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「壹」から始める古田史学 ・三十九
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅰ
古田史学の会事務局長 正木裕
1、太宰府・大宰府・都督府
福岡県太宰府市には「大宰府政庁跡遺跡」があり、現地には「都督府古址」碑が建てられています。
太宰府市や太宰府天満宮、太宰府駅など、地元筑紫に伝わる名称は「太」を用いた「太宰府」なのに、遺跡名が「大宰府」なのは、『書紀』が一貫して「大」の字を用い、平城京や長岡京出土木簡でも「大宰」と表記されているからと思われます(注1)。(*以下『書紀』や施設表示の「大宰府」をもとにする場合を除き、基本的に現地に伝承する「太宰府」を用いる。)
一方、「大宰府政庁」は古くから「都督府・都府楼」と呼ばれ(注2)、『書紀』でも天智六年(六六七)十一月条に「筑紫都督府」が見えます。
◆天智六年(六六七)十一月乙丑(九日)
に、百済鎮將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。
しかし『書紀』の都督府はこれが唯一の記述で、しかも都督府と言うからには「都督」がいてしかるべきですが『書紀』では当時誰も都督に任命されていません(注3)。また、五世紀の「倭の五王」は、武の上表文に見るように、南朝「宋」から「都督」に任命されているのに、『書紀』に見えないのも不自然です。(*『宋書』で、倭王武は「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」を授与されている。)
このように一つの役所(府)に「大宰府・太宰府・都督府」という名称が混在しているのです。
2、「太宰府」開府年代
また、『書紀』での「筑紫大宰」の「初見」は推古十七年(六〇九)で、これは隋に使者を送った多利思北孤の時代となります。
◆『書紀』推古十七年(六〇九)四月庚子(四日)に、筑紫大宰奏上して言はく、「百濟僧道欣・惠彌を首として十人・俗七十五人、肥後國葦北津に泊れり。・・・吳國に乱有りて入るを得ず。」
ただし、「乱有り」という中国の呉国とは、李子通が唐の建国時(六一八)の混乱期に、江南に建国し、六一九年~六二一年に存在した国です。従って、『書紀』記事は十年~十二年程度繰り上げられたもので、筑紫「大宰」の奏上はその間の出来事となります。そして、六一八年は九州年号「倭京元年」ですから、「筑紫大宰」は倭京年間に置かれたことになるでしょう。
しかし通説では、太宰府の開府(政庁一期)は、考古学的に七世紀後半~八世紀初頭とされており、太宰府の開府が七世紀後半であれば、「筑紫太宰のいない筑紫太宰府」があるという不可解なことになるのです。
実は、こうした「名称の混在」や文献と考古学上の開府時期のずれに、多利思北孤時代から八世紀初頭の「王朝交代」に至る、倭国(九州王朝)の歴史が隠されていると考えられるのです。以下数回にわたり「太宰府の開府と名称が明らかにする倭国(九州王朝)の歴史」について述べていきます。
3、中国王朝の「太宰」は歴代中国王朝の最高の官職
歴代中国王朝の官職の最上位の三職は、周代に始まるといわれる「三公」とされ、その名称は王朝により以下の様に変遷します。
①「周」では太師(たいし 三公の最上位)・太傅(たいふ 天子の師) ・太保(たいほ 守役)が「三公」とされたが 、「秦・前漢」時代は丞相(大司徒)、太尉(大司馬)、御史大夫(大司空)、「後漢」は司徒・太尉・司空に変わる。
➁「魏朝」では、短里の採用に見られるように「周制復帰」を目指し、周代の「太師・太傅・太保」を採用する。ただ、魏より禅譲を受けた「西晋」では景帝司馬師の諱の「師」を避け、太師を太宰に変え「太宰・太傅・太保」とした。従って「太宰」は壹與が朝貢した西晋朝に始まると言える。以後南朝では「太宰」の名称が用いられたが、北朝系の「隋・唐」時代には、また太師・太傅・太保が採用された。
◆『晉書』(卷二十四 職官志)太宰、太傅、太保、周之三公の官なり。魏の初、唯太傅のみ置き、鐘繇しょうようを太傅とす。末年に又太保を置き、鄭沖ていちゅうを太保とす。晉の初に、景帝の諱(*司馬師)の故を以て、又《周官》官名を采るに、太宰を置き、以て太師の任に代え、太傅・太保と共に皆上公とす。
このように中国王朝では、「太」字の「太宰」が、国全体を統治する最上の職とされました。
ところで、『旧唐書』では、歴代中国王朝と交流したのは倭奴国以来の大国の倭国(九州王朝)であり、日本国(大和朝廷)は元小国で、八世紀初頭に倭国を併合したと記します。そうであれば、九州王朝は、俾弥呼以来「倭の五王」まで臣従していた「南朝」の官制に基づく「太宰」を用いた可能性が高いことになります。
4、大和朝廷の「大宰府」と多利思北孤の「太宰府」
一方、日本国(大和朝廷)の「大宰府」は、西海道・九州という「地方を所管する役所(府)」で、これは中国王朝の「国全体を統治する職制」と異なるし、字も中国の「太」ではない「大宰府」が用いられています。そもそも、大和朝廷の国政の最高官職は律令制の「太政大臣」で、中国(唐は太師)と異なるのです。
そして、『旧唐書』は、倭国の統治範囲を「東西五月行、南北三月行」とし、これは我が国全域にあたります。もし、多利思北孤の時代に「太宰府」が開府されたなら、それは「全国統治」を行うための役所(府)だったことになります。
「天子」を自称する多利思北孤は、『書紀』に「筑紫大宰」の見える六一九年ごろ、中国王朝に倣い「三公」を置き、本拠筑紫に「太宰府」を開府し、「筑紫太宰」を任命したと推測できます。(*聖徳太子伝記では端政元年(五八九)に全国を六十六国に分国統治したとする。これは太子に擬せられた多利思北孤の事績と考えられる。)
そこから、日本国(大和朝廷)は、倭国(九州王朝)併合後に律令施行によって、九州王朝の全国統治機関「太宰府」を、九州島内を所管する地方役所「大宰府」としたと考えられるでしょう。
なお、「太宰府」を中世以降の名称とするのは、『書紀』や律令時代の資料を基にした見解ですが、「太宰」と記す資料も多く、七世紀以前がどう呼ばれていたかは太宰府市も「断定できない」としています。逆に『書紀』が「大宰府」とするのに反して、地元が「太宰府」とするのは、本来の名称が「太宰府」であったことを示すとも考えられるでしょう。
5、九州年号「倭京」と南島人の「倭京朝貢」
多利思北孤時代に、「倭京太宰府」が開府されたことを証する考古学や文献上の資料があるので、順次紹介していきます。
①掖玖人(*屋久島人)の朝貢と遣使記事
九州年号「倭京」(六一八~六二二)元年前後に掖玖人の朝貢記事があります。
◆推古二十四年(六一六)三月に、掖玖人(やくじん *屋久島人)三口みたり帰化す。夏五月に夜勾人七口来る。秋七月に、 亦掖久人二十口来れり。先後、併て三十人。皆 朴井えのゐに安置はべらしむ。未だ還るに及ばずして皆死せり。
また、屋久島への遣使記事は六二九年(九州年号「聖徳」元年)に記されます。
◆舒明元年(六二九)夏四月。辛未の朔に、田部連を掖玖に遺す。
三年(六三一)春二月庚子(十日)に、掖玖人帰化す。
➁多禰島人の朝貢と遣使
一方、屋久島より九州島に近く、耕地も広い種子島との交流・遣使は約「六〇年後」の天武時代になり、知覧町出身の民俗学者下野敏見氏は「これはおかしい」とされました(注4)。
『書紀』では、天武六年(六七七)に多禰島人等を饗応しています。
◆天武六年(六七七)二月是の月に、多禰島人等に、飛鳥寺の西の槻の下に饗へたまふ。
また、種子島への遣使は六七九年、島よりの帰国は六八一年と記します。
◆天武八年(六七九)十一月庚寅(十四日)に、大乙下馬飼部造連を大使、小乙下上寸主光父を小使とし、多禰島に遺す。爵一級賜ふ。
◆天武十年(六八一)八月。丙戌(二〇日)に、多禰島に遺しし使人等、多禰国の図を貢れり。其の国の、京を去ること、五千余里、筑紫の南の海中に在り。
干支は六〇年で一巡(一運)します。『書紀』では、海外史書との比較で、神功紀の新羅関係記事が、実年より「二運(一二〇年)前の同じ干支の年」に繰り上げられていることが知られています。そして、六七七年丁丑の記事の実年が「一運(六〇年)前」の六一七年丁丑のことであれば、掖玖人・多禰島人が同じ時期に「京」に朝貢していたことになり、年代の不自然さが解消するのです。
さらに六八一年の「多禰島への使人の報告」の実年は六二一年となります。そして、「多禰島(種子島)より五千余里」が、「律令」の一里(約五三〇m)なら約二七〇〇㎞となり、大和までの実距離約八〇〇㎞と全く合いません。また『魏志倭人伝』の「短里(一里約七十五m)の五千余里」としても、約四〇〇㎞で合わないのです。
一方、種子島から太宰府までの実距離は約四〇〇㎞なので、「短里の五千余里」と一致します。六二一年は九州年号倭京四年ですから、「京」とは「倭京・筑紫太宰府」を示すことになります。このように、「南島人の朝貢」を記す資料は、「倭京元年(六一八)に多利思北孤が太宰府を開府し、南島の種子島人・屋久島人は太宰府開府祝賀行事に参加するため朝貢し、饗応された。そして開府後の六一九年に種子島に答礼の使者が派遣された」ことを示しているのです。
6、聖徳太子(多利思北孤)の倭京遷都
『聖徳太子伝暦』(藤原兼輔八七七~九三三)の、太子四十六才・推古二十五年丁丑(六一七)に、「倭京遷都予言」というべき記事があります(注5)。
◆四方を遍望して曰く、此地を帝都とし近気〈気近〉く今一百余歳在る。一百年を竟おえ北方に遷京〈京遷〉し、三百年之後に在る。
「気近けぢかく」とは「身近に親しむ」意味で、「此地を帝都とし気近く今一百余歳在る」は、「此の帝都の地(現在の京)に移ってから六一七年まで百余年親しんできた」ことを示すものです。そして、百年前は五一七年で、磐井が始めた九州年号「継体元年(五一七)」にあたるのです。
磐井の王都は岩戸山古墳や『風土記』から筑後(高良山周辺の三瀦や八女付近か)と考えられています。また、倭王武まで続いていた中国への遣使を止めます。そこから、磐井は中国南朝から自立し、五一七年に「独自年号」を建て、筑後を「帝都」と定め、その後百年を終えた六一八年(倭京元年)に北方に「京」を遷したと考えられます。そして、筑後の北方は太宰府の方角にあたりますから、この「遷都予言」は、「倭京・太宰府の開府と遷都」を示すものといえるのです。
7、「大宰府政庁遺跡」の編年
通説では、「大宰府政庁遺跡」は、一期が七世紀後半~八世紀初頭で掘立柱づくりの建物、二期は八世紀初頭~十世紀で礎石づくりに朱色の塗料を塗った朝堂院形式の建物、三期は九四一年の藤原純友の乱で焼け落ちた後の十世紀後半~十二世紀前半に再建されたものとしています(*九州国立博物館「西都太宰府」より。)
しかし、これは「大宰府は大和朝廷の西海道(九州)統治の官庁」であることを前提とし、「そうであるなら『律令時代』に創建されるべきものだ」という観念によるものです。一方、考古学上の瓦の編年や条坊は、これに反して二期は六七〇年代、一期はそれ以前の造営であることを示しているのです。次回はこうした点に触れ、「太宰府」は多利思北孤の創建であることを示していきます。
(注1)太宰府市の説明では、本来「大」か「太」かは断定できないが、鏡山猛氏らの説により、本来「大宰府」で、中世以降に「太宰府」に変わってきたという立場で遺跡などを表記している。
(注2)九〇一年に筑紫太宰府に左遷(配流)された菅原道真の有名な詩「不出門」にも、「都府樓は纔わずかに瓦の色を看 觀音寺は只だ鐘の聲を聽く」とある。
(注3)『書紀』景行紀に「彦狭島王ひこさしまおう」が、東山道十五国の都督に任命されているが、景行は『書紀』が俾弥呼・壹與に比定する神功皇后以前の天皇であり、これをもって天智期に都督がいた根拠とすることはできない。
(注4)「短い間に掖玖人ばかりやって来たというのは、これまでも種々論ぜられてきたように少しおかしい。掖玖が現在の屋久島なら、当時も人がはるかに多いはずの隣島の種子島や、他の隣接諸島民の記述がないのはおかしい」(下野敏見『南九州の伝統文化』南方新社二〇〇五年)
(注5)古賀達也「聖徳太子伝中の遷都予言」(『九州年号の研究ー近畿天皇家以前の古代史』ミネルヴァ書房二〇一二年)による。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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