常世国と非時香菓について 谷本茂(会報175号)
『播磨国風土記』宍禾郡・比治里の「奪谷」の場所 谷本茂(会報176号)../kaiho176/kai17602.html
『播磨国風土記』宍禾郡・比治里の「奪谷」の場所
神戸市 谷本茂
はじめに
古風土記解明の基礎作業として、記載地名を現代の地形図上に比定することが必要とされるが、遺称あるいは関連地名が残っていない場合には、その比定は容易でなく、いまだに不明とされている場所も少なくない。一例として、本稿では、『播磨国風土記』の宍禾しきは郡・比治ひじ里の条において不明とされている諸地名、とりわけ「奪谷うばひたに」について、従来の諸説が不適切であることを示し、より確実な比定地を提案する。「奪谷」は、葦原志許乎命あしはらのしこをのみことが天日槍命あまのひぼこのみことと奪い合ったとされる伝承がある要衝の地でありながらこれまで明晰な分析がされてこなかった原因についても触れる。
一宍禾郡・比治里の条の地名とその領域
『播磨国風土記』(三條西家本)の宍禾郡・比治里の条の原文は稿末に掲載(地名⓪~⑧は原文の項目に対応)。比治里の条には、⓪比治ひじの名の由来、①宇波良うはら村、②比良美ひらみ村、③川音かはと村、④庭音村[にはとむら 本の名は庭酒にはき・にはさけ]、⑤奪谷うばひたに、⑥稻舂岑いなつきみね、⑦稻舂前いなつきさき、⑧粳前ぬかさき・あらさきという地名が記されている。
これらのうち、⓪~③には遺称が存在していて確実な比定が可能であり、共通認識が形成されている。兵庫県・宍粟市・山崎町の南部の領域に相当する(後述の図1を参照のこと)。一方で、④~⑧については、明確な比定地が判明していないため、後述の幾つかの説を除いて、普及している注釈書では、「遺称なく所在地不明」(1)、または「所在不明」(2)などとしている。
個々の地名の検討に入る前に、比治里の領域(範囲)を限定しておこう。戦前の字名が記載されている五万分の一地形図・龍野を基に、比治里と他の里との境界を考察する。図1において(3)、「下宇原」「宇原」は①宇波良に、「平見」は②比良美に、「川戸」は③川音に、「上比地」「中比地」「下比地」は⓪比治に、それぞれ対応する地名と考えてよいであろう。
「下宇原」「宇原」の対岸、揖保川西岸の「家氏いよじ」「香山こうやま」は、揖保郡に属する「家内谷やぬち・いへうら」「香山かぐやま」に比定されるので、宍禾郡ではなく、当然比治里の外である。
「ヒラミ」の帰属は、風土記編纂当時は宍禾郡であるが、江戸時代には揖保郡(揖東郡)に移っていた。「ヒラミ」周辺の揖保川西岸部の山地の入会権を巡っては継続的な争いが存在したようで、たとえば『播陽宍粟郡志』(4)には、元禄十二年(一六九九年)の宍粟郡の川戸村・宇原村と揖東郡の上香山村との入会権争い・境界争いの顛末文書が収録されている。そして『文政年間 国郡全図』(5)では、「平三」が揖東郡に属していて、「松山」「佐ゝ」「香山」「家氏」「篠首しのくび」が揖東郡内、宍粟郡との境界線に接して記されている。
一方、「比治」の北側、菅野川が揖保川に流入する地域は、比治里の外と考えられる。現在宍粟市・山崎町の中心部(菅野川の扇状地/堆積地に当たる)は、宍禾郡の郡役所が置かれていたと推定される所であり、「矢田村」に対応する地域である。前述の『播陽宍粟郡志』には、「御名ごみょう」「千本屋」「金谷/金屋かなや」「野村」「船元」「下廣瀬」「山田」「鶴木」「中井」「段」は全て宍栗郡・柏野郷の村名として記録されている。また、揖保川の東岸部、山崎断層渓谷地帯にある「須賀」「須賀澤」「蟹ヶ澤」は、安志あなし里、あるいは石作(伊和)里に帰属していたと考えられるので、いずれにしても比治里の外である。
図1 1/50,000地形図 龍野
以上の考察により、比治里の領域がかなり明確になる。図1に私見の境界線を示す。未確定の地名④~⑧は、この範囲の中で探索すべきものとなる。
この比治里の境界領域を仮定して、④~⑧の地名の従来説を再検討してみる。敷田年治説(6)は、④庭音にはとを「庭田にはた神社」の関連地名(転訛地名)と捉えて、現在の宍粟市一宮町・能倉よくら地区に現存する庭田神社のあたりに比定した。しかし、この比定地は比治里から遠く離れた場所であり、妥当でない。井上通泰説(7)は、④庭音⑤奪谷を風土記編纂時の錯簡と判定し、④を先述の庭田神社あたり、⑤奪谷を庭田神社が位置する染河内そめごうち川の渓谷であるとし、⑥~⑧については不明とした。建部惠潤説(8)は、⑤奪谷を「安師の里に属するが」と断りながら、山崎断層渓谷地帯の揖保川東岸部であろうと比定した。やはり、錯簡を前提とした考察であり、比治里外に比定する点では井上通泰説と大同小異と評価せざるを得ない。また、④庭音(庭酒)を山崎町・千本屋に鎮座する雨折神社あたりの庭酒の地と推定しているが、山崎町・千本屋あたりは、比治里外であった可能性が高く、ここを比治里内であるとするには、別の論証が必要とされよう。ただし、⑥稻舂岑は川戸地区の北の山地の中と比定し、標高二百六十九・八メートルの目立つ峰を指摘しているのは、明らかに比治里のうちであり、理に適っていると思われる。⑦⑧は揖保川東岸部に限ってそれらの比定地が推定されており再検討が必要と考える。
いずれにしても、先学の諸説では、④~⑧は比治里の領域では不明確であり、不明の項目(地名)を安易に編纂時の錯簡とみなして他の里の領域に比定しようと試みるのは、錯簡が別の史料根拠により論証されない限り、避けるべきであると思う。
現在、播磨国風土記の啓蒙普及活動において、井上通泰説や建部惠潤説に従って解説したものが、学習現場や地域振興用に使われている(9)。
二「奪谷」および関連未確定地名の比定
前述のように、「比治里」の領域の概略が限定されたわけであるから、この範囲内で「奪谷」を見つけるのは比較的容易である。「奪谷」の形は「曲まがれる葛かづらの如し」と記すのであるから、地形図を見ればS字状に湾曲した揖保川が流れる谷を指すことは一目瞭然である。地形図上だけでなく、付近の小高い山から展望すれば、誰の目にも判然とする特徴的な横谷地形なのである。そして、「稻舂岑」は、建部惠潤説が既に指摘しているように、川戸地区の北の山地、恐らく標高二六九・八メートルの峰を指すと考えられる。そして、「稻舂前」はそこから南西方向へ延びる山系の突出部であり、「粳前」は、揖保川の西岸の(平見地区のある)北東方向に延びる山系の突出部である(図1を参照のこと)。建部惠潤説では、二つの「前さき」を揖保川東岸部に限って推定していたが、私見では、揖保川両岸に存在する突出部であり、湾曲した横谷を構成する特徴的な地形を的確に描写したものであると考える。なお、「粳前」(または「糠前」)は従来「ぬかさき」と読まれてきたが、(「ぬか」の呼称として古態の「あら」があるので)「あらさき」の読みの方がより適切ではないかと思われる。(本稿では「あらさき」の詳細な分析は割愛する。)
残るは④「庭音村(本名庭酒)」であるが、これは、遺称が見当たらないので、比定地の確定は困難である。推測の域ではあるが、今後の探索の参考のために、敢えてここで試案を提示したい。地形的に、比治里の川音(川戸地区)から比治里外の須加(須賀沢地区)方面へ通交する道は、揖保川東岸部の急峻な崖を避けて「稻舂岑」の山中を越えるルートであったと考えられる。現在でも宍粟市山崎町・川戸から須賀沢への揖保川東岸沿いの直通路は無い。川音村からの山越えの道沿いに庭音村が存在したのではなかろうか。現在川戸地区から須賀沢地区への山越えの坂道の川戸側の入口には、岩田神社がある。「ニハト」と「イハタ」は関連地名と考えられる。「ニハ」と「イハ」が転訛する例としては、同一植物名の「庭藤にはふじ」と「岩藤いはふじ」がある。川音村から登っていく山越えの道の入口付近または途中(比治里の領域内)に庭音(庭酒)村が存在したとの作業仮説は、あながち荒唐無稽な想定ではないと思われる。
おわりに
本稿で考察した「奪谷」の比定において、先学の説が的確な場所を探索し得なかった原因として、二つのことが指摘できよう。
一つ目は、錯簡の可能性を安易に仮定して、比治里以外の領域に比定しようと試みたこと。
二つ目は、谷の形態(10)として、山脈に平行な縦谷だけを念頭に置いて考察し、山脈を横断する横谷の可能性を考慮しなかったために、特徴的な二つの「前」(崎)の記述の意味を充分に把握できなかったことであろう。
古代地名を現代の地形図のうえに比定することは、残存地名がどこまで歴史的に遡れるのかという検証の課題もあり簡単な作業ではない。しかし、風土記のより良い理解の基礎になる重要な作業であるから、従来の諸説を参考にしながら新しい視点も導入して継続的に再検討してゆくこと(11)が求められていると思う。
【原文】宍禾郡 所以名宍禾者 伊和大神 国作堅了以後 堺此川谷尾 巡行之時 大鹿出己舌 遇於矢田村 爾 勅云 矢彼舌在者 故 号宍禾鹿 村名号矢田村 ⓪比治里 所以名比治者 難波長柄豊前天皇之世 分揖保郡作宍禾郡之時 山部比治 任為里長 依此人名故 曰比治里 ①宇波良村 葦原志許乎命 占国之時 勅 此地小狭如室戸 故 曰表戸 ②比良実村 大神之褶 落於此村 故 曰褶村 今人曰比良美村 ③川音村 天日槍命 宿於此村 勅 川音甚高 故 曰川音村 ④庭音村本名庭酒 大神御粮枯而生粫 即 令醸酒以献庭酒而宴之 故 曰庭酒村 今人云庭音村 ⑤奪谷 葦原志許乎命 与天日槍命二 相奪此谷 故 曰奪谷 以其相奪之由 形如曲葛 ⑥稻舂岑 大神 令舂於此岑 故 曰⑦稻舂前生味栗 其糠飛到之処 即号⑧糠前
註
(1)秋本吉郎 校注『風土記』日本古典文學大系2(岩波書店 一九五八年)頭注 三一八頁~三一九頁
(2)中村啓信 監修 訳注『風土記』上巻 角川文庫一九二四〇[角川ソフィア文庫](KADOKAWA 二〇一五年)三九九頁~四〇〇頁
(3)図1は、「明治二十八年測図大正十二年第二回修正測図昭和七年鉄道補入」の記載がある参謀本部発行の五万分一地形図姫路七号・龍野を基図として筆者が地名を補記して作成したものである。当該地図は、スタンフォード大学図書館のウェブ・サイト「スタンフォード・デジタル・リポジトリー」公開の画像ファイルよりダウンロードした。
(4)片岡醇徳『播陽宍粟郡志』二冊:宝永五年(一七〇八年)序:天川友親 編 八木哲治校訂『播陽万宝智恵袋』(臨川書店 一九八八年)の巻之三十四および三十五に収録。「郡境」「郷」「領村」「山川」などは上巻に記載。臨川書店版の六七三頁~六九二頁
(5)市川東谿 編 児玉幸多 解説『文政年間 国郡全図』復刻版(近藤出版社 一九七六年)一三四頁[『國郡全圖』原版は文政十一年(一八二八年)序、同年初版、復刻版は天保八年(一八三七年)刊本による]
(6)敷田年治『標注播磨風土記』二冊(玄同舎 一八八七年))下巻 〇六丁
(7)井上通泰『播磨國風土記新考』原版(大岡山書店 一九三一年)、復刻版(臨川書店 一九七三年)三五五頁~三五八頁
(8)谷川健一 監修・播磨地名研究会 編『古代播磨の地名は語る 播磨国風土記めぐり』姫路文庫6(神戸新聞総合出版センター 一九九八年)「宍禾しさわの郡こほり」・「比治ひじの里さと」[一七八頁~一八六頁]は建部惠潤たてべえじゅん氏の執筆であり、該当箇所は垣内章氏との共同探索という。
(9)たとえば、寺林峻 文・中村真一郎 写真『播磨国風土記を歩く』(神戸新聞総合出版センター 一九九八年)の「宍禾の郡」に、井上通泰説に基づく記事がある。奪谷に関しては、〝谷を曲げた烈しい戦いの果て いよいよ播磨一国をかけた伊和大神と天日槍の戦いが宍粟郡内で始まる。それは死闘といってもいいほどの烈しさだったようだ。―伊和大神と天日槍が一本の谷を奪い合ったので谷が藤蔓ふじづるのように曲がってしまった。 風土記がこう伝えるのは一宮町の染河内そめごうち川の流れる谷である。〟[一〇九頁]とある。ここでは、「一本」という表現から、この著者が縦谷を念頭に置いて「奪谷」を想定していることが分かる。また、宍粟市が発行する漫画「播磨国 しさわのこおり 地名のはなし」(二〇二〇年)では、奪谷は「争いで形が曲がって藤蔓ふじつるのようになった」「今の一宮町染河内地区あるいは山崎断層のことを言ったともいわれている」と、井上通泰説と建部惠潤説を併記している。
(10)『日本国語大辞典第二版』第八巻(小学館 二〇〇一年)「たに[谷・渓・谿]」の項 一〇四三頁
(11)本稿は、二〇一八年七月三一日のNHK文化センター神戸教室における筆者の講演「播磨国風土記からみた地名の変遷」の資料から抜き出した部分を加筆・修正したものである。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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