2022年12月12日

古田史学会報

173号

1,蝦夷国への仏教東流伝承
羽黒山「勝照四年」棟札の証言
 古賀達也

2,九州物部氏の拠点について
 日野智貴

3,七世紀における土左国
「長岡評」の実在性

 別役政光

4,伊吉連博徳書の捉え方について
 満田正賢

5,「丹波の遠津臣」についての考察
 森茂夫

6、弓削氏と筑紫朝廷
 日野智貴

7,田道間守の持ち帰った橘の
ナツメヤシの実のデーツとしての考察

 大原重雄

8,「壹」から始める古田史学 ・三十九
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅰ
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

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『無量寺文書』における 斉明天皇「土佐ノ國朝倉」行幸 別役政光(会報166号)

土佐国香長条里七世紀成立の可能性(会報176号)


七世紀における土左国「長岡評」の実在性

高知市 別役政光

はじめに

 「『評制』とは、九州王朝がいまだ日本列島の公的中心権力として大義名分上存在していた時代、すなわち、七〇〇年以前の制度であった」(註1)と古田武彦氏は述べている。全国的に見ると、荷札木簡や金石文等により八十以上の評の存在が分かってきており、四国においても十評(註2)ほどの存在が推定されている。高知県でも七世紀代に評制が施行されていたことを確かめるために、土左(註3)国「長岡評」の実在性について検証してみたい。

 

【注目される若宮ノ東遺跡】

 近年、高知県南国市(旧長岡郡)における発掘調査が進み、とりわけ南国市篠原の若宮ノ東遺跡からは奈良~平安初期のものとみられる八棟の正倉跡(高床式倉庫跡)が見つかった(註4)。注目すべきは七世紀後半の掘立柱建物跡で、県内最大級の規模を誇り、官衙関連施設ではないかと注目されている。この場所は土佐国府跡と弥生時代最大規模の田村遺跡群とのほぼ中間地点に当たり、東には七世紀創建とされる法起寺式伽藍配置を持つ野中廃寺も隣接する。
 令和三年度の土佐史談会講座(令和四年一月二十三日)で久家隆芳氏は「若宮ノ東遺跡発掘調査成果(下)―長岡評から長岡郡へ―」と題して、発掘の成果を報告し、長岡郡の前身としての「長岡評」の実在性をほのめかした。
 「評」は「郡」に先行する地方行政単位であり、大宝元年(七〇一)の大宝令をもって郡制が施行され、七〇〇年以前においては「郡」ではなく「評」表記が木簡等で使用されている。『皇太神宮儀式帳』(註5)における「難波朝庭天下立評給時」の記述などを根拠に、七世紀半ば頃に評制が敷かれたと考えられており、法隆寺旧蔵金銅観音菩薩造像記(辛亥年銘)、『常陸国風土記』なども同時期の評制施行を支持している。

 

【「□岡評」木簡は土左国か】

 「長岡評」の実在性を裏付けるものとして、石神遺跡(奈良県高市郡明日香村)出土の「□岡評」(□は不明)木簡がある。
   
   ・□〔長カ〕岡評
   ・□□□□□俵

 赤外線テレビカメラ装置を使ってかろうじて部分的に釈読できるにすぎず確定はできないものの、「「長岡評」は『和名抄』 陸奥・土左国に長岡郡がみえるが、裏面に「俵」 (米俵) とあることから、土左国と判断した」(註6)としている。評制下木簡の分布が東北地方に及んでいないことや土佐国最大規模の穀倉地帯である香長条里の広がりからも「土左国長岡評」に対応する木簡とするほうが妥当性が高いと考える。

 

【土佐国もと四郡説】

 しかしながら、ここで従来説との矛盾が問題となる。安養寺禾麿(一六九七―一七六七)や中山厳水(一七六四―一八三二)など、おおむね江戸時代の学者たちは、

『続日本紀』光仁天皇宝亀九年三月己酉の条「土左国言、去年七月風雨大切四郡百姓産業損傷加以人畜流亡盧舎破壊詔加賑給焉」

の記事を根拠にして、宝亀九年(七七八)において土佐国は四郡(幡多・吾川・土佐・安藝)のみであって、その後に長岡郡と香美郡の新郡が設置された(註7)と考えた。これを「土佐国もと四郡説」と呼ぶことにする。
 長岡・香美二郡の設置の時期や経緯については、『土佐幽考』、『南路志』蓋国之部上巻、『土佐国編年紀事略』などの間に多少の違いが見られるものの、延暦二十四年(八〇五)以前において、香美郡の新設があったとする点は『日本後紀』の記録から、共通の認識であった。
 さらに高岡郡の新設については、『続日本後紀』承和八年(八四一)八月廿三日の条に、

「土佐国吾川郡八郷、各分四郷建二郡、新郡郷高岡。郡司者分元四員、各置二員」

とあることから、この段階で土佐七郡(安藝・香美・長岡・土佐・吾川・高岡・幡多)が定まったと見られている。

 

【四~六郡とする前田説】

 この「土佐国もと四郡説」に対して、前田和男氏は「四郡の百姓」とは「部内四郡の百姓」と解するのが穏当であり、土佐国全体で四郡のみとは限らず、四郡ないし六郡であるとの幅広い解釈を示した。その背景には、弥生時代から古墳・古代における遺跡が土佐・長岡・香美の三郡に県内の半数以上が集中していることが状況証拠として挙げられている。すなわち、早い段階から高知平野から香長平野周辺一帯の地域に、人口および生産力が集中し、律令制定当初からすでに三郡に相当する程度の規模があったものと考えられる。
 しかしながら、評から郡へは連続的に移行しているケースが多く(七〇%程度)、長岡郡の設置を宝亀九年(七七八)以降とする「土佐国もと四郡説」がクリアできなければ、連続性を失うことになり、七世紀代の長岡評と整合性がとりにくい。

 

【西大寺出土木簡に「長岡」】

 この矛盾を解くカギが平城京右京一条三坊十三・十四坪(奈良市西大寺新田町、西大寺旧境内)から出土した木簡類である。約二五〇点ほどの文字が書かれた木簡の中に土佐国の「長岡」という郡名が見える。これらは寺造営の事務機関だった「造西大寺司」に関する木簡をまとめて捨てたものと推測されている。西大寺は孝謙上皇の発願で天平宝字八年(七六四)に造営を開始。木簡には神護景雲二年(七六八)の年号を記すものがあり、ほとんどが造営当初に記された可能性が高いことから、宝亀二年(七七一)以前の木簡との見方が有力である。
 また『大日本古文書(編年文書)』に、宝亀三年(七七二)「三島安倍麻呂解 正倉院文書」に付随して、「長岡郡宗部」の楽書らしきものがある。宗部郷を擁するのは土佐国長岡郡であろう。
 確実な証拠とは言えないまでも、宝亀九年(七七八)以前に長岡郡がすでに存在していたと考えてもよさそうだ。そうなると「土佐国もと四郡説」は否定されることになり、さらには長岡郡の前身として、七世紀後半の評制下に存在した「長岡評」との連続性が見えてくる。若宮ノ東遺跡を評衙遺跡と比定することも妥当となるだろう。
 これまでの推論が正しければ、「長岡評」は高知県で確認された最初の「評」ということになり、七世紀後半の土左国にも評制が及んでいたことが確実視される。さらに他の郡にもその前身となる「評」が存在したのか。また、九州王朝による評制であれば、なぜ評制下荷札木簡の多くが奈良県を筆頭とする畿内で出土するのかなど、さらに検討すべき課題は多い。

 

【註記】

(1)『法隆寺の中の九州王朝―古代は輝いていたⅢ』(古田武彦著、一九八八年)三四一頁

(2)讃岐国多土評(多度郡)、阿波国板野評(板野郡)・長評(那賀郡)・三間評(美馬郡)・麻殖評(麻殖郡)、伊予国宇和評(宇和郡)・風早評(風早郡)・久米評(久米郡)・湯評(温泉郡)・小市評(越智郡)

(3)国名は古くは「土左」。和銅六年(七一三)の好字令で「土佐」に改められたといわれるが、和銅六年以後も「土左」と「土佐」が混用され、平安時代中期に「土佐」が一般的な表記となる。本稿では七世紀頃の国名を「土左」とした。

(4)二〇二二年二月二十五日、南国市教育委員会発表。総柱建物跡の発見は、二〇一六~一八年度に三棟、二〇年度に一棟、今回の四棟と合わせて計八棟。

(5)デジタル画像(国文学研究資料館)のラベルには「所蔵者 高知県立図書館」とあるが、現在は高知県立高知城博物館所蔵。

(6)『評制下荷札木簡集成』(独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所編、二〇〇六年)八〇頁

(7)『高知県史 古代中世編』(高知県、昭和四十六年)六二~六四頁


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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