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「壹」から始める古田史学 I
古田史学の会事務局長 正木 裕
嬉しいことに本年度に入って新たな入会者が続いています。ただ、その中には、ホームページや最近の出版物から、新しく古田史学に興味を持たれた方もおられ、「会報は専門的すぎてよくわからない」との意見も寄せられています。そこで「『壹いち』から始める古田史学」と題して、古田史学の「概観アウトライン」を、毎号短文で連載することとしました。以前からの古田フアンには「何を今更分かりきった事をいうのか」と思われるかもしれませんが、ご辛抱してお付き合いください。
初回は、「九州王朝とは何か」、その成立から滅亡までを極めて大雑把ですが概観してみることとします。
1、天孫降臨に始まる九州王朝
我国には大和朝廷(*近畿天皇家)に先行し、九州を本拠とする王朝が存在していました。この王朝は、 紀元前二?三世紀頃、朝鮮海峡を拠点とする天照(あまてる)や邇邇芸命(ににぎのみこと)ら海人(あま)族による、大陸渡りの「青銅の武器」を使っての博多湾岸への侵攻(*「記紀神話」では 「天孫降臨てんそんこうりん」とされる)に始まりました。そして大国(*出雲)ら旧勢力を駆逐し(*同「国譲り」とされる)、北部九州の支配権を固め、以降、日子穗穗手見命(ひこほほでみのみこと)ら歴代の王は、徐々に九州全域に勢力を拡大していきました。
2、海外史書に見える九州王朝と見えない近畿天皇家
彼らの事績は「海外史書」に残されており、一世紀には『後漢書』にある委奴国王が漢の光武帝から金印(*志賀島の金印)を下賜され(五七年)、二世紀には「帥升すいしょう」が漢に遣使しました。彼は九州王朝で名前の見える最初の王です(一〇七年)。そして、三世紀には『魏志倭人伝』で著名な邪馬壹(やまゐ)国の「親魏倭王」卑弥呼(ひみか)・壹予(ゐよ)が魏と交流します。さらに『宋書』等に見える五世紀の「倭の五王(*讃、珍、済、興、武)」は九州王朝の王たちであり、『隋書』には、七世紀初頭に「日出る処の天子」を自認する阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)が隋に遣使し、その国には「阿蘇山有り」と記されています。
また海外史書には見えませんが『日本書紀』の「神功皇后」の「モデル」にされた四世紀の「高良玉垂命こうやたまたれのみこと」や、継体に討たれたとされている、六世紀の「筑紫の君磐井」も九州王朝の王でした。さらに、近畿天皇家の「祖」とされる「神武」はその「分流」だったと考えられます。
従って、これら漢・魏・宋・隋ほか多くの海外史書に記される、歴代中国王朝や、高句麗・新羅・百済との交流は九州王朝の事績だったのでした。
一方、大和朝廷の史書である『古事記』『日本書紀』には、これら海外史書に記す王や天子は記されておらず、また、逆に海外史書に近畿天皇家の天皇名が見えません。これは大和朝廷以前の我が国の支配者が九州王朝であったことを物語っています。
3、倭国全体を統治していた九州王朝
九州王朝は倭の五王の時代、「倭王武」の上表文に見られるように九州のみならず東方(*毛人国)、北方(*韓半島)を支配していました。また「筑紫の君磐井」は、五一七年に最初の九州年号「継体」をたて、「磐井の律令」を制定します。そして、六世紀末には多利思北孤が物部氏を滅ぼし河内・難波を制圧、東国に直接の支配権を確立しました。七世紀に入ると彼と太子の「利」は、後に「聖徳太子の事績」とされる十七条憲法等を定め、仏法を梃として倭国全域を掌握しました。
「利」の後継者で「九州年号常色じょうしき元年(六四七)」に即位した天子は、七色十三階官位を制定、全国に評制を敷き、国宰・評督等を任命し、六五二年には全国経営の拠点として難波宮を建設するなど「大化の改新」になぞらえられる大改革を行いました。このように七世紀中葉には、九州王朝は九州にとどまらず全国を支配領域とするに至っていました。
4、九州王朝の滅亡と大和朝廷の誕生
一方、「常色の天子」の没後、次代の「筑紫君薩野馬さちやま」によって六六三年に対唐・新羅戦、所謂白村江の戦が遂行されました。この敗戦の結果、薩野馬は捕虜となり、九州王朝は勿論、従軍した豪族や民は疲弊したうえ、筑紫大地震などの天災も追い打ちをかけ、これ以降九州王朝の勢力は急速に衰えていきます。これに反し、その間、勢力を温存した天武ら近畿天皇家の台頭は著しく、「壬申の乱」等を通じて徐々に実権を掌握し、七〇一年には「大宝」という彼らの年号を建元し、律令を制定。評制を郡制に改めるなど、事実上全土の統治権を獲得していきました。そして七〇四年、唐の武則天ぶそくてんの承認を得て、名実共に九州王朝にとってかわり、我が国の支配者になりました。いわゆる「大和朝廷」の誕生です。そして七一三年に南九州に残った九州王朝の勢力を討伐、九州王朝は滅亡し、「継体」以来三十二続いてきた九州年号も「大長たいちょう」を最後に消滅しました。
その後、大和朝廷では、九州王朝の存在を消し、自らの正統性を主張するため、その史書を盗用・改変し『古事記』『日本書紀』を編纂、我が国の初元から近畿天皇家が統治していたという歴史を作り上げました。
これが古田武彦氏が長年かけて論証し、また大勢の古田史学の研究者が跡付け、付加してきた九州王朝の建国から滅亡までの歴史の概要です。
古代史の「通説」からすれば、何か「とんでもない話」のように思われるかもしれませんが、以後一つ一つ順を追って解説していきますので、初めの方は、とりあえず「読み流して」いただいて結構かと思います。次回は「『天孫降臨』の真実」を取り上げます。(*本稿は古田氏の説を基本に私や諸氏の見解を加え作成したものです。)
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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