斉明天皇と「狂心の渠」 (会報159号)
舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地 (会報174号) ../kaiho174/kai17403.html舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地
今治市 白石恭子
『日本書紀』の舒明紀十一年十二月の項に「幸于伊豫温湯宮いよのゆのみやにいでます」という一節がある。伊予の温泉への行幸だけなら「幸于伊豫温湯」と書くはずである。例えば、斉明天皇が紀国の湯に行幸したことは「往牟婁温湯」と書かれている。わざわざ「宮」をつけているのは、伊予に天皇の自前の宮殿があったことを意味するのではないだろうか。
同じく舒明紀十年の項に「幸有馬温湯宮」という一節がある。このとき舒明天皇は有馬温泉に三ヶ月滞在している。神戸市は、この地に「杉ヶ谷行宮址」と刻んだ立派な石碑を建てている。つまり、天皇の行宮があったことを認めている。
一方、四ヶ月滞在した「伊豫温湯宮」も建物が存在したはずだが、場所は未だ特定されていない。道後温泉と思っている人がほとんどだが、実はそうではない。舒明天皇や斉明天皇の伝承が残っているのは、松山ではなく、今治市を含む東予地方(高縄半島より東)である。舒明天皇に関しては、今治市に隣接する周桑郡(現西条市)の永納山古代山城周辺に集中している。
古田史学の会員である今井久氏が例会で発表された資料の中に次のような一文がある。
「十方寺(実報寺)伝承には、舒明天皇の勅願寺と記し、その辺りを周遊し此処という休息の所無し『小千武男、天皇に御殿を立てまつり、天皇ご喜悦限りなし』と記していて、鈍川楠窪の湯、国山の湯(本谷温泉)に浴すと。その御休息所跡が、現在「象耕庵」として遺存している。」
実報寺は、永納山から本谷温泉までの道のりの途中にあり、「象耕庵」は実報寺から本谷温泉まで四キロの道のりの半ばにある。実報寺が舒明天皇の勅願寺であったとすれば、この寺が「伊豫温湯宮」であった可能性がある。
「宮」をどういう意味で使っているか、『日本書紀』の推古紀から持統紀までの「宮」をすべて抜き出し、検討してみた。(各宮が一行に収まるよう、引用をできるだけ短くしている。)
【推古紀】
豊浦宮(飛鳥)「皇后即天皇位於豊浦宮」
耳梨行宮(橿原市)「天皇居于耳梨行宮」
小墾田宮(飛鳥)「遷于小墾田宮」
斑鳩宮(斑鳩)「皇太子居斑鳩宮。」
殯宮(飛鳥?)「天皇崩之。即殯於南庭」
【舒明紀】
泊瀬王宮(斑鳩)「摩理勢違臣、匿於」
岡本宮(飛鳥)「天皇遷於飛鳥岡傍」
田中宮(橿原市)「災岡本宮、天皇遷居」
有馬温湯宮(神戸市)「幸有馬温湯宮」
伊豫温湯宮(西条市)「幸于伊豫温湯宮」
百濟宮(葛城郡広陵町)「天皇崩于百濟宮」
厩坂宮(橿原市大軽町)「便居厩坂宮」
殯宮(百濟宮)「殯於宮北、是謂百濟大殯」
【皇極紀】
小墾田宮(飛鳥)「天皇遷移於小墾田宮」
板蓋宮(同)「天皇詔大臣曰、欲營宮室」
上宮門うえのみかど蘇我蝦夷の家
谷宮門はざまのみかど蘇我入鹿の家
*舊本云。是歳、移京於難波、而板蓋宮爲墟之兆也。
【孝徳紀】
難波長柄豊碕宮(法円坂)「天皇遷都」
子代離宮(難波狭屋部邑)「還自子代離宮」
蝦蟇行宮(大阪高津)「或本云、離宮」
*三年春正月戊子朔壬寅、射於朝廷。是日、高麗・新羅、並遣使貢獻調賦。
小郡宮(大阪上町台地の西)「定禮法」
有馬温湯(同)「天皇幸有馬温湯」
武庫行宮(西宮市山口町)「停武庫行宮」
難波碕宮(同)「天皇、幸于難波碕宮」
味経宮(摂津市別府)「車駕幸味經宮」
難波長柄豊碕宮(同)「天皇遷都難波長柄」
大郡宮(摂津市)「車駕幸大郡宮」
飛鳥河辺行宮(飛鳥稲渕)「太子往居」
難波宮(同)「天皇崩正寢。仍起殯於南庭」
【斉明紀】
飛鳥板蓋宮(同)「即天皇位於板蓋宮」
難波朝(同)「於難波朝饗北蝦夷九十九人」
飛鳥川原宮(同)「災飛鳥板蓋宮、故遷居」
後飛鳥岡本宮(同)「飛鳥岡本更定宮地」
両槻宮(多武峯)「於田身嶺、冠以周垣」
吉野宮(奈良県吉野郡)「又作吉野宮」
牟婁温湯(和歌山県白浜)「往牟婁温湯」
紀温湯(白浜)「幸紀温湯」
難波宮(同)「天皇幸于難波宮」
石湯行宮(今治市?)「泊于伊豫熟田津」
磐瀬行宮(四国中央市?)「居于磐瀬行宮」
朝倉橘廣庭宮(今治市朝倉?)「天皇遷居」
朝倉宮(福岡朝倉市?)「天皇崩于朝倉宮」
飛鳥川原宮(飛鳥)「天皇喪殯于飛鳥川原」
【天智紀】
長津宮(四国中央市?)「遷居于長津宮」
*「遷都于近江。是時、天下百姓不願遷都、諷諫者多、」
*「天皇、幸蒲生郡匱?野(滋賀県)而観宮地。」
*「大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。*「天皇御西小殿、皇太子・群臣待宴。」
近江宮(大津市)「天皇崩于近江宮。殯于新宮」
【天武紀】
吉野宮(奈良県吉野郡)「壬午、入吉野宮」
嶋宮(飛鳥)「虎着翼放之。是夕、御嶋宮」
*是近江朝、聞大皇弟入東國、其群臣悉愕京内震動、或遁欲入東國」
岡本宮(飛鳥)「自嶋宮移岡本宮」
飛鳥浄御原宮(同)「營宮室於岡本宮南」
*「天皇命有司設壇場、即帝位於飛鳥浄御原宮」
*「壬子、賜宴群臣於朝庭。」
大極殿「天皇々后共居于大極殿、以喚」
*勅『自今以後、跪禮・葡匐禮、並止之。更用難波朝廷之立禮。』
正宮「天皇、病遂不差、崩于正宮。戊申、始發哭、則起殯宮於南庭。」
【持統紀】
大津宮(筑紫?)「生草壁皇子尊於大津宮」
吉野宮(奈良県吉野郡)「天皇幸吉野宮」
*詔曰「凡朝堂座上見親王者、如常、大臣與王起立堂前、二王以上下座而跪」
高宮(葛城郡)「天皇幸高宮。至自高宮」
藤原宮(飛鳥)「遷居藤原宮。百官拝朝」
このように「宮」だけを列挙してみると、七世紀における権力の変遷がよく分かる。推古期は飛鳥、舒明期は少し北の橿原市、皇極期は再び飛鳥、孝徳期は遠く難波へ移っている。斉明期は、始まりは飛鳥だがあちこち彷徨っている印象を受ける。天智期は近江、そして天武期は再び飛鳥に戻っている。持統期は吉野宮への行幸が多いが、その間、天武の遺勅に従って大規模な藤原京を建設していたものと思われる。
「宮」のつく建物が、必ずしも「宮殿」を意味しているとは限らないことも分かった。辞書を見ると、「宮」の語源は「御屋」であり、『日本書紀』は天皇や皇太子の住居の意味に使っている。一方、「宮殿」は、辞書には「天皇・国王の住む御殿」とあり、「御屋」より大型の建物であることが分かる。同じ「宮」と書かれていても、「御屋」なのか「御殿」なのか、区別して考えなければならない。
「宮殿」と言える規模の建物が現れたのはいつだろうか。『日本書紀』を紐解くと、天武期になって初めて「朝庭」「大極殿」という言葉が出てくる。それ以前は、天武の勅の中に、難波宮を指して「難波朝廷」と書かれていることから、難波宮も宮殿だったと考えられる。遺跡からも、それは見て取れる。
「宮」が「宮殿」だったかどうかを知る手掛かりは、「朝廷」という言葉が使われているかどうかだと思った。天武期の飛鳥浄御原宮は、『日本書紀』に朝廷と明記されているので宮殿だったと言える。
参考のために、「朝廷」が存在したと思われる王宮の規模を調べてみた。藤原宮は、九二五・四㍍×九〇六・八㍍。飛鳥浄御原宮は、約八〇〇㍍×五〇〇㍍である。前期難波宮は、六五〇㍍×六五〇㍍である。そして、大宰府政庁は第Ⅲ期が二一五㍍×一一九㍍なので第Ⅰ期がこれより広いとは思えない。正確な数値ではないかも知れないが、時代を追うごとに広くなっていることが分かる。
孝徳天皇は、中大兄と藤原鎌足の傀儡のようなイメージを持っていたが、孝徳紀をよく読むと、がらりと印象が変わった。新しい法律や制度を制定し、広大な前期難波宮を建設している。「朝廷」という言葉が見当たらない皇極期に比べると落差があり過ぎる。孝徳期は、皇極期の延長線上にあるとは思えない。ではどこの延長線上かというと、それは、「朝廷」と言える規模と形状を持つ大宰府政庁である。難波宮は、大宰府政庁と同じような造りになっている。しかし、敷地の規模を比較すると差が大きく、両者の間には中継ぎがあるはずだと思った。つまり、大宰府の多利思北狐から難波宮の孝徳天皇の間に宮殿、あるいは朝廷を営んだ人物がいるということである。それを埋める人物は、利歌彌多弗利かも知れないし、『日本書紀』が伝える舒明天皇かもしれない。しかし、舒明紀には「朝廷」という言葉は一切出てこない。
前述したように、舒明天皇については、愛媛県の東予地方にいくつか行幸伝承がある。特に、今治市と西条市の境をなす永納山古代山城周辺に多い。
去る一月八日、「永納山古代山城跡の会」主催の見学会が開かれ、私も親しい人たちと参加した。前日の悪天候が嘘のような好天に恵まれ、標高一三二㍍の永納山の稜線を一時間余りかけて歩いた。眺めが良く、瀬戸内海を航行する船を数十キロにわたって目で追うことができる。稜線を少し下ったところに、列石の残っている箇所がいくつかあった。また、列石の上に土塁を復元して、古代の城壁を再現している場所もあった。
会長の説明は従来説にとどまっていたが、折を見て『日本書紀』に書かれている「伊豫温湯宮」はこの付近にあった可能性が高いと言うと、ロマンがあっていいねという好意的な返事をいただいた。
永納山古代山城は、記録にはないものの立地やその構造から朝鮮式山城と言われている。朝鮮では、山城は平地にある居城とセットで造られている。ところが、わが国では、白村江の大敗を受けて、防衛のために山城だけが単独で造られたと説明されている。しかし、大宰府と大野城の例があるように、建設当初は居城と山城がセットになっていたのではないだろうか。
この永納山古代山城の場合も、東側の麓に燧灘ひうちなだに面した道前平野が広がっていて、その真ん中あたりに「紫宸殿」という地名が遺存している。「紫宸殿」は、唐代にできた言葉で、朝廷の儀式に使われる宮殿のことである。永納山古代山城は「紫宸殿」とセットで建設されたのではないだろうか。周辺に洪水が起こっても、この「紫宸殿遺跡」だけは昔から水に浸かったことがないという。この地に朝廷が営まれていた時期があったのではないだろうか。
私の推測だが、この「紫宸殿」の広さは、大宰府政庁と前期難波宮の差を埋めるかも知れないと思った。合田洋一氏の『葬られた古代史』によると、「紫宸殿遺跡」の広さは、三四〇㍍×二二〇㍍で、私の予想通りだった。
現在は水田となっている「紫宸殿遺跡」は、発掘調査が行われたものの、礎石も柱も使い回しされたのか、残念ながら何も発見されていない。しかし、四キロ先には、聖徳太子の命によって小千益躬おとのますみが創建したと伝わる法安寺が、小さくなって現存している。建設当初は大伽藍だったという。この「紫宸殿遺跡」が、舒明天皇の「伊豫温湯宮」であった可能性もある。「伊豫幸于温湯宮」と、わざわざ「于」の文字を付け加えていることに注目したい。場所を表す助詞であるが、多くの場合「於」の文字が使われている。「于」は、宮殿や寺院、または敬うべき場所や国に対してのみ使われているように思う。だとすれば、「伊豫温湯宮」は「有馬温湯宮」よりはるかに大きい建物だったのではないだろうか。
私は、前期難波宮は九州王朝の複都のひとつであったとする古賀達也氏の説を支持している。というのは、『日本書紀』斉明紀の一節に「御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮。」とあり、斉明天皇が難波から筑紫に、あるいは伊予に還ったという表現になっているからである。つまり、本拠地は筑紫である、あるいは伊予であることを意味しているのではないだろうか。
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