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『日本書紀』の対呉関係記事
たつの市 日野智貴
はじめに
『日本書紀』には「応神紀」から「推古紀」の間に「呉」という名の国が出現する。しかし、『日本書紀』の編年をそのまま西暦に換算するとこの時期に「呉」なる独立国家は存在しない。
この内「推古紀」に登場する呉については、十二年ずらせば呉を国号とした李子通政権が存在しており、またそもそも「推古紀」から「皇極紀」までの編年自体が十二年のズレのあることを私は既に論証している①。しかし、それ以外の「応神紀」から「欽明紀」における「呉」についてはなお検討を有する課題である。
本稿では「応神紀」から「欽明紀」における呉について論証する。しかしながら、現時点では複数の検証可能な仮説を提示できる状況である、つまり、確定的な結論を出すことは困難であることを始めに断らせていただきたい。(本稿敬称略)
問題となる記事
「応神紀」から「欽明紀」における「呉」の記事は次の通りである。(読み下しは岩波文庫版を参考にしつつ日野の責任で行っている。以下同。)
A(応神)三十七三〇六年の春二月の戊午の朔に、阿知使主・都加使主を呉に遣わして、縫工女を求めしむ。爰に阿知使主等、高麗国に渡りて、呉に達らんと欲す。則ち高麗に至れども、更に道路を知らず。道を知る人を高麗に乞う。高麗の王、乃ち久礼波・久礼志、二人を副えて、導者とす。是に由りて、呉に通ずることを得たり。呉の王、是に、工女兄媛・弟媛、呉織、穴織、四の婦女を与う。
B(応神四十一三一〇年春二月)是の月に、阿知使主等、呉より筑紫に至る。時に胸形大神、工女等を乞うこと有り。故、兄媛を以て、胸形大神に奉る。是則ち、今筑紫国に在る、御使君の祖なり。既にして其の三の婦女を率て、津国に至り、武庫に及りて、天皇崩りましぬ。及ばず。即ち大鷦鷯尊に献る。是の女人等の後は、今の呉衣縫・蚊屋衣縫、是なり。
C(仁徳五十八三七〇年)冬十月に、呉国・高麗国、並に朝貢す。
D(雄略六四六二年)夏四月に呉国、使を遣わして貢献す。
E(雄略)八四六四年の春二月に、身狭村主青・檜隈民使博徳をして呉国に使しむ。
F(雄略)十四六八年秋九月乙酉朔戊子(四日)に、身狭村主青等、呉の献れる二つの鵝を将て、筑紫に至る。是の鵝、水間君の犬の為に囓はれて死ぬ。(別本に云はく、是の鵝、筑紫の嶺の縣主、泥麻呂の犬の為に囓はれて死ぬといふ。)是に由りて、水間の君、恐怖り憂愁へて、自ら默あること能はずして、鴻十隻と養鳥人とを献りて、罪を贖ふことを請す。天皇、許したまふ。
G(雄略十一四六七年)秋七月に、百済国より逃げ化来る者有り。自ら称名して貴信と曰う。又称わく、貴信は呉国の人なりという。磐余の呉の琴弾壃手屋形麻呂等は、是其の後なり。
H(雄略)十二四六八年の夏四月の丙子の朔己卯(四日)に、身狭村主青と檜隈民使博徳とを、呉に出使す。
I(雄略)十四四七〇年の春正月の朔戊寅(十三日)に、身狭村主青等、呉国の使と共に、呉の献る手末の才伎、漢織・呉織及び衣縫の兄媛・弟媛等を将て、住吉津に泊まる。(以下略)
J(欽明六五四五年)秋九月に、百済、中部護徳菩提等を遣わして、任那に使せしむ。呉の財を日本府の臣及び諸の旱岐に贈ること、各差有り。
すでに述べたとおり、これ等の記事の年代に「呉」なる国は存在しない。また仮に中国の南朝②のことであるとしてもAとBは西晋時代であってまだ南北朝時代になっていない。
南朝のことであると倭の五王との関係が注目されるものの、この内日本側から呉に遣使した記事はAとE、Hの三記事であるが、3つとも見事に倭の五王の遣使記事と一致しない。
強引に年代の一致する記事を探すと、Dの四六二年に倭王興への除正記事がある。しかしDの記事は全く逆の、日本へ呉の方が朝貢してきたという記事である。またBの記事も干支を二巡ずらすと倭王賛の遣使記事に年代だけ一致するが、Bの記事は遣使ではなく帰国記事であるから、これまた正反対の内容である。
先行研究における解釈
このような史料状況を先行研究はどう解釈したのか。まず倭の五王との不一致を説明した説について紹介する。
大きくまとめると「完全造作説」「高句麗説」「伽耶諸国説」「盗用説」「同行朝貢説」の5つに分けられる。後者の二つは九州王朝説を前提としているが、多元史観の論者の全てが後者の二つと言う訳ではなく、前者の3つのいずれかを支持する又は好意的に見ている者もいるようである。
「完全造作説」は、岩波文庫版の『日本書紀』の注釈がそうであるから、恐らくは現在の通説的見解である。
岩波文庫はまずA記事への注釈で「南朝史書の倭の五王関係記事に見える如き政治的目的をもった交渉事実は、書紀からは全くうかがわれない」とする。そうでありながら補注で倭の五王を大和政権の天皇に比定するのは矛盾である。『日本書紀』において倭の五王がしたような交渉は「全くうかがわれない」のが史料事実だ。
Cについては「もちろん、確かな記録に拠った記事ではなく、疑わしい」と、Dについては「もちろん記録に基づくものではなく、身狭村主青らの発遣の伏線として造作されたものであろう」とし、造作説に立つことを明確にしている。
つまり、『日本書紀』の呉国記事から倭の五王の記録が「全くうかがわれない」ことと倭の五王近畿説とを両立させるために「造作」を殊更に強調している、とすら言えるであろう。
しかしこうした一元史観の問題点は、どうして『日本書紀』の編者がわざわざ倭の五王の記録と矛盾する記事を造作したのか、説明が付かないということである。仮に「南朝はその後亡んだから」と言ったところで「では、そもそも南朝との交渉記事自体を削除すれば済む話で、どうしてわざわざ中国史書等と『矛盾する』内容の記事を造作したのか」という問いに対して答えることが出来ない。
「高句麗説」は三品彰英が唱えた説である。AやCから呉と大和政権の通交は高句麗が仲介したと推察されるが、三品は「日本使節が呉に至るに高句麗によったということ(或いはそうした考え方)は、当時の大陸の情勢からして不自然で不可能に近い」と指摘し③、基本的に造作説に立っている。当時の倭国と高句麗が激しく対立していたことは「好太王碑」という金石文からも、『宋書』等の中国史書からも、それぞれ明白であるから(特に『宋書』には高句麗が倭国の朝貢を妨害したと記されている)この指摘自体は私も是とするところである。
三品はその上で、このような記事が造作された背景として「呉」が「クレ」と発音されていることに注目し「元来クレなる言葉は句麗に語源し、後に『呉』に当調されたものであろう」とする④。この説はかなり影響を与えたようで、本位田菊士も『史学雑誌』掲載論文で何の注釈もなく「呉(クレ=句麗)の名で高麗系渡来人も日本に移住している」と記しているが⑤、注釈なくこのような記述をして『史学雑誌』に掲載されるという事はアカデミックの世界でも一定の妥当性のある仮説と判断されているという事なのであろう⑥。
古田学派の中でも「呉」を高句麗とした上で、AやCの記事にある「高麗」は高句麗ではなく高霊伽耶のこととする説があるようである⑦。
「伽耶諸国説」は伽耶の中の一国に「クレ」という名前の国が存在しそれが「呉」と表記されたという説である。この説は古田学派の中では三宅利喜男が提唱しており、三宅によると李永植や金廷鶴と言った朝鮮側の研究者による先行研究があったようであるが⑧、私は調査力不足により確認できていない。
三宅は『新撰姓氏録』等において「呉の名前のつく者も多いが、中国系でなくすべて伽耶か百済系である」ことを論拠としている。
「盗用説」は九州王朝の史書からの転用・挿入であるというもので、古田武彦が断言は控えつつ触れている⑨。「同行朝貢説」は九州王朝である倭の五王の朝貢に大和政権が同行したというもので、小幡雅雄が唱えている⑩。
この両説は多元史観を前提としている説ではあるが、倭の五王と『日本書紀』の対呉記事の不一致を考えると賛同は困難である。
倭の五王と結びつける見解
言うまでもなく、逆に倭の五王と『日本書紀』の記事を結び付ける論者も中にはいる。その典型的な主張が宝賀寿男の次の主張である。
ともあれ、倭五王の比定問題に関して、『日本書紀』はむしろ、時期などもほぼ的確に記録していた原史料に拠っていると評価してよいと考える。大和王権には中国王朝との往来を示す記事がないから、倭五王は畿内の大王ではないとの説(いわゆる「九州王朝説」など)も散見するが、とんでもない誤解である。応神朝・仁徳朝・雄略朝の記事に見える「呉」こそ中国南朝のことであり、遣使記録が『書紀』に記載される⑪。
私には高句麗に朝貢を妨害されていた倭の五王と、「高麗」経由で「呉」に繋がったとする『日本書紀』の記事が結びつかないが、こちらについても「高句麗との共同入貢説」が存在している⑫。
確かに当時の高句麗王である長寿王は中国南朝に「毎歳」朝貢していたと記されているから、大和政権が高句麗経由で中国の南朝と通交を持ったとする説には説得力がある。
しかし、だからといって倭の五王が高句麗と「共同入貢」したというのは、倭の五王と『日本書紀』の記述を強引に結び付けた解釈ではあるまいか。仮に応神天皇を倭王讃とし、倭王讃の時代には例外的に高句麗と良好な関係であったのだ、と言ってみたところで、倭王讃の次の倭王珍は讃の弟であるが、応神天皇の後を継いだのは息子の仁徳天皇である。
つまり、『日本書紀』の記事と倭の五王とは結びつかないというのが、素直に記録を読んだ結果である。『日本書紀』の対呉記事は倭の五王とは切り離して考えなければならない。
そうであるとするならば、『日本書紀』に記されているような対呉外交を行った政権は高句麗と良好な関係にあった政権であり、倭の五王とは同時代の別政権かそれとも別時代の逸話の盗用であるかのいずれかであると考えられる。
大和政権による独自外交の可能性
古田学派において倭の五王は九州王朝であるとする説が有力である。私もその可能性が高いとは考えるが、具体的に倭の五王が筑紫にいたと断言できるのか、と言うとそれは困難である。『宋書』「倭国伝」には中国の使者が倭に行った記録が無いからだ⑬。
しかし、大和政権側の記録である『日本書紀』の対呉記事と倭の五王に関する『宋書』等の記録が一致しないという事実は、大和政権が倭の五王とは別に外交を行っていた可能性を強く示唆する。
むしろ中国側の史書と一致しないという事実こそが、『日本書紀』の編者による造作ではなく大和朝廷側の記録に拠って編纂された記事である可能性が高いことを示していると言える。「神功皇后紀」に『魏志』「倭人伝」からの引用をしているように、『日本書紀』の編者は中国側の史書との整合性をある程度意識して編集していると考えられるからだ。
このことについて例会で触れた際、「大和政権がどういう国名で外交をしたと思うのか」という質問があった。恐らく私が「『隋書』における倭国は大和政権ではない」として古田説を批判したことを受けての質問であると思う⑭。私が『隋書』における倭国を(俀国と別国であるとしながら)大和政権とも別であるとした理由は『隋書』の倭国記事が『日本書紀』と一致していないということであるが、同じ理由で『宋書』の倭国と大和政権は別政権となり、中国側は大和政権を倭以外の国号で呼んだことになる。
無論、本稿はあくまでも大和政権が独自外交を行っていた「可能性が高い」というものであって断言できるレベルではなく、況してや外交の際の大和政権の国号など「判らない」というのが一応の答えである。その上で、『梁書』における「大漢国」が大和政権の国号であったという先行研究が存在しており⑮、私はこの主張も今後検証されるべき一つの仮説であると考えている⑯。
「呉」は朝鮮半島の国なのか
さて『日本書紀』における「呉」が高句麗や伽耶諸国の一国であるという説について私見を述べたい。
仮説とは検証可能性のあるものである。私はこれらの説も検証するべき仮説として成り立っているとは思う。しかしながら、現時点で私が検証した限りでは、賛同できるだけの論拠に乏しいと言わざるを得ない。
まず高句麗説であるが、『日本書紀』における「高麗」を見ると明らかに高句麗を指している例がいくつかある。高句麗という「同一実体」の国を「高麗」と「呉」として使い分けた、ということに私は充分な論拠があるとは考えられない。何度も言っていることであるが、『隋書』における「倭国」と「俀国」が「同一実体」の政権であったという仮説に賛同できないのも同じ理由であって、『隋書』が「倭国」と「俀国」を使い分けている以上、その指している対象には何らかの違いがあるはずである⑰。同様に「高麗」と「呉」も違う実体のはずだ。
これは「応神紀」等における「高麗」が「高霊伽耶」だと言っても変わらない。同じ『日本書紀』という書物の例えば「斉明紀」の「高麗」は明らかに「高句麗」である。
次に伽耶諸国の一国であるという説であるが、例えば『新撰姓氏録』では呉国人の子孫は全て「漢」か「未定雑姓」に分類されており「百済」や「任那」には分類されていない。『新撰姓氏録』に呉国人と記されているものを強いて百済や任那の人間と解釈するのは根拠に乏しいのではないか。
呉の国主や国王とされている人物の多くは『三国志』の呉の人物であるが、唯一「呉国主照淵」は名前が『三国志』と異なるのみならず、孫の智聡が欽明天皇の頃の人物で曾孫の善那が孝徳天皇の時代の人物とあるから、時代も全く異なる。これを「実は伽耶諸国の一国の国主だったのだ」というのは確かに魅力的な仮説ではあるが、そもそも欽明天皇の時代の智聡の息子が孝徳天皇の時代の善那だという『新撰姓氏録』の記述は年代が合わないものであり、どちらかが誤りであろう。孝徳天皇の時代に善那がいたという『新撰姓氏録』により時期の近い記述を正とした場合、その曽祖父の照淵は李子通のこと(恐らくは字)であるという解釈も可能である。
いずれにせよ、呉国が実は朝鮮半島の国であったという可能性を排除は出来ないが、この仮説は今のところは検証に耐えるほど十分な論証が尽くされているとは言い難い。今後の議論を待ちたい。
まとめ
『日本書紀』における「対呉記事」は大和政権による独自外交を示す記事である可能性が高い。また、恐らくは呉とは中国の南朝のことであろう(詳細は割愛したが「欽明紀」の記事も当時百済が梁に朝貢していたことから、私は南朝と言う意味の呉、具体的には梁であるとしても問題ないと考える)。
もっとも朝鮮半島の国である可能性もあるし、またここでは詳細を割愛したが九州王朝が『三国志』の呉や李子通の呉と通交した記事からの盗用である可能性もある。こうした可能性のさらなる検証や『日本書紀』における高句麗・百済との外交記事の分析等、論じたいことは数多くあるが、字数の都合もありこれらは別稿に譲りたい。
① 拙稿(二〇二〇)「『日本書紀』十二年後差と大化の改新」『古代に真実を求めて』第二十三集
② 中国の東晋から陳に至る諸王朝。倭の五王はその内、東晋・宋(劉宋)・梁(前梁)より除正されたいた記録がある。
③ 三品彰英(一九六二)『日本書紀朝鮮関係記事考証 上巻』吉川弘文館、二五七頁
⑤ 本位田菊士(一九八一)「古代日本の君主号と中国の君主号」『史学雑誌』九〇・一二
⑥ 但し、僭越ながら本位田が誰の先行研究によっているかを示さなかったことは、私のような読者からすると極めて不便を感じるところである。私も不十分になることは少なくないが、研究者にはなるべく先行研究へのアクセスがしやすくなるよう論文内で配慮する責任があると考える。
⑧ 三宅利喜男(一九九四)「続『日本書紀』成書過程の検証」『市民の古代』第一六集
⑨ 古田武彦(一九八五)『法隆寺の中の九州王朝』朝日新聞社、一四頁
⑩ 小幡雅雄(一九九〇)「倭国の滅亡と海洋権益」『市民の古代』第十二集
⑪ 宝賀寿男(二〇一〇、二〇二一修正)
「(続)『記・紀』の紀年論とその周辺」http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/kinenron/kinenron2.htm
⑫ 石井正敏(二〇〇五)「5世紀の日韓関係」『日韓歴史共同研究報告書 第1分科篇』日韓歴史共同研究委員会
⑬ 無論、記録にないだけで実際には宋が倭に使者を派遣していた可能性はある。古賀達也のご教示による。
⑭ 拙稿(二〇二〇)「文献上の根拠なき「俀国=倭国」説」会報一五六号
⑮ 山口慎(一九九三)「『大漢国』の発遣」『市民の古代』第一五集⑯ 山口論文の「奈良・平安の文化を築いた大和朝廷がただたんに一地方の豪族のような勢力だったとは思えない」という問題提起は、学問的議論の俎上に載せるべきものであると考える。
⑰ 倭国の君主の「姓」など本稿と間接的に関係のある問題になるが、ここでは割愛する。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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