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大化改新論争
八尾市 服部静尚
一、はじめに
昨年十一月より古田史学の会関西例会において、(火付け役は私なのですが)「大化改新論争」が続いています。
その中で私は、日本書紀の大化二(六四六)年正月にある「改新の詔(みことのり)は、九州王朝の天子によって、七世紀中頃に(前期)難波宮で発布された天下立評の詔等を書替えたものである」と言う説(以下、改新詔=七世紀中頃天下立評説とします)を唱えています。
対して「改新の詔は九州年号の大化年間(六九五〜七〇一年)に、九州王朝から近畿天皇家への政権交代時期に、藤原宮で発布された『廃評建郡の詔』を五〇年遡らせて、日本書紀の孝徳期に偽装挿入したものである」とする説(ここでは以下、改新詔=七世紀末頃廃評建郡説とします)が例会における大勢の意見です。ここでは私説とこの論争の一端を紹介します。
二、大化改新について
(一)日本書紀の改新の詔には、私地私民の禁止・畿内国の定義、郡および郡司の規定、その他諸制度の設定・戸籍・計帳・班田収受の法が盛り込まれています。
ところが発掘された木簡などより、(有名な坂本太郎氏と井上光貞氏による郡評論争の結果)「郡」ができるのは七〇一年からで、それ以前は「評(こおり)」と呼ばれていたと判明しました。又、詔中に八世紀の律令用語があることから、これらは八世紀前半の知識で、潤色されたものとする、これが通説の主流となっています。
しかし近年、難波宮の発掘が進み、七世紀中頃に平城京に匹敵する朝堂院や、東方官衙などの大官衙があったことが判り、日本書紀のこの部分の記述通りであったとする説も力を持ってきました。
(二)先の通説では、なぜわざわざ書き換えてまで「評」の存在を隠したのかが説明できないのですが、古田武彦氏の九州王朝説では、「近畿天皇家が先行する九州王朝の存在を歴史から抹殺して、自分達の正統性を示した。」ということで、説明がつきます。
古田説では、七〇一年以前の日本列島は九州王朝が支配する国で、大化年号はその九州王朝の六九五年に始まる年号です。当然ですが日本書紀の大化年号は五〇年遡らせて盗用されたものです。この遡り盗用時に(詔)記事ごと盗用したかどうかと言う点が今回の論点です。
三、論点の整理
この論点は次のように整理できます。
(一)各地寺社縁起・風土記より、九州年号の主に常色年間(六四七〜六五一年)に、九州王朝によって「常色改革(この呼称は正木裕氏によって提唱されています)」が実施された。これは神社改革・天下立評・班田収受を含んだ、関東にまでおよぶ全国レベルの改革であった。
(二)白村江敗戦後、近畿天皇家が九州王朝から実質的な全国統治権を奪い取り、九州年号大化年間(六九五〜七〇一年)に、近畿天皇家は「廃評建郡の詔」(それまでの「評」を止めて新しく「郡」を置くと言う詔で、これは、九州王朝の事跡を消し去ろうとした日本書紀には当然記述がないのですが)を出すとともに、九州王朝の支配地・民を没収した。この企ては七〇一年の大宝改元・郡の完全実施で完成する。
(三)七二〇年作成の日本書紀で、(一)項の改革が元々近畿天皇家によって為されたものであると偽装するため、大化年号を五〇年ずらして盗用し、記事中の「評」を「郡」に書換えし、近畿天皇家はこれを正史とした。
以上のところまでは例会での共通認識として良いのではないかと考えます。
(四)ここで、私は(三)項の偽装の「改新詔記事」は、(日本書紀が参考本としたと想定される)九州王朝史(これは残っていないのですが)にあったと考えられる「天下立評(初めて全国に「評」を置くと言う詔)を含む詔記事」をベースに、年号と郡評を書換えたものとしました。これが「改新詔=七世紀中頃天下立評説」です。
これに対して例会での大勢意見は、「廃評建郡の詔」が九州年号の大化二年(六九六)に出されたと考え、これを五〇年遡らせて、「評」の文言を消して「改新詔記事」に偽装したとする。これが「改新詔=七世紀末頃廃評建郡説」です。差はここです。
四、両説の根拠と考察
(一)両説はシナリオとして、違いが少ない。
(二)しかし、「改新詔記事」が(年号・郡評を除いて)当時の詔か、五〇年後の詔かでは、その詔の他の部分から漏れてくる政治制度・統治体系の様子が、五〇年ずれてきますので、精確な歴史認識を得る上では明確にしていく必要があります。
(三)当該詔の文言の分析から、「改新詔=七世紀中頃天下立評説」の根拠は次の通りです。
(イ)改新詔にある畿内定義「凡そ畿内は、東は名墾(名張)横河以来、南は紀伊の兄山(せやま)以来、西は赤石(明石)櫛淵(くしぶち)以来、北は近江狹々波合坂山(ささなみあふさかやま)以来、畿内國と為す」の中心は藤原宮でなく難波宮です。しかも、伊賀・紀伊・播磨・近江の、後の時代の畿外の国の地点です。「古代に真実を求めて第十八集」にも書きましたが、この四至の地点を地図上にプロットすると、これは難波宮を中心としているのに違いないのです。
(厳密に緯度経度を計算すると、難波宮址は中心から六km前後ずれていて、住吉大社の岸辺が中心のようです。)
(ロ)この畿内の四至ポイント指定に対し、「廃評建郡の詔」(六九六年)の直前持統六?九年(六九二?六九五)記事では、四畿内(つまり大和・河内・摂津・山背の畿内四ヵ国)と言う言葉が出てきます。ここから見ても、改新詔の畿内定義は七世紀末の表現ではないと言えます。
(ハ)改新詔記事とはセットと考えられる、大化二(六四六)年三月の東国朝集使等への詔があります。この記事の登場人物四十一名の内、十八名が「闕名(その名もらせり)」とされています。セットですので、「改新詔=七世紀末頃廃評建郡説」であれば、この記事も七世紀末の記事となります。しかしわずか二〇数年後の書紀編纂時に記録が散逸していたとは考えにくいし、追跡可能な人物名六名はいずれも七世紀中頃に記録が残っている人物であって、斉明四年・天武七年・天武十四年にそれぞれ死亡した人名も含まれています。七世紀末の記事とは言えません。
(四)対して、「改新詔=七世紀末頃廃評建郡説」の論拠は次のとおりです。
( i )日本書紀が大化年号を五〇年ずらして盗用している。
( ii )大化の改新は大宝律令を示し、その淵源は中大兄・鎌足の頃に定めたと言う偽りの日本書紀の主張である。
(iii)改新詔の京師は、四至の内にあって、条坊都市で、大和朝廷にとっての初めての都城という条件から藤原京である。
(iv)公地公民の根幹をなす班田収受の発足は早くとも七世紀末である。
(これらは各氏の論拠を、便宜的に集合させたものです。)
(五)個々の論拠を見ますと、
( i )項は「九州年号大化時に行なった廃評建郡は、実は常色時の天下立評なのですよ」とする近畿天皇家の企てと考えると「改新詔=七世紀中頃天下立評説」でも成立します。
( ii )項は九州王朝による「常色律令」とすれば「改新詔=七世紀中頃天下立評説」でも可です。
(iii)項は(イ)(ロ)項のとおり「改新詔=七世紀中頃天下立評説」の方が合致します。
(iv)項は、最近例えば大阪市大の岸本直文氏は「孝徳期に条里制を含む律令的支配体制の発布および施行があった、つまり七世紀中頃の基準設定→七世紀第3四半期に地割施行、これが名実ともになるのに七世紀後半まで時間がかかった。」とされています。同氏によると、「東西の丹比道(大津道説もある)基準で条理地割がされていることが判るが、その条里の下層に、磯歯津(しわつ)道基準の条里が見つかっている」そうで、これら条里が七世紀を通して造られたとされています。
又、前期難波宮に東方官衙・内裏西方官衙の大官衙が発掘されています。ここに役人が政務を行なった大規模な建物・スペースがあるということは、(私見ですが)その役人が政務を行なうための基準つまり令が無ければなりません。当時の令の根幹は条里制・班田収受といった制度です。
前期難波宮の七世紀中葉に班田収受が行なわれていないとおかしいわけです。
これとは別に、古賀達也氏が発見された「白雉年号二年ずらしての盗用」論理があります。以下、古賀氏の白雉改元の史料批判を引用します。
ーー 「白雉三年、正月より是の月に至るまでに班田既に終わりぬ」という記事の「正月より是の月に至るまで」とあるのは意味不明である。「是の月」が正月でないことは当然としても。これでは何月のことかわからない。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまで」の直前に「二月条」があったのではないか。「二月条」はカットされたのである。そしてそのカットされた「二月条」こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条の白雉改元記事だったのである。
右記の論理から、これらは元々九州王朝の記事であったことが自明です。つまり、白雉三年に九州王朝によって班田が行なわれた、その記事が難波宮での白雉改元を祝う行事のその時にあったわけです。
以上、(iv)項は少なくとも断定できない状況になっています。つまり「改新詔=七世紀末頃廃評建郡説」で無ければ成立しないという論拠は見当たらないわけです。
(六)日本書紀によると、持統四年(六九〇)国司が遷任された後、各地の国司より珍品の献品が持統六(六九二)年まで続き、持統八(六九四)年には国司長官から四等官に至るまで進位一階の褒美があたえられます。「改新詔=七世紀末頃廃評建郡説」とすると、これらの記事と先ほどの東国朝集使等への詔記事(こちらは国司の悪行状を追及する記事です)が同時代となるのですが、違和感があります。
又、持統八年三月には郡司に選定された者への授位基準が定められ、文武二(六九八)年三月諸国の郡司任命に至っています。これらの一連の流れの記事が、近畿天皇家による「(隠された)廃評建郡」の詔に伴う施策と考えるのが妥当ではないでしょうか。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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