「相撲の起源」説話を記載する目的(会報129号)
「魏年号銘」鏡はいつ、何のためにつくられたか
薮田嘉一郎氏の考えに従う解釈
京都市 岡下英男
一 日本出土の魏年号銘鏡
銘文に魏の年号を持つ鏡のうち、卑弥呼の朝貢と関係のある紀年を持つ鏡は次の四種類である。
A=景初三年鏡(島根県出土)
B=景初三年鏡(大阪府出土)
C=景初四年鏡(京都府出土ほか)
D=正始元年鏡(兵庫県出土ほか)
これらの鏡の形式、サイズ、銘文を表1に示す。以後の議論においては、文の煩雑を避けるために、各鏡をA~Dの記号で表す。
各鏡の銘文には次のような特徴がある。
(1). 全ての鏡に「陳是作鏡」とある。銘文の文字数の最も多いのはA鏡で、B~D鏡の銘文はA鏡の銘文を部分的に使用した形となっている。これらのことから、四種類の鏡は同一の工房で作られたと考えられている。
(2). 鏡の銘文では、「陳是作鏡」の次には、通常、吉祥句と鏡を持つ人の御利益の詩句が続くケースが多いのであるが、A鏡やD鏡では、吉祥句の代わりに「自有経述本是京師杜地命出」(私の経歴を述べると、元は都に居たが、遠くの土地に亡命して来た)とあり、中国の技術者が日本で鏡を作ったと述べていると理解される。このような解釈から、この銘文は国産説の根拠となっている。
(3). B鏡の銘文はA鏡から十四文字を抽出した形になっている。
(4). C鏡の「景初四年」は「正始元年」に改元されて実在しない年である。また、この鏡だけ紀年に月日「五月丙午之日」が入っており、サイズが小さいなど、他の鏡と異なっている。
二 森浩一氏の考え
森氏はその著書の中で、
(1). 「本場の中国の古墳では青龍とか景初とか正始という年号をつけた鏡はまだ出ていない。」
(2). 「鏡の額面上の年号と、古墳の推定の年代とのあいだには、百数十年のズレがある。」
と書かれている。
また、別の著書では、薮田嘉一郎氏の仮説を、「景初三年は記念すべき年として、それを記した銅鏡を製作したとする説」として紹介された後、「魏の年号鏡を出す古墳の考古学的年代は、四世紀末から五世紀初頭とみられていることからも、薮田説は重視すべきであろう。」と書かれている。
私の報告はこれに触発されたものである。
三 鏡は、どこで、いつ、何のために作られたのか
これらの鏡の生産地については、魏で作られたとする魏鏡説と日本列島内で作られたとする国産説がある。私は、後述する銘文の流れから国産であると考える。
鏡が作られた時代に関しては、銘文の紀年に作られたとする実年代説と、後代の偽装であるとする偽装説がある。実年代説は菅谷文則氏、王仲殊氏その他の各氏によって報告されている。偽装説は薮田氏の説である。
四 景初四年鏡の問題
C鏡の銘文には「景初四年」とある。景初三年と正始元年は実在の年であるから、それらの年を銘文に持つ鏡があっても問題は無いが、景初四年が加わるとややこしくなる。景初三年の翌年は正始元年と改元されているので景初四年は存在
しない。同一の工房で作られたと見られている鏡に、なぜ、同じ年を意味する銘文を持つC鏡とD鏡があるのか。これは、実年代説、偽装説、いずれの説においてもクリアーしなければならない問題である。
五 国産 ーー 実年代説
(1)王仲殊氏の説
実年代説をとる報告は多いが、ここでは中国の王仲殊氏の考えを取り上げて吟味する。
王氏は、A~D鏡は、呉から渡来した陳是(=陳氏)が日本で作ったとして、概略、次のように書かれている。
陳是は、卑弥呼の遣魏使出発の年にA鏡を作った。翌年の前半にC鏡を作る際に、魏がすでに「正始」の年号に改めていたことを知らなかった。そこで先に作ったA鏡の銘文の中で使った「景初三年」という紀年の後を受けて、C鏡では「景初四年」の紀年を記してしまった。同年後半に遣魏使が帰国し、陳是は、中国で正始元年と改元されたことを知り、先に紀年を「景初四年」とした錯誤を償うために、「正始元年」の紀年銘のD鏡を作ったのであろう、と。
このような考えは既に菅谷文則氏などによって報告されているが、ここでは正始元年鏡鋳造の理由なども推定されている王氏の説を取り上げた。
(2)王仲殊氏説への疑問
最初の鏡に「景初三年」の紀年を入れる目的は何だろうか。考えられるのは使節の出発の記念である。そうすると、次に鏡を作るのは使節が帰国してからとなろう。しかし、C鏡は使節の帰国を待たないで作られている。「景初三年」銘の鏡を作る目的が明らかでない。
また、年号を間違えた錯誤を償うためであれば、紀年の「景初四年」を「正始元年」に変えるだけでよいと思われるのに、鏡式・サイズ・銘文まで変わっている。しかも、ミスと分かっているC鏡は回収されずに現存する。錯誤を償うという考えは成り立たないと考える。
六 国産 ーー 偽装説
(1)薮田嘉一郎氏の説
薮田氏は、和泉黄金塚古墳からのB鏡の出土(一九五一年)を受けて、一九六二年に、「和泉黄金塚出土魏景初三年銘鏡考」を発表された。その中で、B鏡は、すでに出土していたD鏡ともに、国産であるとされ、概略、次のように想像されている。
1). 倭讃は、景初三年に倭国が魏から莫大な贈りものを貰ったことを聞き伝えており、
2). 自分が卑弥呼の後継者としてそれを持っていることを内外に誇示しようとした。
3). それで、魏鏡を踏み返して、これに景初三年の銘を付けて、卑弥呼が貰った鏡に偽装した。
『宋書』によれば、倭讃は、宋に「安東大将軍」などの称号を求めている。彼が、国外にそのような権威を求めるからには、国内では、卑弥呼の後継者であることを誇示しようとしたであろうことは容易に想像出来ることである。
倭国は宋に対して「世ゝ貢職を修」めていた。倭讃が宋に対して除授を求めるそのはるか以前から倭国は宋に朝貢していたから「遠誠」を認められるに至ったのだ。彼以前の倭王も、自分が卑弥呼の後継者であることを内外に誇示して宋に通交していたのではなかろうか。これらの鏡はその時代、卑弥呼の記憶がまだ残っている、恐らく四世紀に作られたとみるべきであろう。しかし、讃以前の倭王は中国史書に記載が無い所から特定できないので、薮田氏は鏡の製作を讃の除授の頃とされたと理解する。
(2)薮田説の修正
薮田氏はB鏡の出土を受けて論文を発表されたのであるが、その後、A鏡(一九七二年)とC鏡(一九八六年)が出土した。私は、これらA~C鏡の銘文を比較して、倭王が卑弥呼の記憶から偽装したのはB鏡ではなく、それよりも後に出土したA鏡に変更すべきと考える。理由は、A鏡の銘文の文字数が最も多く、銘文も特異ではあるが文章として整っており、他のB~D鏡の銘文はそれを部分的に用いたものとなっているからである。
七 私の考え
「景初」鏡と「正始」鏡は次のように作られたと考える。
(1). 鏡の工房に対して、中国製の鏡を踏み返し、それに「景初三年」と「正始元年」の紀年を入れた鏡を製作することが指示された。
(2). 工房では、大陸から渡来した鏡の技術者が自分の経歴を主題とする銘文に紀年を付加して依頼主の注文に応えたのではなかろうか。これがA鏡とD鏡である。
依頼主が鏡を作る目的は銘文に「景初三年」と「正始元年」の紀年を入れることだったので、銘文のその他の部分には注文がなかったのであろう。紀年については、正統な、または、本格的な銘文では月日や干支を入れるのであるが、依頼主にそこまでの細かい記憶が無かったので入れられなかったのであろう。
(3). A鏡は地方権力者に配布する目的で製作されたが、さらに、彼らの臣下のために銘文を大幅に省略したB鏡も製作された。和泉黄金塚古墳において、この鏡が棺の外に置かれていたことがそれを示している。すなわち、臣下は権力者の葬儀の際にその鏡を捧げた。B鏡は、その程度の、価値の低いものであると認識されていたのだ。
(4). 上記のように作られたA鏡であるが、その後、紀年に月日を入れて銘文を正統な形にし、偽装をより完全なものとすることが企画された。この時、踏み返しの原鏡として前回よりも小型のものが選ばれたので、銘文に彫ることのできる文字数が少なくなる。そこへ、「五月丙午之日」を追加するのであるから、字数がオーバーする。それで、「自有經述」以下を削除してC鏡を作成したのではなかろうか。紀年の「景初四年」は、銘文に月日の無いA鏡と同年(景初三年)であってはおかしいから、景初三年につながる年として選ばれたのであろう。その際、はるか昔に魏が改元したことは考慮されなかったのだ。
以上、銘文の考察から、「景初」鏡は、A→B→Cの順に作られたと考える。
また、このような銘文の流れは、これらの鏡が、遠くの中国ではなく、全て日本列島内で作られたことを示すものと考える。
八 各説の比較
表2に、以上に述べた各説の比較を年表的に表現して示す。
実年代説、偽装説、修正偽装説の各説により鏡の製作順序が異なる。C鏡とD鏡の二つの鏡は、銘文の紀年からみれば同じ年に作られたようにみえるが、そうではない。A鏡とD鏡が同時期に作られ、C鏡はその後(翌年とは限らない)に作られたのであろう。
九 終りに
薮田説に従う考察により、「景初四年」鏡の問題をクリアーして、魏年号銘鏡がいつ、何のために作られたかを説明できたと考える。
薮田説によれば、さらに、そのほかの問題も説明できる。
森氏のあげられた不審
(1). 中国の古墳から出土していない。
(2). 鏡の年号と古墳の推定年代との間のギャップ。
は、鏡が、日本国内で、後代に、卑弥呼の記憶から作られたとする薮田説に従えば解消する。
岡本健一氏は、著書の中で、「なぜ、紀年鏡はこの「景初」「正始」年間に集中するのだろうか。」という疑問を呈しておられるが、薮田説に従えば、これに対して答えることは容易である。紀年鏡が「景初」「正始」年間に集中するのではなく、景初三年鏡と正始元年鏡だけが、卑弥呼の記憶から作られたのだ。卑弥呼と関連のない紀年を持つ鏡 ーー 景初二年鏡や正始二年鏡など ーー は作られなかった。必要ではなかったのだ。
主な参考文献
森浩一ら『京都の歴史を足元からさぐる』
薮田嘉一郎「和泉黄金塚出土魏景初三年銘鏡考」『日本上古史研究』第6巻
京都府埋文研 『謎の鏡』
王仲殊『三角縁神獣鏡』
古田武彦『失われた九州王朝』
岡本健一『邪馬台国論争』
表1. 銘文の比較
A:景初三年鏡
神原神社古墳出土 (三角縁神獣鏡) 出土一面、直径23.0㎝
| 景 | 初 | 三 | 年 | ||||||||||||
| 陳 | 是 | 作 | 鏡 | 自 | 有 | 経 | 述 | 本 | 是 | 京 | 師 | 杜 | 地 | 命 | 出 |
| 吏 | 人 | 言名 | 之 | 位 | 至 | 三 | 公 | 母 | 人 | 言名 | 之 | 保 | 子 | 宜 | 孫 |
| 壽 | 如 | 金 | 石 | 兮 |
B:景初三年鏡
和泉黄金塚古墳出土 (画文帯同向式神獣鏡) 出土一面、直径23.0㎝
| 景 | 初 | 三 | 年 | ||||||||||||
| 陳 | 是 | 作 | |||||||||||||
| 言名 | 言名 | 之 | 保 | 子 | 宜 | 孫 | |||||||||
C:景初四年鏡
広峯15号墳出土他 (盤龍鏡) 出土二面、直径16.8㎝
| 景 | 初 | 四 | 年 | 五 | 月 | 丙 | 午 | 日 | |||||||
| 陳 | 是 | 作 | 鏡 | ||||||||||||
| 吏 | 人 | 言名 | 之 | 位 | 至 | 三 | 公 | 母 | 人 | 言名 | 之 | 保 | 子 | 宜 | 孫 |
| 壽 | 如 | 金 | 石 | 兮 |
D:正始元年鏡
豊岡市森尾古墳他 (三角縁神獣鏡) 出土三面、直径22.7㎝
| 正 | 始 | 元 | 年 | ||||||||||||
| 陳 | 是 | 作 | 鏡 | 自 | 有 | 経 | 述 | 本 | 是 | 荊 | 師 | 杜 | 地 | 命 | 出 |
| 壽 | 如 | 金 | 石 | 保 | 子 | 宜 | 孫 |
表2. 各説の比較 -- 鏡の製作順序
| 西暦 | 年号 | 事蹟 | 鏡の製作 | 考え方 |
| 二三四 | 青竜二年 | |||
| 二三五 | 青竜三年 | nbsp; | (青竜三年鏡) | |
| 二三六 | 青竜四年 | |||
| 二三七 | 景初元年 | |||
| 二三八 | 景初二年 | |||
| 二三九 | 景初三年 | 遣魏使 出発 | A景初三年鏡 | 実年代説 |
| B景初三年鏡 | 菅谷文則 | |||
| 二四〇 | (景初四年) 景初三年 |
遣魏使 帰国 | C景初四年鏡 D正始元年鏡 |
王仲殊 |
| 二四一 | 正始元年 | |||
| 五世紀 | 永初二年頃 | 倭讃の頃 | B景初三年鏡 | 偽装説 |
| D正始元年鏡 | 薮田嘉一郎 | |||
| 四世紀 | 倭讃以前 | A景初三年鏡 | 修正偽装説 本報 | |
| B景初三年鏡 | ||||
| D正始元年鏡 | ||||
| 翌年? | C景初四年鏡 | 修正偽装説 本報 | ||
お断り :縦書きの表は、Web上で表示できないので、横書きに変換。また銘文の比較も鏡ごとに表示。
これは会報の公開です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。古田史学会報一覧へ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"