「倭日子」「倭比売」と言う称号 日野智貴(会報169号)
菩薩天子と言うイデオロギー 日野智貴(会報174号)
弓削氏と筑紫朝廷
たつの市 日野智貴
はじめに
『続日本紀』によると「法王」であった道鏡の俗姓は弓削氏でその本貫は河内であったという。一般に道鏡は宇佐八幡宮神託事件と称徳天皇崩御により失脚したとされるが、道鏡は称徳天皇の死後も刑事罰をうけてはおらず、薬師寺別当と言うある程度の待遇を保証されて左遷されただけであるので、実際に道鏡による皇位簒奪未遂があったかは疑問符がつく。
しかしながら、弓削氏が権勢を誇ったのは事実であって、道鏡左遷後も『新撰姓氏録』には弓削宿祢の存在が記されており、正史にも弓削氏の官人のいた記録が残っているから、弓削氏は平安時代前期までは確実に存在していたのである。また、江戸時代初期の大名である平岩親吉も弓削を本姓としていた。仮にそれが仮冒であるとしても、仮冒し得るだけの権威が近世になってもなお弓削氏に存在していたことの証左となる。
そのような古代から近世に至るまで一定の影響力を持った弓削氏の起源について考察する。
物部氏の祖先
弓削氏は一般に物部氏の系統であるとされている。その理解に大筋で問題は無いにしても、そもそも「物部氏」とは何か、ということはこれまで一元史観の論者でも様々な議論があったところであり、多元史観においては倭の五王の子孫である可能性のある高良大社の社家が本姓を物部氏としていることからも、物部氏の解明は避けて通れない。ここでは弓削氏を中心に物部氏系全体の系統について考察したい。
一般に物部氏の祖先は「高天原から河内に降臨した」という伝承が『古事記』や『日本書紀』、『先代旧事本紀』にも記されている饒速日命であるとされる。この理解に従うと物部氏は河内を発祥とする氏族と言うことになる。
しかしながら、『古事記』や『日本書紀』には饒速日命の祖先は記されておらず、『先代旧事本紀』では饒速日命は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊と記されて、『古事記』における火明命(瓊瓊杵尊の兄)と同一視されている。そうであるならば神武東征期の饒速日命と世代が合わない。仮に神武東征説話における饒速日命の話を造作乃至盗用と切り捨てたところで、『新撰姓氏録』には崇神天皇時代の人物である伊香色雄命(伊香我色雄命)を一貫して饒速日命の六世孫としており(一例だけ五世孫)、饒速日命が瓊瓊杵尊の兄であれば『古事記』『日本書紀』だけでなく『新撰姓氏録』にある系譜も全て造作としなければ世代数が合わないことになるが、そのようなことは凡そ考えにくいものである。
『新撰姓氏録』でほぼ例外なく伊香色雄命を六世孫としていることに注目し、神武天皇の時代から崇神天皇の時代までが四、五世代である系譜はほかにも多いことからこれを「標準世代」としたのは宝賀寿男であるがⅰ、少なくとも物部氏に関しては無視できない仮説であろう。
「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」という長い名称で考えられるのは、瓊瓊杵尊から鸕鶿草葺不合尊までの間で世襲されてきた「天津日高日子」という名前である。「火明」「櫛玉」「饒速日」のいずれかも世襲の称号であった可能性がある。しかしながら、この中で「火明」に関しては筑紫朝廷や大和朝廷の支配が確立した後にその系譜に繋げるための仮冒である可能性が捨てきれない。従って「火明」についてはひとまず保留とすると、櫛玉と饒速日とが残ることとなる。
櫛玉命は『新撰姓氏録』では白堤首と小山連の祖と記されており、小山連の項では高魂命又は高御魂命の子となっている。小山連は左京と摂津を本貫としているが、摂津は元々前期難波京のあったところであるから、筑紫朝廷の首都と大和朝廷の首都とに分布していることになる。しかも、大和朝廷発祥の地である大和を本貫とする者は見えない。高御魂神は対馬の式内社である高御魂神社に祀られており、『日本三大実録』に神階を授与した記載のある高御魂神を祀る神社は大和国にある目原の式内社と対馬の同神社の二つだけであるから、平安時代の大和朝廷が畿外で神階を授与するほどに崇敬した高御魂神をまつる神社は対馬の神社のみとなる。このことから高御魂命への信仰の中心地は対馬であると推定される。
小山連が対馬の神を祖とする氏族であることからすると、恐らくは筑紫朝廷の前期難波京造営に伴い畿内に来たのであって、その後大和朝廷に仕えたが大和の地自体に愛着は無く、大和朝廷に仕えた一族は平安遷都と共に平安京の左京へと移住したものと考えられる。この想定の場合、高御魂命は九州の神であるということになる。小山連に限らず、高御魂命は正史において先程触れた『日本三大実録』の記事以外に登場するのは『続日本後紀』に対馬の「下縣郡无位高御魂神」に従五位下と授与した記事のみであり、やはり高御魂命信仰の中心地は対馬であるから、高御魂命の系統の氏族も対馬が発祥であると考えられる。
『新撰姓氏録』は饒速日命の祖先については何も語らないが、『先代旧事本紀』がわざわざ「櫛玉」という称号を饒速日命に付けていることから、瓊瓊杵尊の子孫が「天津日高日子」を世襲したようにこの「櫛玉」は高御魂命の子孫に継承された称号であると考えられる。従って、物部氏の祖は高御魂命であると言えるであろう。大和・河内の物部氏は他の物部系氏族よりも一足先に畿内へ来ていただけで、元々の起源は対馬であり、その次に対馬から上陸した九州であると考えられる。
弓削氏の系統
弓削氏は『新撰姓氏録』では四氏族掲載されておりいずれも弓削宿祢であるが、その内三氏族は天神系で一氏族は地祇系である。地祇系弓削氏は左京にのみ載り河内には載らないから道鏡の氏族とは別系統であると考えられるので、天神系弓削氏の三氏族について考察する。
『新撰姓氏録』によると天神系弓削氏は左京に二氏族、河内に一氏族存在する。左京の一氏族は「石上同祖」と記され、石上氏は「神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也」とある。これは当初から大和・河内にいる物部氏であり、仮に「畿内物部氏」とする。
現代から見ると石上氏が物部氏の直系の継承者であるかのように扱われているが、これは一元史観確立後の常識であろう。石上氏は大和政権に仕えていたのは古かったかもしれないが、それは筑紫朝廷の時代に物部氏の中枢であった根拠にはならない。
左京のもう一氏族は「高魂命孫天日鷲翔矢命之後也」と記され、河内の弓削氏は「天高御魂乃命孫天毘和志可気流夜命之後也」と記されている。これと同祖の氏族は存在しない。似た名前で「天日鷲命」の子孫を名乗る氏族はいくつか存在するが、こちらは神魂命の子孫である。天日鷲命は『日本書紀』に登場するが天日鷲翔矢命は『日本書紀』には載らない。このことから弓削氏の本来の祖先は天日鷲翔矢命であり、それは大和朝廷やその有力氏族とは異なる信仰圏の神であることが判る。とは言え、饒速日命の祖先を高御魂命とする前節の帰結から、石上氏の祖と同じく高御魂命の子孫であると言えるから、対馬時代まで遡ると共通する氏族であり、神武東征以降乃至崇神天皇時代(石上氏の祖である伊香色雄命)以降を共有していないという事である。
『古事記』『日本書紀』に記載がなく、さらに『新撰姓氏録』に掲載されている他の氏族とも祖先を共有していない弓削氏がどうして河内に居住していたのか、というとやはり前期難波京の存在が大きいであろう。つまり、弓削氏の祖先は対馬から九州に渡って筑紫朝廷に仕え、筑紫朝廷がその首都を難波に移転した際に河内に居住したが、いわば「新参者」であったから他の氏族と祖先を共有していなかったのである。久留米市に「上弓削」の地名が残るから、そこが弓削氏の拠点であったと推察される。
道鏡と物部守屋の関係
道鏡が物部守屋の子孫であるという説がある。『続日本紀』には道鏡の祖先が大臣であったとあるが、物部守屋は大臣ではなく大連である。道鏡の祖先は筑紫朝廷の大臣であったと考えるべきであろう。
『先代旧事本紀』には物部尾輿の項に「弓削連の祖倭古連の女子阿佐姫、次に如波流姫を各妻と為す」とあり、物部尾輿は石上氏の祖先であるから、石上氏の祖先が弓削氏の祖先の娘を妻としていたことが判る。このことが「石上同祖」の弓削氏が登場した要因であると考えられる。
従って、道鏡と物部守屋に直接の血縁関係はない。むしろ実態は、畿内物部氏が筑紫物部氏との関係を深めるためその娘を妻としたということではないか。つまり、弓削氏の方が石上氏よりも立場が上であった可能性が高い。
まとめ
物部氏は高御魂命を祖とする氏族であり、畿内物部氏の石上氏も本来は高御魂命を祖とする氏族であった。高御魂命への信仰の中心地は対馬であり、物部氏は対馬に発祥し九州に上陸したものと思われる。
弓削氏は物部一族の内、筑紫朝廷に仕えた氏族である。そのため弓削氏の祖先とされる「天日鷲翔矢命」は『日本書紀』や大和朝廷に仕えた他の氏族の系譜には一切登場しないのである。
ところで、今後の展望として弓削氏が本当に筑紫朝廷の「大臣」に留まっていたのか、を議論しなければならないであろう。倭の五王時代の倭王の子孫が稲員家であるという古賀達也らの研究ⅱに従えば、稲員家は物部氏であるから倭の五王時代の倭王は物部氏である。石上氏や弓削氏と言った氏族に別れる前の物部氏のことであるとすると、弓削氏である可能性もあるのである。
もっとも、稲員家系譜では稲員家の祖は孝元天皇となっている。しかし、これは高良玉垂命を武内宿祢と習合したための系譜の造作であろう。この孝元天皇は天孫降臨期を意味するとする古田武彦の研究があるⅲ。その場合、系譜上「孝元天皇」とあるものは実は「高御魂命」のことである、という可能性が出てくる。
なお、物部氏が九州王朝の高官であり、場合においては倭王でもあったとした場合、火明命との習合は大和朝廷成立に始まるものではなく、それ以前から行われていた可能性がある。つまり、氏族の系譜の改変は筑紫朝廷時代から存在した可能性もあるのである。とは言え、造作と言って全てを切り捨てることは学問的な方法とは言えないため、今後の慎重な研究に待ちたい。
ⅰ宝賀寿男『「天孫本紀」物部氏系譜の検討』http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek2.htm
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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