2022年12月12日

古田史学会報

173号

1,蝦夷国への仏教東流伝承
羽黒山「勝照四年」棟札の証言
 古賀達也

2,九州物部氏の拠点について
 日野智貴

3,七世紀における土左国
「長岡評」の実在性

 別役政光

4,伊吉連博徳書の捉え方について
 満田正賢

5,「丹波の遠津臣」についての考察
 森茂夫

6、弓削氏と筑紫朝廷
 日野智貴

7,田道間守の持ち帰った橘の
ナツメヤシの実のデーツとしての考察

 大原重雄

8,「壹」から始める古田史学・三十九
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅰ
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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倭日子」「倭比売」と言う称号 日野智貴(会報169号)

菩薩天子と言うイデオロギー 日野智貴(会報174号)


九州物部氏の拠点について

たつの市 日野智貴

はじめに

 かつて古賀達也が「洛中洛外日記」において「名字の物部さんも岡山県に次いでうきは市が多い」と強調していたが、これを読んで私は「しかし、九州物部氏の中心地は久留米市ではないだろうか?」という疑問を抱いた。古賀に確認すると、古賀も九州物部氏の中心拠点は現在の久留米市であるという見解であった。
 この点において私と古賀の間に意見の相違は存在しないのであるから、このことを今さら論ずる必要はない、ということも出来る。しかしながら、学問は検証可能性を重んじる。私が(或いは、古賀を始めとするほかの論者が)どうして久留米市を九州物部氏の拠点と考えているのか、その論拠を文章化して諸賢に検証してもらうことが重要ではないか、と思い本稿を執筆させていただくこととした。(文中敬称略)

 

氏族の拠点は地名や名字とは無関係

 最初に確認しておくべきこと、それはある氏族の本姓と同じ名前の地名や名字の分布があったとして、そこが氏族の拠点とは限らない、という事である。
 例えば、うきは市には『和名抄』の「生葉郡物部郷」の記述から古代から「物部」の地名があったことは確実であるが、この「物部郷」という名称は全国に越後から日向まで十八も存在する。 この全てが物部氏の拠点であることを論証することは困難であろう。また現在の「物部」を名字とする人間は物部氏以外の氏族の人間がこうした地名を名字とした可能性もあるため、名字の分布が氏族の分布の根拠にならないことも言うまでも無い。
 なお、他の氏族の本姓と全く同じ名字を名乗る例は、珍しくはない。例えば「小野氏」という著名な氏族が存在することを知らない者はいないであろうが、『地下家伝』にあるだけで小野が名字の家の本姓は紀・伴・佐伯・中原・清原・藤原と、六氏族も存在し、さらに明治三年三月版の『職員録』には本姓が調である名字が小野の人物も載っている。つまり、少なくとも七氏族の人間が著名な氏族の本姓と全く同じ名前である「小野」を名字に使うことに抵抗が無かったということになる。
 さらに言うと、仮に「名字が物部」の家の全てが「本姓も物部」であると仮定しても、他の物部を本姓とする家の分布と比較する必要が出てくる。
 例えば古賀によるとウェブサイト「日本姓氏語源辞典」で調べたところ福岡県うきは市に「物部」を名字とする者は百人いたという事であるが、私が同じサイトで調べると八女郡広川町に二百人もの「稲員」を名字とする者がいた。稲員家の本姓が物部であるとする系譜が残っている。しかも、広川町の新代という大字だけで百人いるという事であるから、密集具合でみるとうきは市の名字「物部」の人数を遥かに超える本姓「物部」がいることになる。
 さて、では私が「物部氏の拠点は広川町である」と主張したいのかと云うと、そういう訳ではない。その根拠となるのが祭祀である。

 

物部氏の祭祀の中心地は明らかに高良大社

 そもそも私がうきは市を物部氏の中央拠点と考えない理由の一つが、管見の限りうきは市が物部氏の祭祀において重要な拠点となった痕跡が無いことである。ネット上では同市にある賀茂神社の社家の熊懐家は波多氏であるという情報があったが、物部氏の社家がいるとは聞かない。
 また、先ほど述べた八女郡広川町には稲員家が西暦十三世紀に創建した高良坂本神社があるという。 言うまでも無く同じ筑後にはそれよりも以前から今の久留米市に高良大社が存在しており、その社家も稲員家である。つまり、人数は久留米市よりも広川町の方が多いかもしれないが、古代から一貫して祭祀を続けている高良大社とその社家の方が「本社」「本家」であると言える。
 高良大社の存在だけで九州物部氏の拠点が久留米市にあるというのは、根拠が少なすぎると言われる方もいるかもしれない。
 しかしながら、高良大社は「名神大社」や「筑後一宮」として後年も国家祭祀における重要な地位を示していたうえに、いわゆる九州王朝の時代においては「高良山神護石山城」に代表される軍事拠点でもあった。稲員家は一貫してその社家であった訳であるから、祭祀権と軍事権とを握っていた、と言える。無論、大和朝廷による統一後は軍事権を喪失したであろうが、高良大社が筑後一宮になるだけの、つまり、筑後に赴任した国守を真っ先に高良大社へ参拝させるだけの政治力はあったのである。私は九州物部氏においてこれ以上の権勢を誇った勢力が他にいたことを知らない。
 なので、他に有力な根拠が無い限り高良大社の社家である稲員家こそが九州物部氏の中心であり、九州物部氏の中心拠点は久留米市にあったと考えるべきであろう。

 

まとめ

 以上の通り、私は九州物部氏の中心拠点は今の久留米市であると考える。なお、ここでは「いつの時代の中心拠点か」を明記していないが、ここまでの考察で示唆したように古代から中近世まで、九州物部氏の中心拠点は久留米市にあったと考えてほぼ問題無いと思う。
 もっとも本稿は私の現時点での考えを、今後より研究が進んだ際に検証してもらうことが目的である。九州物部氏についての私の知識は十分とは言えないし、今後の様々な発見を歓迎する。

ⅰ古賀達也(二〇二二 洛中洛外日記)「神護景雲三年(769)、九州王朝の復権未遂事件」第2776話

ⅱ木簡庫「木簡番号1656」https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJBQJ40000121

ⅲ來野千了「高良坂本神社」https://jinmyocho.jpn.org/jinja/04_fukuoka_chikugo/1376/1376.html

ⅳ高良大社と大善寺玉垂宮の本家争いについては本稿の関心事ではない。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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