2023年6月13日

古田史学会報

176号

1, 消された和銅五年(712)
の「九州王朝討伐戦」

 正木 裕

2,『播磨国風土記』
宍禾郡・比治里の「奪谷」の場所
 谷本茂

3, 『日本書紀』の対呉関係記事
 日野智貴

4,土佐国香長条里
七世紀成立の可能性

 別役政光

5,九州王朝戒壇寺院の予察
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学 ・四十二
多利思北孤と「鞠智城」の盛衰
古田史学の会事務局長 正木 裕

7,書評 待望の復刊、
『関東に大王あり』

古賀達也

 

古田史学会報一覧

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「壹」から始める古田史学 ・四十二

多利思北孤と「鞠智城」の盛衰

古田史学の会事務局長 正木裕

一、「鞠智城」はいつ築城されたのか

1、「鞠智城」とは

 「鞠智城」(敷地の九割が熊本県山鹿市・一割が菊池市に位置する)は、標高九十一mから百七十一mの台地にあり、約三.五㎞メートルの版築城壁で囲まれた、五十五㏊の領域を有する古代の城柵あるいは官衙です(注1)。現在は熊本県が歴史公園鞠智城として整備し、八角形建物(現地では「鼓楼」と称される)・米倉・兵舎・板倉などを復元展示しています。文献上は『続日本紀』の文武二年(六九八)の繕治(改修)記事が初見です。
◆『続日本紀』文武二年五月甲申(二十五日)、大宰府をして大野、基肄、鞠智の三城を繕治つくろはしむ。

 

2、通説では白村江敗戦後に大和朝廷が築城

 遺跡は五期に分かれ、「Ⅰ期」は創建期で『書紀』や『続日本紀』の記事をもとに、大野城と同じ七世紀後半の「白村江敗戦後」としています
①『書紀』天智四年(六六五)八月記事に白村江後に渡来した百済人憶禮福留らが「大野城・基肄城を築く」とある。
◆『書紀』天智四年八月に、達率憶禮福留おくらいふくる・達率四比福夫しひふくぶを遣して、筑紫国に大野及び椽二城を築かしむ。
 そして、鞠智城の池から百済系の金銅製菩薩立像が発見され、鞠智城も白村江後の百済人の築造である証だとします。

②『続日本紀』で、鞠智城とともに繕治を記す「高安城」の注釈に、天智五年(六六六)築城とあり、鞠智城の築城も同年代と推測される。
◆文武二年八月丁未(二〇日)、高安城を修理つくろふ。天智天皇の五年に築きし城なり
 そして文武二年(六九八)に「繕治」されたのが「Ⅱ期」で、八世紀第1四半期の後半から第3四半期に礎石建物に改められたのが「Ⅲ期」。九世紀~十世紀の大型礎石に支えられた倉庫群が「Ⅳ期・Ⅴ期」とされ十世紀には廃絶します。

 このように通説では「Ⅰ期」建物は、七世紀の白村江敗戦(六六三)以後に、「大和朝廷(ヤマトの王家)」が、唐・新羅による有明海からの侵攻に備えて築城したとしています。

 

3、強勢を誇った六世紀の肥後・阿蘇の勢力

 ただ、『書紀』には六世紀に肥後・阿蘇の勢力が、大軍を擁して半島に進出していたことが記されます。
 『書紀』宣化元年(五三六)五月に「阿蘇の君」が河内茨田の屯倉の穀物を那の津の屯倉に運び、欽明十七年(五五六)正月には、筑紫君の児、火中君の弟の筑紫火君が勇士千人を率いて百済王子を百済に護送する、とあります。
 さらに、熊本県伝佐山でざやま古墳から出土した繁根木はねき型のゴホウラ製貝釧が、韓国造山古墳から出土し、熊本県江田船山古墳出土の「金冠及び飾履」と同一の形状の「冠と飾履」が、韓国益山笠店里イクサンイブジョムニ古墳から出土しています。
 鞠智城の立地する米原地域でも、六世紀後半から七世紀前半に瀬戸口横穴墓が熊本県内で最大の集積を誇っています(注2)。従って、鞠智城の築城も、こうした肥後・阿蘇勢力の活動と「連続」して考えられるべきことになります。

 

4、通説と異なる考古学の成果

 そして、古賀達也氏は、次のような近年のC14法(放射性炭素年代測定)の結果などをもとに、多利思北孤時代の造営の可能性が大だと指摘しています(注3)
◆鞠智城跡十七調査区の北東隅から検出された炭化米の年代測定では紀元五九〇年~六四〇年を示す炭化米が出土している(『鞠智城跡第十三次調査報告』熊本県教育委員会、一九九二年、五十一頁)。
 また、歴博名誉教授の岡田茂弘氏も、次の様に「鞠智城は大野城や基肄城よりも、一段古く造られた」とされています(注4)
◆「大野城の創健期と同じ時期の瓦の出る包含層の下から、須恵器だけが出る包含層が知られています。これは鞠智城が大野城などよりも古くに造られた可能性を秘めている」「鞠智城は大野城や基肄城よりも、一段古く造られた」
 その大野城の築城は『書紀』では白村江後と記しますが、太宰府口門の木柱の年輪年代は六四八年で白村江以前の築城を示しています。鞠智城はそれより「一段古く造られた」のであれば、七世紀初頭の多利思北孤時代にあたります。そして、版築土塁は、その規模の大きさから、七世紀前半に時間をかけて整備されたと考えられるでしょう。
 また、一九九七年の十九次調査では、Ⅰ期(最古段階)の掘立柱建物跡から「一番古いタイプの単弁蓮華紋軒丸瓦」が出土しています。これは、わざわざ「百済系」単弁蓮華紋軒丸瓦と呼ばれていますが、実際には「素弁」に分類されるべきもので、七世紀初頭~前半と見るのが適切です。「第十三次報告書」でも、鞠智城の建物は何回か立て直され、「最下層の三十五号建物は、七世紀後半ごろと推察される最上層の二十一号建物より数十年古くなる」とされています。
 このように、鞠智城の創建は発掘成果をもとにした分析では、七世紀初頭の造営と推測するのが合理的となります。

 

5、百済人と菩薩立像の渡来も七世紀初頭

 また「白村江後に渡来した百済人による築城」の根拠とされる「百済系金銅製菩薩立像」ですが、その渡来も、仏教の伝来の経緯から、六世紀末~七世紀初頭の可能性が高いのです。
◆六世紀前後の百済との交流は主に九州中部を通じていたと考えられ・・六世紀における朝鮮半島の仏教文化の到来地は、有明海地域を中心とする肥前、肥後地域の可能性が高い(注5)
 これを証するように、『書紀』で百済から肥後への渡来は六世紀末に記されています。
◆『書紀』敏達十二年(五八三)七月丁酉(一日)(略)今百済に在る、火葦北国造阿利斯登の子達率日羅(略)(是歳)臣達率日羅、天皇の召と聞き、恐り畏みて来朝まうけり。
◆推古十七年(六〇九)夏四月庚子(四日)。筑紫大宰奏上して言はく「百済の僧道欣・惠彌を首として十人、俗七十五人、肥後国葦北律に泊れり(略)呉国に使いするも乱有りて入れず」

 ここに、「呉国に乱有り」とありますが、「呉国」とは、唐の建国時に「李子通が江南に建国した呉国」のことで、その存在期間は六一九~六二一年ですから、実際は九州年号倭京元年(六一八)頃の事件となります。
 このように、百済人は六世紀には多数渡来していました。達率憶禮福留らを白村江敗戦時の新たな亡命者と考える必要はなく、既に渡来して築城などを指導、百済復興の為豊璋らに併せて帰国し、白村江の戦に参加したとするのが合理的です。なぜなら白村江後の渡来なら、鞠智城出土の軒丸瓦様式でなく、百済泗砒時代中期以後の様式を用いるはずだからです。(*この点服部静尚氏の示唆による。)

鞠智城出土の軒丸瓦

 

6、『隋書』俀国伝の「秦王国」と鞠智城の「秦人木簡」

 『隋書』俀国伝に「秦王国」とあり、多利思北孤と秦王国との関連・繋がりが伺えますが、鞠智城跡から「秦人忍□五斗」木簡が出土しています。
◆『隋書』(俀国伝)竹斯国に至る。又、東して秦王国に至る。其の人華夏と同じ。
 秦氏は渡来系有力氏族で、秦河勝は聖徳太子(多利思北孤)と共に守屋を討伐し、仏像を譲り受け「蜂岡寺」を建てたとされています。木簡は少し時代が下がりますが、秦氏が菊池一帯の開発を行っていたことを示すといわれ、多利思北孤時代から秦氏が鞠智城に関与していた可能性を示唆します。

 

7、古代の官道が鞠智城付近を通り、阿蘇に抜けていた

 『隋書』には、隋の使節が阿蘇山付近に出かけ噴火を見たと考えられる記事があります。
◆『隋書』俀国伝。「阿蘇山有り。その石、故無く火起こり、天に接す。俗、以って異と為し、因って祷祭を行う。」
 そして、鞠智城の近郊に「車路」と呼ばれる「太宰府から筑後を経て、鞠智城を通り阿蘇に抜ける官道」が存在していました(注6)
◆鞠智城は、『延喜式』以前の古い駅路である「車路」が肥後国府を通り薩摩国に至る道と、豊後国を抜けて日向国に至る道(*菊池~外輪山の二重峠~阿蘇内牧を経て大分の久住、豊後鶴崎に抜けるルート)の分岐点付近に位置する。
 「車路」は六世紀には「原型」が成立していたとされており(注7)、行路上で外輪山を越える二重峠展望台は、阿蘇五岳(高岳・中岳・根子岳・烏帽子岳・杵島岳)がくっきりと見えるスポットとして知られています。鞠智城から阿蘇に至る「車路」はまさに噴火を見物する絶好のコースといえるのです。

 このように鞠智城は、六世紀には「原型」が形成されており、多利思北孤の時代に城柵・官衙として整備され、六〇七年に来朝した隋の使節は、鞠智城を通り、阿蘇に行き、その噴火を眺めたと考えられるのです。

 

二、鞠智城は何故作られたのか

1、隋の煬帝の東方侵攻

 それでは、多利思北孤は何故熊本に城柵や官衙を設けたのでしょうか。それは迫りくる隋の脅威に備えるためだったと考えられます。隋の煬帝は六〇八年に南西諸島に大軍を送り、琉球(沖縄)に侵攻し、宮室を焚き男女数千人を捕虜としました。その際奪取した布甲(布製の鎧の類)を見た俀国の使人が、「夷邪久国人の布甲だ」と述べたとあります。
 これは、俀国が以前から琉球(沖縄)と交流していたことを示します。
◆大業四年(六〇八)帝(煬帝)、復また(朱)寬をして之を慰撫せしむ。流求従はず。寬、其の布甲(*布製の甲冑)を取りて還る。時に俀国の使来朝し、之を見て曰はく、「此れ夷邪久国人の用る所なり」といふ。帝、武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州を遣して、兵を率て義安(現在の広東省潮州)より浮海し琉球を撃たしむ。高華島に至り、又東行二日黿鼊島(ゴウビトウ 注8、久米島)に至り、又一日便ち流求に至る。人を遣して之を慰諭す。流求従はず。官軍を拒み逆ふ。稜、之を撃ち走らす。進みて其の都に至る。頻に戦ひ皆敗り、其の宮室を焚き、其の男女数千人を虜とし、軍実に載せ還る。

 

2、倭国(九州王朝)の隋との断交

 多利思北孤は、この報告を受け隋と断交します。
◆『隋書』俀国伝。大業四年(六〇八)「復た使者を淸(裴世清)に随い来らせ方物を貢ぐ。此の後遂に絶つ。」
 そして、南方や有明海からの侵攻に備えて、肥後・薩摩に抜ける官道沿いの鞠智城を版築土塁で囲み、水源や兵士の住居、偵察用の望楼、武器・資材の倉庫群の備わった一大「城柵」として整備した、これが鞠智城(Ⅰ期)だと考えられます。

 

3、鞠智城の終焉

 倭国(九州王朝)の整備した鞠智城は、白村江前後までは、対唐防衛施設とし、その後も倭国(九州王朝)の軍事拠点として機能していたと考えられます。
 しかし、七世紀末の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への「王朝交代」時には、大和朝廷によって、大野城・基肄城とともに「繕治」され、大和朝廷の九州南部支配の拠点とされたと考えられます。それが文武二年(六九八)の修繕記事だったのではないでしょうか。
 七〇〇年には肥後・薩摩勢力が律令施行に抵抗しますが、既に鞠智城は大和朝廷側の基地となり、その抵抗も潰えます。そして七二〇年の大伴旅人による「隼人討伐」で、倭国(九州王朝)は終焉を迎え、以後鞠智城もその役目を終えます。「八世紀の第2四半期~第3四半期に全く土器が出土しない」という考古学上の知見がこのことを示しています。

 

(注1)「山城」と呼ばれることが多いが、形状や機能から「城柵あるいは官衙」と見做すのが適切。
◆「鞠智城は古代山城ではないのではないか、むしろ古代の城柵、あるいは古代の官衙の遺構ではないか」なお、岡田氏は軒丸瓦を「単弁の一番古いタイプ」とするが、現地の学芸員は「素弁」と解説していた。

(注2)西住 欣一郎(歴史公園鞠智城・温故創生館長)『鞠智城東京シンポジウム ・パネルディスカッション。二〇一五報告書』

(注3)古賀達也「鞠智城創建年代の再検討ー六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説」(古田史学会報一三五号。二〇一六年八月)

(注4)岡田茂弘「鞠智城と古代日本東西の城・柵」(『鞠智城東京シンポジウム二〇一五成果報告書』)

(注5)有働智奘「古代肥後における仏教伝来」(『鞠智城と古代社会』第二号。熊本県教育委員会二〇一三年)

(注6)鶴嶋俊彦「古代官道車路と鞠智城」『古代東アジアの道路と交通』二〇一一年)

(注7)「六世紀半ばには、既にその原型が成立していた」(越智勇介『国家形成期における倭王権の交通と鞠智城』鞠智城跡「特別研究」成果報告会。二〇二〇年)

(注8)ゴウビ(黿鼊)は、伝説上の「大亀」の意味。沖縄本島の西九〇㎞に久米島があり、久米島町奥武島の海岸には「大 亀の甲羅文様」の「畳石」が広がり、「大亀の島」という名称に相応しい。「一日で流求に至る」との位置関係と併せれば、琉球は沖縄、ゴウビ島は久米島を指すことになる。

 

地図は,「国家形成期における倭王権の交通と鞠智城」を参考

 ※正木さんの「壹から」の地図は越智勇介氏(泉大津嘱託学芸)「国家形成期における倭王権の交通と鞠智城」を参考。高松市 西村秀己


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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