2014年10月10日

古田史学会報

124号

1,前期難波宮の築造準備
  正木裕

2,「邪馬台国」畿内説は
   学説に非ず
  古賀達也

3,「魏年号銘」鏡はいつ、
何のためにつくられたか

   岡下英男

4,トラベルレポート
出雲への史跡チョイ巡り行
   萩野秀公

5,鉄の歴史と九州王朝
   服部静尚

6,書評
   好書二冊
   正木裕

古田史学会報一覧

『日本書紀の中の遣隋使と遣唐使 服部靜尚(会報123号)

四天王寺と天王寺 服部静尚(会報126号)


鉄の歴史と九州王朝

八尾市 服部静尚

 

一、鉄についての予備知識

(一)三種類の鉄

 鉄は他の金属と違って、炭素の含有量によって、大きく性質の異なる三種類の鉄製品として利用されています。三種類を簡単に紹介すると、
 (1). 炭素量が〇・三パーセント以下のものを軟鉄と言います。文字通り軟らかく、ビッカース硬度一〇〇強で、青銅(ビッカース硬度五〇〜一〇〇)よりやや硬い程度です。

 (2). 炭素量が〇・三〜二・一パーセントのものを鋼(はがね)と言います。硬くて、刃物の刃の部分に使われるので「はがね」と言います。例えば炭素量が〇・四五パーセントの鋼で、ビッカース硬度二〇〇〜二五〇程度です。ところが、鋼は焼入れができて、焼入れるとビッカース硬度八〇〇以上まで硬くなります。

 (3). 炭素量が二・一パーセント以上のものを鋳鉄と言います。鉄の融点は一五三八℃ですが、ここまで炭素量が増えると、融点が一二〇〇℃以下まで下がります。ここまで融点が下がると、溶かして型に流し込む(鋳造)作り方が容易にできるので、鋳鉄と言います。鋳鉄はビッカース硬度一七〇前後と、ある程度硬いのですが、鉄の中に炭素の化合物(セメンタイト)や炭素(黒鉛)が偏在していて、脆くて割れやすく、そのままでは鍛造(叩いて変形させること)ができません。
 そこで、熱処理で表層の部分だけ脱炭(炭素を炭酸ガスにして飛ばす)させて軟鉄にしたり(可鍛鋳鉄)、黒鉛を球状化したり(ダクタイル鋳鉄)して、脆さを軽減したものがあります。ちなみにダクタイル鋳鉄は二十世紀になって米国で発明された技術です。

(二)製鉄の方法

 鉄は地球上でほぼ酸化した状態で存在します。磁鉄鉱(FeFe2O2)赤鉄鉱(Fe2O3)褐鉄鉱(Fe2O3.nH2O)などが製鉄の原料となります。(砂鉄は磁鉄鉱などが風化してできたものです。)
 これを鉄にするには、先ずこの鉄鉱石に還元剤(酸素を取り除く)であり燃料(燃やして温度を上げる)であるコークスとか木炭と、造滓剤(不純物を取り除く)の石灰石等を混ぜて焼きます。その結果、(炭素量の多い)銑鉄(ズクとも言います)と、シリカやアルミナなど金属酸化物の鉄滓(ノロ・カナクソとも言います)ができ、これを製銑と言います。この銑鉄は鋳鉄として鋳造の原料になります。
 銑鉄中の炭素を、酸素や一酸化炭素と反応させて減らして、鉄や鋼にすることを製鋼と言います。
 これを江戸時代まで行なわれていた「たたら製鉄」法で説明します。たたら製鉄では、鉄鉱石として砂鉄を、燃料として木炭を使い、そして炉そのものが造滓剤の役目をします。
 これで銑鉄(ズク)を作って、その後、大鍛冶(おおかじ)場で半溶融状態で、銑鉄の炭素量を減らして軟鉄にする「ズク押し法」と言う方法と、たたらで作った銑鉄を、そのまま更に加熱し砂鉄を加え(玉鋼を含む)ケラを作る、つまり直接製鋼する「ケラ押し法」と言う方法があります。
 いずれも本来の鉄の融点一五三八℃までは上げずに、一二〇〇℃前後での温度で製鉄までやってしまう方法です。

 

二、中国古代における鉄

 北京鋼鉄学院の編集による慶友社出版「中国の青銅と鉄の歴史」二〇一一年、によると、
(一)中国の鉄製品利用は、殷代の隕鉄(ニッケルの含有量で隕石利用と特定できる)を利用した鉄刃を付けた銅製兵器で始まり、

(二)春秋後期(紀元前六世紀)には、製銑および製鉄が始まっていた。白鋳鉄丸(鋳鉄を丸型に比較的急冷で鋳込んだもの)や海綿鉄(銑鉄の炭素を酸化して炭酸ガスとして飛ばしたもの。ガスが抜けてスポンジ状になっている)鉄条などが出土している。

(三)戦国初期(紀元前四世紀)には、銑鉄の応用が広範になっていて、また可鍛鋳鉄も出土しており、更に製鉄後に浸炭(表面から炭素を染入らせる)した鋼で、焼入れまで行なわれていた。

(四)前漢中期(紀元前一世紀)には鼠鋳鉄(鋳鉄に珪素成分を添加したり、ゆっくり冷却する鋳造方法で、炭素が黒鉛化したもの)も現れ、更に前漢後期の永初六年(紀元一一二年)製作の三十錬の太刀が出土しています。
 この太刀は炒鋼法(融けた銑鉄に、送風・かき混ぜて、炭素を減らして鋼を取り出す方法)で作った鋼を用いている。漢代の遺跡には、鉄鉱石を原料として製銑する高炉(炉床径二メートル、炉の高さは推定で四メートル)も現れています。現在で言う(先ほど二〇世紀に発明されたと言いましたが)球状黒鉛化(ダクタイル)鋳鉄まで発掘されている。つまり現代人が鉄製品として利用しているほとんどのものが、中国では漢代までにできていたことになります。

 

三、日本古代の鉄器および遺跡

(一) 弥生時代の鉄器

(表1)弥生時代の初期鉄器の出土地と製造方法

  鉄器出土遺跡 時代 製造方法 判断材料
1 福岡県前原市曲り田遺跡 弥生早期 鍛造・鋳造不明 層状の銹膨れ無し。ランダムクラック有り。
2 福岡県太宰府市吉ヶ浦遺跡 弥生中期 鍛造 舶載か?
3 福岡県北九州市中伏遺跡 弥生中期 白心可鍛鋳鉄 表面脱炭。袋部破片。
4 福岡県北九州市馬場山遺跡 弥生中期前葉 板状鉄器。不明 銹化が著しい。
5 福岡県行橋市下稗田遺跡 弥生中期前葉 鋳造の可能性大 ランダムクラック有り。
6 福岡県嘉麻市八王子遺跡 弥生中期前半 鋳造鉄斧破片  
7 福岡県築上郡中桑野遺跡 弥生中期初頭 鋳造鉄斧破片  
8 福岡県小郡市一ノ口遺跡① 弥生前期〜中期 鍛造 鉄板折り返し。層状の銹化。
9 福岡県小郡市一ノ口遺跡② 弥生前期末葉 鋳造鉄器の破片 ランダムクラック有り。
10 福岡県小郡市三沢北中尾遺跡 弥生中期初頭 鋳造鉄器の破片 端部が折れ曲がる。
11 福岡県小郡市三沢北中尾遺跡 弥生前期? 鍛造鉄板 4枚の薄板。混入したものか?
12 福岡県小郡市北松尾口遺跡 弥生前期〜中期 鋳造鉄器の破片 袋部破片。
13 福岡県小郡市若山遺跡① 弥生中期前葉 鍛造 層状の銹化。
14 福岡県小郡市若山遺跡② 弥生中期前葉 鋳造鉄器の破片 ランダムクラック有り。鋳型の合わせ目。
15 福岡県小郡市中尾遺跡 弥生中期前葉 鍛造鉄板の破片 層状の銹化。
16 福岡県小郡市中尾遺跡 弥生中期前葉 鋳造鉄斧破片 袋部破片。
17 福岡県小郡市大板井遺跡 弥生中期 鋳造鉄斧破片 袋部破片。表面脱炭。
18 福岡県朝倉市上の原遺跡 弥生中期前半 鋳造鉄斧破片 袋部破片。銹化状況。クラック。
19 福岡県朝倉市七板遺跡 弥生中期前葉 鋳造鉄斧破片 袋部破片。
20 福岡県筑紫野市貝元遺跡 弥生中期前葉 棒状の鍛造 古墳時代の混入か?
21 佐賀県平戸市里田原遺跡 弥生中期初頭 鋳造鉄器の破片? 野島氏は未見?
22 佐賀県唐津市雲透遺跡 弥生中期 鋳造鉄斧破片 袋部破片。
23 佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡① 弥生中期前半 不明 舶載か?漢代および漢代以前のもの。
24 佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡② 弥生中期前半 良質の鋳造鉄 袋部形状。
25 熊本県熊本市上高橋高田遺跡 弥生中期前葉 鋳造鉄斧破片 袋部先端破片。
26 山口県下関市山の神遺跡 弥生早期末葉 鋳造鉄斧破片  
27 山口県下関市宝蔵寺遺跡 弥生中期前半 不明  
28 山口県下関市下七見遺跡 弥生中期 鋳造鉄器の破片 クラック。
29 山口県萩市大井宮の馬場遺跡 弥生中期前葉 鋳造鉄器の破片 報告書は鍛造。しかし袋部形状より。
30 山口県下関市新張遺跡 弥生前期〜中期 鋳造鉄器の破片 同上
31 山口県下関市綾羅木郷遺跡 弥生前期末葉 鋳造鉄器の破片 当初鍛造ヤリガンナとされていた。
32 広島県広島市中山遺跡 弥生前期末葉 鋳造鉄斧破片 袋部破片。クラック。気泡。
33 広島県東広島市西本6号遺跡 弥生中期 鋳造鉄斧破片 袋部破片。
34 愛媛県周桑郡大久保遺跡 弥生前期〜中期 鋳造鉄斧破片 袋部破片。
35 鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡 弥生前期〜中期 鋳造鉄斧破片 袋部先端破片。
36 京都市京丹後市扇谷遺跡 弥生前期 鋳造 炭素量3.02%
37 京都市京丹後市奈具遺跡 弥生中期中葉 鋳造鉄斧破片 袋部破片。クラック。
38 京都市京丹後市途中ヶ丘遺跡 弥生中期後半 鋳造鉄斧破片 炭素量3.5%以上、表面1.5mm脱炭。
39 京都府与謝野町日吉が丘遺跡① 弥生中期後葉 鋳造鉄斧破片 鋳型中子の形状が残る。
40 京都府与謝野町日吉が丘遺跡② 弥生中期後葉 鍛造 厚さ24mm
41 大阪府東大阪市鬼虎川遺跡 弥生中期前半 鋳造鉄斧、鋳造 袋部破片。鏃は鋳鉄脱炭鋼。
42 大阪府東大阪市瓜生堂遺跡 弥生中期後半 鋳造鉄斧破片  
43 大阪府富田林市甲田南遺跡 弥生中期中〜後葉 鍛造及び鋳造 層状に銹化。炭素量3.27%
44 埼玉県朝霞市向山遺跡 弥生中期中〜後葉 鋳造鉄斧破片  
45 神奈川県秦野市砂田台遺跡 弥生中期中〜後葉 鉄器破片の再加工  

(表1)「弥生時代における初期鉄器の舶載時期とその流通構造の解明」2008年、野島永より抜粋

 「弥生時代における初期鉄器の舶載時期とその流通構造の解明」、野島永著二〇〇八年、によると、弥生時代初期の鉄器を観測すると、板状の鉄器であっても、その両側縁あるいは一方が短く折れ曲がっているものが多い。野島永氏は、これは中国の戦国時代の燕地域の鋳造鉄器(鍬先)の破片であると指摘しています。先端だけをこのように曲げる鍛造加工は不可能であって、野島氏の指摘どおりと考えます。
 野島氏は、弥生時代前期〜中期前葉とされる鉄器の出土状況および形態を(総数一二〇点)再確認し、これらの多くが鍛造鉄器(叩いて加工したもの)として報告されていたのですが、これを見直しました。その結果を抜粋したものが(表1)です。
 これらから、我国への鉄器導入は弥生時代前期末葉、あるいは中期初頭であり、その多くが中国の戦国時代晩期の鋳造鉄器に由来で、弥生時代前期末葉の実年代は(中国の戦国時代との関係で)紀元前三世紀まで遡ると結論しています。以下が野島氏の結論です。

 「弥生時代、日本列島に鉄器文化が波及するが、鉄器使用の開始は前期末葉、あるいは中期初頭に降る可能性が高い。中国の戦国時代の鋳造農具が舶載され、その破片の再利用が始まる。その直後に列島独自の鍛造鉄器が出現してくる。
 九州北部において中期中葉頃に普及し始めた鍛造技術は中期後葉には急速に拡散し、※弥生後期には鉄器製作技術は西日本一帯、終末期までには北陸や関東にまで浸透していった弥生時代後期は、拙つたないながらも鍛造鉄器が製作され、それが各地に浸透、定着していった時期であったといえる。」 

下線部(インターネット上では赤色表示),に注意、大和つまり奈良県の空白について触れていません。

 

(二)弥生時代の製鉄遺跡

 「鉄と人の文化史」二〇一三年窪田蔵郎著によると、弥生時代の遺跡で小さな鏃(やじり)や農具が多数出土するが、製鉄遺跡は乏しい。年代判定が難しい上に正式な報告書が出てこない。通説では、六世紀末あたりから言われる鉄の精錬遺跡ですが、それ以前に遡る例として、次が上げられています。
 (1). 福岡県添田町庄原遺跡=弥生中期前半(紀元前二世紀)、金属溶解炉(ただし鉄かどうか不明)

 (2). 壱岐カラカミ遺跡= 二〇一三年、弥生時代後期の鉄の地上炉跡を発見

 (3). 広島県三原市小丸遺跡=一九九五年、三世紀末と考えられる円形炉(径五〇センチ、深さ二五センチ)の遺構発見

 (4). 山口県新南陽市御家老屋敷古墳=四世紀の製錬鉄滓のみ発掘される(炉の遺構はなし)

 以上ですが、これを見ると前述の野島氏の結論のとおり、弥生時代は舶載の鉄器もしくは鉄破片の再加工が中心で、一部製鉄が行なわれていたとしても、(現時点の判断としては)主体では無かったとするのが妥当と考えられます。

 

四、鉄の歴史と九州王朝

(一)古田先生は、『倭人伝を徹底して読む』で、また『ここに古代王朝ありき』で、次のように述べられています。

 (三国志東夷伝に)「国に鉄を出す。韓・穢・倭、皆従いて之を取る」と出てきます。「国」というのは韓国の中の一部でしょうが、そこで鉄を出している。その「鉄を取る」という倭は、やはり「俾弥呼の倭」のことで、もちろん取りに行くのは「倭国の人間」です。ということは、読んでいる方は「俾弥呼は鉄を非常に大事にしていて、倭国というのは、鉄器類をつくっている国だな」というふうに理解します。
それだけではなく彼等(韓・穢・倭)は、物を市場で売買するときにこの鉄を中国における銭と同じように使っているという話が出てきます。
中国では、すでに当時貨幣経済が出来ていて銭で交易されていました。ところが、韓・穢・倭では、まだ通貨制度が出来ておらず、通貨の代わりに鉄を使っていたのです。中国では、一つの国を理解するときに、まずその国の経済状態を見ました。どういう経済状況の下で、彼等は生活しているかを見た。なかなか合理的な観察の仕方です。
 そして「俾弥呼の女王国は鉄を通貨として経済を行っている国である」と、「倭人伝」に入る前の「韓伝」から布石を打ってあるわけです。
 卑弥呼の宮室は「兵」に守衛されていて、その「兵」は「矛と弓矢」だ。「矛」についてはすでにのべたが、一方の「弓矢」も重大だ。竹製や木製部分は腐蝕しても、鏃(やじり)は残る。「骨鏃或は鉄鏃」とあるが、縄文にはない。弥生の花形は何といっても、「鉄鏃」だ。ところが、近畿の大和には、全く鉄鏃の出現を見ないのである。
弥生全期を通じて、そうだ。この事実を考古学者は何と見ているのだろう。鏃は戦の道具だ。山野に散乱する。
すなわち「弥生の山野」に分布したはずだ。もし大和が卑弥呼の都の地だったとしたら、なぜそこに鉄鏃の出土が皆無なのだろう。
全く理解できぬ。これに対し、「鉄鏃」をふくむ全弥生鉄器の出土中心、最密集地は、やはり筑前中域(糸島郡・博多湾岸・朝倉郡)なのだ。

こう述べられて、その後三五年が経過しました。その間新しい考古学上の発見もありましたが、どう変わったのでしょう。

(二)魏使が邪馬壱国を訪れたのは三世紀前半ですから、いわゆる弥生時代後期に当たります。(表1)を見ると、その少し前弥生時代の前期〜中期の鉄器出土物は、ほとんど北九州に集中しています。近畿にも若干ありますが、邪馬台国近畿説の中心にあたる奈良県には一つもありません。製鉄遺跡も同じです。
 広島大学文学部考古学研究室の川越哲志編集で、二〇〇〇年に発刊された「弥生時代鉄器総覧」と言う書籍があります。ここには日本全国一六五三遺跡、一〇五三〇点以上の鉄関係の出土物が網羅されています。
 ここに記載されている出土鉄器を、都道府県別に、弥生前期・中期・後期および終末期に別けて(推定年代が古墳時代にまたがるものは除外しました)、鉄鏃とそれ以外の鉄器(鉄滓などは鉄器でないので除外しました)に分類して、それぞれ本数を算出したものが(表2)です。これを見ると、古田先生の指摘当時と何ら変わっていません。
 福岡県・熊本県を中心にして北九州に大量に出土するのに対し、奈良県は弥生後期・終末期に至ってやっと、鉄鏃一本を含めて六点の鉄器出土です。出土地は奈良市二点、御所市・斑鳩町・田原本・榛原町の各一点です。飛鳥には出ていません。

 魏使が邪馬壱国を訪れた弥生後期・終末期の鉄鏃に注目してみますと、明らかに近畿の大和(奈良県)の空白が見て取れます。

(表2)弥生時代の鉄器出土数(本)

  弥生前期 弥生中期 弥生後期・終末期
県名 鉄鏃 その他鉄器 鉄鏃 その他鉄器 鉄鏃 その他鉄器
北海道 1 6 1 5   1
青森   1        
岩手 1          
宮城       1 1 1
福島       1    
茨城         3 9
栃木           2
群馬         16 38
埼玉       2 1 20
千葉       15 59 78
東京       3 2 32
神奈川     1 26 7 38
新潟       3 1 12
富山         1 1
石川       3 48 133
福井       2 32 806
山梨         2 17
長野       9 25 169
岐阜           1
静岡         3 34
愛知   1 1 2 10 1224
三重       1 3 4
滋賀     8 5   2
京都   1 6 281 61 89
大阪   2 10 23 26 111
兵庫   4 15 64 84 165
奈良         1 5
和歌山       3 4 11
鳥取       11 38 358
島根       3 34 177
岡山     8 32 82 283
広島   2 6 37 57 198
山口   7 12 58 86 122
徳島     3 28   9
香川     5 56 27 26
愛媛     9 51 16 36
高知       3 45 36
福岡 2 48 46 365 231 753
佐賀   5 8 77 36 250
長崎     4 23 14 66
熊本   1 20 21 311 1254
大分   22   85 178 223
宮崎     1 6 19 13
鹿児島   3 1 4   3
沖縄       1    

 (表2)「弥生時代鉄器総覧」2000年、広島大学文学部考古学研究室、川越哲志編(1653遺跡10530点以上)より
 (1) 鉄滓などはカウントしていません。
 (2) 推定年代が古墳時代にまたがる場合はカウントしていません。
 (3) 推定年代が弥生前・中・後期にまたがる場合は、古い方に分類。

 

(三)この誰もが見て判るデータを、従来の近畿天皇家一元史観の歴史家。考古学者はどう見たのでしょうか。一つの有力な解釈として次があります。

 「鉄器はリサイクルできるので回収されて再生された。だから大和には出土しないのだ。」
 「また、鉄は錆び易いので土中の経年変化で消滅した、だから出土しないのだ。」

と言うものです。先ほどの出土分布を鑑みての解釈としては、科学性が微塵もありません。
 さすがにこれではいけないと、寺沢薫氏は、二〇一四年吉川弘文館発刊「弥生時代の年代と交流」の中で、次のように述べています。

「見えざる鉄器論とも形容されるこの矛盾を、鉄器が少ないというより石器が減少する事実より、石器が激減しているのだからその機能に変わる鉄器の存在は当然想定されねばならないという論理で、(1)鉄器はリサイクルできるので回収されて再生された(2)土中の経年変化で消滅したとする議論の回避は、(1)は東方の鍛冶炉(かじろ)は九州のものに比べ簡素なもので、リサイクルのための溶解さえも不可能なものであって、大量に伴出する鉄素材は使いこなせずに廃棄されたものと分析された。(2)は九州と大和(奈良)の腐食・風化環境の差が証明できていない。」

として従来説(学説と言えるものではないですが)を否定しました。

 ここまでは良かったのですが、寺沢氏の結論は、

「鉄というアイテムの普及と増大という経済的基盤は、ことヤマト王権という列島規模での権力醸成の直接的かつ決定的な原因になることはなかった。中略〜(ヤマト王権)その誕生を根底から促す原動力になることもなければ、直接的な契機になったとは到底思えない。そうではなくて逆に、畿内、ヤマトへの鉄器の集中とその生産技術や流通システムの収束は、ヤマト王権の誕生という、纏向遺跡への王権中枢機能の集結という新時代の到来によって初めて達成されたのである。北部九州を核としたそれまでの鉄器流通システムを変えるほどの東方地域全体の鉄器化は、まさに王権の誕生を待たねばならなかったのであり〜」

と言うものです。

(四)びっくりするような結論です。私なりにこれを解釈すると、鉄器はヤマト王権を確立するためには全く役に立たなかった。ヤマト王権が確立して、ずっと後の時代になって、初めて(それ以前は大和以外の地に多くあった)鉄器がヤマトに集中したということのようです。卑弥呼は大和で、この鉄器のほとんど出土しない大和で、北九州を中心とする文明の発達した、兵力も圧倒している地域の勢力を、そこから遠く離れた大和で、どのようにして統治したというのでしょうか?この回答が無い限り科学的な論証とは言えません。
 魏志倭人伝には「(卑弥呼の)宮室・楼観・城柵、厳に設け、常に人有り、兵を持して守衛する」とあり、その兵は「矛・楯・木弓を用うる(中略)竹箭は或いは鉄鏃、〜」とあります。卑弥呼は鉄鏃を携えた多数の兵に守られていたわけです。寺沢氏の論旨は成り立ちません。
 寺沢氏の苦肉の結論は、近畿天皇家一元史観の限界を示すものです。

(五)この戦争・統治の重要な鍵となる鉄器だけを見ても、邪馬台国近畿説ひいては近畿天皇家一元史観では説明できないこと、これを古田史学の会としては、繰り返し問いかけましょう。


 これは会報の公開です。

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