「魏年号銘」鏡はいつ、何のためにつくられたか 薮田嘉一郎氏の考えに従う解釈 岡下英男(会報124号)
「是川」は「許の川」岡下英男(会報133号)
岡下論文『「相撲の起源」説話を記載する目的』の補遺としての考察 筑前にも出雲があった 中村通敏(会報133号)
「相撲の起源」説話を記載する目的
京都市 岡下英男
1.相撲の起源
『日本書紀』に記載されている、出雲の野見宿禰と大和の當摩蹶速の試合は、相撲の起源として知られている。しかし、これには疑問が二点あった。
1).野見宿禰が試合のために出て来るにしては、出雲は遠い。しかも、『日本書紀』には「即日に」使いを遣わして、とあり、野見宿禰は都に近い土地から来た感じがする。
2).古田武彦氏が指摘されているように、大和天皇家側が負け、出雲側が勝利している。天皇家の正史である『日本書紀』になぜこのように不面目なことを書くのか。
2.奈良の「出雲」
当会会員の原幸子さん(奈良市)に、「奈良に出雲がある。」と教えられて、地図を見ると確かに桜井市の東部に「出雲」がある。垂仁天皇が都とした纏向から桜井市の出雲は近いし、現在の葛城市當麻町(古くは、「大和国、葛下郡、当麻」であろう)も遠くない。地図で見ると、纏向 ーー 出雲は約九km、纏向 ーー 當麻は約十四km、即日でも呼び寄せ得る距離である。野見宿禰は大和の「出雲」に居たのではなかろうか。そうとすれば、大和と大和の試合となり、どちらが勝っても問題は生じない。
3.古田武彦氏の説
古田氏は、日本書紀をそのまま読めば、大和の当麻蹶速が、出雲の野見宿禰に完敗した「大和の勇者の敗北譚」であるから、大和天皇家の歴史書としてはおかしいとされている。その上で、当麻は「肥後国、益城郡、当麻」で、勝負の場所は筑紫、闘う者の一方は熊本の勇者当麻蹶速、他方は出雲の勇者野見宿禰、その両者が争って、野見宿禰が勝ったのであり、九州王朝の歴史書である「日本旧記」からとってきて『日本書紀』に挿入したものだ、と、書かれている。
大和天皇家の不面目が回避されるところは理解できるが、當麻を「肥後国の當麻」とするよりも出雲を「大和の出雲」とする方が、大和での出来事のそのままの記述となり、無理がないように思える。
4.なぜ大和に「出雲」があるのか
以上で一件落着としたかったのであるが、今度は、なぜ大和に「出雲」があるのかという疑問が残ったので、『日本書紀』などを調べなおした。
5.『日本書紀』の記述
『日本書紀』の関連する事蹟を探すと次のように書かれている。
(1). 神代上第八段(一書第六)
大己貴神が三輪山に神(大物主神)を祭る。
(2). 垂仁天皇二年
纏向に都をつくる。
(3). 垂仁天皇七年
天皇が「朕聞けり。當摩蹶速は、天下の力士なりと。若し此に比ぶ人有らむや」と述べたのに対して、「出雲国に勇士有り。野見宿禰と曰ふ。試みに是の人を召して、蹶速に当せむ」こととなり、「即日に、倭直の祖長尾市を遣して、野見宿禰を喚す。」これにより野見宿禰が出雲から出て来て當摩蹶速と試合を行う。勝負は野見宿禰の勝ち、野見宿禰は當摩蹶速の領地を賜り、「乃ち留まり仕えまつる」とある。
(4). 仁徳天皇即位前紀
「倭の屯田及び屯倉を掌らむとして、その屯田司出雲臣が祖淤宇宿祢に語りて…」。とある。
これらの条々を次のように理解する。
(1). 神代に、ということは大和天皇家の成立以前の意味であり、「大己貴神が三輪山に神(大物主神)を祭る」とあるのは、そのころに出雲から大和への進出があったことを意味しているのであろう。
(2). 垂仁天皇七年条では、野見宿禰は、遠くの出雲から出て来て、そのまま帰らずに臣下になったとされている。
(3). 仁徳天皇即位前紀条は皇位継承に関係する事件の記述である。その内容は小学館本では下記のように要約されている。
「菟道雅郎子の譲位の申し出に対し、大鷦鷯尊はそれを否定し、互譲のために皇位がなかなか実現しない。その間に、事件が持ち上がる。倭の屯田と屯倉の管理をめぐって、屯田司淤宇宿祢を排除せよと、額田大中彦皇子が主張する。大鷦鷯尊は倭の屯田は天皇の屯田という証言を得て、額田大中彦皇子の無道を退ける。」
この事件では屯田が重要なポイントである。屯田は天皇直轄領であるから、それの管理者として、今の出雲臣の祖先である淤宇宿祢は高い地位にあったのであろう。
6.史料に見える大和の「出雲」
岸俊男氏は、『正倉院文書』などから、前項の「倭の屯田」が後世の「出雲庄」であろうと推定されている。管理者の名前からそう呼ばれるようになったのであろう。推定されている「出雲庄」の範囲は桜井市の北西部にまで広がっていてかなり広い。それだけ「出雲臣」の勢力は大きかったと推測される。
7.古い歴史と勢力を持つ「出雲臣」
以上の二つの情報から次のように考える。
出雲から進出してきた人たちは、身近には大己貴神を祭り、さらに、高い位の神(大物主神)を三輪山に祭った。この出雲系の人たちは、神武東征の説話において、滅ぼされた側に書かれていないところから、大和天皇家の成立に協力したのではなかろうか。その功績から、この人たちは「出雲臣」として、時代が下っても勢力を保ち続け、仁徳天皇の時代には皇位継承に関与するまでに至り、『日本書紀』編纂の時代においても無視できない勢力であったのだろう。
8.『日本書紀』における「相撲説話」記載の目的
右に述べたように、大和天皇家の成立以前に出雲から進出し、勢力を維持している「出雲臣」の存在を、神武天皇を始祖とする大和天皇家の正史である『日本書紀』にそのまま記載することは面白くない。それで、今の「出雲臣」は、大和天皇家が成立してから、相撲の試合のために遠い出雲から呼び寄せた野見宿祢の子孫であり、当初から大和天皇家の臣下であったという形にしたのだ。すなわち、『日本書紀』に記述されている「出雲」は島根県の出雲なのだ。
相撲の試合で自分の側が負けたという不面目を正史に記載した大和天皇家の目的とするところ、それは、今の「出雲臣」は、その昔、大和天皇家が島根県の出雲から呼び寄せ、臣下とした野見宿禰の子孫であるということにして、大和天皇家よりも古い歴史を持つ「出雲臣」の由来を抹消することだったのだ。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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