の正統性が三国魏と拓跋氏の双方に引き継がれたとする思想があったという佐藤賢氏の仮説が近年は有力なようである⑩。
現在の我が国では、天皇は神々の子孫であることを正当性の根拠としたと漠然と思われているようであるが、それは『國體の本義』の影響であろう。実際には古代においては数多くの(庶民階級も含む)多くの氏族が「皇別」や「神別」として神々の子孫を名乗っていたのであり、「天皇=神裔」と言う神話が古代において天皇による統治の正統性の根拠に用いられていたという根拠はない⑪。
むしろ倭王が天子を称する過程では、各氏族の祖先である神々の上に立つ必要性がある。その為に倭国の天子は天部(神々)よりも如来や菩薩を上位に置く仏教思想を利用したのではないだろうか?
大和朝廷における例
この問題において、大和朝廷における例を見てみる。
大和朝廷が天皇を神々の上に位置付けていたことは、神々に対して臣下と同じ位階を授与していたことでも明白である。しかし、天皇を神々の上に位置付けることは、記紀神話の内容が根拠になるとは言えない。
『古事記』では仲哀天皇は住吉大神によって殺されているし、『古事記』『日本書紀』に共通して雄略天皇が一言主神を自身と対等な存在と認めた説話が載っている。このように神話には天皇を絶対化する機能は乏しく、それどころか臣下が神話を根拠に天皇の権威を軽視する作用まであった。
その著名な例が、藤原道長による「一帝二后」の樹立である。一人の天皇に藤原氏から複数の皇后を出すと言う支離滅裂な主張を、藤原道長は当時の皇后の藤原定子が出家したため藤原氏の祭祀を行っていないことを批判し「我が朝は神国なり、神事を以って先と為すべし」というロジックで一帝二后を正当化した。皇室に嫁いでも藤原氏の祭祀を優先するべきであるという主張の根拠として「神国」思想が用いられているのである。
逆に、大和朝廷において仏教は天皇絶対化に大きく寄与している。僧侶の景戒が仏教の優位性を主張するために編纂した『日本霊異記』の第一話が「雷いかづちを捉とらへし縁」であり、そこでは雄略天皇の臣下の栖軽すがるが「雷神なるかみと雖いへども、何の故にか天皇すめらみことの請うけを聞かざらむ」と述べている。ここでは雄略天皇は明確に神々の上に立つ存在であり、『古事記』『日本書紀』を超える天皇神格化を大和朝廷の僧侶が行っていたのである。
より倭国の時代に近く本稿のテーマにも沿う例で言うと、奈良時代に称徳天皇は藤原仲麻呂の反乱を平定した直後の宣命で「王位に坐す時は菩薩の浄戒を受けよ」と述べ、また翌年の宣命では「朕は仏の御弟子として菩薩の戒を受賜うてあり。これによりて上つ方は三宝に供奉り、次には天社国社の神等をもいやびまつり」と述べて、菩薩戒を受戒したことを自身の正統性強化に利用すると同時に、神々は三宝(仏教)の「次」であると明確に位置付けている。
菩薩天子と倭国の僧伽
倭国の天子も同時代の隋の皇帝や後世の称徳天皇と同様、菩薩天子であることを統治の正統性に利用したであろうことは、「法皇」の称号からも判る。
特に多利思北孤の時代においては、同時代の「菩薩天子」たる文帝や煬帝と似た思想のものと考えなければならない。多利思北孤による遣隋使派遣に隋や北朝の仏教を学ぶ目的もあったことは疑いようがなく、皇帝と如来を同一視する思想や菩薩天子が僧侶からの礼拝を受けようとしていた事実に多利思北孤が関心を抱かなかったはずがない。
実際隋の文帝や唐の高宗、周の武則天が推進した「一州一寺制」は聖武天皇の国分寺へ影響を与えていることが指摘されているが⑫、九州王朝が国分寺を建立していたという古賀達也氏や正木裕氏、肥沼孝治氏らに作業仮説が正しければ、多利思北孤は「菩薩天子」である文帝の政策を現に模倣していたことになる。
言うまでも無く、そうした菩薩天子のイデオロギーは倭国の僧伽が支えることとなる。
過去に拙稿で述べたように、観世音寺で「三師七証の授戒」を行っていた可能性が高い時期である「白鳳以来、朱雀以前」に受戒したと僧綱の記録にはあるのだが、実際には(出家したら抜かれるはずの)戸籍(官籍)に名前が載っており矛盾している、という問い合わせが『続日本紀』神亀元年十月丁亥朔条に記されている⑬。
このことから判るのは「白鳳以来、朱雀以前」に受戒した僧侶の存在が大和朝廷にとって都合が悪かった、と言う事実である。そのことは、倭国の仏教が天子絶対化に利用されていたとすれば理解しやすいであろう。つまり「菩薩天子」を絶対視するイデオロギーはこの時代まで存続していた可能性が高いということである。
観世音寺は白鳳期の創建であるから、白村江の戦いで倭国が敗戦した後の造営である。薩夜麻による「最後の抵抗」であったのかもしれないが、大和朝廷は逆に菩薩天子イデオロギーを掲げながら敗戦した薩夜麻を「反面教師」として、「勝者」たる当時の唐の「道先仏後」政策を模倣した僧尼令を制定した。そして鑑真が来日するまで「三師七証」の受戒も途絶えることとなる⑭。
まとめ
天子を絶対化する思想は、倭国の天子が「神裔」であるというだけでは困難であった。そこで倭国の天子は、天子を如来として礼拝させた北魏や菩薩天子が僧侶に礼拝を要求していた隋を見倣い、自身も菩薩戒を受戒し「神々の上」に立とうとした。
隋は亡び、その後「道先仏後」の方針を示した唐に白村江の戦いで倭国は敗れたが、観世音寺を建立するなど仏教治国の方針に変化は無かった。しかし、大和朝廷はこうした倭国の思想を否定し、唐の道僧格をモデルとした僧尼令を制定、記紀神話では天皇は神々と同列か下位に位置する存在となった。そのため後世の藤原氏のように「神国」思想を逆手にとって権勢を増す氏族も登場した。
このように本稿では倭国と隋・北朝の共通点と大和朝廷との相違点に注目した。
だが、清和天皇以降多くの天皇が菩薩戒を受戒したことや本稿でも触れたように『日本霊異記』が天皇を神々の上に位置付けたこと、さらに後世天皇を「十善の君」と位置付ける思想や天皇を大日如来の身体とする考え⑮等、記紀神話とは別の次元で大乗仏教の思想が天皇絶対化に利用されたことも事実である。周知の通り近代の右翼団体もその多くが日蓮主義の影響を受けているが、それもこうした思想の延長線上に位置付けることが可能かもしれない。
もっとも、そのことと本稿の内容は矛盾しない。本稿の中でも示唆した通り、仏教による天皇絶対化の嚆矢となったのは称徳天皇であるが、称徳天皇はまさに上宮法皇ら倭国のイデオロギーを模範としたと思われるからである。その一つの傍証を挙げると、称徳天皇の重宝した道鏡の出身である弓削氏は九州王朝の大臣を輩出していた氏族であると考えられる⑯。
注
①令和四年一二月の例会において参加者より「イデオロギーと言う言葉には否定的なニュアンスがある」とのご指摘をいただいた。おっしゃる通りであるが、私は本稿においてまさに「否定的」なニュアンスを込めてこの用語を使用している。辞書ではイデオロギーは「一般には、思想の体系・傾向、物の考え方や、教条主義的政治思想、保守的政治思想の意味で用いられる場合もあるが、唯物論の立場からは、観念論を批判する際に、科学的理論と対立する虚偽意識という意味でイデオロギーということばが使用される」(日本大百科全書)とされるが、唯物論の是非は置いておいて(私は唯物論者ではないし本稿も唯物史観を前提とはしない)、「科学的理論」と対立する政治的観念としてこの用語を用いている。
②勝浦令子(一九九七年)「称徳天皇の「仏教と王権」」『史学雑誌』一〇六・四
③拙稿(二〇二一年)「九州王朝の「法皇」と「天皇」」会報一六三号
④拙稿(二〇二一年)「九州王朝の僧伽と戒律」一六五号
⑤正木裕(二〇二〇年)「「高良大菩薩」から「菩薩天子多利思北孤」へ」会報一六二号
⑥礪波護(二〇〇五年)「天寿国と重興仏法の菩薩天子と」『大谷学法』八三・二
⑦礪波護(一九八一年)「唐代における僧尼拜君親の斷行と撤回」『東洋史研究』四〇・二
⑨竹田龍兒(一九五八年)「門閥としての弘農楊氏についての一考察」『史学』三一
⑪拙稿(二〇二一年)「「神裔」とは全ての衆生のことである――『國體の本義』を読んでも絶対に判らない天皇陛下を尊ぶべき本当の理由」note
⑫肥田路美(二〇〇九年)「隋・唐前期の一州一寺制と造像」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』五五
⑬前掲注④拙稿参照。「九州王朝の僧伽と戒律」一六五号
⑭前掲注④拙稿参照。「九州王朝の僧伽と戒律」一六五号
⑮松本郁代(二〇一二年)「中世における天皇の身体と即位灌頂」『日本思想史学』四四
⑯拙稿(二〇二二年)「弓削氏と筑紫朝廷」一七三号
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